老人の話

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無趣味の退職者の生活

2019年2月18日 (月)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 4 仏教

勿論、私は僧侶ではありませんし、仏教の教えを学んだことも無く、仏教についての本も文庫ぐらいしか読んでいない一般人ですから、何も真実を言うことは出来ません。

でも日本人ですから、一般民衆に幅広く浸透していて、私の住んでいた田舎でも、唱えられている「 般若心経 」は、その全部を先人から覚えさせられました。

日本の至る所に「 霊場 」があり、多くの神を祭っている祠がありますが、そこで唱えられているのも「 般若心経 」で、その響きは呪文のようで、山岳仏教の山伏が唱えるのも「 般若心経 」だと思われます。

私は、仏教に関しては全くの素人ですが、学校の授業で、仏教は「 顕教 」と「 密教 」に大別されて、前者は、最澄を祖としたもの(例えば、天台宗)で比叡山を修行場とし、後者は、空海を祖とした密教で、高野山を修行場としていると教えられました。

中学や高校生でしたから、知識の一つに過ぎませんでしたが、歳を経るにつれ、前者はテレビでよく拝聴する、末那識や阿頼耶識という意識を分析し、多くの僧侶が学ばれる「 唯識 」の世界で、鎌倉仏教から続く主流派だろうし、後者は、日本国の至る所まで広まっている「 般若心経 」の世界ではないだろうかと思うようになりました。

前者は多くの経文があり、その源は「 阿弥陀如来 」や「 ブッダ 」であり、後者は真言を主とする教えで、その源は「 大日如来 」とされているようですが、私の持論においては、前者は生命エネルギー(仏)を説くものであり、後者は宇宙(自然)エネルギー(神)を説くものと分類しています。

前者は、言葉などの「 認識 」の世界で、後者は、言葉では言い表せないエネルギーのようなもので、それがそのまま、「 般若心経 」の中では、前者が「 無(mu)」で後者が「 空(kuu)」であると表現されているのだろうと私は思っています。

私は「 無(mu)」は前者の頭脳の生命エネルギーの発露である「 認識 」の中にしかなく、言い換えれば想像した事柄であり、「 空(kuu)」は後者の宇宙(自然)エネルギーの発露である「 存在 」の世界で、何も無い「 無(MU) 」と思われている真空がクオークやヒッグス粒子の存在が充満する空間の様なものだろうと思います。

ネットでは、「 この世は全ては空であり、全ては縁起縁滅の世界である 」という考えがありますが、「 全てが空である 」ことは、「 全てが無である 」ことではありません。


虚無主義などと叫んで自殺する人もいますが、その人の存在は決して「 無 」ではなく「 空 」であると考えます。

その「 空 」を「 空虚(からっぽ)」と考えてしまうと、「 無 」と同じことになり、絶望への道になりますが、「 空 」を「 エネルギー 」と考えると「 今の自分には認識することが出来ない力があるのだ 」ということになり、その力を探り求める希望への道につながると思います。

すべてが空と考えれば、「 自我が無い 」とは「 自分という我(自我)が空であること 」でしょうし、「 空であること 」は、「 自分という我(自我)」は、何かのエネルギーであることになるのではないでしょうか?

私の持論では、人間は宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが、認識を可能とする「 霊体 」になっていますから、それを動かす「 力 」であることになります。

前に戻りまして、「 顕教 」は阿弥陀仏の教えですから、私が死亡して阿弥陀仏の所に行けるように僧侶から唱えて欲しいのですが、現在を生きるときには、「 座禅 」をはじめとする顕教よりは、密教に近いと思われる「 般若心経 」の「 色即是空 空即是色 」に興味があります。

持論として、「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=無常、というのがありまして、この世が「 浄土 」であるなら、この「 浄土 」の流れのままに生きることは、死後も「 浄土 」に遊ぶ、つまり、死後も「 浄土 」であるこの世に永遠に生き続け、星になったり富士山の上にいたり、あるいは子孫の体内にエネルギーとして働くことに通じると思うからです。

ネットでは、私のように「 般若心経 」をE=MC²のような物理法則で解釈しようとする素人がいまして、心強いのですが、「 色即是空 空即是色 」がE=MC²であるのは良いのですが、仏典である以上、それが「 縁起縁滅 」をも同時に説明できるように解釈すべきだと思うのです。

