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映画・テレビ

2019年2月 3日 (日)

田村正和主演「 忠臣蔵~その男 大石内蔵助 」の感想

年末に録画していた未鑑賞ビデオを暇に任せて整理していましたら、タイトルのビデオを発見しまして、思わず最後まで見てしまいました。

田村正和という俳優さんは、最近は見ないなと思って調べますと2018年4月ごろ、俳優の引退を発表されているようです。

多分、私はその事が頭のどこかにあって、録画したんだと思います。

タイトルをWeb の検索にかけますと、既に多くの寸評がありますので、私は、それに書かれていないこを書きますから、もし興味をお持ちでしたら、他のブログをご参照ください。

①忠臣蔵

これは、年末恒例になった江戸時代の物語ですが、詳しくは、Webでご検索してください。

これについては、一年にわたってNHKが大河ドラマを作りましたので、事実関係は日本の皆さんは、充分、ご存知のことと思います。

他のブログで書かれていますように、これを見ただけでは、「大石内蔵助」は何者かを正確に把握することは出来ないのは同意します。

ですが、彼が切腹を前にした辞世の句(短歌)の「 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」と彼の歴史的行為から、彼の「 武士道 」を充分に推察されると思います。

「 武士道 」につきましては、いろんな本が出版されています。

私は、「 武士道 」は無常の流れに「 サオ 」をさして、世の動きに影響を受けない、ある程度無常ではない精神的な支えなのだろうと思っていまして、それが世の動きに逆らっているがために悲惨な結果をもたらすところに、憐憫の念が湧くのではないだろうかと思います。

この物語では、忠臣蔵の浅野氏も、「 わいろ 」が幅をきく世の中では、「 わいろ 」を送っておけば、お家断絶もなく、家臣が路頭に迷うこともなかったと思いますが、世の流れに逆らい「 わいろ 」を使って世を渡るのではなく「 建て前 」(決めごと)でに沿って世を渡ろうとしたため、世の流れである「 わいろ 」を要求する者から叱責され、屈辱に耐えきれず、江戸城内で刃傷に及ばれたが、刃傷に及んだ者は切腹という「 建て前 」(決めごと)により一方的に切腹させられて、「 わいろ 」を要求した者に処罰はなかった。

浅野氏は「 喧嘩両成敗 」という「 建て前 」(決めごと)を無視した幕府に無念を覚える。

家臣である、大石は、主君の浅野氏の無念を晴らそうと、「 わいろ 」を要求した者の家に「 討ちいって 」その者の首をはねた。

幕府は、自身の裁断を正当として、「 討ち入り 」をしたものを切腹させた。


大石は、「 討ち入り 」をするのは、自分の身を捨てて主君の無念を晴らすという忠義をもって、幕府の不当なご政道を指摘しようとしたのであり、それが彼の辞世の句から感じられる彼の「 武士道 」だろうと思います。

これは、邪推ですが、時代を超えて民衆に人気があるのは、日本という所が「 わいろ 」を好まない風土であるかも知れません。

上記の「 短歌 」に戻りますが、ダラダラと言葉を並べるよりも、「 5・7・5・7・7 」という短い文字で、内面にひそむ「 感情 」ではなく「 心情 」を表現した日本古来の短歌で表現されたほうが、後世に生きる私たち団塊世代にとっては、わかりやすいと思います。

もっと「 忠臣蔵 」や「 大石内蔵助 」や「 武士道 」が知りたいとお思いの方は図書館へ行きましょう。

最近のテレビドラマを観るのが嫌になったのも、どんな「 心情 」を「 どんな俳優さん 」を使って「 どのように 」表現するのかが、趣味のない私の趣向にあわないのです。

②俳優さん

田村正和さんはWikipedia で詳しく紹介されてありますから、興味がお有りならWeb検索をお願いします。

私の印象では、言葉の発音が聞き取れず、昔から私の苦手とする俳優さんでした。

彼がテレビで「 大石内蔵助 」を演じるのは最初らしいですが、今回も、同じかなあと思ってみていました。

団塊世代を泣かせる場面に、大物俳優の北大路欣也さんや松平健さんや岩下志麻さんを配していますが、皆さん、セリフが少ないので、田村正和さんに合わせて言葉が少ないのかなあと最初は思っていました。


