老人の話


  • 憲法九条の改悪に反対する会です。参加自由です。

  • ネットで読める法話集です。勉強しよう。

日本ブログ村

無料ブログはココログ

無趣味の退職者の生活

2019年7月15日 (月)

69歳になって考えること   9月で、ブログ終了のお知らせ

先日、電子書籍「 空なる我 」上巻・下巻の発刊を終えますと、70歳までに決着をつけるべき事柄は、解消したと思われますので、9月に70歳になることを契機にして、ブログを閉じようと思います。

 

これまでお読み頂いた皆様には、有難いことどと思いますが、いつかはこの終了を迎えるものです。

 

頭も認知症でない今、生きているうちに始末をつけれる事を嬉しく思います。

 

8月中はまだ存続していますので、それまでに「 南海トラフ地震 」や「 富士山の爆発 」が起きれば続けるかも知れませんが、8月の終わりで終了しますことを、お知らせします。

 

 

 

 

 

 

(7月15日) 

2019年7月14日 (日)

69歳になって考えること  電子書籍「 空なる我 」上巻・下巻の発刊

電子書籍「 空なる我 」の上巻と下巻を発刊しました。

「 私の進路 」と「 再考 空なる我 」に、少し加筆しまして、発刊しました。

内容はブログの内容と、ほとんど同じです。

無料ですが、二巻とも、それぞれ30ページを超えてしまい、読み難いいこともあるかと思いますが、これが「 神仏習合の集大成 」と位置づけています。

私に出来ることは、これくらいですから、もう二度と電子書籍は作らないと思います。


なお、ブログの左にURLを入力しておきます。





(7月14日)

2019年7月 7日 (日)

69歳になって考えること 「 再考 」 「 空なる我 」その13 「 般若心経 」の解釈その5

ここまで書いて来まして、未だ検討すべきものが一つ見つかりました。

それは、般若心経の最後の「 即説呪曰 」以降の文章です。

これもまた、今までのように、私の独自な解釈でして、仏典の詳しい解説をお求めの方は、ほかのブログなり動画なり、あるいは図書館の蔵書をこ参照ください。

さて、これ以降の漢字をここに記載するのは、PCのスペックの関係もあり、不可能ですので、手元にあります「 心経 」の「 奉讃文 」の「 かな文字 」を書きますから、詳しくは先ほどのようにご参照ください。

「 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか 」

という文章です。

この文章は「 真言 」というものらしく、その意味は、また上記のようにご参照して頂くのですが、私の考えでは、この「 真言 」を唱える意味は、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」あるいは、「 アーメン 」などの発音と同様に考えているもので、私の身体や宇宙の物質が「 超弦理論 」でいうように、「 ひも状の素粒子 」であるならば、「 弦の共鳴 」を通して宇宙に迫ることを可能にすると思いますなら、「 唱える 」という行為は評価できると思います。

この「 真言 」の意味は無価値らしいですが、「 此岸 」に対する「 彼岸 」ですから、此岸(現生)にいながら彼岸(あの世)にいるものを賛美する文章のように、私には、思われまして、「 死んだつもりで行為しろ、生死を超えて生きろというもので、ふざけたことを言うもんだ 」 ぐらいにしか思われませんが、もし、この言葉が、「 すでに悟った人 」に向けられたらどうでしょう?

「 悟ること 」は「 あの世のこと 」でありますなら、悟った死後のあの世で「 どう生きるのか 」を考えての行為ですから、私にとっては、死後はエネルギーになりますから、「 生前に死後に行うエネルギーとしての行為をしなさい 」ということで、他の生物の命に成って他の生物を助け合う行為であるなら、「 因果の法則 」とは違って、死後のエネルギーの為す行為を、現世に引き戻して行為することにより、その連続性が保たれますから、やはり以前のように、生前に「 慈悲 」の行為をすべきことになってしまいます。

私の解釈では、「 我田引水 」ではありますが、その行為をする人が、所謂、「 即身成仏 」や「 生きぼとけ 」であり、その行為を続けなさいというのが、「 真言 」の意味するところとなります。

私が可能な「 慈悲 」といいますなら、年金生活の中で、財政の援助は到底、不可能でして、こうして私の考えを拙いまでも、慈悲を目覚めさせる「 菩提心 」を起こすことぐらいです。

それは、「 空なる我 」から「 自我 」を反省して、「 自分は他の生物と同様に、エネルギーのひとつの現象であり 」、同じ構造の生物を動かすエネルギーに理解を示し、その人の目線から見ての「 色即是空 空即是色 」を考えて、絶望の中から「 希望 」を持たせることであり、それを、財政豊かな人々は「 心 」だけでなく、生活に「 楽 」を与えることもできますから、政治家をはじめ財界人や天皇に「 慈悲 」の行為をして欲しいと願うだけなのです。