その点では、手前味噌ではありますが、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの重なりが人間の認識を可能にし、前者の変化が後者の物質の変化に現れ(空即是色)、認識では、条件によって物質が生起する「 縁起 」として現れ、後者の物質の変化を問い詰めると前者の条件になって分からなくなる(色即是空)即ち「 縁滅 」となります。

折角、現代まで続いて来た「 顕教 」と「 密教 」ですから、これを両方活かしまして、生きているうちは「 密教 」のお世話になり、死後は「 顕教 」のありがたい経文を唱えて頂くことにしています。













(2月18日)

2019年2月17日 (日)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 3、無常観

漠然としたことを書きます。

私は、「 誕生から死後までの意識 」の電子書籍をはじめ、これまで「 無常 」のことを言ってきましたが、なぜ無常などと考えるのかを振り返ってみました。


この世は、「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」である。


これが現在の私の到達点なのですが、どうして自分の頭の中で「 無常 」などと思うのでしょうか。

「 現象 」の世界で暮らす私は、生きる可能性を探るために、心の中で「 本質 」という「 恒常的 」なものを求めるのでしょうが、この「 現象 」とか「 本質 」とか言いましても、それらは{ E=MC² }から来るものだと思っています。

脳科学でどんな結果が出るのか知りませんが、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で書きましたように、頭脳の中で伝達され貯えられる「 印象 」というのは、現実の現象から受けたE(エネルギー)であるのだと思います。

事物はE(エネルギー)に変換され得るからこそE(エネルギー)に合わせて「 変化 」するのだと思います。


このE(エネルギー)を自分の「 気持ち 」という無意識で捉えたのが「 誕生から死後までの意識 」でいう「 印象 」であり、捉えることが可能であるのは、物質を物質たらしめるように結合させるE(エネルギー)と、頭脳の中の宇宙(自然)エネルギーが同質だから、「 感じられる 」のであり、それが「 無意識 」として海馬に「 可能性 」として蓄えられ、次に面する「 現象 」の中のE(エネルギー)に対応するとき、それに合わせて海馬の中の「 可能性 」が、事物を動かすE(エネルギー)に、同質の物理エネルギーであるため、適用が「 可能 」であると見ます。

この繰り返しであるため、「 無常観 」が生まれ、頭脳は新しいE(エネルギー)に更新され、絶望から希望への自分が進むべき道が生まれるのだと思います。

「 無常観 」を感じられるのは、自分の存在(自我)が自然物と同様の現象であり、頭脳の中のE(エネルギー)を通して自然のE(エネルギー)を得て「 無常 」と感じられるのであり、自分の存在(自我)が、恒常的で人間は自然物ではないと思うほど、絶望の闇が深く、自然の持つ力(エネルギー)による救済も困難になるだろうと思います。

人のE(エネルギー)が物化したのが本などの書籍であり、それはその人を取り巻く自然の力(E・エネルギー)であり、万能ではなく、読者は常に自分の可能性を自分の頭で考えて摂取すべきことは勿論のことで、書籍と違う結果になっても、自分を卑下する必要もありません。

自然が無常であるからには、自分の思考も無常に成らざるを得ませんし、絶対不変の本質などは無く、「 無常であること 」が本質であるかも知れません。

ちょうど、伊勢神宮が遷宮することによって、その造営技術を古代から現在まで継承させてきたように………。












(2月17日)

2019年2月16日 (土)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 2、 正月

また振り返ってみます。

正月も過ぎ、もう2月ですが、この「 正月の風習 」のことを振り返ってみました。


私は、団塊世代で、私の田舎の家は百姓でして、「 もち米 」からお鏡餅を作って、神棚は勿論、身の回りの品々の上にお供えをし、大晦日に大掃除をし、正月のための「 しめ縄 」や「 門松 」を玄関に飾り終えてから、毎年恒例になっている「 紅白歌合戦 」をテレビで見終わると全国各地からの除夜の鐘を打つ映像が流れ、午前零時を過ぎると同時に神棚に参り、家族の皆に年賀の挨拶をして、近所の氏神に新年の挨拶をして眠り、その翌日は、餅が入った「 雑煮 」を食べ終わってから、今度は遠くの神社の「 赤い鳥居 」をくぐり「 三柱 」になるように、三つの神社を参拝しました。

