老人の話

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日記・コラム・つぶやき

2018年10月22日 (月)

愛子内親王は偏差値72

もう古い話だと思いますが、ユーチューブを見ていると、愛子内親王の学習院での成績は偏差値72はあるそうです。

詳しくは、ユーチューブかWebで確認してください。

私の世代は、団塊の世代と言われまして、小学校から大学、就職まで競争相手が多く、学校の成績には重きをおかず、よその学校と同時に実施される実力テストの成績を重視し、推薦で大学入学するなんてなことは思わずに、競争試験で勝ち残ることに勉学の意義を感じていました。

従いまして、将棋の藤井聡太さんが中学二年でプロ棋士になったニュースが出ても、将棋界の客寄せパンダとしてしか考えていませんでした。

ところが、NHKの放送で、プロ五段の千田さんを相手にして、勝機と見るや、それまで秘めたエネルギーを噴出させるごとく、一気に怒涛の攻めを開始した姿にプロの将棋士の姿を見て、初めて、これは天才だと思いました。

愛子内親王も、頭脳明晰だと聞いていますし、ユーチューブでも知りましたが、彼女が小学校時代と中学校時代に記した文章に接し、その年齢とは思われない知性の迸りを感じた私は、これが偏差値72の子かと感心させられました。

女房にこのことを話しますと、「あんたの考えはダメ。少子高齢の現代では推薦は当たり前。学校でも、一時の成績ではなく、長い期間をかけての評価を重んじるの。アンタのおかげで、ウチの子は辛い思いをしてたのよ。」といわれ、学習院での偏差値72は東京の御三家でもトップクラスだと知りました。

私の中では、学習院は貴族の学校だけだと思っていましたが、小中学校の評価は違うようです。

「 平和 」について記された文には、過去も未来も平和を願う気持ちと知性が、その文の中に感じられて、進学を東大か海外かと言われるのも、もっともだと思いました。

子の中に、母親の教えを見るのです。

子は親の鏡と、日本では昔から申します。

子は親の背中を見て育つのです。

動画によれば、使える公務員に「 平民 」と呼ぶような皇室の空気を読めずに悩む母と共に、自分も学校でのイヂメに悩みながら育った痕跡を少しも感じさせず、石の下から雑草が若い芽を伸ばすが如く、知性の芽を伸ばし、周囲に心配りをする知性を感じさせる文章でした。

彼女を女性天皇にと望む人もいますが、私はせっかく明晰な頭脳をお持ちですから、宮家が創設されるなら一番良いのですが、天皇陛下のもと、十分な留学や学校教育を受けられて、母親譲りの知性を磨いたあと、男性に天皇を託し、皇籍を離脱され、現在、問題になっている配偶者の収入に関係なく、自分に合う人なら、国内国外を問わず結婚され、どこかの大学の教授になれば、ネイムバリューだけで大学から報酬をもらえるだろうし、学生も記念になるから入学するという気まぐれもいるかも知れません。

藤井聡太さんは、将棋界から去っても、「 詰将棋 」の譜を作ることで、報酬が頂けるだろうし、愛子内親王は、学校に籍を置くだけで、報酬が出るかも知れません。

皇室に望まれて結婚された母が諦めるしかなかったキャリアウーマンの道を、生きて行けると思います。

もしも海外の王子にご縁があれば、それこそ、血がつながりあう皇室関係が出来ると思います。

私にも才能があれば、今のような生活はしないだろうと思うのです。



才能ある人が羨ましい。

2018年9月23日 (日)

子に対する親の責任

先日、ある有名女優(76)の次男(38)が、覚せい剤取締法(使用)の疑いで逮捕されました。
次男は、前回の逮捕から10年以上も経っての四度目の再犯だそうです。
これに対して女優さん(76)は、「 親としては、もう力及ばずの心境です 」とコメントしましたが、36歳にもなった息子の行為に親に責任があるのだろうかと思い、考えました。

民法では、未成年者には親権があり、子の養育の責任があり、離婚するときは、親権をどちらが行使するかを決めることになっています。
最近、躾(しつけ)と称して児童虐待する家庭が多くなっていますが、子供が未成年までは、自由な財産権行使ができませんので、それを補完するのが親の責任だと思うのですが、未成年まで生計を一にしている場合、やはり親が子の教育をすることになるでしょうから、未成年の子が社会の規律に反する行為をしたときには、親の責任が問われると思います。

