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2019年6月

2019年6月30日 (日)

【 時事 】雅子さまの適応障害について

「 令和 」を迎えて、新天皇皇后陛下のご活躍がめざましい。

特に、雅子皇后の輝きは、最近の皇室外交において、天岩戸から顔を出した「 天照 」の神のように、持ち前の才能が光を放ち、今までの暗闇を明るい日々にと変えてくれました。

ユーチューブを拝見していますと、その才能の閃きとともに、車窓からの「 お手ふり 」やその笑顔と目の輝きは、まさしく高貴な仕草に見え、かっての「 適応障害 」などと名付けられた病気がウソのようにも思われます。

その当時の、皇室内での出来事をユーチューブで拝見しますと、かって、公務員だった私の同僚の事を思い出されます。

今はどうであるか知りませんが、当時の私たち、市民への第一線に立つ者としては、どんな市民であっても、役所に悪印象を与えないように「 気づかい 」、市民の監視の目もありますから、事を穏便に済ませながらも仕事の基準を守り、何事も起こらぬように行動し、「 全体の奉仕者 」として、日常生活にも注意したものです。

喧嘩したいときでも「 我慢 」し、借家であるため家賃の滞納は無論、借家を汚さぬように生活したものです。

当時、ある病気を患った同僚は、喧嘩に持ち込めば勝つのに、自分の欠点の所作のせいにして、生活リズムを乱し、大学卒のため高校卒が多い同僚から当然共有すべき「 危険人物 」の情報を教えて貰えなかったり、職場では「 本 」に書いてはいない「 抜け道 」を教えて貰えず「 本を読んだら分かるだろう 」と指導されたり、結果、危険人物から危険な目に遭い、ある病気に自分から進んでなって、入院し退職してゆきました。

このように、どこの職場にいっても「 いじめ 」はあって、何も愛子内親王への「 いじめ 」が特別ではなく、学校では当然存在し、しかも「 いじめた子 」が張本人であれば、素直なケースですが、実際は、「 いじめた子 」は単なる使者であり、その元締めたる張本人は、目立たないところに隠れているの場合もありますが、証拠がないためどうすることも出来ません。


その点で、エリートといわれる高学歴者が、裏に隠れてコソコソするのも頷くことも出来ますし、そんな張本人が、そんな人であるケースも多いため、私は「 手を汚さずに 」高給を手にするのではなく、労働運動もしました。


同僚の場合は、誰か見当はついていたと言いましたが、口に出せば、ますます孤立することに成りかねず、また言葉にされた相手も傷つくから、黙って自分の「 大学での無勉強 」ということにして、ノイローゼになったのではなかろうかと推察します。

ネットで、ある精神科医と思われる人が、雅子さまはお元気になられた今、過去の「 適用障害 」について語られたらどうかという記事を拝見しました。

これは、なるほど医者であれば、こんな見方をするのかと考えさせられました。


先ほど申しましたように「 口にすれば傷つく人もいる 」ということ、動画でも雅子さまが「 自分は病気でない 」旨のものがありましたように、病気でないが、今、自分の輝く才能を発揮したら、「 やけど 」して傷をついたり、周りの「 じめじめとした環境 」が自分だけはなく、自分を病気扱いにする人にとっても、お金を稼ぐ場所であると思ったら、躊躇するだろうし、口喧嘩で「 離婚 」までも匂わしただけに行動にすれば本当に「 離婚 」になり、愛子さまと引き別れることになると思うと、その「 じめじめとした事情 」を「 自分の適用能力に欠陥があるのだ 」として病名に甘んじて、一切の公務を拒否したい気持ちになるということが、この医者には、理解不能な頭脳しか持たないのだろうと思います。


雅子さまが、なぜ、そんな事になるかとは、こうして後から動画をみれば明らかですし、愛子内親王が、なぜ誰に「 いじめ 」を受けたのか、そして新聞社や週刊誌や放送というマスコミが、いかにそれを我々国民の眼を欺いて、バッシングをしたのか、ユーチューブで明らかになっていることです。


わざわざ、マスコミやネットなどの媒体を通して雅子皇后の口をわずらわすまでもなく、国民は全部、知っていて、そのうえで「 雅子さま、素晴らしい 」といっているのであり、そんなことが分からないで、よく医者が務まるものだ、まさか「 藪医者?」とでも疑わせる記事です。


事情を明らかにすれば、その人を傷つけることになり、令和が明るい時代にならないことを知りながら、自分のウサを晴らす雅子さまと思っているのでしょうか?


前回も申しましたが、皇族では決して経験されることがない「 いじめ 」を潜り抜けた、天皇陛下と皇后陛下と愛子内親王です。


「 適応障害 」というのが精神に関する病気でしたら、そんな病気の国民は大勢いますし、学校で「 いじめ 」に遭った人たちも大勢いますし、「 いじめ 」で自殺する小中学生の記事に触れられましたら、自分の事のように思われるでしょう。

上記のような障害を潜り抜けた天皇一族ですから、一族をもって、弱き者の心まで降り立ち、励ましてください。

今回の「 東京オリンピック 」と「 東京パラリンピック 」の開会の言葉を述べられる人が天皇陛下であることは、「 やおよろずの神 」もこのような人選になることを望んでおられたと思います。


世界の向けて「 慈愛 」の言葉が発されるように、心から願っています。






(6月30日)

69歳になって考えること 「 空 」の実践と言葉遊び

今日、ユーチューブで、「 中村 元ー空の思想 般若心経、金剛経の解説 」を拝聴しました。

私の持論である「 空 」={ E=MC² }と、大乗仏教の教えと思われる「 一切皆空 」の考えで、これを拝聴しますと、私の頭の程度では、般若心経については「 良く分かった 」をいう評価がつきますが、金剛経は読んでいませんので、金剛経は「 空 」の実践についての教えらしいですが、私は分かりません。

私の感覚では、「 色即是空 空即是色 」を先ほどのアインシュタイン氏による考察に乗っかって解釈しますと、これまで「 実体がない 」とか「 空っぽ 」とか「 仮の 」などに従いますと、「 どうして変化するのか?どんなことを変化として感じるのか 」といった疑問は、上記の考えに加えて「 エネルギー保存の原則 」を採用しまして、「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」という言葉を理解できました。

古代のインドの龍樹さんは、「 この考え 」に到達され、当時は何も当てはめられないから「 空 」とされたのでしょう。

それを後学の僧侶は、高僧ともいえど、{ E=MC² }は思いつきませんから、「 空っぽ 」とか「 仮の 」とか、不変のものではないことを説明したきたのでしょうが、私の目の前には、実際に私の行方を邪魔する「 モノ 」が存在しているのですから、それを「 仮のモノ 」だからそのうち変化するよ、なんて悠長に思えません。

だったら、いつ、どうして、どのように変化するんだ?と疑問が湧いても、それは「 縁起縁滅 」で条件しだいで変化するさ、と答えられて、その条件が整うまで待つしかなく、それが「 桃栗3年、柿8年 」とか「 鳴くまで待とうほととぎす 」などに現されるように「 時熟 」という観念になり、因果の法則があって、何事も時間が必要なんだから、しっかり基礎から勉強しなさいなどという考えが常識なのかも知れません。

私は、因果の法則は、生命エネルギーが生命を維持するための思想だと思いますから、「 一切皆空 」であれば、その「 空 」さえ理解すれば、「 凡夫 」でも、時間(左脳による作品)を超越して一気に「 仏 」になれるというのが「 仏性 」の教えでしょう。

まして、その「 空 」に至るには、般若心経によりますと「 一切顛倒夢想涅槃 」で、すべての学問や知識を投げ捨ててこそ、涅槃に達すると書いてあります。

私の考えですら、「 夢想 」ですし、その境地は「 真言 」という呪文でしか表せないというのは、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」と同様に、宇宙を構成する素粒子は「 ひも理論 」のように「 弦 」であれば、そうして口に出して音声によって、宇宙の原理に到達する手立てだと思えば、キリスト教の「 はじめに言葉ありき 」という真理への道に共通するのではなかろうかと思います。

現代の科学でも真理に到達していない学問や知識による「 空 」を獲得して、何が出来て、何をするのですか?科学万能主義ですか?虚無主義ですか?唯物論ですか?


現実は、フラットなもので、物が支配するとか心が支配するとか、ポジィブ思考をするとか、ヨガや座禅をするとか、人間の全ての行為を受け入れる世界で、虚無主義でも生きてゆけると思いますが、「 空 」を理解したら、どんな生活かを想像してみます。


学問上、「 空 」は、インドでは「 無 」や「 ゼロ 」と同じかも知れませんが、私の持論のように、「 無 」は「 無限 」と同じく数えきれない事と考えますと、「 無 」は人間に察知可能な「 現象 」として現れない「 エネルギーの世界 」であり、そこでは「 対消滅 」から免れた粒子が「 現象 」になる世界だとしたら、「 一切皆空 」であり、「 空 」から「 空 」へ戻る過程が「 仮の 」世界が人生であると考えられるし、根本の「 空=無明 」があってこそ、人間は「 自我 」を変化させることが出来ると思われます。

「 現象 」は他人から見える姿で、それを写すものが「 鏡 」という従来からの説明があります。


私から見れば、「 自我 」は「 空なる我 」が煩悩というエネルギーを引き寄せた「 現象(=認識可能な姿) 」で、生命エネルギーの現象ですので、社会の中で他人から見られた姿が「 自我 」でしょうから、「 空なる我 」が「 空 」であるゆえ、お釈迦様でもない他人から判断できるとは思えません。

そこで、「 鏡 」とは、宇宙(自然)エネルギーの「 現象 」ですから、「 空なる我 」の中の宇宙(自然)エネルギーを「 鏡 」として、それを私が知ると考えますと、生命エネルギー(煩悩)を見ることですから、今自分の行動が、どのような煩悩が働いているかを、宇宙(自然)エネルギー(=良心)に写して、清涼な心(自我)での行為かを判断し、他人の清涼な心(自我)の形成に奉仕できるかが、金剛経にいう「 布施 」なのではないだろうか?と思うのです。

自分の「 清涼な心 」が相手の「 清涼な心 」を引き出した行為になっていれば、「 布施 」に値し、自分も相手も幸福なるのではないでしょうか?