私はあと数か月で70歳となり、乏しい生活のため「 医療費の自己負担が二割 」の「 弱者 」になるようです。


以前にも書きましたが「 一切皆空 」は「 一切皆苦 」と同じであり、生きている限り「 苦 」はつき纏い、なにがしかの「 苦 」に包まれながら「 死 」を迎えるのであり、その「 苦 」の金銭的な悩みを少なくして頂く政府に感謝しながら、生きなくてはならないのかなあ?と思います。

「 自殺 」で、この世の「 苦 」から抜け出しても、行先の「 浄土 」は「 この世 」であり、しかも人間として生まれる保障はないのですから、今の「 苦 」残したまま「 死 」を迎えることになりますが、その「 苦 」を再び背負うことになる人生に生まれ変わるかもしれず、自分が置き去りにした「 自分の遺恨 」を「 他人の苦 」によって清算してもらわないと「 成仏 」できない、不完全なエネルギーになってしまうかも知れません。


ですから、「 怨念 」を残さぬ人生を送りたいと思っています。

エネルギーとして死後に行う行為を生前に行為すると考えますと、主君の遺恨を晴らすための赤穂浪士の討ち入りも、「 義士 」と呼ばれる価値があるかも知れません。

その意味で、江戸時代の「 赤穂事件 」の大石内蔵助の辞世の句に魅かれるのかも知れません。






「 あら楽し おもひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」

         ( ↑ 主君の墓に刻まれたもの )

 

「 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 」

                              (大石内蔵助)

 

 

 

 

 

(7月7日)

2019年7月 1日 (月)

69歳になって考えること  論語で70歳は「 従心 」と呼ぶ ・「 無私 」と「 空なる我 」

Web で、「 論語 70歳 」を検索しますと、論語では、70歳を「 従心 」と呼ぶらしく、その意味は「 70歳になると自分が行うすべての行動は、道徳の規範から外れることはなくなった(島崎藤村訳)」らしいです。

70歳は「 かぞえの70 」ですから「 69、あるいは68歳 」であると思われます。

図書館に行きますと、この齢を記念して論文集などが見受けられまして、私も、いつか論文を発表したいと思って69歳になって、いろいろと物色して来たのですが、いかんせん、教養もないためにWebで情報を探しながら、「 自分探し 」をしていました。

今まで、「 誕生から死後までの意識 」や「 神仏習合と私 」など、無料で出版できる電子書籍に、年金生活者の身で「 自費出版 」する方法を教えてもらい、このたび、「 従心 」にあたり、今までの集大成として、「 空なる我 」についての電子書籍を出版しようかという、「 下心 」を持っています。

「 従心 」と申しましても、論語からは大外れで、道徳の規範から外れ、「 心に従って 」というほうが、私の気持ちです。

その書き出しとして、「 神 」を書くべきでしょうが、これは前出の書籍に書いていますので省略し、「 仏 」については、様々な宗教に入会と退会を繰り返し、その都度、多くの関係者に迷惑をかけながらも、いまだに無宗教であることも一因ですが、仏教をおひらきになったお釈迦様への理解が出来ません。

今までの学校教育と、ユーチューブを中心としたWebでの情報を、自分勝手につなぎ合わせた結果が「 空なる我 」でした。

田舎での般若心経に救われた経験もあり、このお経と「 一切皆空 」と、{ E=MC² }という考えを中に秘めて、電子書籍を書く予定です。

その際に、お釈迦様の「 無私 」から、なぜ離れて「 空なる我 」ということを考えたかについて書いてみたいと思います。



これは、誤解であることを予め申しておきます。

私は、お釈迦様が、ブッダになるために苦行でも享楽でもなく「 中道 」を選ばれたのは、勝手な解釈ですが、「 事象の変化はエネルギーだ 」と思われたのではなかろうか?享楽のエネルギーである煩悩から逃れるため、このエネルギーを滅する苦行でも、ブッダになれず、ただ自己防衛するための「 自我 」があるから、自分と他人を区別し差別へと進むだろうし、自己防衛のために自分の能力を比較することによって「 不安 」が生まれるから、いっそのこと、「 自我 」を否定してしまえ、また詳しく分析しても、誕生にしても自分が得たものではなく、死んだら煩悩で自分を構成する「 自我 」はなくなり、生前の自分だけが持つものは無いと思われたので、「 無私 」を考えられたのではないか?当時の身分社会のもと、自分と何ら変わらない構成物である庶民から差別を取り除くためという目的もあったでしょうが、王様たるお釈迦様が、最下層の人のもとに降り立つことによって、万人共通の「 苦 」から逃れる方法をお考えになられたのではないか?