被害に遭遇した東北のひとたちが、災害時に列を作り、順番に救助品を受け取ったり、あるいは、皆が協力して学校給食の支度をするのを見た外国人は驚くといいますが、その人たちは、自分の親から、日々、そのような行動をするように言われているから、したことであり、法律があるとか宗教があるということが、原因ではないと思うのです。

明治時代、外国の人に同じような質問をされた新渡戸稲造は、日本には武士道があるといったそうですが、その時の日本はまだ侍の思想が濃厚で、彼らの親の子に対する養育態度が武士道に沿っていたものと考えます。

現在、同じような質問を受けた場合は、何とお答えになるでしょうか?

私は、明治政府が否定した、日本に独特な「 神仏習合 」の考えがいまだに国民の根本にあると考えます。

明治政府は、愚かでした。

薩摩も長州も愚かで、戦後の日本の思想家も愚かでした。

私は、この「 神仏習合 」の考えこそ、日本が育んだ、素晴らしい思想だと思います。
それは、私の電子書籍の「 誕生から死後までの意識 」で書きましたが、災害のエネルギーは「 神 」なのです。

順番を作って救助を待つというのは、「 神の前では皆が平等だ 」、つまり災害の前には皆が平等だというに等しく、「 皆が平等だ 」というのは、多分、古来は仏教だったり戦後は、民主主義の思想ではないかと私は思います。
そういう考え、つまり、すべての物には神が宿る、言い換えれば、すべては神が化身したものだという古来の思想が、日本人の中にあるのではないかと思うのです。


日本人は、正月は神社に参拝したり、結婚式は教会で、死ぬ時はお寺さんから、僧侶を呼ぶのに、平気でクリスマスを祝ったり、ハロウインで仮装することに疑問を感じるでしょう。


それは、宗教を持っていないともいわれるかも知れませんが、生き死には「 神 」が担当し、生活様式は仏様をはじめとする宗教が担当すると、私は考えます。


「 神 」はエネルギーですから、自分の力の及ぶとこはなくただ従い、仕事や遊びの神が宿って、自分はそれに従うだけである。


それに反して「 宗教 」は選択するものであり、古来の日本では仏教も何を本尊にするかで、違う宗派があり、選択することができたのもその原因のひとつではないかと、私は思います。

先ほど、明治政府は愚かだというのは、彼らが戦争という人類の罪を犯そうとしたとき、「 仏 」であることを捨ててしまったために、人道を無視した国家に反対すべき仏教徒がいなく、罪だと思う民衆がいなかったから、彼らがいう「 神 」を信じて、「 死んで神となれ 」といって、特攻隊と称して民衆を殺したのです。

戦後の思想家が愚かであるのは、「 神仏習合 」など思いもせずに、戦前の「 神 」を否定したいがために、 「 神 」を否定するマルクス主義の唯物論に走ったり、象徴天皇を認めなかったり、特攻隊を軽くみたり、「 君が代 」を、本来とは意味が違う天皇賛美の国歌としたり、戦争で死んでいった人の屍(しかばね)の上に立った平和を、戦後のように軍隊を復活させ、戦争可能な日本にすることが、戦争で死んだ人への我らの責務というのは、まったくの「 お門違い 」で、死んだら神になることは、「 死んだら物理エネルギーになっ生まれ故郷のエネルギーに戻ること 」であり、靖国神社の桜になって、参拝を待っているのではないのです。

それなのに、総理も閣僚も、靖国神社の英霊を拝するというが、それは、戦前の「 神 」と同じ頭であり、戦前から脱却したいなら、「 神仏習合 」を身に着けるべきだと思います。

それは難しいことではないと思います。

死んだら神になりますが、生きているときは、「 仏 」のようの行動せよということで、仏教でもキリスト教でもなんでもいいから、「 人格完成 」を求めて、「 人道的に行為 」すればよいと思います。

話は、脱線していまいましたが、そんな親の考えが、子の行動に反映すると思いますから、これから先の日本人がどうなるかは、子を育てる親の考えしだいとなります。

さて、38歳になる息子ですが、それは、親御さんが言われる、「親としては力及ばずの心境です 」に同意します。

麻薬の使用が許されている国があると聞きますが、経験者によると、人が話してくれる生きがいが、自分にとっては、麻薬を吸うことだと考えてしまうらしいから、日本では禁止されていると思います。