その後、七日まで正月気分で、元旦から数えて七日目に鏡割りをしたものでした。



幼い頃の私は、どうして正月になると、そんなことをするのかなど思いもせず、日本国中で繰り返される行事に従事していました。

ですが、名古屋で退職を迎え、最近、ユーチューブの動画を見ていましたら、その「 正月風景 」を物の見事に説明する動画を見てしまいました。

それが、URTにある動画でして、「 ダビテ神社が存在した……」などというタイトルで、こんなの嘘に決まっているだろうと思い見ていましたら、この動画の最後の方で「 旧約聖書 」と正月風景を比べる場面が出てきまして、私が田舎でしていた「 過去から面々と続く正月の風習 」が、「 旧約聖書 」とそっくりな生活ではないかと思いました。

上記の正月風景が、物の見事に説明されているのです。

大掃除をするのも、午前零時の正月になるまで起きていることも、正月に餅を食べることも、しめ縄も「 赤い鳥居 」も、それが「 なぜか 」ということを説明しているのです。


日本人は宗教がないと、欧米各国から、散々言われてきましたが、欧米のキリスト教徒たちは、「 旧約聖書 」が言う通りの事を、新年を迎えるにあたり、実行しているのだろうか?

二十一世紀の今、「 旧約聖書 」のことを実行しているのは「 日本だけ 」ではないだろうか?


そう思いますと、「 日ユ同祖論 」が、全くのデタラメとは言えないように思いました。

つぎは、「 邪馬台国 」について思い返してみます。





*上記で引用した動画のURTです。
https://www.youtube.com/watch?v=17JT-HsgrYg&fbclid=IwAR15vcQATbO337FftGk6AaUDzxN5r01GsPTMqI3soeUNTzvClwa35a0qvX4













(2月16日)

2019年2月15日 (金)

69歳になって考えること  振り返って思うこと

こういう歳になりますと、こんな思いをする老人も、いるものです。

私は、故郷に大詩人や文学者がいたのもかかわらず、興味を示さないで、散文的なことしか書けないことは私がいかに凡庸であるかを示すものでしょう。

北原白秋が創った童話には限りない愛着を覚えますが、詩に対しては触手が動かないのです。

ただ、短歌には興味がありまして、中学・高校のころは短歌を暗記していたものでした。

短歌は、金銭を目的とするものでない事は、その頃から感じていましたし、その才能を持つ人が羨ましい気持ちもありました。

百人一首も好きですが、有名な歌人が歌った失敗作が好きで、いまも覚えています。



「 そでひじて むすびしみずの こおれるを はるたつきょうの かぜやとくらむ 」


などの藤原定家の歌が好きで、これこそ、「 無常 」を知らない貴族の、のどかな気持ちが伺われてととも好きです。

近代になりますと、石川啄木の歌集であります「 一握の砂 」のなかの歌が好きです。

これは、「 石川啄木 」でWeb 検索しますと、詳しく紹介されています。

その中で、二つを紹介します。


「 たわむれに 母を背負いて そのあまりの軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず 」


「 はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 」


これは、心にじんと来る歌でして、苦しい生活の今、まことに同感の意を表するものです。

昨日でしたか、国会で安倍首相に対して野党の人が、老人は、生活するのに苦しくて非正規労働をせずにおれないのではないかという質問に、非正規労働が好きだから老人はそうしているという答弁がありました。

首相が言う老人は幸せな生活を送っている人たちで、首相のまわりにはそんな老人ばかりなのでしょう。

底辺の老人は、「 一握の砂 」にありますように、食費を切り詰め、孫や子に小遣いをあげたり、あるいは生活のため、病をおして、非正規労働をしているのです。

こんな生活も、天のどこかで「 神 」が見ていると思えば、自分に恥じない行動を採っておれば、「 色即是空 空即是色 」の世界に暮らす「 人間の多様性 」を示すものになると自分を慰めています。



「 はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 」

(石川啄木)






















(2月15日)

2019年2月14日 (木)