私は、今、女房に「 煙ったがれ 」ていますので、女房の心の中では、私への不満が渦を見ているでしょう。

そんな私が、こんなことを言える「 がら 」ではないのですが………。









(6月30日)

2019年6月27日 (木)

69歳になって考えること  「 空なる我 」から見た結婚

先日、南海キャンディーズの山里さんと、女優の蒼井優さんとの結婚会見をユーチューブで拝見しました。

山里さんは、吉本興行きっての「 モテない男 」ナンバー1で、一方の蒼井さんは、多くの男優との恋愛で有名な「 魔性の女 」と呼ばれていました。

蒼井さんは、福岡出身で私と同県出身で、そんなに美人とは思えませんが、動画で拝見しますと、なにか正直で素直な印象を受けました。

それで、多くのイケメン男優との恋愛話も多いのかと思いますが、イケメン男優より「 モテない男 」をなぜ選んだのかは、動画を見ればわかりますので、省略します。

私は「 空なる我 」を中心に、煩悩を引き寄せたものを 自我 」としますので、彼女は、自分と同じものを気にする人(それが価値観と思うのですが)を選んだのだと思います。

「 空なる我 」でありますから、将来は悲惨な結果を招く「 自我 」を形成して、二人が離婚する場合もあると思いますが、これは生命エネルギーが持つ本能が支配しますから、理性では止められないでしょう。

ですが、これは、二人に限らず、私もあなたも、そうなる縁(条件)は持っているのですから、これだけで結婚を躊躇うことはないでしょう。

やはり、結婚相手を見るときは、「 色即是空 空即是色 」で見るべきで、すべて「 無常 」でありますから、「 自我 」である姿形は物理的にも心理的にも「 移ろいやすいもの 」で、エネルギーの推移によっては、「 苦 」の度合いにより、その変貌のスピードは速まるかも知れません。

ですから、これらで、人を判断するのではなく、「 引き寄せるエネルギー 」、つまり、いかなる「 空なる我 」が、その肉の中に存在するか?で判断するのですが、「 空即是色 」でして中心に秘めているエネルギーは、必ず「 現象 」として現れるものです。

一緒に生活してて、絶えず笑わしてくれるとか、出すぎを注意してくれるなど、地球が太陽に引っ張られるように、互いに補完しあう関係がベストなのでしょう。

豊かな暮らしをしていても、貧しい心の持ち主がいるとお聞きします。

「 現象 」は「 エネルギー 」で、「 エネルギー 」は「 現象 」を通して認識されると思って、金銭や車や家などに目を囚われずに、「 本心から私のことを思ってくれているのか? 」を問うたほうが良いと思います。

最近、噂になっている高貴な人の「 納采の儀 」が行えない人たちのように、慌てて、婚約報告をした後、経済的、あるいは「 空なる我 」の反省から、取り消すことになって、「 恥じ 」をかかないように。

これが、本当の「 恥じ 」であるかもしれません。











(6月27日)

2019年6月26日 (水)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と浄土真宗その2

前回によって、私の「 空なる我 」と死後にお墓に入る浄土真宗とは、親鸞によれば、ほぼ同じなのかなあ?と思います。

「 空なる我 」の宇宙(自然)エネルギー(神)は、「 不可思議光 」で、生命エネルギー(仏)は「 無量寿如来 」と思われ、それが合一したのが「 阿弥陀仏 」と思われるからです。

しかし、鎌倉時代と今の治安や暮らしぶりの違いから、「 浄土 」を「 極楽 」や「 地獄 」がある思考を超えた世界で、厭離欣求という言葉もありますように、現実よりもっと優れた「 極楽浄土 」に生まれ変わりたいと一心に思って、「 南無阿弥陀仏 」と念仏に答えて、阿弥陀仏の力にすがれば、阿弥陀仏がおわす「 極楽 」に生まれると説いたように、私は解釈しています。

浄土真宗では般若心経は唱えませんが、般若心経の「 空 」による救済を説いた大乗仏教の一種でなければなりませんが、それが、「 不可思議光 」と「 無量寿如来 」が一体となった「 阿弥陀仏 」を信仰することにつながるのだと思いますが、「 空 」という言葉を聞きません。

「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱える事は頷くことが出来ますが、それは、密教の「 真言 」と同じく、宇宙と同期する為の音楽や響きであって、単に阿弥陀仏の救いを求めるという説明で、現代の信者を満足させることが出来るでしょうか?

お経を一字一句、守ることは、お釈迦様が「 無私 」とした救いへの姿勢を無くした姿であり、お経はお経であり、書物による悟りなどなく、まして、「 慈悲 」が生まれることもないと思います。

もしも、常日頃、阿弥陀仏に感謝して生きるというなら、阿弥陀仏は「 空なる我 」と同じく「 空 」そのものだと思いますから、自分の生命に感謝して先祖供養も良い事かも知れませんが、「 阿弥陀仏 」が「 現象 」として現れるような「 慈悲 」の行為をするのが、プロの僧侶が為すべき責務なのではないでしょうか。

また「 極楽浄土 」などは考えずに、前回、私が書きましたように、「 空 」である「 阿弥陀仏 」が常住されるところは、生命エネルギーを生物の種類を問わずお与える場所でしょうから、「 極楽 」とか「 地獄 」とか苦楽を味わう場所ではなく、一兵卒として各種生物の命として特攻する場所であり、そこは各種生物の世界は「 現象 」として現れないエネルギーの世界(その意味では無ですが)であり、あるとすれば地球上にしか考えれず、この世に絶望して死ぬのならその続きになる運命に生まれ変わるかもし知れません。

あこがれで「 浄土 」にゆくべきではなく、しっかりとこの世で「 生老病死 」の苦しみを味わったあとでしか「 幸せな結果 」にならないかも知れません。

こんな、信者の迷いを導けない説明をしているから、間違った考えの宗教学者や評論家が現れ、人倫にも反する行為をする仏教を名乗る集団を批判も出来ないのではなかろうかという疑問も出てきます。

私は、ユーチューブのおかげで、多くの書籍を読むこともなく、ここまで「 お前は、何様だ 」といわれるくらいの知識を得ましたが、法話も色々あって、私の心に響くものしか拝聴していませんので、きっと偏見だと思いますが、お釈迦様も「 無我 」を「 空なる我 」にしたり、因果の法則による輪廻転生に反対するなど、なにかお釈迦様の方向から遠ざかっているような気もします。

昔、孫悟空が到達点を記した柱が如来の指だったという話は知っていますが、これまで「 慈悲 」なんて思ってもいなかった私が、「 空なる我 」を考えることによって「 色即是空 空即是色 」をアインシュタイン氏の{ E=MC² }と置き換える考えになり、「 人は自然物と同様、エネルギーの現象だ 」と思うようになり、同じ「 現象 」である他人も、自分と同じように考えなくてはと思ったとき、東日本大震災で「 無常 」を説いて希望を与える僧侶の心持がわかった事を記さずにはおられなせん。

「 阿弥陀仏 」を「 空 」とは考えなかったのは、親鸞はアインシュタイン氏の{ E=MC² }を知らず、たぶん「 空 」を「 エネルギー 」と想定しなかった為に、「 阿弥陀仏 」の構成が簡単にならず、「 正信偈 」や「 歎異抄 」を書いて説明したのだと思います。

ですから、「 歎異抄 」について様々な書籍がありますが、「 空なる我 」からは遠い考えですので、読みません。

前回、書き忘れたのですが、「 五感(五蘊)を失っていくこと 」は、神仏エネルギーの衰退によって、労せずして「 空なる我 」に戻ることが出来ることで、自然に戻ることだと思います。

ちょうど、水面の泡が弾け散るだけで、水の構造は失わず、水を構成するエネルギー(神)は消滅しないように、自然のエネルギー(神)の中に眠ることになると思います。

その意味では、昔、特攻隊員に「 死んで神となれ 」と励ました上官が言ったことと同じ結果になろうかと思いますが、私の考えでは、皆さんも、いづれ「 神 」になると思います。

もっとも「 神 」はエネルギーなのですが………。







(6月26日)

2019年6月25日 (火)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」の進路

以上、書いて来ましたら、日本の従来の宗派と同じように思われてしまいますので、69歳、これから避ける事が出来ない「 死 」への進路を進むにあたって、心がけたい事を書くことによって、私の孤立妄想である考えの進展を披露したいと思います。

私は、「 一切皆空 」と般若心経の「 空 」を「 エネルギー 」と考えて、神仏習合を計り、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて中心となし、「 自我 」は神仏エネルギーのひとつの「 現象 」であり、それは、自然現象と同じようにエネルギーの推移により絶えず変化するものであると考えました。

この私が使います「 現象 」という言葉は、この言葉自体がそれですが、五感で知れないエネルギーが五感で認識できる「 モノ 」になったこと、五感で知れる事象となったことを意味していまして、「 仮の姿 」とか「 仮定された事象 」など、「 本質 」に対する言葉ではなくて、「 本質 」である「 エネルギー 」が認識可能な姿形をしたもの、「 現象 」そのものが「 エネルギーという本質 」であって、「 エネルギーである本質 」は「 現象 」として認識可能になることでしか、人間に知らしめる事が出来ないものだと考えています(空即是色){ E=MC² }。

「 浄土 」ですが、それは一部を除いた従来仏教とは違い、例えば宇治の平等院などに示される、実際に認識不能な場所、あるいは遠いかなたにあって死後しか分からないといった、現実に認識可能と考える場所や世界を包摂し、その認識器官という「 現象 」を創り出す以前で、全く認識不能な世界が、「 浄土 」という全生命を司る「 阿弥陀仏 」のおわす世界であって、それが西方数千里にあるのか死後のあるなどという考えの及ばぬ世界であるが、それは、実際に「 存在 」するというのが私の考えです。

そこは何処か?と問われれば、全生物の認識する力を産み出す世界で、全ての世界観を受容し否定する地球という「 自然 」であることになります。

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。








 

(6月25日) 

 

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2019年6月24日 (月)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と神仏習合その2

「 習合 」という言葉の意味は、幾つかの教義を折衷したものとの事です。

教義は宗教などの教えや主張であり、折衷は、そんな教義を繋ぎ合わせて妥協させることでしょうし、主義や主張が一貫しないことを「 習合 」と呼ぶのでしょう。

「 空なる我 」の中の「 神 」と「 仏 」は、「 その1 」で書きましたし、「 神仏習合と私 」という電子書籍のなかで歴史的な神仏習合について触れています。

私の場合は、「 神 」という主張と「 仏 」という主張が、「 空 」を通して「 仏 」に活力を与えるように折衷していることになります。

それは、私の死後を弔う約束の宗派の考えを参考にしますなら、「 一切皆空 」に従って「 空 」を「 エネルギー 」と捉えて、宇宙(自然)エネルギーが「 神 」で生命エネルギーが「 仏 」であり、それらは「 阿弥陀仏 」のもとに、前者が「 不可思議光 」、後者が「 無量寿如来 」として一体になっている状態であると思います。

それが、眼に見える「 現象 」としては、生命エネルギー(仏)は生命維持のために、「 呼吸 」という「 現象 」で、生命エネルギーの中には存在しない宇宙(自然)エネルギー(神)である空気(kuuki)を取り入れなければならず、それが肺の中で、体内を循環する血液を浄化し、浄化し終えた空気を排出しなければならないという点で、上記のことを説明できると思います。


これらは、(A)私に害を加えるものでなく、私の考えの都合が良いように「 神仏 」を取り入れたもので、「 空なる我 」に於いては、「 色即是空 空即是色 」に従って、眼に見える「 現象 」としては、宇宙(自然)エネルギーの「 神 」は「 無常 」として現れ、生命エネルギーの「 仏 」は、お釈迦様のような人格保持を目的とし、「 慈悲 」を為すことに現れると思います。


私が「 即身成仏 」となった高僧だと感じますのは、厳しい修行でミイラ状態になった人ではなく、「 空 」を悟ったら直ちに「 慈愛 」をもって「 無常 」の中に生きる希望を与える人です。


それに対して、(B)私に害となる「 神仏 」は「 空なる我 」の妨げになるエネルギーであり、「 神 」としてのエネルギーは、天災のように「 無情 」と思われる「 現象 」として現れ、「 仏 」としてのエネルギーは、円満な人格形成を妨げる「 煩悩 」という「 現象 」になって現れ、エネルギーの推移によって、(A)と(B)が繰り返す連続が、私の人生であると思います。

私は、水がH₂Oという結びつきをして、或る時は液体になり、また或る時は気体になり、また或る時は固体になるなど、「 現象 」は変わって、「 浄土 」たる地球を循環することを望んでいまして、その水を地球の大気圏外に放出されるのを嫌っていますので、「 悟って 」純粋な物理エネルギーになって地球の循環からはずれることを望みません。

ですから、お釈迦様をはじめとするブッダが恐れる「 無明 」に引き戻されることにも厭いはないので、「 神仏習合 」で主義、主張が一貫しない、中途半端な「 空なる我 」を守り、水は光とは違うので、水が光の構造になることを望むのではなく、水は水として、人の飲食に役立つように、濁らず、危険な物質を含むことなく、清らかな流れの中に包摂されたままで死を迎えようと思います。







(6月24日)

