老人の話

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日記・コラム・つぶやき

2018年6月15日 (金)

藤井聡太七段、AI を超える

201865日、竜王戦第五組決勝で、藤井聡太七段は石田五段と対局しまして、96手で勝利しました。


その対局の終盤で、複数のAI(将棋ソフト)が悪手とする一手を選択しただけでなく、その後に相手陣に攻め込んで「76手目」に最強の駒である飛車を最弱の歩と交換するという形で、飛車を切り捨てるという、「 AI超えの一手 」を披露しました。


この「 飛車切り 」はAI(将棋ソフト)は事前に指示することはなく、飛車が逃げることを推奨していました。


ところが、この「 飛車切り 」は「 最善手 」でありしかも勝負を決定する「 一手 」でした。


それを、複数のAI(将棋ソフト)は「 見逃し 」ていて、藤井七段が指し終わって10秒ほど時間が過ぎたころそれが「 最善手である 」と「 反省 」したという動画がありました。


これは、後日、藤井七段がいったように、「 人間はその置かれた状況によって手を選ぶ 」のであり、AIは、敵の「 王将 」に迫る方法を多くの過去の棋士が「 人情 」も含めて残した棋譜のデーターを人間から入力され、あとはディープラーニングなどで発展させ、それを未来予想に使った結果であり、しかも哀しいことに、人間ではないため、そのデーターが人間の「 人情 」が混じったものか否かを哲学することが出来ない結果、「 見逃した 」と思います。


複数のAI(将棋ソフト)が「 悪手 」と認定したり、「 飛車切り 」を知らなかったのは、入力されたデーターには悪手や飛車は最強などという「 人情 」が既に含まれていたからだと思います。


コンピューターは人間ではなく、「 人情 」も無視し、時には非人間的な指示もしますが、今回は、そもそも入力されたデーターが「 人情 」を含んでいるため、人間的な判断をしたのでしょう。


それに、万物は流転するといわれる、「 置かれた状況 」によっては「 一歩千金 」という格言がありますように、最強といわれる飛車も最弱といわれる歩と同様の「 働き 」しかしない場合があったり、最弱の歩が王将を守る「 金 」と同様の働きをする場合もあるのであって、「 ここで飛車を捨てても勝てる 」という深い読みがあってこそ、「 飛車切り 」が出来るのであると思います。


AIは、入力された「 人情 」が混じったデーターで判断したため、その手が発見できなかったのかも知れません。

 


私の考えは、「 将棋は格闘技 」でも書きましたが、「 最善手 」は、「 人情 」が混じらない将棋の駒の自然事象の「 必然 」の流れに従って指すことであり、それは、推理や経験によらない直観により得られた道筋、いわば「 目的地への地図 」のような「 空間的意識 」であり、論理の積み重ねという時間意識の領域の外にあるものであり、それに従って指す手が「 最善手 」なのであると思います。


AI(将棋ソフト)は人間ではないので、時間意識は処理速度で縮めることが出来ても、人間ゆえに持っている「 空間意識 」(これは、同時に危険を察知する)は持っていないから、AIの最善手は論理上の一手であり、本当に未来を「 読む 」ことでなく、今までの棋士だったらこれが最善手だという確率に過ぎないのであると思います。


これで、藤井七段が、勝負への蓋然性より、もっと精度がよい直観に従って、竜王へ挑戦する闘いの場に登場したことになります。


これから誰に負けるか注目してゆきたいと思います。

 

2018年2月24日 (土)

「藤井聡太 新たなる伝説」の購入

2017年9月21日に株式会社・宝島が発行した「 藤井聡太 新たなる伝説 」を購入しました。
去年の9月発行ですので、購入した時期が遅く、「 男 」の写真集ですが、彼の活躍ぶりに堪らず、恥ずかしながら購入しました。
彼の写真とともに、インターネットテレビのabematy の番組編集の裏側の記事が面白かったです。
彼の笑顔は「 善人 」そのもののお顔のように思われ、おばちゃんたちが「 ガンバッテ~}と応援するのも無理はないと思います。
また、彼が見せるの他の多くの顔は、このブログのリンク集にある「 東海の龍 藤井聡太 」をクリックすれば見ることが出来ます。
 