そこにお釈迦様の慈悲を感じるのですが、その「 苦 」を逃れるために四諦八正道や十二支縁起を説かれたと思うのですが、「 苦 」は人によって違いますから、お釈迦様が存命中はその処方せんで解決できますが、死後は「 ダンマ 」によれということは、自分で考えなくてはならず、死後にお釈迦様の言葉を集めることに同意する集団とそうでない集団が出来たとお聞きします。

お釈迦様と同じブッダになれば一番早くて楽で、その修行をしているのがヨーガを伴う小乗仏教だろうし、お釈迦様の考えに逆らわないようにブッダになることを目指したのが大乗仏教で、それが日本に伝来したと学校では教えられました。

ここで、小乗仏教の道を採るか大乗仏教を採るかですが、「 なまけもの 」である私は、托鉢のみで生活し、しかも托鉢して布施として頂いたものはその日に消化して、貯蓄にまわすことを禁じ、その日、その日を、人々の「 善意 」のみで生きてゆく小乗仏教は、理想的ですが、昔、「 山頭火 」という人がいまして、歌は残されましたが、人生は楽なものではなく、実家に援助を請いにいったりするなどの苦労話もお聞きしますので、私には無理かなあと思います。


こうしてお釈迦様のように「 悟って 」その後、何をするのか?宇宙の真理を体得したら、その後、何をするのか?を考えますと、最近、インドで仏教復活に活動されている僧侶が「 座禅で悟ったら行動しなさい 」とおっしゃったような気がします。

お釈迦様は、八正道で暮らすことを民衆に教えることで「 慈悲 」をなされました。

ですが、私は、「 無私 」からなぜ「 ブッダ 」に進めるのかが分かりませんでした。

 

そこで、「 空 」を中心とする大乗仏教ですが、「 空 」とは「 実体のない 」とか「 空っぽ 」とか説かれますが、その意味は、一定した物質はないということだと思いますが、「 概念化 」する必要から、そのような訳になり、「 (存在を)概念化出来ない 」というに止まり、実生活で目の前にあるものを処理できず、仏教への期待も薄らぎました。

 

その時、アインシュタイン氏の{ E=MC² }を「 色即是空 空即是色 」に当てはめて考えると、現実生活にも辻褄があうようになり、「 無常 」の説明も楽になり、「 空 」を「 エネルギー(E)」とし、「 現象 」を「 色(M)」とし、見えないEがMとして「 現れる 」、つまり「 混沌 」から認識可能な「 秩序 」が現れたことを、「 無 」から「 有 」の創造と考えることにより、「 空即是色 」が当てはまると考えました。


それが、「 誕生 」という現象にも現れるし、「 若い時 」は「 秩序 」を求める傾向が強く、ちょうどビッグ・バン以降も秩序が続くように、理想主義の人が多い所にも現れるのかなあと思います。


「 一切皆空 」ですから「 神 」も「 仏 」も「 自分 」も「 空(エネルギーE)」であり、自意識である「 自我 」も「 (神仏)エネルギーの現象 」であると考えました(神仏習合と私に神仏エネルギーを書いています)。

ですが、こんな考えをする仏教はありませんから、邪道であることは覚悟していますが、大乗仏教が「 空 」を中心とする教えならば、日本仏教も唯心論にこだわらず、因果の法則は否定しないものの、せめて、自分が救済されるだけでなく自分をブッダまで高める道を開くべきで、教義にこだわらず、顕教も密教も合わせて考える方法があってもしかるべきです。

宇宙の創生を考える時に「 ビッグ・バン 」を考えるように、大乗仏教が生じる根本のお経である般若心経へ戻り、「 空 」を把握することが必要でしょうし、都合の良いことに、日本全国、津々浦々に般若心経が行き渡り、あたかも民衆の方が、知らないまでも「 空 」を実践し、それから現れる行為の「 慈悲 」や「 布施 」の何たるかを知っているように思えます。

ここを従来仏教で説明できれば、日本国中が一気に「 慈愛 」に満ちた桃源郷にすることも出来ると思うのです。

「 柿 」や「 桃 」もエネルギーの推移で、果実を実らせ、やがては朽ちてゆくように、「 自我 」も、柿や桃と同じく「 空なる我 」として「 エネルギーの一つの現象 」だから、生物には繁茂する環境が必要なように、「 空なる我 」も生存するには煩悩というエネルギーで自己を形成せねばならず、その始めが「 誕生 」という「 現象 」で、煩悩で生きる以上は「 苦 」も伴い尽きることはないと般若心経に書いてあります。