しかし、鑑賞しているうち、「 短歌 」と同様に、俳優の皆さんは言葉ではなく、身振りや仕草、あるいは目配りなどの「 間(ma)」で、「 心情 」を訴えておられるのではないかと思いはじめました。

そう思いますと、田村さんが発声されるかすかな言葉など苦にすることもなく、北大路さんとの睨み合いや目配りなどから、その人物のその時の「 心情 」がなんとなく理解できるようになりました。

表現には言葉だけではなく、ボディランゲージと申しますように、身振り手振りで表現する、かってのチャップリンさんの無声映画もあります。

浮かべる表情とか江戸時代を連想させる女性の泣き方や剣劇の立ち回りなどが、時代劇の特徴であるとともに、日本の他の芸能や庭園や絵画などにおける「 空白 」のとり方が、内面にひそむ日本文化を表現するのかも知れません。

何でもかんでも空白がないように塗りつぶすのも絵画でしょうが、風神、雷神などの配置や日本画に見られる空白は、故意に空白にした意味を考えるべきだと思います。


俳優さんに、長いセリフで、事細かに喋らせ、状況を観衆に理解させるのも映画でしょうが、上述した「 沈黙 」で心情を表現するのも映画です。


私には、後者による映画が、観衆に自分の心情を引き出させ、その場の心情に同化させて、その人なりの感動を受ける作品になると思います。



このビデオでは、俳優さんたちが、目配りとか睨み合いなどによって作りだす沈黙の時間(間・ma)が含む心情と思われるものに、観衆は自分の心情を同調させやすい、つまり感動しやすいし、それが観衆のなかにひそむ、それぞれの「 武士道 」なのかも知れません。

脱線してしまいましたが、「 俳優さん 」は、顔形が綺麗とか人気があるとかで評価されるべきではなく(それは時の流れによって変貌します・無常のもの)、その人が配置された意味やその場面に含まれる心情を「 いかに演じることが出来るか 」によって決めるべきだと思います。

そんな俳優さんが、この世からあの世へ旅立つ人の中に多いというのが残念で、残された俳優さんが、なぜ俳優と呼ばれるのかを早く気づかれて、おおいに日本文化の継承に役立たれんことを、願っています。










(2月3日)

2018年7月 4日 (水)

映画の思い出(穢れなき悪戯)

趣味もお金もない老人の私だが、死んだあとにゴミを残さぬよう、断捨離をしていた。


ハードディスクも多少は持っているので、古いものを取り出して、整理にかかった。


映画音楽の動画もあったので、再生してみると、「 穢れなき悪戯 」の「 マルセリーノの歌 」が出てきた。



この映画は、田舎にいた私が、まだ小学校に在学中、文部省推薦として、「 穢れなき悪戯 」が田舎の映画館で上映されることになり、当時は流行りだった映画館に学校を挙げて映画鑑賞することになった。


ポルノまがいの映画も上映する所だったので、期待半分で出かけた。



内容はご存知のとおり、子供の純粋な思いが「 神 」につうじて、母とあうことだが、その時はなにも特別の感傷はなかったが、私が「 誕生から死後の意識 」をかくようになってから、「 神 」というものを考え、私が「 神 」をエネルギーとしたのは、この映画が原点だったかもしれないと思うようになり、日本の神仏習合とあわせて考えると、やはり、「 神はエネルギーである 」とおもうように」なった。



死んだ母に会いたいと一心の思って、神のとおりにすれば、神はエネルギーであるから、すぐにでもその姿を変えて下さり、母と合わせて下さる(死んでしまう)ことが可能なんだと、思うと近年になく涙が出た。



青少年のころ、何を見てどのように思ったのかは、その人が最終点を迎えるとき、いかに苦しみ、あるいは如何に楽になるかを決定するかもしれない。



そんな思いで、映画監督は、良質の映画を作って欲しいものだ。


金銭の「 儲け 」などに、目を奪われずに。

 

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