「 藤井聡太 新たなる伝説 」
P1010859

2018年2月19日 (月)

2018年2月17日、藤井聡太、11回朝日杯優勝し、六段になる

おめでとう、藤井聡太さん。
何か書こうと思いましたが、Wikipedia が詳しいので止めます。
2018年2月17日、藤井聡太、11回朝日杯で優勝し、規定により六段になるとだけ書きます。
彼が住む瀬戸市や彼が通う杉本七段の道場や彼が飲食した街と私の住所は近いので、なんとなく親近感があります。
2月17日は土曜日でしたので、インターネットテレビ(abematv)で、始めから終わりまで観戦しました。
 
14歳2カ月でプロ棋士四段としてデビューし、15歳6カ月の公式戦で、同じ中学生プロ棋士になり天才と言われる羽生永世七冠を破り、中学生初の六段に昇段するなど、漫画でも描かれないほどの昇進で(漫画にするとウソになる)、天才と言われるのも当然です。
 
一年ほど前、非公式戦が終わったとき、国民栄誉賞を取られた羽生永世七冠が「 凄い人が現れた 」と言ったのも、このことを予知していたのかも知れません。
(藤井VS羽生は、非公式戦で1勝1敗)
 
 
「 歩はいつか金になり飛車はやがて龍になる 」
 
彼は「 歩 」ではなくて「 飛車 」であり、いまにも「 龍 」になりそうだということが、分かった日でした。
 
その日、名鉄新瀬戸駅で配られていた、地元、中日新聞の「 号外 」を手に入れましたので、披露します。
P1010845
P1010848
横向きでごめんなさい。
上が表で、下が裏です。
………………………………………………………
 
 
 
藤井聡太 Wikipedia
        ↓
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤井聡太

2018年2月16日 (金)

書を捨てよ自分で考えよう 4 「誕生から死後までの意識」に於ける課題とそれに対する私の解釈

付録を書いてもまだ分からないという女性の意見に答えまして、私が電子書籍に於いて課題と考えたこと、及びそれに対する私の解釈を書きたいと思います。

 

A) 発刊した動機と課題と考えたこと

 

私をカラオケに誘って頂き、飲食を共にした守山区の小林という市民係長が、60歳の定年を迎える前に肺ガンの末期で退職され、自宅療養で亡くなりになった事をきっかけにして、私はブログ「 好き勝ってな老人の話 」を立ち上げ「 自分探し 」をはじめました。

同ブログは、平成291231日を以て廃止しましたが、その総括が「 誕生から死後までの意識 」あるいは「 付録 誕生から死後までの意識 」でありまして、これは亡くなった市民係長への追悼の小説であります。

 

「 自分探し 」をする中で、1、上杉謙信の「 死中生あり 生中生なし 」や、2、ゴーギャンの「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」とか3、般若心経の「 色即是空 空即是色 」や4、キリスト教の「 カエサルのものはカエサルに、神のものは神に 」とか、5、空海の「 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)」などという言葉に出会いまして、これらは、死に向かう人の言葉のように感じまして、これらを一連の言葉で解釈し直すことが、小林係長への供養になり、ひいては私の死への覚悟をさせてくれるのではないだろうかと考え、これを私の「 課題 」としました。

 

一連の物語にするために使った道具としての言葉は「 宇宙エネルギー 」と「 生命エネルギー 」と私の持論である「意識は電磁波の構造を持つ」という考えと、生気論の「 気(ki)」や西洋の思想である「万物は流転する」とか「 エネルギーは形を変えるが消滅はしない 」(エネルギー保存の法則)という考えでした。

 

それらを使い、上述の言葉を、とかく批判の対象となる日本の神仏習合(明治維新に伴う神仏判然令以前100年も日本に続いていた)のもとに一連の「 物語 」として構成しようとしたのが「 誕生から死後までの意識 」という電子書籍でして、これはあくまでも小説で、私の「好き勝ってな老人の話」というブログの総括、つまり「 自分探し 」の総括ですので、鼻で笑われても文句は言えないシロモノです。

 

B) 私の解釈

 