2019年6月23日 (日)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と神仏習合その1

これからは、全く私の妄想ともいうべき私論で、「 つぶやき 」ですから、無視されて結構です。

私は、「 一切皆空 」と「 色即是空 空即是色 」から、「 空 」を「 エネルギー 」と考え、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合が「 空なる我 」としまして、神も仏も私も自然物も同様の「 エネルギーの現象 」と捉えて、「 エネルギー(神)のもとでは、全てが平等である 」と考えました。

そこから、「 慈愛 」の思いが湧いてくると思うのですが、お釈迦様もその後の仏教徒も「 因果の法則 」は絶対で、それによって「 善因善果 、悪因悪果 」が生じ、生前の善因や悪果が死後にも影響を及ぼして、「 六道輪廻 」を繰り返すという主張には、どうしても納得出来ませんで、ここに私論を書くのです。

私は、「 一切皆空 」であれば、「 因果の法則 」も「 空 」であり、エネルギーの推移だと考えまして、お釈迦様の考えの「 因果の法則 」も「 縁起縁滅 」も思考上の産物、つまりお釈迦様の「 自我 」の内容であると思いまして、般若心経の「 一切顛倒 」に従いまして「 人が作ったものに頼らず涅槃に着こう 」と思いますなら、この「 自我 」に頼らないで考えたいと思います。

日本の仏教の一つである「 浄土真宗 」については、前述しましたように、私の「 空なる我 」と似たような考えで、「 空なる我 」が発生する根本を「 阿弥陀仏 」としているようですが、「 生命エネルギー 」と思われる無量寿如来が、因果の法則に結びつけられているのであれば、反対します。

「 因果の法則 」は仏教の基本概念で、E=MC²や「 エネルギー保存の法則 」と同じであるかも知れませんが、前者は、「 現象 」の後追いであって、「 現象 」には終わりのない「 原因 」や「 結果 」が続き、それが因果は絶対と考えることだろうが、それは例えば車が目的地に到着した後で解る速度(エネルギー)で、因果が行き着く所が不明であるため未来は不明であるのに対し、後者は、「 現象 」が生滅する過程を述べるもので、途中で車の速度(エネルギー)が解るが、「 空即是色 」のため、「 現象 」に現れた時点でエネルギーが解るので、結果が予想が出来るので死後の世界を予想するとき、前者ではなく後者によるべきだと思います。

生命エネルギーの根幹におわす「 阿弥陀仏 」の世界が「 浄土 」で、それが全ての生物が持つ世界を包摂するもの、つまり生物を産む世界で、生まれた生物には想像も出来ない所が「 地球 」という「 自然 」だとしたら、「 阿弥陀仏 」がおわす地球上のエネルギーの世界では、般若心経にいう「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」で自分の行為のエネルギーが「 悪果 」になろうが「 善果 」になろうが残り、生命エネルギーの根幹である「 阿弥陀仏 」を「 喪失させて悲しませるエネルギー 」になってか「 増幅させて喜ばせるエネルギー 」になるかで残ると思います。

昔から、キリスト教では全知全能の神(エネルギー)であるゼウスを男性(父)とし、大地や海を生命(エネルギー)を産み育む女性(母)としますから、この世にどうして雌雄の区別があるのか分かりませんが、大地や海(母)を汚すことが、生命エネルギーを喪失させる「 悪因 」たる行為エネルギーで、大地や海(母)を大切にするのが「 善因 」たる行為エネルギーでしょう。

自分の死後にこれらのエネルギーは残り、「 悪因 」は子孫を悲しませることになり、「 善因 」は子孫を喜ばすエネルギーになりますから、死後に「 浄土 」たる地球に戻った私は、自分の「 悪因 」で悲しみ、自分の「 善因 」で喜ぶことになり、「 善因善果、悪因悪果 」という因果の法則があるとすれば、自分の悪因のエネルギーは自分を悲しませる悪果となり、自分の善因のエネルギーは死後の自分を喜ばせる善果となり、前者が「 地獄 」で後者が「 極楽 」で、「 善因(悪因)を為すこと 」は「 自分を極楽(地獄)にする 」ことになります。

しかし、そんな因果の法則が無いとするなら、行為エネルギーは消滅しませんから、「 浄土 」たる地球上に、「 阿弥陀仏 」は「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」の原則のもと、生物の区別なく生命を発生させますから、誕生という「 現象 」となって現れる地球が、「 極楽 」であっても「 地獄 」であっても、全ての生物がそこに「 現象 」となって現れますから、その行為のエネルギーが全生物の生命に影響することになります。

因果法則があれば、自分で自分を苦しめたり楽にしたりするし、因果法則が無ければ、自分の行為が他の生物の生命に影響を及ぼすエネルギーになり、それは自分の行為ではなく、人類全体に対する行為になります。

私は、よくわかりませんが、自分の行為のエネルギーや他人の行為のエネルギーの区別を問わず、人類に対するエネルギーであると考えてこそ、他人の行為は自分の行為、他人の悲しみを自分の悲しみに変えられ、「 慈悲 」の行為も可能だと思います。

つまり、「 因果 」だけを考えていると、自分の救済は出来るが、他人には忠告ほどの意味しかなく、他人の行為を自分の行為として、助けることが出来るかについては、疑問に思うからです。

私は、生命を象徴するDNAが、人工的にも創られて、化合物であるとWebで知りましたので、この輪廻して繰り返しながら永遠の生命を保つ(無量寿如来)ことは、生命エネルギー(阿弥陀仏)によるもので、そのエネルギーには本能ともいうべき「 無明 」のエネルギーが含まれていて、生きている限りは「 無無明尽 」で、「 無苦集滅道 」であり、生物の種の保存本能がある限り「 輪廻 」は続くが、その「 輪廻 」に、人間だけが持つ「 善因善果 悪因悪果 」という因果関係を含ませるべきではないと思います。

輪廻自体は生物である限り、種族保存の本能が働いて、種が果てるまで永遠に続くと思いますが、その因果関係は、頭脳を持つ人類だけに共通する社会規範たる道徳のようなもので、E=MC²のように、生物すべてに該当するとは思えないのです。

エネルギーが現象となって現れ、その現象の縁起や縁滅を知る(因果関係の把握)は、宇宙(自然)エネルギーを生命エネルギーの現象(思考)に取り込んだだけで、必ずしも、エネルギーそのものの推移を把握したのではないと思います。

「 一切皆空 」ですから、その因果関係の把握も「 空 」ですが、「 空 」とは「 エネルギー 」ですから、その思考した法則も生命エネルギーの「 現象 」であると思いますから、その「 現象 」は「 現象 」であって、「 空 」たる「 エネルギー 」を完全に把握したものでない(無常だから)と、思うのです。

ちょうど、人間の死後の霊魂が身体から抜け出てゆくのが分からないように。


命は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合であって、一方から一方を作ることが出来ないからこそ、「 習合 」したのであり、両方が相まって生命を生じさせると思うからです。


次回は、この「 習合 」について考えます。







(6月23日)

2019年6月22日 (土)

将棋: 藤井聡太七段、矢倉戦法で69期王将戦一次予選を突破

2019年6月22日、藤井聡太七段(16)と千田翔太七段(25)が一次予選の決勝戦で対戦しました。

千田七段は、第12回朝日杯のベスト4にも残る棋力を持つ実力者で、どのような戦いになるのか興味が湧く一戦でした。

私は、今日、動画で棋譜を拝見したあとの感想ですので、詳しい内容はユーチューブかWebで「 藤井聡太 矢倉 」で検索してください。

その動画によりますと、藤井七段は先手番で「 矢倉戦法 」を選びました。

その時は、「 ええっ、矢倉なの! 」と驚きながら見ていましたが、やがてクラッシックな相矢倉定跡になり、千田七段が研究されていたのか「 片矢倉 」になり、わずかに王様の囲いを緩めました。

しかし、藤井七段は、その手薄になった王様の囲いを「 端 」から攻めて、相手の王様の居場所を変えさせました。

自分は、しっかり王様を囲んで守りながら優勢を保っていましたが、千田七段の「 飛車 」の打ち込みに対して、素人の私なら手がブルブルと震える場面ですが、藤井七段は、その変化を読み切って、千田七段の王様を「 詰ませ 」にかかり、91手で以て、千田七段の投了(=負け)にしました。

この記事を書く前に、Webで調べたのですが、藤井七段は「 先手の矢倉戦法 」の場合、先手番が少し得をすると語っておられまして、それを実行されたのかなと思います。

この戦法は、昔から指されているクラッシックな戦法で、PCを使った学習では克服された戦法で、PCが得意の千田七段には容易に打破するものと思っていましたが、同じPC世代の藤井七段があえてこの戦法で挑んで来たのは、相当の研究を積んでいたに相違ありません。

彼は、中学2年生でのプロデビュー(四段)の相手である、歴戦錬磨の加藤一二三九段を「 矢倉戦法 」で破り、加藤九段に「 矢倉でタイトルを取れる 」といわしめた棋士ですので、この結果も当然といえば当然です。

藤井七段は、これまで先手番では「 角換わり 」の最新版は指しましたが、それ以外は「 飛車先の歩 」というのが常でした。

それが、先手番で古式ゆかしき「 矢倉戦法 」を採用したことを「 マンネリ 」を防ぐためとか言う解説もありましたが、「 空即是色 」で、「 現象の変化 」の裏にはエネルギーが動き出したと、私は解釈しています。

これは、空想(妄想)なのですが、いままで「 飛車先の歩 」で自分を研究され尽くさせておいて、古来からのまったくの王道である「 矢倉 」で攻めに転じたり、前回は、後手番で苦手としていた菅井七段を破ったことで相手の研究結果に追いつき勝ったことでもわかるように、彼の内部のエネルギーが、「 耐えること 」から「 噴出すること 」に変わったような気がして、これから進むタイトルホールダーへの戦いに、これまでとは違った期待を、私にもたらしたように思います。

藤井七段は、ほんの少し指し手を変えるだけで、藤井七段に勝とうとしている相手に、限りない不安を与えることが出来ます。

若干16歳で、将棋界で最高峰といわれる羽生九段の勝率も既に凌駕した今、指し手を少し変えただけで、相手を戦意喪失にさせるほどの棋士になれば、「 最年少タイトルホールダー 」も夢ではないと思います。











(6月22日)

2019年6月17日 (月)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その12 般若心経の解釈その4

「 その3 」までの繰り返しになると思います。

「 その1 」で書きましたように、「 無 」と「 不 」が使われている箇所が違うのだから、両方を同じ意味の「 否定 」と考えないことだと思います。

「 否定 」を現す「 不 」は、「 エネルギー 」である「 空 」の「 生滅 」や「 垢れの有無 」や「 増減 」などの否定に使われていますが、これは「 エネルギー保存の原則 」が存在する事を指しているのであり、宇宙の法則を、当時に既に知られていたということだと思います。

「 無 」は、主に「 五蘊 」が無い事であり、それから生じる生老病死も無いのですが、その「 無い 」というのは、お釈迦様の言われた「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」を否定するのではなく、生老病死の「 苦 」やそれからの「 悟り 」は、未だ「 発生していない 」、まだ「 五蘊 」が「 空 」によって作られていないのだから、「 五蘊 」から生じる思想その他すべてが「 無 」であり発生していないという事だと思うのです。

「 空(エネルギー) 」を考えるとは、DNAにより、個性ある「 五蘊 」がまだ「 空(エネルギー)」の段階で発生する前で、「 空(エネルギー)」が「 現象 」となった「 五感 」も発生していない段階を知ることであり、「 現象 」となった人間に生まれた限りは、その「 現象 」に始めと終わりの「 生死 」があり、生まれたからには、「 無明 」は「 尽きることはない 」つまり、生きている限り「 無明 」は永遠に続くから、人生は「 一切皆苦 」であり、「 悟ること 」も無いと知ることだと思います。

