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2019年6月 8日 (土)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その8 解釈の帰結 ③

これまで、私は、般若心経と「 一切皆空 」に従い、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて、「 神 」も「 仏 」も「 龍樹の教え 」も、すべてが「 空(エネルギー)」であると考えて、「 形あるもの 」は「 エネルギーの現象 」としまして、「 心や気持ち 」といった自然にたいする存在感を含む「 自我 」も現象として否定し、仏像など形あるものは、本来は枠で仕切ってはいけない「 空(エネルギー)」を閉じ込めたもので「 偶像 」であり、その中のエネルギーこそ忘れるべきでないとしました。

しかし、そのような考えは、お釈迦様の考える「 因果 」を重視して「 苦 」の発生源を探して「 滅する 」、その方法が「 八正道 」だというお釈迦様の教えで悟る仏教ではないという情報に突き当たりました。

なぜかと申しますと、般若心経に「 無苦集滅道 」と書いてあるからです。

Webを調べますと、私の考えは中観派によく似ていて、仏教を否定するもので、仏教というべき教えは、お釈迦様の考えで「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」の考えの延長である唯識派の流れの教えであるといいます。


それは、お釈迦様の「 苦 」を抜いて「 楽 」にしてあげようという慈悲の道であるかもしれないが、「 因果応報 」や「 自業自得 」という言葉があるように「 因果 」を重視して、現在に生きる自分の行為が悪行に満ちていれば「 悪因悪果 」、善行に満ちていれば「 善因善果 」というように、死後の世界は、その行為にお似合いの生き物に輪廻転生するだろうと教えることによって、善行を促す働きを教育することになるので、統治者も好んで仏教を国家の教育理念に採用したのでしょう。

確かに自分を見直し、「 苦 」を生む「 自我 」を「 無我 」にするのを実行すれば、より良き人生になるということはわかりますが、根本に因果を据えているため、因果が果てしなく続くのに合わせて、人間の生命ともいうべき「 無明 」が尽きることもなく、それから生まれる煩悩もそれに続く結果、人生は苦の連続で「 一切皆苦 」といい、その生前の悪行に合わせて、死後に残った霊魂は「 地獄 」に行ったり「 極楽 」に行ったり「 無明 」である様々な動物に輪廻転生することでしょう。

この齢になった私は、そうした善行を為した覚えもなく、むしろ悪行が勝っているようも思えますから、多分、「 地獄 」に行き煉獄の苦しみを体験するこになるでしょうし、止めてくれるものは何もないでしょう。

そこで、私は、若いころから知ってはいましたが、理解不能であった有名な言葉である「 色即是空 空即是色 」に、アインシュタイン氏が考案された、E=MC² という公式が似ている形をしていると思った私は、試しに「 空 」をE,{ 色 」をM、に置き換えてみるとWeb 上で説明されている事が理解できるので、これを取り入れて「 一切皆空 」という言葉もついでに取り入れ、「 神 」や「 仏 」も「 空 」で私も「 無我 」ではなく「 空 」として、「 空 」は「 エネルギー 」でありそれが宇宙を充満し物質を作り、「 私 」も私以外のすべての生き物も「 (神仏)エネルギーのひとつの現象である 」という考えに至りました。

そこで改めて般若心経を解釈しますと、お釈迦様の「 十二支縁起 」や「 四諦八正道 」を否定することになるというWeb情報で、私の思い付きは間違いだったと思いましたが「 無 」と「 不 」の作用を考えますと、「 空 」の中では前述の考えは発生しておらず、その発生源を示すもので、むしろ般若心経の全体が、現代科学を受け入れ得る容積を持ち、最後の書いてある「 真言 」というのが、「 超弦理論 」による「 ひも 」を共鳴させ、宇宙と自分の身体の構成物とを同調させるリズムのように考えられてきました。