私の小説の中では、エネルギーと気(ki)は、同義です。

物語のあらすじは、生殖により、「 宇宙エネルギー(気(ki)) 」(自然エネルギーと同義)が生き物を生かす「 生命エネルギー(気(ki)) 」に「 形 」を変えて、生き物のDNAに応じて、電場が磁場を生むようにエネルギーが意識を派生させ、右脳から空間意識を左脳から時間意識を派生させて「 誕生 」し、その後、脳が自ら作った「 時間 」や「 空間 」という概念で、経験した衝撃(エネルギー)を出来事の「 因果関係 」という「情報」として保存し、深層意識に蓄積し、自分が今後生きるための、無意識で流れるものである「 能力 」とし、日々、流転する宇宙エネルギーの気(ki)に生命エネルギーの気(ki)を呼応させて、その気(ki)を意識層から無意識層に貫く時間軸である左脳と空間軸である右脳を通じて、これまで蓄積した、無意識で流れる自分の可能性である「 能力 」を呼び起こし、そして行動に至ると考えます。(意識は電磁波の構造を持つ)

 

 

肉体と意識との統合を「 霊 」と解釈します(人間が霊長類とよばれる)が、「 霊 」は人間が考えた概念であるという点で、「 意識 」であり、「 霊 」の目指す所は「 人格の完成 」であり、ブッダがその象徴でしょう。

「 仏 」がブッダで「 覚者 」や「 悟った者 」であると解釈しますと、悟ることは「 人格の完成 」と言えましょうが「 神 」(エネルギー)になったとは考えませんので、ブッダの思想である仏教には「 神 」になる教えは無いと考えます。

神風特別攻撃隊員を死地へ向かわせる際、その命を下す上司が「 死んで神になれ 」と言ったらしいですが、戦死すれば靖国神社の桜になるのではなく自分を産んでくれた故郷の自然エネルギーに戻ると私は思いますから、人間はすでに神の子とする私の本意ではないですが、「神」を自然エネルギーとするならば、その言葉は正しいということになります。

 

 

「 生命エネルギー 」から派生した「 意識 」は「文化」という違った形になり、生きている他者の可能性となりますが、「生命エネルギー」の終焉である死によって、意識と肉体からなる「 霊 」はその結合を解き、意識は文化として社会に残り、肉体は屍と「 宇宙エネルギー」(自然エネルギー)に分離し、前者は地球の土に、後者は地球を取り巻く「大気」に混じるだろうと思います。

私は「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)を「 神 」と解釈し、日本の宗教である神道の「八百万の神」を自然エネルギーであると解釈し、神(自然エネルギー)と人間とを取り結ぶ場所が「 神社 」であり、人間は等しく神の子として生まれ、生存中は人格の完成である「 仏 」を目指すべきと考えます。

このように、神仏が習合したもの、宇宙エネルギーと生命エネルギーが一体となったものが人間であると思います。

今の私は「宇宙エネルギーの気(ki)」の結晶に過ぎず、台風などの「 現象 」と同じ「 現象 」であり、台風が消滅すればエネルギーに戻るように、現象である私も、死ぬことにより、私を産んでくれた「宇宙エネルギーの気(ki)」に戻るだろうと考えます。

 

 

C) 課題に対する私の解釈

 

この循環が、上述の2,4,5、の言葉の内容であり、1、の言葉はその経過を示すものと解釈しています。

ただ、もう一つの3、の言葉は、「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)の循環であると捉えて、西洋のエネルギー保存の法則や万物は流転するという思想で解釈してみました。

この3、は「 存在 」(真理)を、脳の産物である「 時間 」が混じった「 実体 」の観察を通して認識することが可能であるかについて疑問に思うので、「 第四章、実存主義から得たもの 」の中で「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと書きました。

これらの解釈の様子は、電子書籍で該当箇所をご覧ください。

また、3、の言葉は「 般若心経 」の一節ですが、テレビなどを視聴しますと、山岳信仰に現れる山伏が、山岳が持つ自然の霊力を身に付けるため日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破し、山伏修行をする際、霊山の中に設けられた祠で唱える経文が「 般若心経 」であることは、古代の山伏たちも、その経文が自分も含んだ自然エネルギーを対象にしていると考えていたのではないかと、私には思えます。

 

私の力はここまでであり、皆様の力による更なる進展を期待しています。

注) この記事は、「 付録 誕生から死後までの意識」の「 追記 」に掲載しました。

2018年2月 8日 (木)