その「 現象 」は「 空なる我(神仏エネルギー)」の「 現象 」であり、エネルギーの終焉は「 死 」という「 現象 」で終わり、「 エネルギー 」自体は「 エネルギー保存の原則 」によって他の物質と同様に、エネルギーが「 形 」を変えて残存するとかんがえます。

そうすれば、生き物への愛護や憐れみ、その反対に、差別や憎しみが消えて、私の理想ですが昔の相互扶助の生活や、生死を超えた人生観が生まれるかも知れません。

そんな気持ちは、補助金とか子育ての意識が薄い教員や官僚による上からの教育では育たずに、人から見えない所で、陰湿な「 いじめ 」をする人間しか出来ないと思います。

人が「 空 」であり「 エネルギー 」であるなら、金をかけた原子炉より、自然を利用し節約しあう社会を作る人(エネルギー)の集まるにした方が安全であり、その総体としてのエネルギーも増加すると思います。


私が「 空なる我 」を採ったのは、「 自我 」が変化するためには「 空(エネルギー)」が必要で、「 エネルギーを観る 」というのはお釈迦様の「 中道 」を求めるのはエネルギーを把握することだと考え、お釈迦様の考えから外れた「 外道 」ではないと思うのですが、これは後世の人々の判断に委ねたいと思います。







(7月1日)

2019年6月30日 (日)

69歳になって考えること 「 空 」の実践と言葉遊び

今日、ユーチューブで、「 中村 元ー空の思想 般若心経、金剛経の解説 」を拝聴しました。

私の持論である「 空 」={ E=MC² }と、大乗仏教の教えと思われる「 一切皆空 」の考えで、これを拝聴しますと、私の頭の程度では、般若心経については「 良く分かった 」をいう評価がつきますが、金剛経は読んでいませんので、金剛経は「 空 」の実践についての教えらしいですが、私は分かりません。

私の感覚では、「 色即是空 空即是色 」を先ほどのアインシュタイン氏による考察に乗っかって解釈しますと、これまで「 実体がない 」とか「 空っぽ 」とか「 仮の 」などに従いますと、「 どうして変化するのか?どんなことを変化として感じるのか 」といった疑問は、上記の考えに加えて「 エネルギー保存の原則 」を採用しまして、「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」という言葉を理解できました。

古代のインドの龍樹さんは、「 この考え 」に到達され、当時は何も当てはめられないから「 空 」とされたのでしょう。

それを後学の僧侶は、高僧ともいえど、{ E=MC² }は思いつきませんから、「 空っぽ 」とか「 仮の 」とか、不変のものではないことを説明したきたのでしょうが、私の目の前には、実際に私の行方を邪魔する「 モノ 」が存在しているのですから、それを「 仮のモノ 」だからそのうち変化するよ、なんて悠長に思えません。

だったら、いつ、どうして、どのように変化するんだ?と疑問が湧いても、それは「 縁起縁滅 」で条件しだいで変化するさ、と答えられて、その条件が整うまで待つしかなく、それが「 桃栗3年、柿8年 」とか「 鳴くまで待とうほととぎす 」などに現されるように「 時熟 」という観念になり、因果の法則があって、何事も時間が必要なんだから、しっかり基礎から勉強しなさいなどという考えが常識なのかも知れません。

私は、因果の法則は、生命エネルギーが生命を維持するための思想だと思いますから、「 一切皆空 」であれば、その「 空 」さえ理解すれば、「 凡夫 」でも、時間(左脳による作品)を超越して一気に「 仏 」になれるというのが「 仏性 」の教えでしょう。

まして、その「 空 」に至るには、般若心経によりますと「 一切顛倒夢想涅槃 」で、すべての学問や知識を投げ捨ててこそ、涅槃に達すると書いてあります。

私の考えですら、「 夢想 」ですし、その境地は「 真言 」という呪文でしか表せないというのは、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」と同様に、宇宙を構成する素粒子は「 ひも理論 」のように「 弦 」であれば、そうして口に出して音声によって、宇宙の原理に到達する手立てだと思えば、キリスト教の「 はじめに言葉ありき 」という真理への道に共通するのではなかろうかと思います。

現代の科学でも真理に到達していない学問や知識による「 空 」を獲得して、何が出来て、何をするのですか?科学万能主義ですか?虚無主義ですか?唯物論ですか?