当時は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }という内実は既に知っていたが、それを「 空 」と表現したのであり、それ以降の僧侶は「 空 」という言葉の解釈をするだけで、「 空 」の意味も知らず、さまざまな「 空 」の解釈がされて来て、私たち素人から見たら、言葉遊びにしか見えなくなったのだと思います。

この「 空 」が「 五蘊 」では説明不能の「(神仏)エネルギー」であることを直ちに知って、同じ構造の生き物に対して、苦を抜いて楽を与えるという「 慈悲 」の行為を、直ちにすべきなのに、出来もしない「 悟る 」事に向かって、ヨーガや座禅などを営業している僧侶を見ると、この人たちは、人を救う大乗仏教を説くと言いながら、仏教の教えと反対向きの行為をしているのではないかと、私は思います。

この般若心経は、日本の津々浦々まで広がっているため、人と人は平等であり、人は何かをするときに、列を作って順番を待つのだと思います。

東日本大震災での東北の人たちの行為は、昔からの良き風習が残っていたため、「 人の道 」からはずれた行為をする人は少なかったのですが、この仏教の教えをする僧侶もなく、一般の人たちは世界と同じ感覚になっていますから、今度、災害が起こったら、世界と同様な強奪や泥棒など、人を踏みにじる行為をする人が増えるかも知れません。

世界の預言者たちは、今年の6月から10月にかけて「 南海トラフ地震 」が起きたり「 富士山 」が噴火したりして、日本の産業に壊滅的な被害を与えて、日本が世界の最貧国になると予言しています。

ペルーなどの南米で大きな地震があると、その3から4か月後には、日本に大地震が起きるというデーターもあり、その予言と一致していますので、地震の蓋然性は高いと思います。

私たち日本人は、揺れ動く地表の境目に位置の土地に住んでいて、これらの大地震を何度も経験して来ました。

これまでは、古来から続く「 助け合い 」が日本にありましたが、現代の日本には、到底それを期待することは出来ません。

ですから、この般若心経から、全ての人間は自分と同じ構造をした「 エネルギーのひとつの現象である 」ことを知り、これによる「 慈悲 」を生む心を育てながら、「 南海トラフ地震 」を乗り越える必要があると思います。

また、その「 心 」があれば、自然に「 差別 」や「 いじめ 」などはなくなり、自分が「 空なる我 」であることを自覚するなら、「 自殺 」も救えるのではないでしょうか。

それを、全国の宗派を超えた僧侶や学校の先生の指導に期待するのは無理かも知れませんが………。












(6月17日)

2019年6月13日 (木)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その11 「 空なる我 」になる

検索エンジンに「 空なる我 」と入力しますと、私が以前「 私の進路 14 「空なる我」になる 」という記事がトップに出てきます。

これは、私が書いた記事の内容を、現実の私の生活の中で、どんなふうに活かすのか?についての疑問のように思われます。

なにせ、お釈迦様が説かれた「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えたのですから、「 やれるもんなら、やってみろ 」と言われているようにも思えます。

私も、そんなことを言っておきながら、何をどう考えて、私の生活の中で、「 空なる我 」になった生活をすべきなのかは、分かりませんが、私が言う「 空なる我 」とは、「 無我 」といって自分を全否定するのではなく、「 自分の誕生が、いつから始まったのか 」を考えたとき、(神仏)エネルギーが母親の中に何時、どうして宿ったのかは分からないが、宿ってくれたエネルギーのおかげで自分が生きていることは否定されたくなかったのです。

それは、例えばH₂Oという水の構造のように、物をひき寄せて結合させて物を形作っている「 力・エネルギー 」が自然の物にあるならば、私が自然界の現象であるから私にもあるだろうと考え、「 煩悩を正しく引き付けて生きている 」ことを考えて生きるのが「 空なる我 」を活かして「 空なる我 」になった生活であると、現在は、自分勝手に考えています。

私は69歳で、何年続けれるのか疑問ですが、その自分勝手な考えをこれから披露してみたいと思います。


私は、生死の事は宇宙(自然)エネルギー(神)の存続次第であるし、生き方は生命エネルギー(仏)の統御の仕方であり、今の私は「 神 」といえば、日本古来の神道の「 神 」ではなく、日本に古来からおわす「 やおよろず 」の神であり、それは万物に宿り「 現象 」として現れる、数えきれない無限のエネルギーであるとしまして、「 仏 」とは模範的な人間の生き方として、お釈迦様の教えではないかも知れませんが「 空 」を中心とした大乗仏教の流れの生き方をしたいと思っています。


「 空なる我 」になる事は、人間ですからエネルギーそのものになる事は出来ません。


呼吸を止めたり、眠らなかったり、食べなかったりと「 煩悩 」の中で生きなくては生存することは出来ず、自然エネルギーを取り込んで助けて頂きながら、生きるのですが、そのエネルギーが現実に現れた姿形が「 自我という現象 」であると思いますから、その「 現象 」のなかにエネルギーをどんな形に現す「 自我 」になるのかを考えます。

逆に言えば、私の記事や日々の行動などが、(神仏)エネルギーの現れで、私が何を言おうが、事実が私の「 自我 」であると思います。


その中で「 空なる我 」を生きる事ですが、前回の「 浄土真宗 」の話で触れたのですが、「 空 」である「 阿弥陀仏 」の「 引かれる方向へ何も考えずに従う 」のが、「 空なる我 」を生きる現象になることで、天体が持っている「 引力 」のようにその力が「 空なる我 」ですから、「 空 」である「 阿弥陀仏 」という生命の根幹の力(エネルギー)に従う事が、「 生命エネルギーの現象 」であると思います。

ただ、これは、浄土真宗の特権なんかではなく、各自が魅力を感じ、「 引力 」を感じる宗教であれば、各自にとっては同じ事情であるし、どんな宗教を選ぶのかは自由で、その宗教が信奉するエネルギーが自分の引力と合致するなら、それが、あなたの「 空なる我 」を生きる事で「 生命エネルギーの現象 」であると思います。

ちょうど、結婚する時に相手の持つ「 魅力 」に魅かれて結婚して、子供という新たなエネルギーを頂くように、相手の(神仏)エネルギーと合一するのが「 生命エネルギーの現象 」であるかも知れません。

ただ、最近は「 子の親殺し 」や「 親の子殺し 」など、神仏から頂いたエネルギーの現象を、ちょうど「 自殺 」を肯定するように、さも、「 自分が創った作品 」のように扱う人が増えて来ました。

新たなエネルギーを頂く前に、「 空なる我 」が魅かれる「 相手 」との結合が間違っていた場合に悲惨な結果になるのは、東日本大震災の原子炉を設置した時の被害のようになることも同じで、何も結婚相手の選択と、社会政策の選択などとの違いはないと思います。

「 一切皆空 」で、人間の手で「 空 」である「 エネルギー 」を生滅させることは出来ませんから。

ですから、本当に「 空なる我 」が「(神仏)エネルギー 」と合体する選択を求めれているのは、私の「 空なる我 」による生き方を問う事に限った事ではなく、エネルギーの「 現象 」そのものを、どのように扱うのか、あなたにも問われているように思われます。









(6月13日)

2019年6月 9日 (日)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その10 浄土真宗

私は、無論、僧侶でもなく学者でもなく、毎日をユーチューブを拝聴しながら、残り少ない余生を潰している年金生活者です。

今日、『 親鸞上人の「 正信偈 」・「 歎異抄 」を解説します 』という動画と出会い、この際、手っ取り早く、自分の宗派である「 浄土真宗 」についても情報を頂こうかと思い拝見しました。

それによりますと、日本に伝わったのは、中国経由の「 大乗仏教 」で、お釈迦様が説かれて、東南アジアに広まった「 悟り 」を中心とする小乗仏教に比べて、お釈迦様の教えの中に「 救い 」を求める傾向が強いらしいです。

それは、「 龍樹 」氏が説いた「 空 」を中心とするのが大乗仏教ですから、「 宗教 」といっても「 慈悲 」などの点では違うと思います。

日本に伝来して各宗派に別れていて、その全部を合わせなくてはならないとは思いますが、自分の宗派がどんな指導をしているかぐらいしか分からず、この動画で「 浄土真宗 」を学ぶことにしました。


これは、昼間に拝見した内容を書くのですから、間違いに決まっていると思って読んでください。

動画によりますと、「 正信偈 」は「 アミターコス 」(永遠の時間=無量寿如来)と「 アミターバ 」(限りない光明=不可思議光)がひとつになったのが、お釈迦様が亡くなった後に設定された「 阿弥陀仏 」であるらしいです。


ですから、お釈迦様が「 阿弥陀仏 」を考案されたものではないらしいのです。


これを、私の立場から当てはめますと、前者が生命エネルギーで、後者が宇宙(物理)エネルギーとなります。


私は、その二つがどのように連結するかを知りたいのですが、私の推察では、チベット仏教の死者の書にあると思いますが「 中有 」という霊魂が、その二つの結合体だろうと思っています。

それがエネルギーとなって、「 浄土 」から輪廻転生するのだと思います。

そう考えることによって、お釈迦様の考える「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」と結びついて、「 善因善果」、「 悪因悪果 」という「 人の道 」に合流できると思うからです。

ですが、親鸞上人は「 善人も救われるのだから、悪人も救われる 」と言われ、悪人と呼ばれる人は自分が悪人で地獄に落ちると自覚しているがため、それに気づいていない善人より早く「 浄土 」に行けると説かれるため、第二次世界大戦で死地に赴く若い学生が、懐にこの「 歎異抄 」を隠し持ったのは、人殺しの良心の呵責から阿弥陀仏に救いを求めたいためだったのでしょう。

阿弥陀仏のおわす「 浄土 」には善人でも悪人でも行ける所ですから、「 浄土は汚れなき極楽 」と考えるのは違って、生命を発生させる場所であり、その生命も阿弥陀仏から見れば、人間や動物や昆虫や鳥など「 現象 」である「 姿形 」は等価で、何に生まれ変わるのか分からないと思いますから、自分がまたあの世から輪廻転生すると期待することは、阿弥陀仏の仕事を自分の手にすることで、許されず、なるがままになるしかないと思います。

ですから、生物一般に共通する「 無明 」と言われる(仏)エネルギーである「 無量寿如来 」になるだろうくらいしか想像することは出来ません。

また「 不思議光 」ですが、「 無量寿如来 」の活動を続けさせるのですから、後者が輪廻転生を繰り返す生命エネルギーであるなら、前者は、その活動を可能にする宇宙(自然)エネルギーですから、「 地球 」や「 太陽 」や空気(kuuki)などの環境エネルギーであるかも知れません。

浄土真宗は、自分に命として宿って頂いている「 阿弥陀仏 」に「 南無阿弥陀仏 」と念仏をして、感謝をするのですが、本来は「 大乗仏教 」という「 宗教 」であって、お釈迦様が、「 自我 」を「 無我 」として「 苦 」から逃れて楽えお与えるという「 慈悲 」の気持ちで仏教を始めれたとしたら、ただ「 阿弥陀仏 」に感謝することで終わることなく、「 阿弥陀仏を空と考え 」、自分が「 空 」に成り切って、「 慈悲 」を施すことによって、阿弥陀仏の手助けをすることによって、感謝を表すのが「 プロとしての僧侶 」の仕事ではないでしょうか。

人間として生まれた以上は、煩悩を持ち、悪人にでも善人にでもなるでしょうが、殺人などの悪人がする行為をした人も「 浄土 」に生まれるのですが、殺人も許すのはお釈迦様の教えに反すると思います。

芥川龍之介の動画で、人間界を離れて仙人になろうとした杜子春が、馬の形に変えられた死んだ父母が鬼によって引き出され、もう死のうとするころ、馬に変えられた亡くなった母親が「 あなたが幸福になるなら、私たちはどうなってもいいよ 」と言った途端、杜子春は「 お母さん 」といって人間界に引き戻されたという話がありますが、人間である以上は、親子の情はあると思いますが、統治者はそれを利用して「 思想 」を「 転向 」させたり、あるいは、父母を戦火から守るためといって軍隊に召集することもあります。

その時、浄土真宗は「 宗教 」として、自分が死ぬことと戦火で苦しむ親を思う情で悩む青年を救うことが出来るでしょうか?