書を捨てよ 自分で考えよう 3

書、即ち本を読むことは、趣味でも修行でも何でもない。
それは、あなたが、自分自身の可能性を高めることであると私は思う。
可能性は、自分で運動(知覚も含む)が可能な事の広がり(間(ma))であり、可能なことが自分の行動であれば、空間意識、達成までの日数であれば時間意識が、前者は右脳が後者は左脳が主体になって認識し、前者は「 無限 」を、後者は「 永遠 」をその極限として採用するだろう。
しかし、これは「 意識 」であり、人さまざまに違うであろう。
幼いとき、こうすれば危ないとか、死んでしまうなど人体の可能性を教わるでしょう。
私は、学問も同じ可能性だと思います。
この可能性を、無意識の能力にするのが、勉強であり、経験であると思う。
なぜか?
それは、「誕生から死後までの意識」で書いたように、万物は流転し、万物は「 色即是空 空即是色」で、日々是、変化し、一度たりとも同じことはなく、(なぜなら、地球が既に自転、公転し、その宇宙に占める場所が違うから)、認識する「 因果 」は人間の脳が考えることを超越して継続し、人はみな、自分の可能性の中でしか、「 因果 」を捉えることしかできず、従って、固定した因果は、「 知識 」や「 意識 」としての「 それ 」であり、実際の内容は「 形骸化 」し、あなたが、自分の頭で、自分の可能性で「因果関係 」を再構築しなければならない。
実存主義でいう「 企投 」や、人生はバクチだというのも、これを指しているのかも知れません。
現実は、親や教師が教えた通りに、進まないと思います。
Doctor Xなどというスーパー医師のドラマがありましたが、医者と自分を分けるものは、人体の可能性を、その人がどのように形成して、無意識に自分の可能性にしているかどうかによります。
それが「 能力 」です。
「能力 」は日々の研鑽を伴わないと、衰えてゆくでしょう。
その無意識になった「 可能性 」即ち「能力 」を伴わないと、評判を落とし、名前だけの職業になるでしょう。
町に出るのも結構ですが、「 丸裸 」ではバカにされます。
世間は、自分より賢いのです。
町に出て、何も出来ないならば、町に出ず、学び舎の中に閉じこもっていればよい。
自分の可能性や能力を、町に出て、世のため人のため生かすための勉強が、大学での学問でしょう。
資格を取って検事や弁護士や政治家になっても、頭は抜群によくても、「 今の政治家 」のように、行為が「 不倫 」や汚職であれば、頭は一流大学の賢い人は本当でしょうが、世間からみれば、ズル賢く、保身に走る利己主義者であるように見え、その結果、「 俺でもやれる 」と思うようになり、政治家がバカにされて信用を失うのも当然でしょう。

2018年1月26日 (金)

書を捨てよ 自分で考えよう 2

私が、なぜ「 書を捨てよ 自分で考えよう 」というのか?
書、つまり本を読むことは、「誕生から死後までの意識」」で書いたように、本に書かれているのは、その本の著者の可能性であり、死んだ可能性であり、その本で勉強するのは、その人の死んだ可能性を自分の可能性に生かすことであり、それが済んだら書、つまり本を捨てなさいということです。
なぜ捨てるのか?
それは、「誕生から死後までの意識」で書いたように、あなたが直面する現実は、万物は流転するから、状況はすでに変化してしまっていて、しかも本に書かれている「因果」は、その著者が捕らえた「因果関係」であり、その人だけの「因果関係」で、再びあなたが「因果関係」を捉えなおし、本に書かれている「物語」を変更しないと、現実には使えないと思うからです。
歴史書を読めばわかるように、著者に都合の良い所を取り出して「物語 」を書くために、事実から反したことがいっぱいあります。
そんな書、つまり本を、あなたは信じて、後生大事に保管するのですか?
子孫に残すことも必要でしょうが、事実に反した書を読んだ子孫は事実から目を離すかもしれません。
だから、「 書を捨てよ 」というのです。