69歳になって考えること 我が故郷柳川 2 柳川から名古屋

前回でご紹介しなかった偉人ですが、柳川に関係がある人の中に、マルクス主義哲学者の廣松渉氏(山口県出身・伝習館中退)と壇一雄氏(福厳寺に墓地がある)がおられます。

2、私と柳川そして名古屋

私は、長谷健さんの近所に住み、長谷健さんが校歌を作られた東宮永小学校に通学しました。

後輩として相撲取の琴奬菊がおられます。

隣町には相撲の不知火型土俵入りを考案した10代横綱の雲龍久吉の記念館があります。

私の「 高口 」という姓は、あまり多く有りませんが、全国の中で福岡県が多く、特に柳川に多いそうです。

私の祖父が養子に来たということで、なぜ柳川のしかも近くに多いのかは知りません。

その小学校を卒業して柳川城の跡地に立つ「 柳城中学 」に入ったのですが、藩主の立花氏の子孫のご令嬢や家老を務めた十時氏の子孫のご令嬢や当時の市長のご令嬢がおられる所でして、百姓の私は小さくなっていましたが、恩師の青木先生に出会い、県立伝習館に入学しまして、マルクス主義の傾向があった立命館大学に進みました。

その頃、廣松渉氏の本は知っていましたが、まさか伝習館中退した人とは知らず、マルクス主義の教育への反抗と中学二年の時に死亡した母親と「 マルセリーノ 」に影響されて、実存主義のキルケゴールに魅かれていきました。

その後、名古屋市の地方公務員になりまして、病気を患いましたが無事に退職を迎え、私の病気を気遣ってか、元上司から下記のような「 同窓会 」にお招き頂き、この平成の御代を終える三月に、同窓会を解散することになりました。


幹事さん、ご苦労さんでした。




1、「 同窓会 」が始まったころのメンバー

Photo1


2、「 同窓会 」の終わりのころのメンバー


2017





















(2月14日)

2019年2月 7日 (木)

69歳になって考えること  我が故郷柳川 1 柳川について

私の退職後は、生まれ故郷であります柳川に戻って、女房の実家にお世話になる予定でしたが、道路拡張のため家を取り崩し、跡取りもいないので、土地も売り払いまして、こらからどんな生活をするのか、まったく目途が立っておりません。

故郷の偉人であります北原白秋の「 帰去来 」の詩碑にもありますように、官をやめてその地を去って故郷に帰るつもりでしたが、このままでは、それも夢のまた夢になりそうです。

頭がまだ正常なうちに、故郷である柳川につきまして、少し書いておこうと思います。

第一回は、福岡県の柳川市について、第二回は、柳川と私の「 特殊 」の事柄をかきとめたいと思います。

ありがたい事に、子供のころにはなかったPCがあり、その情報でほとんどの概要がわかると思いますので、ご興味がありましたらWebを検索して、詳しくお知りください。



柳川市のWikipedia で、柳川市の概要がわかると思います。

「 ふるさと柳川 」というFacebook もあります。

「わたしのふるさと~柳川」や「 柳川弁」Wikipediaで検索すれば、(そこで話されている?)方言を知り得ます。

「 北原白秋 」で検索すれば、彼の著作がわかりますから、興味がありましたら、図書館で本をお読みください。

彼の「 帰去来 」の詩の朗読は、メールアドレスを入力すれば、音声ファイルが送られます。

「 長谷 健 」で検索すれば、彼の著作と私の出身校(小学校)と私の出生地が、おおよそ判別できるでしょう(これは第二回で書きます)。

柳川の写真は、いろんな所で見れると思いますが、もしあなたが、メールアドレスを晒して、「 Pintaresut (ピンタレスト)」に加入されているのなら、私の名前(katsunori kouguchi)で検索されれば、「 私の日本(自然編)」で私の故郷として集めた画像が見れます。

動画は、ユーチューブで探すと発見することが出来ると思います。



私が、まだ高校生のころに、こんなにもインターネットが普及するとは思いませんでしたので、故郷の近くの都市に就職しておれば、もっと面白い写真を紹介したり、柳川で今起こっていることを書けたかも知れません。

誰にでも故郷があり、石川啄木の短歌にもありますように、故郷の方言が聞こえて来る方向に思わず耳を傾けてしまいます。

この記事も「 お国自慢 」になってしまうのかも知れませんが、故郷でPCを使う人たちへの応援になればと思っています。









(2月7日)

2019年2月 5日 (火)

69歳になって考えること  私にとっての E=MC²

私は、これまで
「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」
という、私なりの解釈で、ここまで来ました。

認識上では、実体・物質(M)が様々な形に変化する(例えば、水(液体)から蒸気(気体)になり氷(個体)になる)のは、物質がエネルギーと等価であるからだと思っていました。

