老人の話


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2019年4月

2019年4月29日 (月)

もうすぐ「 令和 」の新時代、新天皇皇后両陛下に期待します。

今日は、4月29日、あと二日もすれば、五月の新時代「 令和 」を迎えます。

私は、天皇制には賛成でも反対でもありませんが、ユーチューブなどを見ていますと、天皇家の代々、引き継がれている事から、日本と世界各国とのつながりや日本人のルーツについても、以前の絶対天皇制賛成の立場からは、到底、認める事が出来ない事柄が推察されるようになりました。

「 日ユ同祖論 」などもそうですが、伝統の格式や私たちの暮らしぶりが、古代ユダヤの世界の暮らしぶりを引き継いでいるかのような錯覚さえします。

以前にも書きましたが、正月に備えて大掃除をし、正月を前に餅つきをして、その餅を正月の雑煮として食べたり、正月にしめ縄や門松を玄関に整備して七日を経過したら処分するとか、どうして神社の前に赤い鳥居があるのかなど、私の田舎では、大人に聞けない理由が、旧約聖書の中に書かれていることと、ぼんやりと似ている様な気がします。

男性の血液の核が持つDNAなどによって日本人の居場所が解ったり、神社を詳しく調べると、周りの国々とは違うなど、日本人が古代から引き続いて従って来た風習や血統から「 日本人とは何か 」を考えさせられます。

私は、古代ユダヤから来た人もいれば、南方から来た人もいて、日本が律令国家になったころ、古代ユダヤから来た人が「 天皇 」を名乗ったのではないかと思っています。

この度、天皇が代わり元号は「 平成 」から」「 令和 」に代わります。

昭和のとき第二次世界大戦を起こし、昭和天皇は、空襲に対して疎開はせず、戦後は戦争責任を一身に負って自分の命と引き換えに、国民の飢えを助けてくれと、GHQに申し出られました。

平成の天皇は、戦場となった土地を訪れて、そこで亡くなられた戦没者を供養されました。

今度の天皇は、前の天皇がなされた全国行脚は続けれれるとは思いますが、天皇の名で戦死された戦没者の供養も必要でしょうが、これから戦争が起きないように国民を指導するのもよいのではなかろうかと思います。


今度の皇后さまは、英語がご堪能なうえに豊富な海外の知識や知人も多いと推察され、また、その内親王も英語が、ご堪能の様子です。

戦後の天皇制では、天皇は政治に関しては国事行為に限られ、政治的に指図は出来ず、すべては国民から選ばれた内閣や国会が政治をしますが、戦争は、その国民から選ばれた内閣や国会だけに任せただけでは、防げないときもあると思います。

政治の外交が行き詰まっているときに、「 皇室外交もあり 」かと思います。

戦争が起きたら天皇ではなく内閣や国会がその責任を負うのですが、内閣の助言も受け入れながらも、相手国の大使や大統領や国王などを招いたり、あるいは訪問することによってコミュニケーションが密な友人となって、戦争に突入する前の緊張を和らげたり、防ぐことも出来るのではないかと思うのです。

皇太子は、そのような「 皇室外交 」を口説き文句に、妃に迎えながら、その機会を与えられず、「 男子を産め 」という前近代的な要望を持つ側近に囲まれて、側近に耐えきれず「 適応障害 」などという(動画によりますと「 産後ウツ 」)病名をもらって、側近に対してふさぎ込み、また内親王は学校で「 イヂメ 」にあって不登校になられたと思います。

それが今では、内親王は偏差値が72と優秀で、目指すなら入学可能な大学は、国内外にあると申します。

また、運動会で人間ピラミッドの一番下で支えたり、一般人と同様な修学旅行も楽しまれて学友からも信頼され、英語はご流暢でイートン校に短期留学され、海外の要人とは通訳なしで会話を楽しまれるなど、皇后さまになられる方には、心強い仲間に成長されています。

「 令和 」の天皇も、前の天皇の行事を引き継がれるでしょうが、いままで皇太子として尽くされていた行事を引き継ぐ側近がいないようですから、この際、内親王のお任せになられたらどうでしょうか?

内親王は男子ではなく、法律上では皇太子にはなれませんが、女子ではありますが、天皇の娘であり、実際の皇太子の立場にあたる人ですから、側近に皇太子を務める事が出来る人がいないようですから、この際は「事実上の皇太子」として、内親王に仕事を任せても、それを遂行可能な人ですから大丈夫だと思います。

しかし、天皇が男系であることは、血液のDNAを引き継ぐことには意味があると思いますから、皇室典範に従って、女子だから天皇にならなく、結婚されて皇室離脱がよろしいかと思います。


内親王の才能が豊かで、これからの勉学次第で、大学の教授になって、充分な報酬を受けて、皇室に留まっていたときと同じくらいの生活も可能だと思うのです。


それは、これから皇后になられる人が、才能ではなく子供を孕むという女性の特権でもありますが神からの加護を必要とする「 サガ 」に苦しまれたと思いますので、皇后だけが知る苦しみがあるかも知れず、それを内親王にさせるのは酷かも知れないと思うのです。