現実は、フラットなもので、物が支配するとか心が支配するとか、ポジィブ思考をするとか、ヨガや座禅をするとか、人間の全ての行為を受け入れる世界で、虚無主義でも生きてゆけると思いますが、「 空 」を理解したら、どんな生活かを想像してみます。


学問上、「 空 」は、インドでは「 無 」や「 ゼロ 」と同じかも知れませんが、私の持論のように、「 無 」は「 無限 」と同じく数えきれない事と考えますと、「 無 」は人間に察知可能な「 現象 」として現れない「 エネルギーの世界 」であり、そこでは「 対消滅 」から免れた粒子が「 現象 」になる世界だとしたら、「 一切皆空 」であり、「 空 」から「 空 」へ戻る過程が「 仮の 」世界が人生であると考えられるし、根本の「 空=無明 」があってこそ、人間は「 自我 」を変化させることが出来ると思われます。

「 現象 」は他人から見える姿で、それを写すものが「 鏡 」という従来からの説明があります。


私から見れば、「 自我 」は「 空なる我 」が煩悩というエネルギーを引き寄せた「 現象(=認識可能な姿) 」で、生命エネルギーの現象ですので、社会の中で他人から見られた姿が「 自我 」でしょうから、「 空なる我 」が「 空 」であるゆえ、お釈迦様でもない他人から判断できるとは思えません。

そこで、「 鏡 」とは、宇宙(自然)エネルギーの「 現象 」ですから、「 空なる我 」の中の宇宙(自然)エネルギーを「 鏡 」として、それを私が知ると考えますと、生命エネルギー(煩悩)を見ることですから、今自分の行動が、どのような煩悩が働いているかを、宇宙(自然)エネルギー(=良心)に写して、清涼な心(自我)での行為かを判断し、他人の清涼な心(自我)の形成に奉仕できるかが、金剛経にいう「 布施 」なのではないだろうか?と思うのです。

自分の「 清涼な心 」が相手の「 清涼な心 」を引き出した行為になっていれば、「 布施 」に値し、自分も相手も幸福なるのではないでしょうか?

私は、今、女房に「 煙ったがれ 」ていますので、女房の心の中では、私への不満が渦を見ているでしょう。

そんな私が、こんなことを言える「 がら 」ではないのですが………。









(6月30日)

2019年6月27日 (木)

69歳になって考えること  「 空なる我 」から見た結婚

先日、南海キャンディーズの山里さんと、女優の蒼井優さんとの結婚会見をユーチューブで拝見しました。

山里さんは、吉本興行きっての「 モテない男 」ナンバー1で、一方の蒼井さんは、多くの男優との恋愛で有名な「 魔性の女 」と呼ばれていました。

蒼井さんは、福岡出身で私と同県出身で、そんなに美人とは思えませんが、動画で拝見しますと、なにか正直で素直な印象を受けました。

それで、多くのイケメン男優との恋愛話も多いのかと思いますが、イケメン男優より「 モテない男 」をなぜ選んだのかは、動画を見ればわかりますので、省略します。

私は「 空なる我 」を中心に、煩悩を引き寄せたものを 自我 」としますので、彼女は、自分と同じものを気にする人(それが価値観と思うのですが)を選んだのだと思います。

「 空なる我 」でありますから、将来は悲惨な結果を招く「 自我 」を形成して、二人が離婚する場合もあると思いますが、これは生命エネルギーが持つ本能が支配しますから、理性では止められないでしょう。

ですが、これは、二人に限らず、私もあなたも、そうなる縁(条件)は持っているのですから、これだけで結婚を躊躇うことはないでしょう。

やはり、結婚相手を見るときは、「 色即是空 空即是色 」で見るべきで、すべて「 無常 」でありますから、「 自我 」である姿形は物理的にも心理的にも「 移ろいやすいもの 」で、エネルギーの推移によっては、「 苦 」の度合いにより、その変貌のスピードは速まるかも知れません。

ですから、これらで、人を判断するのではなく、「 引き寄せるエネルギー 」、つまり、いかなる「 空なる我 」が、その肉の中に存在するか?で判断するのですが、「 空即是色 」でして中心に秘めているエネルギーは、必ず「 現象 」として現れるものです。

一緒に生活してて、絶えず笑わしてくれるとか、出すぎを注意してくれるなど、地球が太陽に引っ張られるように、互いに補完しあう関係がベストなのでしょう。

豊かな暮らしをしていても、貧しい心の持ち主がいるとお聞きします。

「 現象 」は「 エネルギー 」で、「 エネルギー 」は「 現象 」を通して認識されると思って、金銭や車や家などに目を囚われずに、「 本心から私のことを思ってくれているのか? 」を問うたほうが良いと思います。

最近、噂になっている高貴な人の「 納采の儀 」が行えない人たちのように、慌てて、婚約報告をした後、経済的、あるいは「 空なる我 」の反省から、取り消すことになって、「 恥じ 」をかかないように。