その共鳴を通して「 神(エネルギー)」の引き寄せる力を知ることが、私の宗門である親鸞上人が言われた「 他力本願 」であり、「 五蘊 」という自分の力(エネルギー)によって神仏(エネルギー)を知ることではなく、つまり自力を捨てて生命を司るという「 阿弥陀仏 」の引かれるままの力(エネルギー)に連れられながら「 浄土 」である「 空 」を目指すべきではないのかと考えるようになりました。

これは、ユーチューブで紹介されている「 現代仏教塾の吉村均さん 」の考えに大きく影響された結果でした。

その動画での吉村均さんの考えによりますと、チベットの仏教では、お釈迦様はお亡くなりになります前から「 ひとの作ったもので浄土には行けない 」とおっしゃっていまして、社会で作った学問の限りを尽くしても「 浄土(空)」には到達することは出来ず、ただ単純に、自分が「 浄土に生まれたい 」と思うだけで「 浄土(空)」を体得できるとされ、「 他力 」というのは「 阿弥陀仏の引く力 」でありその力は阿弥陀仏が生命の花園である浄土に招きたいという願いによる力であるから、その力(エネルギー)に任せれば、無学の者でも浄土に行けることだと説明されていたと推察します(詳しくはユーチューブを見てください)。

ですから、人の考えた事は無論のこと、自分の考えによっても「 空 」を掴むことはできないことは、般若心経でも「 遠離一切顛倒夢想 」といって涅槃に向かうべしと書いてありますことからもウソではないと思われます。

ここまで書いて来まして、昔の「 汚れなき悪戯 」において、マルセリーノ少年が神の導きに素直に従った結果が、キリストを祭る十字架の前の死だったことと考えますと、理不尽とも思える神の導きに素直に従える自分なのか、「 浄土 」を目指すことは、マルセリーノ少年のように神(エネルギー・空)の引き寄せに素直に自分の五体である「 五蘊 」を捨てることが可能なのかが問われることになります。

私には到底出来ないことだと思いますが、私は死後は完全分解してエネルギー(気)になると思っていますが、そのエネルギー(気)が、生前に「 空なる我 」として習合してくれたエネルギーのうち、宇宙(自然)エネルギーであるなら自然の空気にようなエネルギーになるだろうし、生命エネルギーであるなら、生命エネルギーを司る阿弥陀仏の引きにより手元に戻り、また他の動物の無明な本能と一緒に結合した「 空なる我 」を形成するだろうし、阿弥陀仏にとっては、動物の生命と人間の生命に違いはないだろうから、馬や牛や猫や犬など種々の動物の生命になるでしょう。

いづれにしても、昔の教科書に書かれている「 極楽 」や「 天国 」や「 地獄 」やブピリチュアルの人たちが言う「 霊界 」には行かないだろうと思います。

だって、「 遠離一切顛倒夢想 」であり、「 ひとが作ったもので浄土に行けない 」からです。

ただ、ここで大きな問題があります。

「 浄土 」はどこにあるのか?です。

無論、仏教の教えは自分の考えが遠く及ばない所だと思いますが、「 世界は心だけによって成立している 」という唯識は唯心論である仏教の教えに近いものだと思いますが、それによると人間、馬、鳥、魚、ネコ、犬などすべての動物には動物の数だけ「 世界 」があるようですから、生命を司る阿弥陀仏がおわす「 浄土 」は、それら「 世界 」の全てを内包し、世界観を正当化させる所でしょうから、「 空(エネルギー)」の所在地であり、私たち生物一般を生み育て、そして死を迎え入れる所ですから、それは案外「 自然 」、や「 地球 」や「 太陽 」を含む宇宙なのかも知れません。

それは、誰でも死ねば分かるところで、誰もがいるところでしょうから、心配することはないと思います。






(6月8日)

6月9日、追記

ユーチューブで『 法話 杜子春が「 お母さん 」と呼んだとき 』を拝聴しますと、小説家の芥川龍之介が、仏による「 救い 」をどのように考えたかがわかると思います。

(浄土真宗の考えに近いと思われます)

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