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2019年6月 5日 (水)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その4 解釈の帰結 ①

私が書きました『「 空なる我 」般若心経の解釈その1』から考えることを書きます。

前回のように解釈すれば、お釈迦様の「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」から離れることになって、お釈迦様の悟りに近づこうとする仏教からは見ると、方向を間違えた考えのように思われるでしょう。

「 一切皆空 」とか「 般若心経 」しか知らない素人の私ですから、上記の解釈は間違っているのだろうと思います。

Web で見ますと、私の考えは中観派に近いと思われ、その中観派以降に出た、唯識の考えのほうが、唯心論である仏教、つまりお釈迦様の考えに従っているので、その方向で考えるべきだと言われるでしょう。

しかし、これまで仏教の教育を受けていない私は、あえてその方向とは違った方向に進路を向けることによって、無学なりにPCの力を借りて、お釈迦様の境地をうかがう事を、ひとつの試みとして書いています。

私の考えでは、お釈迦様は「 因果 」の流れを重視して「 苦 」の発生から消滅までの過程とその実践の方向をお示しになっていて、自分の「 業 」が死後の方向を決めるから、「 善行 」を積んで「 善因善果 悪因悪果 」や「 自業自得 」などという人間が生きている内に為すべきことをしなさいという考えがあるのではないかと思います。

その「 因果 」を考えて死後の輪廻転生を考えておられたのかも知れません。


そのことは、世界中で賞賛され、お釈迦様の死後、大陸方向では唯識を中心とした「 北伝仏教 」、南方の「 南伝仏教 」に広がったのだと思いますが、その頃に「 般若心経 」が編纂されたので、お釈迦様の悟りへの道とは違うのかも知れません。

ですが、お釈迦様はお悟りになって輪廻転生から抜け出るために仏教を説かれたと思うのですが、私が僧侶ならば、その悟りを得た後の行為は、悟った内容を社会に還元するのが、布施を施す民衆の苦しみを抜いて楽にしてあげること、即ち「 慈悲 」の実践につながるべき行為をすることが、その役目だと思います。

一般大衆に「 慈悲の行為 」を求めるためには、大衆を「 慈悲を施す心構え 」、「 内容が慈悲に溢れた自我 」にしなければ、到底、「 慈悲 」など行うことは出来ないと思います。

お釈迦様の悟りに近づく事も大事ですが、悟った後の行為を実施してこそ、ブッダと言えるのではないでしょうか?

私は、お釈迦様の「 悟り 」へ近づくのは唯識だとしても、「 慈悲の心を抱かせる 」のは、龍樹の言う「 空 」から出発した方が早く、悟った人も、その後に、この「 空 」を体得された方が僧侶の道であると思います。


そういうならば、「 空 」を理解して「 慈悲 」の心が湧いてくるのかが問題で、私は、この事の解明を目指しているのです。

私は仏教の教えを学んでいないので、これから仏教典を読んで理解するなど、私の人生には時間が残されていないので、乏しい仏教の考えとPCに力を借りて、これから私の考えを書きます。



私の考え

「 一切皆空 」ですから、この世は「 空 」であることになり、神も仏もあなたも私も、この文章でさえ「 空 」であることになります。

この「 空 」を「 空っぽ 」とか「 無 」とか「 実体がない 」などと考えてしまうと、虚無主義や幻想世界などという、私の考える「 空 」からの帰結とは全く違った帰結になり、私は、到底、これと方向を同じくすることは出来ません。


私は「 空 」は「 エネルギー 」であるとしましたから、上記の帰結と同じになりません。


少し長くなりそうですから、詳しくは次回に書きます。








(6月5日)

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