カラダが麻薬を求めるというには、本来の生命エネルギーの中に麻薬の快感が無意識になって混入し、自分を動かすエネルギーになっているからでしょう。

それは、本能にストップをかけることと同じで、僧侶の修行にも似た厳しい鍛錬を必要とするでしょうし、「 麻薬依存 」や、これから設置されう「 カジノ 」より日本に発生すると思われる「 ギャンブル依存 」など、依存症に対する国家の姿勢が問われることになるでしょう。

中国資金の停滞のため、海外では倒産している「 カジノ 」を設置しようという自民党の考えも私にはわかりません。

生真面目な日本国民が、犠牲にならないことを、祈っています。 
 

2018年9月22日 (土)

電子書籍の勧め

先日、ブログにした記事は、当初こそWeb 上に搭載されましたが、今日になって調べると、どの検索エンジンでもヒットしません。

ま、ブログは落書帖みたいなもので、その時の思い付きを載せて書くだけですから、ブログは削除しないが、Web上から消えて欲しいと思うときもありますから、ヒットしないのも、それはそれでよしとしなければなりませんね。

自分の思考過程を後日の人にまで残したいと思ったら、紙ベースの本にするしかないので、自費出版をされるのでしょうが、実際に「 自分史 」を自費出版されたから、本を戴いたこともありますが、さぞ手間がかかって大変な費用だったろうと、お察しします。

拝見させてもらいますと、筆者の顔を思い浮かべながら見ないと、続行が不可能な内容でした。

もしも、ほかの人に見てもらいたいなら、まずブログにして、その後、その内容のそっくりを本や電子書籍にして残せるブログもあります。

紙ベースの本なら、費用がかかるでしょうが、電子書籍にすれば、無料で可能だと思います。

その際、ダウンロードされるたびにその料金を戴くという恰好で、自分で値段をつけて有料にすることもできます。

それは、規約をよくお読みください。


私の場合は、全部、無料にして電子書籍を発刊しています。

その理由は、私が書いた物を読んでくれる人がいるだろうか?ということと、私の年齢が69歳であり、この世に残る月日もすくないだろうし、もしも死んだら幸いにしてダウンロードした人がいて、料金が発生したとき、遺族がどのように手にするのか見当がつかないことと、それと、例えばキリスト教の聖書のように、もしも書かれていることが真実であるなら、廉価版であり、世界各国で翻訳されて、ベストセラーになるように、高い料金だから真実が書かれているとは限らず、真実なら無料でも世界と対峙できると思ったからでした。

大学教授や宗教家や作家のように、金稼ぎに出版するのではなく、自分の考えが後世まで通用するのかを目的としましたので、無料としました。

真実に値段などあってはならないと思ったからです。

これは後日、書きますが、布施であっても何でも、お金を要求する宗教は、ひとの道を説く宗教ではないとおもうからです。

それぞれに、道はあります。

その道を通るのに、通行料金が必要なのですか?

宗教に、お金持ちだけが通れる高額通学路があるのですか?

いくら払えば、真理が手に入るのですか?

そんなもん、宗教じゃあ、ありまっせん!!

私は、違う道を行く。


幸いにして、私が作った「 箱根旅行と富士山 」の電子書籍はWebでヒットしませんが、そこに搭載した私の写真は、Yahoo Japan の画像一覧に少しは残っているようです。

私の中の「富士山」は、わたしが写した「富士山」しかなく、ほかの写真をみても、横山大観のデフォルメした「富士山」にしか思われないし、その点で、横山大観は素晴らしいと思うのです。

その写真が残っているのをみると、まだ私が忘れ去られていないと慰めることができます。



私は、以上の観点から、ブログで満足されない人は、電子書籍を作ることにより、後世まで自分の考えを後世まで伝えることもできるのではないかと思って、お勧めするのです。

2018年9月20日 (木)

馬籠宿の思い出 (2014年の秋)

2014年の秋、中津川の馬籠宿に行ってきました。
今朝、テレビを見てますと、外国の人が多数、岐阜の中津川の馬籠から長野県の妻籠宿への中山道を歩かれるそうですが、出発点にあたる馬籠宿を、当時、私が当時写した写真を紹介します。
島崎藤村の記念館もありましたが、帰途のもみじが綺麗でした。
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2018年6月15日 (金)