「 非国民 」と罵られている人をどのように救うのでしょうか?

「 南無阿弥陀仏 」と唱えて死んでゆけとでも言われるのでしょうか?

私には、分かりませんが、「 人はみんな(神仏)エネルギーのひとつの現象 」であるならば、統治者も召集される若者も、同じ「 現象 」であり、ドイツのカントも言うように「 人を道具として使ってはならない 」のであり、その方向に自分の力を注ぐのが、その若者にとっての「 慈悲 」になるのではないかと思うのです。

それを、僧侶に期待して良いものかどうか、私に自信はありません。



参考 ユーチューブ 『 親鸞上人の「 正信偈 」「 歎異抄 」を解説します 』

          『 法話 杜子春が「 お母さん 」と叫んだとき 』

 





(6月9日)

 

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69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その9 「 五蘊 」は「 空 」

前回、書きましたように、私は、「 阿頼耶識 」や「 末那識 」といった意識を中心とする学説は採用しませんので、従来からの仏教の考えには背離するものであることは自覚しています。

「 因果 」を中心としたお釈迦様の教えは、死後にも及び、六道輪廻を認めたうえで、それから逃れるために「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」を説かれたと思うのですが、それに含まれる「 人の道 」「 道徳 」を排除して、どんな価値観を持つ人も受け入れられる考えにするために、やはり「 龍樹 」氏が説かれた「 空 」を「 エネルギー 」として、僭越ながら私の「 意識は電磁波の構造を持つ 」という持論で、「 五蘊 」は「 空 」であることを書きたいと思います。

「 意識 」をどのように考えるかで、結果に大きな違いが出るのは、出発点を誤って選択すれば、悲惨な結果になることと同じだと思います。

私は、空気(kuui)などという宇宙(自然)エネルギーと、例えば精気(seiki)といった動物の生命力である生命エネルギーが、生き物を動かすという生気論に立っていますので、それが間違いでないと仮定して考えています。

ですから、それが「 アウト 」なら、私の考えも「 アウト 」です。

その両者が集まったのが(神仏)エネルギーとしてそれが動物が持つDNAに従って細胞分裂して出来たものが頭脳や目や耳、その他身体全体にわたる感覚器官や神経であると考えています。

そのエネルギーが頭脳を作る際に、動物共通の小脳や間脳などの他に、人間に左右の大脳を持たせて右脳を空間や直感、左脳を論理や思考などを担当させ、そこで得られた意識(末那識)を海馬で統合し、無意識(阿頼耶識)として、その下部の小脳などに流すと考えています。

私は、「 空間 」という概念を作る前の意識(空間意識)を右脳、「 時間 」という概念を作る前の意識(時間意識)を左脳、とそれぞれが担当して「 因果 」という「 物語 」を作るのだと思います。

人間の「 五蘊 」は(神仏)エネルギーの「 現象 」であり、そこから生まれる「 時間意識 」や「 空間意識 」とそれに続く「 概念 」や「 心 」や「 気持ち 」も(神仏)エネルギーの「 現象 」という結論になり、人間全体が(神仏)エネルギーの「 現象 」となり、公式、E=MC² により、「 現象(M) 」=「 エネルギー(E)」となり、「 五蘊 」すべてが「 空 」であることになります。

仏教は唯心論であると申しますが、その「 心 」こそ、お釈迦様が否定した「 ひとが作ったもの 」であり、偶像であり、「 ここまで来たという目印である 」し、唯心論で満足していまいますと、そこに安住してしまい、「 現象 」として壊れてゆくことになると思います。

哲学は、その人の生き方の現れ(自我の進展の現れ)であり、それを幾ら進展させても「 自我の拡大 」にしかすぎないと思います。

書物は人の自我(可能性)の「 現象 」であるが、文字であるため変化しないと考えるのですが、それを読む人は、自分の自我(可能性)を重ねて考えますから、(ちょうど、対消滅が出来ない粒子が別の粒子と結合して、「 有 」となるように)書いた人の方向とは違った方向に変化させるかも知れません。

そうして、哲学は変遷するのだと思いますが、これは、あくまでも「 自我の拡大 」ですから、それを否定することによって「 空 」が把握できるのかも知れません。

お釈迦様は、自分の教えを書物にされることはなかったと聞いていますが、この事情を知っておられて、あえて教えを口から口で伝えられたのではないかと思うのです。

「 仏教は唯心論 」というのは、「 心 」は「 心 」を通して伝えるべき教えであるということで、世界観として考えるべきではないと思うのです。





(5月9日)

2019年6月 8日 (土)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その8 解釈の帰結 ③

これまで、私は、般若心経と「 一切皆空 」に従い、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて、「 神 」も「 仏 」も「 龍樹の教え 」も、すべてが「 空(エネルギー)」であると考えて、「 形あるもの 」は「 エネルギーの現象 」としまして、「 心や気持ち 」といった自然にたいする存在感を含む「 自我 」も現象として否定し、仏像など形あるものは、本来は枠で仕切ってはいけない「 空(エネルギー)」を閉じ込めたもので「 偶像 」であり、その中のエネルギーこそ忘れるべきでないとしました。

しかし、そのような考えは、お釈迦様の考える「 因果 」を重視して「 苦 」の発生源を探して「 滅する 」、その方法が「 八正道 」だというお釈迦様の教えで悟る仏教ではないという情報に突き当たりました。

なぜかと申しますと、般若心経に「 無苦集滅道 」と書いてあるからです。

Webを調べますと、私の考えは中観派によく似ていて、仏教を否定するもので、仏教というべき教えは、お釈迦様の考えで「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」の考えの延長である唯識派の流れの教えであるといいます。


それは、お釈迦様の「 苦 」を抜いて「 楽 」にしてあげようという慈悲の道であるかもしれないが、「 因果応報 」や「 自業自得 」という言葉があるように「 因果 」を重視して、現在に生きる自分の行為が悪行に満ちていれば「 悪因悪果 」、善行に満ちていれば「 善因善果 」というように、死後の世界は、その行為にお似合いの生き物に輪廻転生するだろうと教えることによって、善行を促す働きを教育することになるので、統治者も好んで仏教を国家の教育理念に採用したのでしょう。

確かに自分を見直し、「 苦 」を生む「 自我 」を「 無我 」にするのを実行すれば、より良き人生になるということはわかりますが、根本に因果を据えているため、因果が果てしなく続くのに合わせて、人間の生命ともいうべき「 無明 」が尽きることもなく、それから生まれる煩悩もそれに続く結果、人生は苦の連続で「 一切皆苦 」といい、その生前の悪行に合わせて、死後に残った霊魂は「 地獄 」に行ったり「 極楽 」に行ったり「 無明 」である様々な動物に輪廻転生することでしょう。

この齢になった私は、そうした善行を為した覚えもなく、むしろ悪行が勝っているようも思えますから、多分、「 地獄 」に行き煉獄の苦しみを体験するこになるでしょうし、止めてくれるものは何もないでしょう。

そこで、私は、若いころから知ってはいましたが、理解不能であった有名な言葉である「 色即是空 空即是色 」に、アインシュタイン氏が考案された、E=MC² という公式が似ている形をしていると思った私は、試しに「 空 」をE,{ 色 」をM、に置き換えてみるとWeb 上で説明されている事が理解できるので、これを取り入れて「 一切皆空 」という言葉もついでに取り入れ、「 神 」や「 仏 」も「 空 」で私も「 無我 」ではなく「 空 」として、「 空 」は「 エネルギー 」でありそれが宇宙を充満し物質を作り、「 私 」も私以外のすべての生き物も「 (神仏)エネルギーのひとつの現象である 」という考えに至りました。

そこで改めて般若心経を解釈しますと、お釈迦様の「 十二支縁起 」や「 四諦八正道 」を否定することになるというWeb情報で、私の思い付きは間違いだったと思いましたが「 無 」と「 不 」の作用を考えますと、「 空 」の中では前述の考えは発生しておらず、その発生源を示すもので、むしろ般若心経の全体が、現代科学を受け入れ得る容積を持ち、最後の書いてある「 真言 」というのが、「 超弦理論 」による「 ひも 」を共鳴させ、宇宙と自分の身体の構成物とを同調させるリズムのように考えられてきました。

その共鳴を通して「 神(エネルギー)」の引き寄せる力を知ることが、私の宗門である親鸞上人が言われた「 他力本願 」であり、「 五蘊 」という自分の力(エネルギー)によって神仏(エネルギー)を知ることではなく、つまり自力を捨てて生命を司るという「 阿弥陀仏 」の引かれるままの力(エネルギー)に連れられながら「 浄土 」である「 空 」を目指すべきではないのかと考えるようになりました。

これは、ユーチューブで紹介されている「 現代仏教塾の吉村均さん 」の考えに大きく影響された結果でした。

その動画での吉村均さんの考えによりますと、チベットの仏教では、お釈迦様はお亡くなりになります前から「 ひとの作ったもので浄土には行けない 」とおっしゃっていまして、社会で作った学問の限りを尽くしても「 浄土(空)」には到達することは出来ず、ただ単純に、自分が「 浄土に生まれたい 」と思うだけで「 浄土(空)」を体得できるとされ、「 他力 」というのは「 阿弥陀仏の引く力 」でありその力は阿弥陀仏が生命の花園である浄土に招きたいという願いによる力であるから、その力(エネルギー)に任せれば、無学の者でも浄土に行けることだと説明されていたと推察します(詳しくはユーチューブを見てください)。

ですから、人の考えた事は無論のこと、自分の考えによっても「 空 」を掴むことはできないことは、般若心経でも「 遠離一切顛倒夢想 」といって涅槃に向かうべしと書いてありますことからもウソではないと思われます。

ここまで書いて来まして、昔の「 汚れなき悪戯 」において、マルセリーノ少年が神の導きに素直に従った結果が、キリストを祭る十字架の前の死だったことと考えますと、理不尽とも思える神の導きに素直に従える自分なのか、「 浄土 」を目指すことは、マルセリーノ少年のように神(エネルギー・空)の引き寄せに素直に自分の五体である「 五蘊 」を捨てることが可能なのかが問われることになります。

私には到底出来ないことだと思いますが、私は死後は完全分解してエネルギー(気)になると思っていますが、そのエネルギー(気)が、生前に「 空なる我 」として習合してくれたエネルギーのうち、宇宙(自然)エネルギーであるなら自然の空気にようなエネルギーになるだろうし、生命エネルギーであるなら、生命エネルギーを司る阿弥陀仏の引きにより手元に戻り、また他の動物の無明な本能と一緒に結合した「 空なる我 」を形成するだろうし、阿弥陀仏にとっては、動物の生命と人間の生命に違いはないだろうから、馬や牛や猫や犬など種々の動物の生命になるでしょう。

