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2019年6月 4日 (火)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その3 「般若心経」解釈の1

私は、「 一切皆空 」に従い、この世の一切は「 空 」であり、その「 空 」とは「 エネルギー 」であるとしていました。

「 神 」も「 仏 」も「  空 」ですし、前者が宇宙(自然)エネルギーであり、後者は生命エネルギーであるとし、自分も「 空 」としなければならないと思って、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、私の生命だけは保全しました。

これは、「 空 」について「 空っぽ 」や「 実体が無い 」と言いましても、私が見る前には「 実体が有ろうが無かろうが、自分の進路を邪魔するなにかは有る 」のであるから、自分を満足な理屈に落ち着かせるために「 龍樹 」の空についての文庫本を読んでも、素養となる仏教の知識もない私は、空しく響く「 空っぽ 」などの概念で自分を言い聞かせていました。

ですが、この際、仏教からまったく離れて、似たような内容と思われる考えを、「 色即是空 空即是色 」に当てはめたらどうだろうかという考えになり、ちょうど相対論の本を読んでいて似たような公式の「 E=MC² 」というアインシュタイン氏の考えで、「 色 」をM、「 空 」をEと当てはめて、物質Mの「 色 」はエネルギーEの「 空 」、であり、物質Mを分解しても素粒子の結びつくエネルギーEの差だけであり、その物質に固有の素粒子がないし、エネルギーEの「 空 」は、溶鉱炉の色で内部の熱エネルギーがわかったり、外部に現れた仕事の量であるジュールでしか分からないということから判断して、エネルギーは「 現象 」として現れるときに認識されると考えました。

前者が「 色即是空 」で、後者が「 空即是色 」と似たような結果になり、「 色 」を「 現象一般 」(現象とは本質が現れたものではなく、何か見えないものが認識可能な事象になったもの)で「 空 」を物質内部に働く「 エネルギー 」として考えてその認識不能なエネルギーが認識可能な物質という「 形 」になったのが「 空即是色 」であり、「 色即是空 」とは違った内容を主張しているのであって、単なる語呂合わせのための単語の並びではないとしました。

私の場合、「 空 」は「 エネルギー 」ですが、「 色 」を物質と決めてしまわずに、「 現象 」という言葉を使っています。


エネルギーは物体の内部と外部に絶えず「 流れていて 」、外部の条件(縁)次第で同じ素粒子でありながら違った「 形 」になり(例えば、水のように、構成する水素と酸素は同一のまま、氷→水→水蒸気→水と形を変えるように)その安定した「 形 」になった時、「 現象 」と呼ばれ、エネルギーの推移によって、「 万物は流転する 」し「 諸物無常 」であり、「 空 」は「 空っぽ 」ではなく、エネルギーが充満していても、常に一定の固定した物質(現象)がなく、エネルギーの推移が形から形の違いで判るから、それを見る私には「 物質変化 」として見ているのだろうと思います。

「 空 」はエネルギーであるから、エネルギー(空)が現象になっても、「 空 」は新たに生じたり滅したりすることはないし、エネルギーは「 垢つかず浄からず 」、「 増さず減らしたりすることはない 」(これは、エネルギーは形を変えても消滅しないというエネルギー保存の法則に一致する)と般若心経に書いてあります。

これで終わっても、般若心経の説明には十分と思っていましたが、もう少し、私の解釈を続けます。

前回の私の持論である「 意識は電磁波の構造を持つ 」では、母親の胎内に宿ることによって、宇宙(自然)エネルギー(気 ki)と生命エネルギー(気 ki)が区別できない状態で生命エネルギーのDNAに従って身体という「 霊体 」生命エネルギーの現象である「 霊体 」を作りあげ、同じく空間意識や直感を担当する右脳、時間意識や論理、言葉などを担当する左脳を作り(これらは、皆、生命エネルギーの現象)、様々な意識を派生させて、外部で経験した「 印象 」を、論理的に合理的に因果の関係という物語として、海馬に保管して無意識の能力という無意識(これまでの経過はすべて生命エネルギーの現象)にして蓄えて、次の場面に出逢った時の対処法とすると考えています。

しかし、それは否定すべき「 自我 」であると思っています。


般若心経で「 五蘊皆空 」というのを、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)の現象である」と考え、「 五蘊 」を生み出すのは「 空(エネルギー) 」であるから、「 空(エネルギー) 」を現象である「 五蘊 」では規定することは出来ないし、「 五蘊 」は「 空(エネルギー) 」からの「 現象 」であるから、それを区別したり限界を考える必要は無くて、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だと知れば、「 空(エネルギー)」である以上は、「 枠 」を作って閉じ込めることは出来ないくらい宇宙に広がるだろうから「 限界 」を考える」必要はないし、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」の現象であるという「 知 」以上得るものは何もない。


「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だということは、「 空(エネルギー)」の現象が「 五蘊 」ということであり、「 老死がある 」とか「 無明をなくそう 」といって特別になくそうとしても、「 五蘊 」を持って「 空(エネルギー)のひとつの現象 」として生きる以上は、「 苦 」や「 無明 」や「 老死 」は尽きることなく、ついて回るし、「 空(エネルギー)」がある限り、「 死んだら、生まれる 」という「 現象 」は、ついて回るものだと思えば、それらを恐怖することもなく、ひとが作った「 顛倒した夢想 」から離れて、悟りの世界である「 涅槃 」をもとめなさい。


私は、「 般若心経の解説(般若心経の話)・フルバージョン 」というユーチューブを拝聴しまして、それに私の「 空はエネルギーである 」という持論を交えて、以上のような解釈をしました。


そういう解釈をすれば、お釈迦様の十二縁起や四諦八正道を否定することになりますが、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」のひとつの現象と考えても、「 度一切苦厄 」の状態を得られるのではなかろうかと思います。

しかし、自分が生存している間の「 知 」が般若心経がいう最高の「 知 」であるとは限りませんから、これ以上の「 知 」はないと申しましても、「 苦 」を避ける「 知 」ではそれで良いのかも知れませんが、最高の「 知 」を求めるべきだろうと思います。


これは、私立の法学部卒業の仏教については、ほとんど無知である私の考えですので、間違いでしょうが「 空なる我 」というものを中心に据えた関係で書きました。


尚、般若心経の最後に書かれてある「 真言 」のことですが、動画では「 空を知るための呪文 」で「 それに導かれて空を知る 」ことらしいのですが、もう最近とは申せなくなったかも知れませんが、「 超弦理論 」というものがあって、物質を構成するものがひとつぶの粒子というより、微細な「 ひも状の素粒子 」であるとするのが理論上では妥当であると、仮に考えますと、「 弦 」である以上は「 音楽 」に共鳴するでしょうし、「 はじめに言葉ありき 」という有名な言葉がありますが、この真言と呼ばれる呪文の「 音の響き 」こそ宇宙から私たちの身体の隅々まで浸透することが出来て、宇宙で呼応するものかも知れないと思っています。







(6月4日)

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