しかし、このアインシュタイン氏のE=MC² というものを数学に無知であるため、どんな意味なのか知りもしないでいましたので、改めてこれをWebで調べてみました。

すると、Wikipedia に以下の説明を発見しました。
この E = mc2 と言う関係式は、アインシュタインによる公式の中で最も有名なものではあるが、経験則に基づく仮説として、長年の間厳密な証明はされないままであった。しかし、原子核核子を構成するクォークと核子同士を結び付けるグルーオンは、それぞれ質量が全体の5%および0であるにもかかわらず、これらクォークとグルーオンの動きや相互作用によって発生するエネルギーが原子核の質量の源となるという論文が、2008年11月21日発売のアメリカ学術誌ネイチャー』に掲載された[5][6]。このことにより、これまでは仮説だったこの関係式が、ようやく実証されたことになる[6][7]

これをそのまま認めまして、この「 クオーク 」を生命エネルギー(仏)とし「 グルーオン 」を宇宙(自然)エネルギー(神)と置き換えるますと、物質・人体(M)と「 クオーク 」(仏)と「 グルーオン 」(神)の総計が一人の人間のエネルギー(E)となり、私がこれまで書いてきた「 三位一体 」とか「 神仏習合 」などが、その「 内容 」になると思います。


尚、私のもう一つの考えである「 意識は電磁波の構造を持つ 」というのは、神仏が私の身体のなかで、意識(末那識)と無意識(阿頼耶識)の形で潜んでいて、「 今 」から発せられた電気信号を照射することにより、それらが「 光電効果 」のように飛び出して私の行動のエネルギーになると考えますと、「 我田引水 」ではありますが、私が言うすべてが一連につながることになります。

まことに自分勝手な解釈でありますが、私のような考えは世界中を探しても無い「 唯一無二 」の考えでして、私の自己肯定です。


このように考えて生きるのも、私の人生だと思っています。














(2月5日)


2019年1月29日 (火)

69歳になって考えること  昔の自分に言いたい事

この単語で、Web 検索しますと、若年期に考えるべき事を多くの人が、自分を振り返って、まだ見ぬ後輩へのアドバイスをされているような気がします。

私も、若い時に気づいていたら69才の今、こんな生活はしてなかったかも知れません。

私が昔の自分に言うことは、「 誕生から死後までの意識 」にも書きましたように、二つほどあります。

①意識は電磁波の構造を持つ②「色即是空 空即是色」={ E=MC² }=「 無常 」という、現在の考えです。


①につきましては、現在が、過去と未来の意識を内包する丸い、あるいは楕円の生命体であると考えて、意識でない未来と意識でない過去をつなぐのが自分の無意識の「 可能性 」であり、「 記憶 」などの意識は「 今 」から過去の体験や衝撃として意識したものを保存している塊に向かって電磁波のような電気を叩き込んで、その結果、これから対処する事態にフィットする可能性を(光電効果のように)飛び出させて行動に適用することだと思います。

学校でノートをとって授業を受けますが、学んだ事を忘れないようにメモするのだと思いますが、それは漫然と教わったことを記録するのではなく、これからの試験の時、あるいは「 今 」、いかに簡単に思い出すためかを考えてノートをとると、おのずと、自分に思い出し易いノートになるでしょうし、歴史を学ぶときは、でその時起こった他のいろんな事を調べると思い出しやすいでしょう。

歴史的事実の周辺を勉強することは、一見すれば無駄のように思われますが、それは「 今 」に生かせる「 生きた知識 」を自分の武器にするためであり、「 物知り 」になることではないと思います。

その点で、間違った勉強をしてきたと反省します。



②につきましては、教師や僧侶などから「 色即是空 空即是色 」がどのような意味を持ち、それをどう使うかを教えてくれませんでした。

昔はネットなどありませんでしたから、それを知るのは至難のことでした。

現在は、この言葉を自分流に解釈していますが、本当は仏教の教えとは全く違うかもしれません。

でも、仏教の教えの通りに理解したとしても、それを自分の生き方に適用し得るのでなければ「 物知り 」であっても、無価値なものだと思います。

昔は、「 物知り 」を目指していましたから、それを自分流に解釈するまで、②の考えとは無縁の生活をしており、形あるものが永遠、死んだら何もない無になるんだと思って、物欲のまま浪費しました。