これが、本当の「 恥じ 」であるかもしれません。











(6月27日)

2019年6月26日 (水)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と浄土真宗その2

前回によって、私の「 空なる我 」と死後にお墓に入る浄土真宗とは、親鸞によれば、ほぼ同じなのかなあ?と思います。

「 空なる我 」の宇宙(自然)エネルギー(神)は、「 不可思議光 」で、生命エネルギー(仏)は「 無量寿如来 」と思われ、それが合一したのが「 阿弥陀仏 」と思われるからです。

しかし、鎌倉時代と今の治安や暮らしぶりの違いから、「 浄土 」を「 極楽 」や「 地獄 」がある思考を超えた世界で、厭離欣求という言葉もありますように、現実よりもっと優れた「 極楽浄土 」に生まれ変わりたいと一心に思って、「 南無阿弥陀仏 」と念仏に答えて、阿弥陀仏の力にすがれば、阿弥陀仏がおわす「 極楽 」に生まれると説いたように、私は解釈しています。

浄土真宗では般若心経は唱えませんが、般若心経の「 空 」による救済を説いた大乗仏教の一種でなければなりませんが、それが、「 不可思議光 」と「 無量寿如来 」が一体となった「 阿弥陀仏 」を信仰することにつながるのだと思いますが、「 空 」という言葉を聞きません。

「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱える事は頷くことが出来ますが、それは、密教の「 真言 」と同じく、宇宙と同期する為の音楽や響きであって、単に阿弥陀仏の救いを求めるという説明で、現代の信者を満足させることが出来るでしょうか?

お経を一字一句、守ることは、お釈迦様が「 無私 」とした救いへの姿勢を無くした姿であり、お経はお経であり、書物による悟りなどなく、まして、「 慈悲 」が生まれることもないと思います。

もしも、常日頃、阿弥陀仏に感謝して生きるというなら、阿弥陀仏は「 空なる我 」と同じく「 空 」そのものだと思いますから、自分の生命に感謝して先祖供養も良い事かも知れませんが、「 阿弥陀仏 」が「 現象 」として現れるような「 慈悲 」の行為をするのが、プロの僧侶が為すべき責務なのではないでしょうか。

また「 極楽浄土 」などは考えずに、前回、私が書きましたように、「 空 」である「 阿弥陀仏 」が常住されるところは、生命エネルギーを生物の種類を問わずお与える場所でしょうから、「 極楽 」とか「 地獄 」とか苦楽を味わう場所ではなく、一兵卒として各種生物の命として特攻する場所であり、そこは各種生物の世界は「 現象 」として現れないエネルギーの世界(その意味では無ですが)であり、あるとすれば地球上にしか考えれず、この世に絶望して死ぬのならその続きになる運命に生まれ変わるかもし知れません。

あこがれで「 浄土 」にゆくべきではなく、しっかりとこの世で「 生老病死 」の苦しみを味わったあとでしか「 幸せな結果 」にならないかも知れません。

こんな、信者の迷いを導けない説明をしているから、間違った考えの宗教学者や評論家が現れ、人倫にも反する行為をする仏教を名乗る集団を批判も出来ないのではなかろうかという疑問も出てきます。

私は、ユーチューブのおかげで、多くの書籍を読むこともなく、ここまで「 お前は、何様だ 」といわれるくらいの知識を得ましたが、法話も色々あって、私の心に響くものしか拝聴していませんので、きっと偏見だと思いますが、お釈迦様も「 無我 」を「 空なる我 」にしたり、因果の法則による輪廻転生に反対するなど、なにかお釈迦様の方向から遠ざかっているような気もします。

昔、孫悟空が到達点を記した柱が如来の指だったという話は知っていますが、これまで「 慈悲 」なんて思ってもいなかった私が、「 空なる我 」を考えることによって「 色即是空 空即是色 」をアインシュタイン氏の{ E=MC² }と置き換える考えになり、「 人は自然物と同様、エネルギーの現象だ 」と思うようになり、同じ「 現象 」である他人も、自分と同じように考えなくてはと思ったとき、東日本大震災で「 無常 」を説いて希望を与える僧侶の心持がわかった事を記さずにはおられなせん。

「 阿弥陀仏 」を「 空 」とは考えなかったのは、親鸞はアインシュタイン氏の{ E=MC² }を知らず、たぶん「 空 」を「 エネルギー 」と想定しなかった為に、「 阿弥陀仏 」の構成が簡単にならず、「 正信偈 」や「 歎異抄 」を書いて説明したのだと思います。