「 自分で考えよう 」というのは、「 誕生から死後までの意識」で書いたように、人間は考える葦であり、自分で創造することが、「 自分が生きる 」ことなのです。

どのような本をコレクションとして持っている、とか、どのような大学を卒業したかなどは、お金持ちの証明であっても、人間としての人格を持ったという証明ではないことは、「 今の政治家の行為 」を見れば良く分かると思います。
高学歴の政治家の不倫や汚職のスキャンダルなど、その人の学歴と行為が如何に違うものかは、あなたも分かるでしょう。

 
同類ならば、分からないかも知れませんが。
 
 
 

2018年1月 1日 (月)

書を捨てよ、自分で考えよう

昔(1967年)、寺山修司が「 書を捨てよ、町へ出よう 」という評論集を志賀書店から出版しました。
現在、Amazonで、角川文庫からの出店ですが、Kindle版は375円、文庫本は555円だそうです。
私は読んだことも、映画をみることもしていないので、それがどういう意味なのかは分かりませんが、ネットによりますと、「 あまりに勉強しすぎると物事を固定的にしか見られなかったり、あるいは学んだ内容の中から答えを探す癖がついてしまいます。」とういうことらしいのです。
私は、「 誕生から死後の意識 」の中で書きましたように、「 今 」という地球の自転により直面する事態をどのように打開するか、その可能性(自分が出来ること)は何かを探して対処するしか、方法は無いと思います。
「 書 」とは何か?を考えると、それは先人が残した「 その人の可能性 」であり、その可能性をくみ取って「 私自身の可能性 」にしていなければ、「何冊、本を読んだ」とか「 趣味は読書 」とか「 家の書棚には5千冊の本がある 」といっても、「 は? それで、この事態にはどのように対処するのですか 」と聞かれたら、どう返答するでしょう。
「 書 」は「 知識 」であり、現実は本の当時と違うのですから、その意味で「死んだ可能性 」にすぎません。
「 死んだ可能性 」を「 自分の中に生きている可能性 」にすること、即ち、「 知識 」を「 知恵 」に変換していなくては、「 書 」を幾ら所有していても、「 お金持ち 」の範囲を出ません。
「 書を捨てて、考えよう 」というのは、自在に変化する存在に合わせて可能性を組み替えることであり、各自の「 独自性 」こそ、著作権に守られ、人類に貢献するものだと思います。
「 人間は考える葦」であり、権力の権化である、ユリウス・カエサルも「 学習より創造である。創造こそ生の本質なのだ 」と言っているように、「 自分の考えを貫き通す 」ことこそ必要ではないかと、私は思います。

2018年の年頭のあいさつ

新年あけましておめでとうございます。


私は、本年で69歳になり、趣味の一環として、ブログで日記をつけることにしました。
いつ病気になり、いつ神に召されるかわかりませんので、いつまで続くのかわかりません。
本当なら、昔の高僧のように、死期が近づいて来たのがわかると、土深く埋めてもらい、念仏を唱え続けるのが理想ですが、あいにく私には出来そうにありません。
ですから、作者不明で、このブログが残ってしまうかもしれませんが、できるだけ意識があるうちに閉鎖することを心がけます。
それまだ、皆様、どうかよろしくお願いします。

元旦

2015年1月25日 (日)

2015/1/24、徳川美術館の徳川園・冬の牡丹

天気が良かったので、徳川美術館の中にある徳川園に行きました。

そこでは、2月22日まで、冬の牡丹を展示していました。

牡丹は春に咲くと思っていましたが、ここでは手入れした冬に咲く牡丹を育てていました。

写真を撮りましたのでUPします。

徳川美術館 入口

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徳川園の池には鴨がいました。

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次は、冬の牡丹です。

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2010年3月25日 (木)

嘱託員になりました

私は、2010年3月31日、退職となりますが、嘱託員として採用される事になりました。

大変、ありがたいと思います。

私の過去の実績が、効を奏したとおもいます。

ヒトは、関係の中で生活しますが、今度の新しい職場を、楽しい職場にしたいと思います。

縁が合って一緒に生活するのですから、より良い縁にしなければ、つまりません。

地獄や極楽は、「 私自身 」が作ります。

作るなら、職場を「 極楽浄土 」にしたいと思います。

いろいろと大変でしょうが、このブログで発表したいと思います。

今日は、本当に幸運な日でした。

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