藤井聡太七段、AI を超える

201865日、竜王戦第五組決勝で、藤井聡太七段は石田五段と対局しまして、96手で勝利しました。


その対局の終盤で、複数のAI(将棋ソフト)が悪手とする一手を選択しただけでなく、その後に相手陣に攻め込んで「76手目」に最強の駒である飛車を最弱の歩と交換するという形で、飛車を切り捨てるという、「 AI超えの一手 」を披露しました。


この「 飛車切り 」はAI(将棋ソフト)は事前に指示することはなく、飛車が逃げることを推奨していました。


ところが、この「 飛車切り 」は「 最善手 」でありしかも勝負を決定する「 一手 」でした。


それを、複数のAI(将棋ソフト)は「 見逃し 」ていて、藤井七段が指し終わって10秒ほど時間が過ぎたころそれが「 最善手である 」と「 反省 」したという動画がありました。


これは、後日、藤井七段がいったように、「 人間はその置かれた状況によって手を選ぶ 」のであり、AIは、敵の「 王将 」に迫る方法を多くの過去の棋士が「 人情 」も含めて残した棋譜のデーターを人間から入力され、あとはディープラーニングなどで発展させ、それを未来予想に使った結果であり、しかも哀しいことに、人間ではないため、そのデーターが人間の「 人情 」が混じったものか否かを哲学することが出来ない結果、「 見逃した 」と思います。


複数のAI(将棋ソフト)が「 悪手 」と認定したり、「 飛車切り 」を知らなかったのは、入力されたデーターには悪手や飛車は最強などという「 人情 」が既に含まれていたからだと思います。


コンピューターは人間ではなく、「 人情 」も無視し、時には非人間的な指示もしますが、今回は、そもそも入力されたデーターが「 人情 」を含んでいるため、人間的な判断をしたのでしょう。


それに、万物は流転するといわれる、「 置かれた状況 」によっては「 一歩千金 」という格言がありますように、最強といわれる飛車も最弱といわれる歩と同様の「 働き 」しかしない場合があったり、最弱の歩が王将を守る「 金 」と同様の働きをする場合もあるのであって、「 ここで飛車を捨てても勝てる 」という深い読みがあってこそ、「 飛車切り 」が出来るのであると思います。


AIは、入力された「 人情 」が混じったデーターで判断したため、その手が発見できなかったのかも知れません。

 


私の考えは、「 将棋は格闘技 」でも書きましたが、「 最善手 」は、「 人情 」が混じらない将棋の駒の自然事象の「 必然 」の流れに従って指すことであり、それは、推理や経験によらない直観により得られた道筋、いわば「 目的地への地図 」のような「 空間的意識 」であり、論理の積み重ねという時間意識の領域の外にあるものであり、それに従って指す手が「 最善手 」なのであると思います。


AI(将棋ソフト)は人間ではないので、時間意識は処理速度で縮めることが出来ても、人間ゆえに持っている「 空間意識 」(これは、同時に危険を察知する)は持っていないから、AIの最善手は論理上の一手であり、本当に未来を「 読む 」ことでなく、今までの棋士だったらこれが最善手だという確率に過ぎないのであると思います。


これで、藤井七段が、勝負への蓋然性より、もっと精度がよい直観に従って、竜王へ挑戦する闘いの場に登場したことになります。


これから誰に負けるか注目してゆきたいと思います。

 

2018年2月24日 (土)

「藤井聡太 新たなる伝説」の購入

2017年9月21日に株式会社・宝島が発行した「 藤井聡太 新たなる伝説 」を購入しました。
去年の9月発行ですので、購入した時期が遅く、「 男 」の写真集ですが、彼の活躍ぶりに堪らず、恥ずかしながら購入しました。
彼の写真とともに、インターネットテレビのabematy の番組編集の裏側の記事が面白かったです。
彼の笑顔は「 善人 」そのもののお顔のように思われ、おばちゃんたちが「 ガンバッテ~}と応援するのも無理はないと思います。
また、彼が見せるの他の多くの顔は、このブログのリンク集にある「 東海の龍 藤井聡太 」をクリックすれば見ることが出来ます。
 
「 藤井聡太 新たなる伝説 」
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2018年2月19日 (月)