形なきものを目指すべきなのに、物欲に捉われて、書籍購入然り、ステレオ購入然り、今思いますと正反対のことをしてきたように思います。

自然ではなく思想を絶対不変と考えたせいか、自分の頭では理解など出来ない書籍を、理解できないのは自分の頭が悪いせいで、書籍には絶対真理があるものと思っていました。

ですが②を自分流に解釈しますと、自然の絶え間ない変化に自分の思想を変えるのが大切で、書籍は著者の面した当時の著者の可能性を著したものでないかと気づき、②を自分流に解釈してからは、ブログでも人生でも、自分が可能な範囲でするようになり、実際、それしか出来ないと思うようになりました。

ですから、昔の自分に、自分の可能性を活かすような投資をし、物欲に捉われない生活を送れと言いたいのです。


自然の野の草は、突然変異もなく育つように、自分も遺伝子に決められた範囲でしか育つしかないだろうし、私には私にお似合いの人生があるんだと思います。







(1月29日)

2019年1月28日 (月)

69歳になって考えること  変化と多様性 3

私は、このタイトルで、有名な数式を自分流に解釈してつかっています。

「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」???

こういう考えで、前回の「 変化と多様性 2 」において、自分が「 煩悩 」にまみれながらも、「 神仏 」の意図を察して行動するのを「 悟る 」ことだと申しました。

まわりにそれらしい人はいないようですが、今回は、最初に書きました「 尾畠春夫さん 」について、彼が「 ボランティア活動 」に邁進されている様子が、なんだか「 悟った坊さん 」の行動のように思われまして少し書いてみます。


彼は「 79才 」で、結婚もされ独立して生計を立てられている息子さんもおられますが、奥さんは、彼の言葉では「 カミさんは、いま旅に出てる。一人旅です。自由にしたいって、5年前に出かけて、まだ帰ってこない 」らしいです。

彼の経歴はWikipedia にありますから、それをご覧になれば、多くのことが分かります。

65才で、それまで順調だった「 魚屋さん 」を閉ざし(息子さんが、後を継ごうかといったら、自分の人生は自分で決めて進んでいけといって断られたそうです)、それ以降は「 ボランティア活動 」に専念され、2018年8月、山口県周防大島町家房において、3日間、警察などにより発見されなかった2才の男児を、わずか30分で探し出して話題になりまして、私も、それから彼に注目するようになりました。

ご存知のように「 ボランティア 」は求める心と救助したいという心が合致しないと不審を生みます。

「 心 」と「 心 」の上に成り立っているのは、あなたにも誰にもわかる普遍的なものだと思います。

彼の心の中には「 かけた情けは水に流せ。うけた恩は石に刻め 」という言葉があるそうです。

彼は10歳のとき母親と死別し、貧しい環境の中で生きてきて、彼のボランティア活動を突き動かすのは「 おふくろに思い切り抱きしめてもらいたい。あばら骨が折れてもいいから思い切り抱きしめてもらいたい 」という思いだそうです。

2019年1月、東京都の中学校で講師(講演)され、現在は、自分の家がある大分県日出町までの1100km を徒歩で帰宅の途中です。

なぜ歩いて帰るのかについては、「こういう歩きの旅で体を鍛えていたら、もし自然災害が起きたときに、すぐボランティアをさせてもらえるから 」らしいです。

東京は彼が若い時に、勤務していた所で、「 変わっていないと悲しい 」と言われるので、「 無常観 」はお持ちだと思います。

以上は、「 おばたはるお 」でWeb検索して、あふれんばかりの記事の中から抜粋したものです。

興味をお持ちなら、検索してください。


これからは、私の考えを書きます。

経歴や学歴のある人が、「 悟られた 」ならば、その言葉や行動で周りの者が気づくでしょうが、それは普通とは違って奇異な行動と見えるだろうと思い注目するでしょう。

ですが、一般の人はどうでしょう。

「 狂人は天才と紙ひとえ 」と申しますように、普通とは違う奇異な行動をする人は、「 悟っている 」と一応は考える必要があると思います。

私は、彼の思いをWebで拝見させていただいて、昔、映画で見た「 マルセリーノ 」を思い出してしまい、彼は、きっと10歳で死別されたお母さんに逢えるだろうと思い、そしてもう一方では、苦行だと思われる僧侶たちがされる「 托鉢 」のことを思ってしまいました。