ですから、「 歎異抄 」について様々な書籍がありますが、「 空なる我 」からは遠い考えですので、読みません。

前回、書き忘れたのですが、「 五感(五蘊)を失っていくこと 」は、神仏エネルギーの衰退によって、労せずして「 空なる我 」に戻ることが出来ることで、自然に戻ることだと思います。

ちょうど、水面の泡が弾け散るだけで、水の構造は失わず、水を構成するエネルギー(神)は消滅しないように、自然のエネルギー(神)の中に眠ることになると思います。

その意味では、昔、特攻隊員に「 死んで神となれ 」と励ました上官が言ったことと同じ結果になろうかと思いますが、私の考えでは、皆さんも、いづれ「 神 」になると思います。

もっとも「 神 」はエネルギーなのですが………。







(6月26日)

2019年6月25日 (火)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」の進路

以上、書いて来ましたら、日本の従来の宗派と同じように思われてしまいますので、69歳、これから避ける事が出来ない「 死 」への進路を進むにあたって、心がけたい事を書くことによって、私の孤立妄想である考えの進展を披露したいと思います。

私は、「 一切皆空 」と般若心経の「 空 」を「 エネルギー 」と考えて、神仏習合を計り、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて中心となし、「 自我 」は神仏エネルギーのひとつの「 現象 」であり、それは、自然現象と同じようにエネルギーの推移により絶えず変化するものであると考えました。

この私が使います「 現象 」という言葉は、この言葉自体がそれですが、五感で知れないエネルギーが五感で認識できる「 モノ 」になったこと、五感で知れる事象となったことを意味していまして、「 仮の姿 」とか「 仮定された事象 」など、「 本質 」に対する言葉ではなくて、「 本質 」である「 エネルギー 」が認識可能な姿形をしたもの、「 現象 」そのものが「 エネルギーという本質 」であって、「 エネルギーである本質 」は「 現象 」として認識可能になることでしか、人間に知らしめる事が出来ないものだと考えています(空即是色){ E=MC² }。

「 浄土 」ですが、それは一部を除いた従来仏教とは違い、例えば宇治の平等院などに示される、実際に認識不能な場所、あるいは遠いかなたにあって死後しか分からないといった、現実に認識可能と考える場所や世界を包摂し、その認識器官という「 現象 」を創り出す以前で、全く認識不能な世界が、「 浄土 」という全生命を司る「 阿弥陀仏 」のおわす世界であって、それが西方数千里にあるのか死後のあるなどという考えの及ばぬ世界であるが、それは、実際に「 存在 」するというのが私の考えです。

そこは何処か?と問われれば、全生物の認識する力を産み出す世界で、全ての世界観を受容し否定する地球という「 自然 」であることになります。

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。








 

(6月25日) 

 

続きを読む "69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」の進路" »

2019年6月24日 (月)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と神仏習合その2

「 習合 」という言葉の意味は、幾つかの教義を折衷したものとの事です。

教義は宗教などの教えや主張であり、折衷は、そんな教義を繋ぎ合わせて妥協させることでしょうし、主義や主張が一貫しないことを「 習合 」と呼ぶのでしょう。

「 空なる我 」の中の「 神 」と「 仏 」は、「 その1 」で書きましたし、「 神仏習合と私 」という電子書籍のなかで歴史的な神仏習合について触れています。

私の場合は、「 神 」という主張と「 仏 」という主張が、「 空 」を通して「 仏 」に活力を与えるように折衷していることになります。

それは、私の死後を弔う約束の宗派の考えを参考にしますなら、「 一切皆空 」に従って「 空 」を「 エネルギー 」と捉えて、宇宙(自然)エネルギーが「 神 」で生命エネルギーが「 仏 」であり、それらは「 阿弥陀仏 」のもとに、前者が「 不可思議光 」、後者が「 無量寿如来 」として一体になっている状態であると思います。

それが、眼に見える「 現象 」としては、生命エネルギー(仏)は生命維持のために、「 呼吸 」という「 現象 」で、生命エネルギーの中には存在しない宇宙(自然)エネルギー(神)である空気(kuuki)を取り入れなければならず、それが肺の中で、体内を循環する血液を浄化し、浄化し終えた空気を排出しなければならないという点で、上記のことを説明できると思います。


これらは、(A)私に害を加えるものでなく、私の考えの都合が良いように「 神仏 」を取り入れたもので、「 空なる我 」に於いては、「 色即是空 空即是色 」に従って、眼に見える「 現象 」としては、宇宙(自然)エネルギーの「 神 」は「 無常 」として現れ、生命エネルギーの「 仏 」は、お釈迦様のような人格保持を目的とし、「 慈悲 」を為すことに現れると思います。


