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2019年6月23日 (日)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と神仏習合その1

これからは、全く私の妄想ともいうべき私論で、「 つぶやき 」ですから、無視されて結構です。

私は、「 一切皆空 」と「 色即是空 空即是色 」から、「 空 」を「 エネルギー 」と考え、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合が「 空なる我 」としまして、神も仏も私も自然物も同様の「 エネルギーの現象 」と捉えて、「 エネルギー(神)のもとでは、全てが平等である 」と考えました。

そこから、「 慈愛 」の思いが湧いてくると思うのですが、お釈迦様もその後の仏教徒も「 因果の法則 」は絶対で、それによって「 善因善果 、悪因悪果 」が生じ、生前の善因や悪果が死後にも影響を及ぼして、「 六道輪廻 」を繰り返すという主張には、どうしても納得出来ませんで、ここに私論を書くのです。

私は、「 一切皆空 」であれば、「 因果の法則 」も「 空 」であり、エネルギーの推移だと考えまして、お釈迦様の考えの「 因果の法則 」も「 縁起縁滅 」も思考上の産物、つまりお釈迦様の「 自我 」の内容であると思いまして、般若心経の「 一切顛倒 」に従いまして「 人が作ったものに頼らず涅槃に着こう 」と思いますなら、この「 自我 」に頼らないで考えたいと思います。

日本の仏教の一つである「 浄土真宗 」については、前述しましたように、私の「 空なる我 」と似たような考えで、「 空なる我 」が発生する根本を「 阿弥陀仏 」としているようですが、「 生命エネルギー 」と思われる無量寿如来が、因果の法則に結びつけられているのであれば、反対します。

「 因果の法則 」は仏教の基本概念で、E=MC²や「 エネルギー保存の法則 」と同じであるかも知れませんが、前者は、「 現象 」の後追いであって、「 現象 」には終わりのない「 原因 」や「 結果 」が続き、それが因果は絶対と考えることだろうが、それは例えば車が目的地に到着した後で解る速度(エネルギー)で、因果が行き着く所が不明であるため未来は不明であるのに対し、後者は、「 現象 」が生滅する過程を述べるもので、途中で車の速度(エネルギー)が解るが、「 空即是色 」のため、「 現象 」に現れた時点でエネルギーが解るので、結果が予想が出来るので死後の世界を予想するとき、前者ではなく後者によるべきだと思います。

生命エネルギーの根幹におわす「 阿弥陀仏 」の世界が「 浄土 」で、それが全ての生物が持つ世界を包摂するもの、つまり生物を産む世界で、生まれた生物には想像も出来ない所が「 地球 」という「 自然 」だとしたら、「 阿弥陀仏 」がおわす地球上のエネルギーの世界では、般若心経にいう「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」で自分の行為のエネルギーが「 悪果 」になろうが「 善果 」になろうが残り、生命エネルギーの根幹である「 阿弥陀仏 」を「 喪失させて悲しませるエネルギー 」になってか「 増幅させて喜ばせるエネルギー 」になるかで残ると思います。

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。


次回は、この「 習合 」について考えます。







(6月23日)

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