天皇が男系であることは、江戸時代などの大奥があって側室を持つことが許される明治時代のころならば可能ですが、一夫一婦制を採用する現在の憲法では、現状に合わずに、改正すべきだろうとは思います。

それは、今後、決められると思いますから、「 令和 」を迎える天皇皇后ご一家は、いままで封じられていた能力を存分に活かし、世界に開かれた皇室として、「 令和 」に求められる活躍が可能なご一家だと思い、今後に期待をしたいと思います。







(4月29日)

2019年4月27日 (土)

69歳になって考えること 私の進路 20  「 空 」への空想・ 空と無

私は、「 無 」というのは人間が思考の産物で、人類はこの「 無 」を経験したことがなく、「 空 」を「 無 」と混同すべきでないと思っています。

これまで書いて来ましたように、「 空 」はエネルギーとし、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合が「 空なる我 」としました。

「 一切皆空 」ですから、「 神 」も「 仏 」も「 空 」であり、前者が宇宙(自然)エネルギーであり後者が生命エネルギーであることは、これまで書いて来た通りです。

では「 無 」をどう考えるのでしょう?

「 無 」は「 ゼロ 」であり、そこから有限数が考えれるのですが、私は無論数学者ではなく、文系のマルクス主義を是とする大学の法学部出身で、まったく数字に弱いのですが、こうなった以上は「 無 」や「 ゼロ 」について空想したいと思います。

「 人生 」は暗闇から舞台に上がったようなものだと言う人もいますが、私は「 人生 」は有限数のようなもので、「 無 」から始まり「 無限 」の中に沈んでゆくものと考えるのですが、思考上の何も存在しない「 無 」から「 無限 」になるのではなく、エネルギーである「 空 」として循環するものだと考えています。

「 無 」や「 ゼロ 」は人間の思考の産物であり、「 空 」即ち「 エネルギー 」が「 現象 」として現れるのが理解できるように可視化したのが数字だと思っています。

「 自我 」が「 空なる我 」が「 現象 」として現れるように、自然の諸物も同様に「 エネルギーのひとつの現象 」として、私から認識されるのだと思います。

その「 現象 」を「 ひとつ、ふたつ、みっつつ……」と数ぞえるのですが、いつかわわかりませんがTVなどで未開の人たちは、ある数を数えてそれ以上は「 わからない 」という話を聞いたという覚えがあります。

この「 わからない 」というのが「 無 」であり「 数 」の始めの「 ゼロ 」がこれを現しているとのことだと思いますが、「 わからない 」のは、「 何もないから数えられない 」とは見えないものを否定するのではなく現象の「 形 」がないことだと思いますが、現象が「 数えきれないほどある 」から「 わからない 」、つまり「 無 」と「 無限 」は、「 わからない 」という点では同じなのかも知れません。

「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」とは違って「 数えきれない 」のではなく「 何も存在しないこと 」だとは思いますが、ヒッグス粒子や南部氏の対称性の崩れなどにもあるように、「 完全な対称状態 」がスピンや何かの都合で他の物体と結合した結果で粒子が現れるように「 ゼロ 」とはエネルギーが「 完全な対称状態 」の存在で、つまり「 無明 」の状態で認識されないエネルギーが均衡した状態だから「 数えられない 」とか「 わからない 」ので、「 無 」といったり「 無限 」というのかも知れません。

実際、「 誕生 」のことを考えてみますと、父親の精子が持つ生命エネルギーと母親の卵子が持つ生命エネルギーが、母親の排卵期の状態で、大量の精子とひとつの卵子が結び付き、互いのエネルギーが通じ合って、胎児という現象になるのですから、誕生前の父親と母親の中での「 数えられなく 」「わからない 」つまりエネルギーの段階から、それぞれのエネルギーの現象が結合して、「 ひとつ、ふたつ 」と数ぞえられる胎児としての「 存在 」になると思います。

その誕生前までは、「 何も存在していない 」のではなく、父親と母親の体内の中には、生命エネルギーが「 数えられない状態 」で存在しますが、その「 現象 」である精子と卵子が結合して「 無 」を現す「 ゼロ 」から、胎児という「 現象 」を発生させ、それが生命エネルギーの終焉である「 死 」で、「 数えられない 」宇宙(自然)エネルギーに戻るのですから、誕生から死までの「 人生 」が終わっても、認識されない数えられないエネルギーの状態として「 有る 」のであって、思考された「 無 」は、人間が見る「 形 」だけに過ぎず、「 形 」を変えて「 無限のエネルギー 」として残ることを否定しないのだろうと思います。

「 無 」とは「 対消滅して隠されている無限のエネルギーの存在 」で、認識不能な「 空 」であるが便宜上理解可能な「 形 」の「 ゼロ 」として、「 存在しないもの 」としているのではないかと、私は思っています。