そんな、僧侶がすべき「 苦行 」も、私が居住する所で行っている僧侶は見受けられません。

この二つとも、普通の生活をしている私にとっては奇異な行動のように思われます。

詳しくは知りませんが、ボランティアは社会奉仕ですから、自己の欲望は抑制し、清らかな心がないと、救援を受ける人に不審をいだかれます。

心を綺麗にするのは、人の善意のうえで成り立つ「 托鉢 」も同じでしょうし、東京から徒歩で帰るのもお金の節約もあるかも知れませんが、年齢が79才で、しかも雪が降る冬という時期に、地図もお金も健康保険証(これは。いざとなったら病院が治療すると思います)もなくテントと寝袋だけで帰るのは「 自殺行為 」としか思えません。

それでも、綺麗な心で救助に呼んでもらえるからと言われますが、私には、ボランティア先で死亡するより、徒歩の旅で死ぬほうを選ぶといった思いを感じますから、ほどほどで止めたらいいと思いますが、本人の意思を尊重して、日本の多くの人が、その旅を心配する一方で、元気に帰宅できるように沿線の人が励ましているのだと思います。

こういう「 バカげた行為 」により、それを取り巻く国民が、ボランティアとは何かを考えさせるエネルギーになっていると思うと、「 原爆シャツ 」とは違った意味で国民に衝撃を与え、尾畠さんが行動で現した彼の内面のエネルギーが、人間はこんなことも出来るという多様性を広げたことになっているのだと思います。

私は、彼の行動に、彼が命を捧げるモノを発見した(悟った)人なんだと感じるのです。

一日日も早く、大分県の実家に辿り着かれん事を願っています………。













(1月28日)

2019年1月27日 (日)

69歳になって考えること  変化と多様性 2

私の思考は不安定でして、檻で捕獲された動物が必死に出口を求めて檻にぶつかる様に、ぼんやりとしたテーマは考えているのですが、方向性もなく間違った出口に突進している様な気がします。

前回は、どうやら「 多様性 」について書いた様で、前回記載しました、有名な数式のもとに、「 変化 」について出来るだけの突進をしてみたいと思います。

「 色即是空 空即是色 」={E=MC² }=「 万物は流転する 」=??を使いまして、「 変化 」に突進しようと思います。

私の身体の生滅のことは、「 誕生から死後までの意識 」に書きましたように、身体自体が自然物であり、他の自然物と同様に「 色即是空 空即是色 」の「 現象 」でして、それは「 万物は流転する 」ように私の身体は日々新陳代謝しており、それに沿うように意識も変えてゆかなければならない事は「 現象としての私の考え 」で書きました。

数式にありますように、E(エネルギー)の変化はM(物質)の変化を通してしか認識されない事は、「 空即是色 」の通りです。

私は、上記の本で、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の二種類のエネルギーが私の身体を動かすエネルギーであることは書きました。

それらのエネルギー(E)の変化は、行為という外部へ現れた身体(M)を動かすエネルギーの目に見える変化により判断されるでしょう。

その身体(M)の変化が、生命エネルギーの発露であれば多くは「 煩悩 」と呼ばれ、宇宙(自然)エネルギーの発露であれば「 悟り 」と呼ばれるのではないだろうかと考えます。

なぜなら、宇宙(自然)エネルギーは人類や生物には普遍的なものであり、生命エネルギーはその生命体固有の特殊的なもので、同じ生命体同士でなければ、理解することは困難であるからです。

私は、人間が「 神仏 」から作られた意図は、「宇宙(自然)エネルギーを絶え間なく持ち続けなさい、生物に普遍的で有益な行為をしなさい」という事で、言い換えれば「 悟ってください 」という意図だと思うのです。

それは、「生きとし生けるものに仏性がある」といわれ、人間は誰でも悟る事が出来るといわれているからです。

呼吸しなければ死んでしまうように、人の中に宇宙(自然)エネルギーを宿さなくては生存することは出来ない仕組みになっているんだから、その人体の中に宿る宇宙(自然)エネルギーを宇宙(自然)に返しなさいという事で、それが「悟り」で、行為としては、自然をあるがままに受け入れ、自然の中で他の物と同様に「 現象 」として生きることになるのではなかろうかと思います。

そんな「 悟り 」のコレクション(例えば、ブッダの悟り)などが、人類の多様性へとつながるものではないかと思います。

さあ、あなたも、「 悟り 」のコレクションに出品されたらどうですか?









(1月27日)

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