いづれにしても、昔の教科書に書かれている「 極楽 」や「 天国 」や「 地獄 」やブピリチュアルの人たちが言う「 霊界 」には行かないだろうと思います。

だって、「 遠離一切顛倒夢想 」であり、「 ひとが作ったもので浄土に行けない 」からです。

ただ、ここで大きな問題があります。

「 浄土 」はどこにあるのか?です。

無論、仏教の教えは自分の考えが遠く及ばない所だと思いますが、「 世界は心だけによって成立している 」という唯識は唯心論である仏教の教えに近いものだと思いますが、それによると人間、馬、鳥、魚、ネコ、犬などすべての動物には動物の数だけ「 世界 」があるようですから、生命を司る阿弥陀仏がおわす「 浄土 」は、それら「 世界 」の全てを内包し、世界観を正当化させる所でしょうから、「 空(エネルギー)」の所在地であり、私たち生物一般を生み育て、そして死を迎え入れる所ですから、それは案外「 自然 」、や「 地球 」や「 太陽 」を含む宇宙なのかも知れません。

それは、誰でも死ねば分かるところで、誰もがいるところでしょうから、心配することはないと思います。






(6月8日)

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2019年6月 7日 (金)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その7 般若心経の解釈その3「 無 」と「 不 」の独自解釈

前回、書き漏らしたことです。

私は、私立のマルクス主義を是とする法学部卒ですので、仏教や数学や物理には疎いのですが、成り行きで書くしかないと思っています。

私は、「 無 」と「 有 」を何も難しく考えずに、「 無 」とは「 無限 」と同じく「 数えられない事 」を特徴として、そもそも「 有でない 」から数えられないのなのか、「 有が多数の為 」に数えられないのかの違いで、前者が「 無 」という概念で後者は「 無限 」という概念で現していると考えまして、「 有 」とは、難しく考えずに「 数えられるもの 」であると考えました。

「 無 」から「 有 」が生じる事は、ヒッグス粒子のように本来は対消滅して滅すべき粒子が何かの間違いで他の粒子と結合して「 消滅しなくなった 」状態を「 有 」と考えます。

「 無 」という「 数えられない世界 」は微小な粒子が物凄いエネルギーで無秩序に飛び交い対消滅するために、人間には見えず「 数えられない 」が、「 消滅しない状態 」になったとき、「 秩序ある状態 」として人間が数えられる状態になり、それを「 有 」としたと考えます。

ですから、数学はわかりませんが、「 1 」と「 2 」のあいだには「 無 」という状態があり、「 1 」と数えられる状態の中身のエネルギーは絶えず変化していて、厳密にはそのままの状態を保っておらず、同じ状態の連続と思うものはないのに、「 数えられる状態 」の「 形 」は変わらないために連続しているように人間の眼には見えても、ずらりと並んだ数は「 見える物だけを集めた集合 」であるかも知れません。

その「 見える物 」、「 数えられる物 」を私は「 現象 」と呼んでいます。

その「 現象 」というものは、「 本質 」と比較するような言葉遊びではなく、見えない物(無)が見える物(有)になったことを私の場合は意味しています。

私の「 無 」というのは否定の意味ではなく、「 有(数えられる)の状態に成っていない 」「 まだ発生していない 」ことを意味します。

それに対して否定する意味が「 不 」であると考えまして、「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」というように「 物=エネルギー 」に対する考えが間違っていることを示し、般若心経の中では「 不生不滅、不垢不浄、不増不減 」と使われている所を拝見しますと、まさしく「 形が変わってもエネルギーは消滅しない 」という「 エネルギー保存 」を指していると思われまして、これは驚くべきことだと思います。

このように、否定ばかりしている般若心経と思われがちですが、「 無 」が意味するのは「 不 」のような否定ではなく、お釈迦様が考えになった「 十二支縁起 」や「 四諦八正道 」を否定するのではなく、「 空(エネルギー)の中では発生していない 」ということで、それが「 是故空中 」では「 無 」(=つまり発生していない)であると書いているのだと思います。

ですから、「 般若心経 」はお釈迦様の考えを完全否定するものではなく、お釈迦様の考えが発生する根本には「 空(エネルギー)」があるのだと主張するのであって、お釈迦様の考えの中で悟りを探る唯識では「 空(エネルギー)」を見ることに到達することが出来ないから、思考による悟りではなく、「 一切皆空 」と素直に考えて、それを考えることは「 悟り 」であるから、それに続く「 慈悲 」を行うのが僧侶の存在意味ではないかと思います。

以上の考えで、「 色相是空 空即是色 」は、アインシュタイン氏が考案された{ E=MC² }で現され、Eを「 空(エネルギー) 」と置き換え、Mを「 物質(=現象)」と置き換えて考えるものです。

 

ただ、現代の物理学を眺めていますと、相対論の他に量子論もあり、「 般若波羅蜜 」といえるべき「 智慧 」をすでに得ているかどうかは疑わしく、その智慧を追求することは東洋や西洋に関わらず、これからも続けられるべきではないかと思います。

「 一切皆空 」ということは、この私のブログの言葉も、私の「 空なる我 」に煩悩が混じった「 自我 」の現れですから、これを否定して自らの智慧を得られるべきだということは、疑う余地もありません。





(5月7日)

 

2019年6月 6日 (木)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その6 般若心経の解釈2、「 無 」の独自解釈

「 般若心経の解釈その1 」は、ユーチュブでの解説に、「 空 」はエネルギーであることで焼き直したもので、オリジナルとは言えないでしょうが、この「 無 」の独自解釈は、今までの誰も書き表した事がないもので、奇妙な考えですので賛同は期待していません。

<私の独自解釈>


般若心経を読んでいますと、「 不増不減 」までは「 不 」が使われていて、「 滅しない」「 垢れない 」「 浄からず 」「 増さず 」「 減らず 」など「 不 」が使われ、その後は、「 空(エネルギー)の中には 」、「 無色無受想行識 」「 無眼耳鼻舌身意 」「 無色無声?香味触法 」………と「 無 」が使われています。

私は、前者の「 不 」は「 そうではない 」という否定の意味に使われていると解釈しますが、後者の「 無 」も同じように、否定の意味に解釈すべきかを問題にします。

私は、以前、「 無 」と「 無限 」や「 ゼロ 」のことを書きましたが、この後者の「 無 」を「 空(エネルギー)の中では発生していない 」、「 空(エネルギー)の現象としてそれらの五蘊が生じる(無から有となる)のであって、空(エネルギー)をそのように規定することは出来ない 」というのではないかと思うのです。

以前、私の持論で「 意識は電磁波の構造を持つ 」でかきましたように、(神仏)エネルギーであるDNAで決まられた頭脳の回路を巡って活性化するのは気(ki)というエネルギーであり、その過程で「 意識 」が派生すると考えますと、「 五蘊 」である五感という機能やそれによって得られるものすべては、「完全な均衡」である「 無 」を乱してそれらを「 有 」とするのが「 空(エネルギー・神 )」は動物が持つ生命維持に応じるように「 空(エネルギー)」を働かせるのであって、人間はそれを、「 五蘊 」に区別しているにすぎないと考え、「 五蘊 」のための「 空(エネルギー)」があるのではないと言っていると解釈するのです。

そんなことは、空(エネルギー)にとっては迷惑なことであり、その空(エネルギー)が働いた結果の人間を、超能力を持った人であるというのは、人間の勝手であり、そんな超能力を持つ人の再来を待つ事など、迷惑極まりないと空(エネルギー)はおもうでしょう。

 

「 ゼロ 」の観念を生んだとき、その「 ゼロ 」である「 無 」は「 無限 」であり、空(エネルギー)の中には、「 五蘊 」として現象する機能は、「 数えきれないほど 」有るともいえるし、まだ発生していないから「 無 」であって、「 五蘊 」を超越するエネルギーを与える事も可能なのだという意味に解釈するのです。

その実益

人間の機能をすべて空(エネルギー)が現象として現れたものとすることによって、他の動物の機能も空(エネルギー)が現象として、この世に現れたものとしては、同質とすることは、人間を他の動物に生まれ変わらせることが出来るから、人間から他の動物へと、他の動物から人間へと、相互に転生することを可能にする。


こうして、頭脳を持つ、あるいは持たない、精神を持つ、あるいは持たないを区別することなく(=それは全て空(エネルギー)、多種の動物間の中に転生することが、生命の主である「 阿弥陀仏 」には可能とすると解釈する余地を残したのだろうと考えることが出来て、人間が死んだら、同じ種類の人間に生まれ変わることを意味するものではない。

言い換えますと、「 阿弥陀仏 」の前では、生命を持っている点で平等であり、国や民族や、あるいは人種が違おうが同じであろうが、「 生きている 」ことには変わりがなく、人間の相違はまったく生まれ変わりの宿命のもとには等価であり、どのような生物に生まれ変わるかは、「 阿弥陀仏の意図 」に従うことになって、もはや生まれ変わりもせず、あるいは生まれ変わったとしても、この平和な世界に生まれることも何も保障されず、阿弥陀仏の考えに従うことになると思います。

つまり、死後に転生するとしても、同種の動物に転生することを保障するものでなく、阿弥陀仏の導きの「 空(kuu)」の現象として現れるままに、精神を持たない下等動物にも生まれ変わることもあることを、言外に示しているとも思われます。







(6月6日)

 

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その5 解釈の帰結 ②

私は、これまでにも二~三の新興宗教や既存の「 宗教 」に加入して脱退を繰り返しました。

私の母は、四十一歳で死亡しましたが、田舎での嫁姑の関係に悩んでか、死ぬ前には或る新興宗教に加入し、私も母に連れられて加入しましたが、その甲斐もなく死に至り、母と共にその宗教から離れました。

生に伴う苦や死というものを教えて頂く仏教僧もおらず、それらを自分の力では解決できないために新興宗教の教えを受けたのでしょう。

田舎にはキリスト教の教会はなく、母はその教えを知りませんが、私は小学生の頃、文部省推薦の「 汚れなき悪戯 」を見たことがあり、その中でのマルセリーノ少年と偶像から抜け出たキリストとの会話に中で、死んだ母親に遭いたいという少年がキリストの偶像の前で亡くなっているのを神父たちが見るラストシーンから、当時の私は、なぜ少年の願望は死によって叶えられるのだろうと、疑問に思ったりもしました。

その後、私の母親が死亡し、葬儀の最中は人が集まってくれたのが嬉しくて、眠ってはならない通夜の晩で、私は、いびきをかいて寝ていたそうです。

その後、母親の遺影の前に座って涙を流していた私でしたが、当時の私は、自分が死ぬ事も知らず、母の死を特別なことと考えていたのは疑いありません。

宗教に加入した甲斐もなく死んでいった母を見て、死や宗教に対しては無関心の私でした。

その後、数多くの人たちの死に巡り合い、自分とは何かを知ってから、死を迎えたいと思うようになり、ブログを始め、現在の考えでは、今まで書きましたように、この世は「 一切皆空 」で、般若心経の世界だろうということです。

 

アインシュタイン氏の{ E=MC² }を真似て、「 色 」を「 物質(現象)M」、「 空 」を「 エネルギーE 」としてみたところ、「 色即是空 空即是色 」と似たような恰好になりますから、「 空 」を「 エネルギー 」としまして「 一切皆空 」とは「 すべてが空(エネルギー)」で物はエネルギーの現象であり、エネルギーは物を通してしか認識不能という結果になりました。

そう考えますと、一切は同じ素粒子を結合させたエネルギーの違いであり、エネルギーが目に見える現象になったことは、全て生物には同じ事情であると思われ、結合する条件次第では、貴族になったり平民になったりするのであって、エネルギー(神)の前では平等であるからこそ、生きとし生けるものを救ってくださる菩薩の気持ちも分かろうというものです。

お釈迦様の根底には「 因果 」という考えがあり、その考えで、生きる際の「 苦 」の発生原因である「 自我 」を「 無我 」にすることによって「 楽 」になる(=慈悲)と教えられたものだと思いますが、もし「 無我 」が自分の全否定を意味するなら、食物も絶ち息を止め眠ることなく、頭脳の働きを枯渇させながら生きる事であり、それが即身成仏だとしましても、その人に何を期待するのでしょう?