2018年2月17日、藤井聡太、11回朝日杯優勝し、六段になる

おめでとう、藤井聡太さん。
何か書こうと思いましたが、Wikipedia が詳しいので止めます。
2018年2月17日、藤井聡太、11回朝日杯で優勝し、規定により六段になるとだけ書きます。
彼が住む瀬戸市や彼が通う杉本七段の道場や彼が飲食した街と私の住所は近いので、なんとなく親近感があります。
2月17日は土曜日でしたので、インターネットテレビ(abematv)で、始めから終わりまで観戦しました。
 
14歳2カ月でプロ棋士四段としてデビューし、15歳6カ月の公式戦で、同じ中学生プロ棋士になり天才と言われる羽生永世七冠を破り、中学生初の六段に昇段するなど、漫画でも描かれないほどの昇進で(漫画にするとウソになる)、天才と言われるのも当然です。
 
一年ほど前、非公式戦が終わったとき、国民栄誉賞を取られた羽生永世七冠が「 凄い人が現れた 」と言ったのも、このことを予知していたのかも知れません。
(藤井VS羽生は、非公式戦で1勝1敗)
 
 
「 歩はいつか金になり飛車はやがて龍になる 」
 
彼は「 歩 」ではなくて「 飛車 」であり、いまにも「 龍 」になりそうだということが、分かった日でした。
 
その日、名鉄新瀬戸駅で配られていた、地元、中日新聞の「 号外 」を手に入れましたので、披露します。
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横向きでごめんなさい。
上が表で、下が裏です。
………………………………………………………
 
 
 
藤井聡太 Wikipedia
        ↓
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤井聡太

2018年2月16日 (金)

書を捨てよ自分で考えよう 4 「誕生から死後までの意識」に於ける課題とそれに対する私の解釈

付録を書いてもまだ分からないという女性の意見に答えまして、私が電子書籍に於いて課題と考えたこと、及びそれに対する私の解釈を書きたいと思います。

 

A) 発刊した動機と課題と考えたこと

 

私をカラオケに誘って頂き、飲食を共にした守山区の小林という市民係長が、60歳の定年を迎える前に肺ガンの末期で退職され、自宅療養で亡くなりになった事をきっかけにして、私はブログ「 好き勝ってな老人の話 」を立ち上げ「 自分探し 」をはじめました。

同ブログは、平成291231日を以て廃止しましたが、その総括が「 誕生から死後までの意識 」あるいは「 付録 誕生から死後までの意識 」でありまして、これは亡くなった市民係長への追悼の小説であります。

 

「 自分探し 」をする中で、1、上杉謙信の「 死中生あり 生中生なし 」や、2、ゴーギャンの「 我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」とか3、般若心経の「 色即是空 空即是色 」や4、キリスト教の「 カエサルのものはカエサルに、神のものは神に 」とか、5、空海の「 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)」などという言葉に出会いまして、これらは、死に向かう人の言葉のように感じまして、これらを一連の言葉で解釈し直すことが、小林係長への供養になり、ひいては私の死への覚悟をさせてくれるのではないだろうかと考え、これを私の「 課題 」としました。

 

一連の物語にするために使った道具としての言葉は「 宇宙エネルギー 」と「 生命エネルギー 」と私の持論である「意識は電磁波の構造を持つ」という考えと、生気論の「 気(ki)」や西洋の思想である「万物は流転する」とか「 エネルギーは形を変えるが消滅はしない 」(エネルギー保存の法則)という考えでした。

 

それらを使い、上述の言葉を、とかく批判の対象となる日本の神仏習合(明治維新に伴う神仏判然令以前100年も日本に続いていた)のもとに一連の「 物語 」として構成しようとしたのが「 誕生から死後までの意識 」という電子書籍でして、これはあくまでも小説で、私の「好き勝ってな老人の話」というブログの総括、つまり「 自分探し 」の総括ですので、鼻で笑われても文句は言えないシロモノです。

 

B) 私の解釈

 