私が「 即身成仏 」となった高僧だと感じますのは、厳しい修行でミイラ状態になった人ではなく、「 空 」を悟ったら直ちに「 慈愛 」をもって「 無常 」の中に生きる希望を与える人です。


それに対して、(B)私に害となる「 神仏 」は「 空なる我 」の妨げになるエネルギーであり、「 神 」としてのエネルギーは、天災のように「 無情 」と思われる「 現象 」として現れ、「 仏 」としてのエネルギーは、円満な人格形成を妨げる「 煩悩 」という「 現象 」になって現れ、エネルギーの推移によって、(A)と(B)が繰り返す連続が、私の人生であると思います。

私は、水がH₂Oという結びつきをして、或る時は液体になり、また或る時は気体になり、また或る時は固体になるなど、「 現象 」は変わって、「 浄土 」たる地球を循環することを望んでいまして、その水を地球の大気圏外に放出されるのを嫌っていますので、「 悟って 」純粋な物理エネルギーになって地球の循環からはずれることを望みません。

ですから、お釈迦様をはじめとするブッダが恐れる「 無明 」に引き戻されることにも厭いはないので、「 神仏習合 」で主義、主張が一貫しない、中途半端な「 空なる我 」を守り、水は光とは違うので、水が光の構造になることを望むのではなく、水は水として、人の飲食に役立つように、濁らず、危険な物質を含むことなく、清らかな流れの中に包摂されたままで死を迎えようと思います。







(6月24日)

2019年6月23日 (日)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と神仏習合その1

これからは、全く私の妄想ともいうべき私論で、「 つぶやき 」ですから、無視されて結構です。

私は、「 一切皆空 」と「 色即是空 空即是色 」から、「 空 」を「 エネルギー 」と考え、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合が「 空なる我 」としまして、神も仏も私も自然物も同様の「 エネルギーの現象 」と捉えて、「 エネルギー(神)のもとでは、全てが平等である 」と考えました。

そこから、「 慈愛 」の思いが湧いてくると思うのですが、お釈迦様もその後の仏教徒も「 因果の法則 」は絶対で、それによって「 善因善果 、悪因悪果 」が生じ、生前の善因や悪果が死後にも影響を及ぼして、「 六道輪廻 」を繰り返すという主張には、どうしても納得出来ませんで、ここに私論を書くのです。

私は、「 一切皆空 」であれば、「 因果の法則 」も「 空 」であり、エネルギーの推移だと考えまして、お釈迦様の考えの「 因果の法則 」も「 縁起縁滅 」も思考上の産物、つまりお釈迦様の「 自我 」の内容であると思いまして、般若心経の「 一切顛倒 」に従いまして「 人が作ったものに頼らず涅槃に着こう 」と思いますなら、この「 自我 」に頼らないで考えたいと思います。

日本の仏教の一つである「 浄土真宗 」については、前述しましたように、私の「 空なる我 」と似たような考えで、「 空なる我 」が発生する根本を「 阿弥陀仏 」としているようですが、「 生命エネルギー 」と思われる無量寿如来が、因果の法則に結びつけられているのであれば、反対します。

「 因果の法則 」は仏教の基本概念で、E=MC²や「 エネルギー保存の法則 」と同じであるかも知れませんが、前者は、「 現象 」の後追いであって、「 現象 」には終わりのない「 原因 」や「 結果 」が続き、それが因果は絶対と考えることだろうが、それは例えば車が目的地に到着した後で解る速度(エネルギー)で、因果が行き着く所が不明であるため未来は不明であるのに対し、後者は、「 現象 」が生滅する過程を述べるもので、途中で車の速度(エネルギー)が解るが、「 空即是色 」のため、「 現象 」に現れた時点でエネルギーが解るので、結果が予想が出来るので死後の世界を予想するとき、前者ではなく後者によるべきだと思います。

生命エネルギーの根幹におわす「 阿弥陀仏 」の世界が「 浄土 」で、それが全ての生物が持つ世界を包摂するもの、つまり生物を産む世界で、生まれた生物には想像も出来ない所が「 地球 」という「 自然 」だとしたら、「 阿弥陀仏 」がおわす地球上のエネルギーの世界では、般若心経にいう「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」で自分の行為のエネルギーが「 悪果 」になろうが「 善果 」になろうが残り、生命エネルギーの根幹である「 阿弥陀仏 」を「 喪失させて悲しませるエネルギー 」になってか「 増幅させて喜ばせるエネルギー 」になるかで残ると思います。

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。


次回は、この「 習合 」について考えます。







(6月23日)

より以前の記事一覧

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31