肉体を持たない「 霊魂 」となってこの世で人を導くのが「 悟る 」ことでしょうか?

私は、エネルギーの現象としてこの世に生きる以上は、因果が永遠に続くように無明も永遠に続くのであり、無明を根絶することは出来ず、「 五蘊 」も「 空なる我 」が如何なる煩悩をまとっているのかが現象となっている「 形 」であると思います。

まず、自分がエネルギーのひとつの現象であり、それは相手の生物も同様であると知り、エネルギー(神)の前では平等だと知ることにより、動物愛護や相手の苦を抜いて楽にしようという「 慈悲 」の心が生まれるのではないかと期待するのです。

これまでの私は、慈悲なんてお金持ちが貧者に金銭を与えることだろうなんて思い、慈悲の気持ちは全くありませんでした。

ころが、東日本大震災において、親や子などの親戚を無くし財産も自然災害に奪われて、茫然自失になっている人たちには金銭も助かるだろうが、「 無常 」の教えで、自分にはまだ希望が残っていると励ますことが、金銭にも劣らない生きる勇気を与えたことになったと考えますと、「 心が心を励ます 」ことも立派な「 慈悲 」であると思います。

「 無常 」は、日本仏教に共通した考えで、苦があれば楽もあると考えることも可能であると思います。

「 善因善果、悪因悪果 」という言葉が当てはまるケースが多いとは思いますが、現在の絶望的な状況が更に絶望を生むという結果にはならないでしょうし、「 慈悲 」という善行を為したから、必ずしも極楽に行くとは限りません。

ですが、その「 慈悲 」を為した出来事は、当人の心に宿るでしょうし、少なくとも安らかな死を迎えるだろうということは想定できると思います。

自己の幸福を求めることは、自然なことですが、自然災害に見舞われた被害者宅の留守を狙って金銭を強奪し、一時は幸福感を味わったとしても、それは人を犠牲にして、人を更なる不幸に追い込んで得られた幸福です。

先ほどの、「 慈悲 」の行為は、自分が苦しんでいる人を助けたという幸福は、被害者もその「 慈悲 」の言葉によって幸福感を味わえたのであって、自分を犠牲にすることなく、他人を利する行為をしたことになり、高僧が悟った末に放った「 忘我利他 」と同じ行為をしたことになると思われます。

江戸や明治の時代、「 滅私奉公 」といって、自分を犠牲にして主君を守るという考えは「 無我 」を「 無私 」として自分の存在を滅することが間違いで、「 無私 」ではなく「 無心 」といったふうに、自分の我欲を極端にまで押し殺すけど、自分の生命だけは確保するように忠誠を尽くすことであり、自分が死ぬまで自分を愛する気持ちは忘れるべきではないと思います。

このように、自分も他人、あるいは他の動物と同じく「 空 」なのだという自覚があれば、容易に相手の「 心や気持ち 」に同調することが出来、他人に力(エネルギー)を与えて励ますことも可能だろうし、「 自分と同じように隣人を愛せ 」という命題も実現できるのではないかと思います。






(6月6日)

 

2019年6月 5日 (水)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その4 解釈の帰結 ①

私が書きました『「 空なる我 」般若心経の解釈その1』から考えることを書きます。

前回のように解釈すれば、お釈迦様の「 四諦八正道 」や「 十二支縁起 」から離れることになって、お釈迦様の悟りに近づこうとする仏教からは見ると、方向を間違えた考えのように思われるでしょう。

「 一切皆空 」とか「 般若心経 」しか知らない素人の私ですから、上記の解釈は間違っているのだろうと思います。

Web で見ますと、私の考えは中観派に近いと思われ、その中観派以降に出た、唯識の考えのほうが、唯心論である仏教、つまりお釈迦様の考えに従っているので、その方向で考えるべきだと言われるでしょう。

しかし、これまで仏教の教育を受けていない私は、あえてその方向とは違った方向に進路を向けることによって、無学なりにPCの力を借りて、お釈迦様の境地をうかがう事を、ひとつの試みとして書いています。

私の考えでは、お釈迦様は「 因果 」の流れを重視して「 苦 」の発生から消滅までの過程とその実践の方向をお示しになっていて、自分の「 業 」が死後の方向を決めるから、「 善行 」を積んで「 善因善果 悪因悪果 」や「 自業自得 」などという人間が生きている内に為すべきことをしなさいという考えがあるのではないかと思います。

その「 因果 」を考えて死後の輪廻転生を考えておられたのかも知れません。


そのことは、世界中で賞賛され、お釈迦様の死後、大陸方向では唯識を中心とした「 北伝仏教 」、南方の「 南伝仏教 」に広がったのだと思いますが、その頃に「 般若心経 」が編纂されたので、お釈迦様の悟りへの道とは違うのかも知れません。

ですが、お釈迦様はお悟りになって輪廻転生から抜け出るために仏教を説かれたと思うのですが、私が僧侶ならば、その悟りを得た後の行為は、悟った内容を社会に還元するのが、布施を施す民衆の苦しみを抜いて楽にしてあげること、即ち「 慈悲 」の実践につながるべき行為をすることが、その役目だと思います。

一般大衆に「 慈悲の行為 」を求めるためには、大衆を「 慈悲を施す心構え 」、「 内容が慈悲に溢れた自我 」にしなければ、到底、「 慈悲 」など行うことは出来ないと思います。

お釈迦様の悟りに近づく事も大事ですが、悟った後の行為を実施してこそ、ブッダと言えるのではないでしょうか?

私は、お釈迦様の「 悟り 」へ近づくのは唯識だとしても、「 慈悲の心を抱かせる 」のは、龍樹の言う「 空 」から出発した方が早く、悟った人も、その後に、この「 空 」を体得された方が僧侶の道であると思います。


そういうならば、「 空 」を理解して「 慈悲 」の心が湧いてくるのかが問題で、私は、この事の解明を目指しているのです。

私は仏教の教えを学んでいないので、これから仏教典を読んで理解するなど、私の人生には時間が残されていないので、乏しい仏教の考えとPCに力を借りて、これから私の考えを書きます。



私の考え

「 一切皆空 」ですから、この世は「 空 」であることになり、神も仏もあなたも私も、この文章でさえ「 空 」であることになります。

この「 空 」を「 空っぽ 」とか「 無 」とか「 実体がない 」などと考えてしまうと、虚無主義や幻想世界などという、私の考える「 空 」からの帰結とは全く違った帰結になり、私は、到底、これと方向を同じくすることは出来ません。


私は「 空 」は「 エネルギー 」であるとしましたから、上記の帰結と同じになりません。


少し長くなりそうですから、詳しくは次回に書きます。








(6月5日)

2019年6月 4日 (火)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」その3 「般若心経」解釈の1

私は、「 一切皆空 」に従い、この世の一切は「 空 」であり、その「 空 」とは「 エネルギー 」であるとしていました。

「 神 」も「 仏 」も「  空 」ですし、前者が宇宙(自然)エネルギーであり、後者は生命エネルギーであるとし、自分も「 空 」としなければならないと思って、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」として、私の生命だけは保全しました。

これは、「 空 」について「 空っぽ 」や「 実体が無い 」と言いましても、私が見る前には「 実体が有ろうが無かろうが、自分の進路を邪魔するなにかは有る 」のであるから、自分を満足な理屈に落ち着かせるために「 龍樹 」の空についての文庫本を読んでも、素養となる仏教の知識もない私は、空しく響く「 空っぽ 」などの概念で自分を言い聞かせていました。

ですが、この際、仏教からまったく離れて、似たような内容と思われる考えを、「 色即是空 空即是色 」に当てはめたらどうだろうかという考えになり、ちょうど相対論の本を読んでいて似たような公式の「 E=MC² 」というアインシュタイン氏の考えで、「 色 」をM、「 空 」をEと当てはめて、物質Mの「 色 」はエネルギーEの「 空 」、であり、物質Mを分解しても素粒子の結びつくエネルギーEの差だけであり、その物質に固有の素粒子がないし、エネルギーEの「 空 」は、溶鉱炉の色で内部の熱エネルギーがわかったり、外部に現れた仕事の量であるジュールでしか分からないということから判断して、エネルギーは「 現象 」として現れるときに認識されると考えました。

前者が「 色即是空 」で、後者が「 空即是色 」と似たような結果になり、「 色 」を「 現象一般 」(現象とは本質が現れたものではなく、何か見えないものが認識可能な事象になったもの)で「 空 」を物質内部に働く「 エネルギー 」として考えてその認識不能なエネルギーが認識可能な物質という「 形 」になったのが「 空即是色 」であり、「 色即是空 」とは違った内容を主張しているのであって、単なる語呂合わせのための単語の並びではないとしました。

私の場合、「 空 」は「 エネルギー 」ですが、「 色 」を物質と決めてしまわずに、「 現象 」という言葉を使っています。


エネルギーは物体の内部と外部に絶えず「 流れていて 」、外部の条件(縁)次第で同じ素粒子でありながら違った「 形 」になり(例えば、水のように、構成する水素と酸素は同一のまま、氷→水→水蒸気→水と形を変えるように)その安定した「 形 」になった時、「 現象 」と呼ばれ、エネルギーの推移によって、「 万物は流転する 」し「 諸物無常 」であり、「 空 」は「 空っぽ 」ではなく、エネルギーが充満していても、常に一定の固定した物質(現象)がなく、エネルギーの推移が形から形の違いで判るから、それを見る私には「 物質変化 」として見ているのだろうと思います。

「 空 」はエネルギーであるから、エネルギー(空)が現象になっても、「 空 」は新たに生じたり滅したりすることはないし、エネルギーは「 垢つかず浄からず 」、「 増さず減らしたりすることはない 」(これは、エネルギーは形を変えても消滅しないというエネルギー保存の法則に一致する)と般若心経に書いてあります。

これで終わっても、般若心経の説明には十分と思っていましたが、もう少し、私の解釈を続けます。

前回の私の持論である「 意識は電磁波の構造を持つ 」では、母親の胎内に宿ることによって、宇宙(自然)エネルギー(気 ki)と生命エネルギー(気 ki)が区別できない状態で生命エネルギーのDNAに従って身体という「 霊体 」生命エネルギーの現象である「 霊体 」を作りあげ、同じく空間意識や直感を担当する右脳、時間意識や論理、言葉などを担当する左脳を作り(これらは、皆、生命エネルギーの現象)、様々な意識を派生させて、外部で経験した「 印象 」を、論理的に合理的に因果の関係という物語として、海馬に保管して無意識の能力という無意識(これまでの経過はすべて生命エネルギーの現象)にして蓄えて、次の場面に出逢った時の対処法とすると考えています。

しかし、それは否定すべき「 自我 」であると思っています。


般若心経で「 五蘊皆空 」というのを、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)の現象である」と考え、「 五蘊 」を生み出すのは「 空(エネルギー) 」であるから、「 空(エネルギー) 」を現象である「 五蘊 」では規定することは出来ないし、「 五蘊 」は「 空(エネルギー) 」からの「 現象 」であるから、それを区別したり限界を考える必要は無くて、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だと知れば、「 空(エネルギー)」である以上は、「 枠 」を作って閉じ込めることは出来ないくらい宇宙に広がるだろうから「 限界 」を考える」必要はないし、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」の現象であるという「 知 」以上得るものは何もない。