私の小説の中では、エネルギーと気(ki)は、同義です。

物語のあらすじは、生殖により、「 宇宙エネルギー(気(ki)) 」(自然エネルギーと同義)が生き物を生かす「 生命エネルギー(気(ki)) 」に「 形 」を変えて、生き物のDNAに応じて、電場が磁場を生むようにエネルギーが意識を派生させ、右脳から空間意識を左脳から時間意識を派生させて「 誕生 」し、その後、脳が自ら作った「 時間 」や「 空間 」という概念で、経験した衝撃(エネルギー)を出来事の「 因果関係 」という「情報」として保存し、深層意識に蓄積し、自分が今後生きるための、無意識で流れるものである「 能力 」とし、日々、流転する宇宙エネルギーの気(ki)に生命エネルギーの気(ki)を呼応させて、その気(ki)を意識層から無意識層に貫く時間軸である左脳と空間軸である右脳を通じて、これまで蓄積した、無意識で流れる自分の可能性である「 能力 」を呼び起こし、そして行動に至ると考えます。(意識は電磁波の構造を持つ)

 

 

肉体と意識との統合を「 霊 」と解釈します(人間が霊長類とよばれる)が、「 霊 」は人間が考えた概念であるという点で、「 意識 」であり、「 霊 」の目指す所は「 人格の完成 」であり、ブッダがその象徴でしょう。

「 仏 」がブッダで「 覚者 」や「 悟った者 」であると解釈しますと、悟ることは「 人格の完成 」と言えましょうが「 神 」(エネルギー)になったとは考えませんので、ブッダの思想である仏教には「 神 」になる教えは無いと考えます。

神風特別攻撃隊員を死地へ向かわせる際、その命を下す上司が「 死んで神になれ 」と言ったらしいですが、戦死すれば靖国神社の桜になるのではなく自分を産んでくれた故郷の自然エネルギーに戻ると私は思いますから、人間はすでに神の子とする私の本意ではないですが、「神」を自然エネルギーとするならば、その言葉は正しいということになります。

 

 

「 生命エネルギー 」から派生した「 意識 」は「文化」という違った形になり、生きている他者の可能性となりますが、「生命エネルギー」の終焉である死によって、意識と肉体からなる「 霊 」はその結合を解き、意識は文化として社会に残り、肉体は屍と「 宇宙エネルギー」(自然エネルギー)に分離し、前者は地球の土に、後者は地球を取り巻く「大気」に混じるだろうと思います。

私は「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)を「 神 」と解釈し、日本の宗教である神道の「八百万の神」を自然エネルギーであると解釈し、神(自然エネルギー)と人間とを取り結ぶ場所が「 神社 」であり、人間は等しく神の子として生まれ、生存中は人格の完成である「 仏 」を目指すべきと考えます。

このように、神仏が習合したもの、宇宙エネルギーと生命エネルギーが一体となったものが人間であると思います。

今の私は「宇宙エネルギーの気(ki)」の結晶に過ぎず、台風などの「 現象 」と同じ「 現象 」であり、台風が消滅すればエネルギーに戻るように、現象である私も、死ぬことにより、私を産んでくれた「宇宙エネルギーの気(ki)」に戻るだろうと考えます。

 

 

C) 課題に対する私の解釈

 

この循環が、上述の2,4,5、の言葉の内容であり、1、の言葉はその経過を示すものと解釈しています。

ただ、もう一つの3、の言葉は、「 宇宙エネルギー 」(自然エネルギー)の循環であると捉えて、西洋のエネルギー保存の法則や万物は流転するという思想で解釈してみました。

この3、は「 存在 」(真理)を、脳の産物である「 時間 」が混じった「 実体 」の観察を通して認識することが可能であるかについて疑問に思うので、「 第四章、実存主義から得たもの 」の中で「 真理 」は生きている内には分からないかといえば、分からないだろうと書きました。

これらの解釈の様子は、電子書籍で該当箇所をご覧ください。

また、3、の言葉は「 般若心経 」の一節ですが、テレビなどを視聴しますと、山岳信仰に現れる山伏が、山岳が持つ自然の霊力を身に付けるため日本各地の霊山と呼ばれる山々を踏破し、山伏修行をする際、霊山の中に設けられた祠で唱える経文が「 般若心経 」であることは、古代の山伏たちも、その経文が自分も含んだ自然エネルギーを対象にしていると考えていたのではないかと、私には思えます。

 

私の力はここまでであり、皆様の力による更なる進展を期待しています。

注) この記事は、「 付録 誕生から死後までの意識」の「 追記 」に掲載しました。

2018年2月 8日 (木)

書を捨てよ 自分で考えよう 3

書、即ち本を読むことは、趣味でも修行でも何でもない。
それは、あなたが、自分自身の可能性を高めることであると私は思う。
可能性は、自分で運動(知覚も含む)が可能な事の広がり(間(ma))であり、可能なことが自分の行動であれば、空間意識、達成までの日数であれば時間意識が、前者は右脳が後者は左脳が主体になって認識し、前者は「 無限 」を、後者は「 永遠 」をその極限として採用するだろう。
しかし、これは「 意識 」であり、人さまざまに違うであろう。
幼いとき、こうすれば危ないとか、死んでしまうなど人体の可能性を教わるでしょう。
私は、学問も同じ可能性だと思います。
この可能性を、無意識の能力にするのが、勉強であり、経験であると思う。
なぜか?
それは、「誕生から死後までの意識」で書いたように、万物は流転し、万物は「 色即是空 空即是色」で、日々是、変化し、一度たりとも同じことはなく、(なぜなら、地球が既に自転、公転し、その宇宙に占める場所が違うから)、認識する「 因果 」は人間の脳が考えることを超越して継続し、人はみな、自分の可能性の中でしか、「 因果 」を捉えることしかできず、従って、固定した因果は、「 知識 」や「 意識 」としての「 それ 」であり、実際の内容は「 形骸化 」し、あなたが、自分の頭で、自分の可能性で「因果関係 」を再構築しなければならない。
実存主義でいう「 企投 」や、人生はバクチだというのも、これを指しているのかも知れません。
現実は、親や教師が教えた通りに、進まないと思います。
Doctor Xなどというスーパー医師のドラマがありましたが、医者と自分を分けるものは、人体の可能性を、その人がどのように形成して、無意識に自分の可能性にしているかどうかによります。
それが「 能力 」です。
「能力 」は日々の研鑽を伴わないと、衰えてゆくでしょう。
その無意識になった「 可能性 」即ち「能力 」を伴わないと、評判を落とし、名前だけの職業になるでしょう。
町に出るのも結構ですが、「 丸裸 」ではバカにされます。
世間は、自分より賢いのです。
町に出て、何も出来ないならば、町に出ず、学び舎の中に閉じこもっていればよい。
自分の可能性や能力を、町に出て、世のため人のため生かすための勉強が、大学での学問でしょう。
資格を取って検事や弁護士や政治家になっても、頭は抜群によくても、「 今の政治家 」のように、行為が「 不倫 」や汚職であれば、頭は一流大学の賢い人は本当でしょうが、世間からみれば、ズル賢く、保身に走る利己主義者であるように見え、その結果、「 俺でもやれる 」と思うようになり、政治家がバカにされて信用を失うのも当然でしょう。

2018年1月26日 (金)

書を捨てよ 自分で考えよう 2

私が、なぜ「 書を捨てよ 自分で考えよう 」というのか?
書、つまり本を読むことは、「誕生から死後までの意識」」で書いたように、本に書かれているのは、その本の著者の可能性であり、死んだ可能性であり、その本で勉強するのは、その人の死んだ可能性を自分の可能性に生かすことであり、それが済んだら書、つまり本を捨てなさいということです。
なぜ捨てるのか?
それは、「誕生から死後までの意識」で書いたように、あなたが直面する現実は、万物は流転するから、状況はすでに変化してしまっていて、しかも本に書かれている「因果」は、その著者が捕らえた「因果関係」であり、その人だけの「因果関係」で、再びあなたが「因果関係」を捉えなおし、本に書かれている「物語」を変更しないと、現実には使えないと思うからです。
歴史書を読めばわかるように、著者に都合の良い所を取り出して「物語 」を書くために、事実から反したことがいっぱいあります。
そんな書、つまり本を、あなたは信じて、後生大事に保管するのですか?
子孫に残すことも必要でしょうが、事実に反した書を読んだ子孫は事実から目を離すかもしれません。
だから、「 書を捨てよ 」というのです。

「 自分で考えよう 」というのは、「 誕生から死後までの意識」で書いたように、人間は考える葦であり、自分で創造することが、「 自分が生きる 」ことなのです。

どのような本をコレクションとして持っている、とか、どのような大学を卒業したかなどは、お金持ちの証明であっても、人間としての人格を持ったという証明ではないことは、「 今の政治家の行為 」を見れば良く分かると思います。
高学歴の政治家の不倫や汚職のスキャンダルなど、その人の学歴と行為が如何に違うものかは、あなたも分かるでしょう。

 
同類ならば、分からないかも知れませんが。
 
 
 

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