「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」だということは、「 空(エネルギー)」の現象が「 五蘊 」ということであり、「 老死がある 」とか「 無明をなくそう 」といって特別になくそうとしても、「 五蘊 」を持って「 空(エネルギー)のひとつの現象 」として生きる以上は、「 苦 」や「 無明 」や「 老死 」は尽きることなく、ついて回るし、「 空(エネルギー)」がある限り、「 死んだら、生まれる 」という「 現象 」は、ついて回るものだと思えば、それらを恐怖することもなく、ひとが作った「 顛倒した夢想 」から離れて、悟りの世界である「 涅槃 」をもとめなさい。


私は、「 般若心経の解説(般若心経の話)・フルバージョン 」というユーチューブを拝聴しまして、それに私の「 空はエネルギーである 」という持論を交えて、以上のような解釈をしました。


そういう解釈をすれば、お釈迦様の十二縁起や四諦八正道を否定することになりますが、「 五蘊 」が「 空(エネルギー)」のひとつの現象と考えても、「 度一切苦厄 」の状態を得られるのではなかろうかと思います。

しかし、自分が生存している間の「 知 」が般若心経がいう最高の「 知 」であるとは限りませんから、これ以上の「 知 」はないと申しましても、「 苦 」を避ける「 知 」ではそれで良いのかも知れませんが、最高の「 知 」を求めるべきだろうと思います。


これは、私立の法学部卒業の仏教については、ほとんど無知である私の考えですので、間違いでしょうが「 空なる我 」というものを中心に据えた関係で書きました。


尚、般若心経の最後に書かれてある「 真言 」のことですが、動画では「 空を知るための呪文 」で「 それに導かれて空を知る 」ことらしいのですが、もう最近とは申せなくなったかも知れませんが、「 超弦理論 」というものがあって、物質を構成するものがひとつぶの粒子というより、微細な「 ひも状の素粒子 」であるとするのが理論上では妥当であると、仮に考えますと、「 弦 」である以上は「 音楽 」に共鳴するでしょうし、「 はじめに言葉ありき 」という有名な言葉がありますが、この真言と呼ばれる呪文の「 音の響き 」こそ宇宙から私たちの身体の隅々まで浸透することが出来て、宇宙で呼応するものかも知れないと思っています。







(6月4日)

2019年6月 3日 (月)

69歳になって考えること  再考  「 空なる我 」その2

私は、「 空なる我 」は、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)が習合した、エネルギーである「 空 」の状態としましたのは、前回の通りです。

その時に書きましたように、私の死後は「 顕教 」の浄土真宗のお寺の墓に葬られることになっていますので、「 空なる我 」と「 顕教 」がどうして一致するかという問題になります。

私は、以前、学生時に教えられた「 顕教 」と「 密教 」について、「 私の仏教の解釈・その後2 」で次のように分類しました(3月13日)。

………

顕教 - 意識界(無意識”)- 唯識 - 「 縁起、縁滅 」 -(A)

密教 - 自然エネルギー界 - 般若心経 - 「 色即是空 空即是色 」- E=MC² -(B)

「 意識は電磁波の構造を持つ 」という私の持論(C)

「 自我 」-自然界の中の自分という存在感(心、気持ち)-無意識’(D)

………

(B)の中の(A)に「 無知 」があれば、(D)が「 不安 」となる。

(A)の中の(B)が「 無知 」であれば(=Dが「 無知 」であれば)、概念を破壊して新概念を作って「 安全・安心 」になる。

………

(D)は(C)の機能によって、「 意識 」から「 無意識” 」になった生命エネルギーの無意識’であるが、「 呼吸 」などの「 空 」である生命エネルギーが働く機能で、宇宙(自然)エネルギーである空気(kuuki)という気(ki)を宇宙から取り入れなければ存在しないという意味で、生命エネルギーになった宇宙(自然)エネルギーである「 無意識’」であり、その集まりが「 心・気持ち 」であるが、それは生命エネルギーの「 現象 」である「 自我 」であるため、これを否定し、「 無知 」を解消する。

これは、(A)の中の(B)の「 無知 」が生じる意識(概念)を否定することによって「 安全・安心 」になることで、「 智慧 」を極めて無知ではなくなるのではないのですが、般若波羅蜜の智慧に達することは悟ることで、とうてい私には出来ませんので、可能な「 否定 」によることによって「 安全・安心 」になるほうが私にとっては近道です。

この「 否定 」することは、「 自力 」を放棄して「 他力 」に従う(力=エネルギー)ことであり、私の死後の墓で供養される「 顕教 」の浄土真宗の親鸞がいう「 他力 」に任せること( 他力本願 )に通じるのではないかと思います(これは、ユーチューブの現代仏教塾での吉村均氏の考えを参考にしたものです)。

私は、以前に書きましたように、「 般若心経 」を暗唱するか「 一切皆空 」という思想しか仏教についての知識はなく、私がWeb上で参考にした情報を書いておきます。



▷ 現代仏教塾の吉村均氏の講話(ユーチューブ)

▷ 第3章 「空」とは何か|般若心経は真言を説いたお経ーエンサイクロメディ

▷ 「 中観派 Wikipedia 」






(6月3日)

2019年6月 2日 (日)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」

今日、「 空なる我 」でWeb 上を検索しましたところ、私の「 空なる我 」というのがヒットしました。

私は、これまで書いて来ましたように、「 空 」を「 エネルギー 」としまして、アインシュタイン氏の{ E=MC² }という考えを、そっくり頂きまして、「 般若心経 」の「 色即是空 空即是色 」が同じ考えだとしまして、「 一切皆空 」に従って、お釈迦様が「 無我 」とされましたのを「 空なる我 」と置き換えまして、「 宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合である 」と考えました。

物には分子構造とか原子構造とかありますように、「 空なる我 」という(神仏)エネルギーの習合が持つ引力のように、物質を引き付けた集合体が「 自我 」と考え、エネルギーを「 気配 」と捉えて、それを寄せ集めた「 心 」とか「 気持ち 」といった自分の存在感も、「 空なる我 」というエネルギーの現象と捉え、ここに固定することは偶像を作ることなので、否定しますが「 空なる我 」そのものはネルギーですので、引き寄せる力は、いわば「 非我 」という「 形 」を変えて「 我 」を残し、「 形 」を変えても消滅することはないエネルギーとしてそれを残しました。

私は、「 龍樹 」の思想を学んでいませんから、彼がいう「 空 」とは違いますから仏教ではありませんが、「 唯心論 」といいましても感覚や心そのものがエネルギーの現れである「 現象 」ですから、「 一切皆空 」の立場からは容認できず、分かりませんが「 龍樹氏 」が唱える「 中観(ちゅうがん)」 という考えからくる「 空 」と似ているように思いますが、その「 空 」が「 空っぽ 」であるとするなら、それを「 エネルギー 」と考える私の「 空 」からは違いまして、「 「空っぽ」どころか充実した中身の構造そのもの 」でして、「 エネルギー 」であるからこそ、形を変えて「 現象 」から「 現象 」へと「 形 」を変化することを可能とし、その「 形 」をどのような「 概念 」で実体化するのは人間に任せられているのだと思います。

ただ、これがお釈迦様の考えと一致するかどうかは、疑いがあるので、仏教ではないと思うのです。

これは、仏教とは言えませんが、生物や他の物質にアインシュタイン氏の考えが及ぶ限り、「 空なる我 」の「 現象 」の手が届くことになり、私の考えでは、すべての生物に及んで「 差別 」しないだけでなく全部が一体で分けられないとする「 無分別智 」にも届き、「 生命エネルギー 」が広がる「 浄土 」の中で、唯識論の阿頼耶識によることなく、時代や世代を超えて「 ワームホール 」のように、あるいは「 量子のゆらぎ 」となって、転生するのかも知れません。

なにせ、そこは、生命を司る「 阿弥陀仏 」の世界で、人間の想像を遥かに超えた世界かもしれないのです。







(6月2日)

2019年6月 1日 (土)

69歳になって考えること インドの日本僧・佐々井秀嶺

先日、偶然にも、ユーチューブで、佐々井秀嶺さんの動画を見ました。

それは、仏教哲学を好む人の動画(A)で、佐々井秀嶺さんを紹介していまして、Wikipedia によりますと、1935年生まれですので、私より24歳の年長者のようですが、彼の行動を記録する「 インド不可触民を救う 」という動画を視聴しますと、とても年齢を感じさせないくらいの元気な人物です。

私は、先日動画を視聴しただけで、彼の思想や生い立ちはあまり知らないのですが、(A)の動画では、彼は高学歴を持った僧侶ではなく、師匠から「 歎異抄 」を読むように指導されたらしいですから、多分、浄土宗か浄土真宗の、いわゆる「 顕教 」の僧侶だろうと思います。

私の死後は、浄土真宗のお寺に墓が用意されていますから、ハイデッガーや三木清といった哲学者も勧める浄土真宗の親鸞上人が著した「 歎異抄 」を読むべきでしょうが、第二次世界大戦において学徒出陣に駆り出された若い学生が、戦争推進派の哲学者や宗教学者が多いなか、人殺しの戦場で数多くの敵兵を殺傷することに対する心の葛藤から逃れるために、悪人をも救うという「 歎異抄 」を懐中に潜ませて出陣するしかなかった学生を見て、当時の仏教がした救済の限度に幻滅した私は、仏教そのものを受け入れなかったのですが、心を患って自分の出世を絶たれ田舎に帰った私を救ったのが、田舎で活躍されていた僧が教えてくれた「 般若心経 」だったところから、再び、仏教を考え直しはじめました。

佐々井秀嶺さんは、その「 歎異抄 」を手にする前か後かは知らず、その影響も知らないのですが、度々、自殺を繰り返した結果、僧侶になっても煩悩から抜け出すことは出来ず、修行のためにインドに渡り、そこで「 カースト制度 」で人としての扱いを受けない最下層の人々を知り、その中に入ってゆくことによって、僧侶は苦しんでいる人を救うべきだと、どうやら思われたようで、「 カースト制度 」も是認するかのようなヒンズー教から仏教へと改宗させようという運動をされているらしいのです。

彼は、「 龍樹 」の「 空の教え 」を中心にした大乗仏教らしいですから、多分、彼は「 龍樹 」からの教えをインドで学ばれたと思うのです。

私は、龍樹の教えは、日本の文庫本にも紹介されていますので、一見したところ、とても私などでは理解不能ですので、田舎で教わり、暗唱させられた「 般若心経 」における「 色即是空 空即是色 」の「 空 」を、アインシュタイン氏から{ E=mC² }の考えをそのまま頂戴して「 空はエネルギー(E) 」とし、「 色は物質(M)」として、まったく仏教とは違うのですが、「 一切皆空 」の大乗仏教の教えに従って「 無我 」も、仏教とはまったく違った「 空なる我 」としまして、その「 神 」は、日本に伝わる神道においての「 神 」ではなく「 エネルギー(神)」としまして、「 空なる我 」が身にまとった煩悩が「 自我 」で、それは「 空なる我というエネルギーの現象である 」としました。

佐々井秀嶺氏は、インドの最下層にある人々を救うがために「 空 」を説かれて、仏教へと改宗させられていると思うのですが、私の目的とするものも、「 空なる我 」を考えて自分も他人も他の動植物も「 エネルギーのひとつの現象 」の違いにしかすぎず、殺生を最小限でやめよう、自殺はやめよう、「 いじめ 」はやめようとすることです。

日本の僧侶も、何かを仏教から導きだして、皇族までも含む日本人全部の中で、秘めやかに行われている「 いじめ 」や少年少女から高齢者まで行われている「 自殺 」をやめさせるため、佐々井氏もおっしゃるとおり、座禅で悟るのも良いが、悟ったら困った人を救う行動に移すべきで、悟る自信がない人は、行動しながらでも悟ることは可能であることを、この佐々井秀嶺氏は、お示しになられれているんじゃあないのかと、日本に「 上人 」が現れる日を期待して待っている私です。









(6月1日)

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