ですから、密教の真言宗では、困難に直面したとき、弘法大師さまの名前を唱えれば、何もない虚空から直ちに現れてくださると信じているのではないでしょうか。

私は、こうして「 無 」や「 ゼロ 」は「 無限 」と同義で、「 数えられないこと 」であり、エネルギー(神)の「 完全なる対称 」から、珍しく外れた物体が「 人間 」であり、人間が尊いと思うのは、精神があるのではなく他の動物も尊いと思うのと同様に、神(エネルギー)の「 完全なる対称状態 」から、偶々、はずれて、数えられる存在になったことを喜ぶことであり、それは宗教的には「 神から離れた物体 」として、あり得ない事が起こったことで、神(エネルギー)からしては想定外のことで、「 対称状態 」に戻ること、即ち「 対称性 」を含んだ合理的な考えが、近年に言われる「 神の数式 」でしょうが、微細なエネルギーの対称性を漏らしている可能性もあるので「 完全な対称状態 」にならなく「 真実 」ではないのかも知れません。

「 すべてがわからない 」という状態は、単なる「 無知 」ではなく、考えた末、「 すべてが対消滅する 」ことになるという結論になるのかも知れません。

「 神の数式 」が、数々の「 対称性 」を取り入れられるのは、まだ知らない宇宙があるのかも知れませんが、「 対消滅してエネルギーに戻る 」ことを想定して理論を組むことで、エネルギーを「 形 」にして組み入れて、対消滅をしていない現在の物理の理論を作っているのかも知れませんが、もし「 完全調和 」が「 神 」であるなら、上述の「 すべてが対消滅 」して、「 すべてがわからない 」のが正しいのかも知れません。

ですが、対消滅するエネルギー自体は存在しますので、「 一切皆空 」も、この世で生命を肯定する考えを育てますから、「 無 」も「 無限 」もエネルギーを持つ事に変わりがないと思って、「 一切皆空 」を、現在の私は支持しています。









(4月27日)

2019年4月26日 (金)

69歳になって考えること 私の進路 19  「 空 」の解釈と進路その3

私が、これまで「 一切皆空 」という大乗仏教の教えから、唐突に「 空なる我 」を導きだしたように思われるかも知れませんが、これは、私の規定路線でもあるのです。

「 無我 」を「 空なる我 」としましたのは、「 自我 」を否定するべきですが、「 自分 」を考えてみますと、私の思考は頭脳という生命エネルギーの働きだろうし、「 からだ 」を形成するのは宇宙(自然)の素粒子を他の自然物と同様にDNAのもとに結合、あるいは結集した細胞の集まりでしょうしそれは宇宙(自然)エネルギーの産物だと思います。

その細胞が、絶えず新陳代謝を繰り返して新たな細胞を補充しているのは、「 万物は流転する 」自然物と同様であって、自分の「からだ 」を幾ら細分化しても、また自然物を幾ら細分化しても、結局はその素粒子を結合させているエネルギーに行き着くと思います。

私は、これを「 色即是空 」と考えて、「 色 」は「 からだ 」で「 空 」は「 エネルギー 」で、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーであるとしました。

また、宇宙(自然)エネルギーや生命エネルギー(空)は、「 生物 」と認識される物(色)という「 エネルギーが現象となった姿 」によって人間に示されますので、これを「 空即是色 」としました。

それは、アインシュタイン氏の、{ E=MC² }の考えを頂戴したもので、同氏に深く感謝をいたします。

私が「 空なる我 」としましたのは、「 色即是空 空即是色 」から導きだしたもので、それが「 一切皆空 」に一般化することによって、自分を含む自然物が変化するのは、「 空(kuu)」というエネルギーが変わるからだとしまして、私の「 からだ 」や「 思考 」が、その時々に変化するのは、自分が、何処かにエネルギーを持っているからであり、他人の「 からだ 」や「 思考 」、その他の自然物も自分と同様のエネルギーを持っているから「 形 」を変えられるのであり、変化後の「 自我 」は、そのエネルギーの結集の結果であり、そのエネルギーは「 死 」という「 形 」で終わるけれども、そのエネルギーは宇宙(自然)のエネルギーや生命のエネルギーの発生源に戻るだろうと考えました。

もしかしたら、「 自殺 」する人は、その場所が好みで、死後もそこに留まりたいから、その状況で「 自殺 」するかも知れませんが、それは本来、戻るべき所の戻っていないのであり、「 魂 」の循環が乱れることになるかも知れません。

人間は「 呼吸 」して、宇宙(自然)エネルギーを取り入れ、あるいは熱を自然界と交流させることによって生存するように、生命エネルギーは宇宙(自然)エネルギーの庇護の元に成り立つのであり、神(自然エネルギー)の前では平等でDNAにより生命エネルギーによって人間にとっての優劣がつくかも知れませんが、神の前では平等であり、お互いに神仏エネルギーの習合という点では同等のものだと思います。

仏教の「 縁起縁滅 」という考えも、生命エネルギーがある限り、人類が生存する限り妥当するだろうし、それは「 思想 」ですからキリスト教のいうように人類滅亡しても天体の動きは人類の滅亡には影響なく宇宙(自然)エネルギーで変化し続けるでしょうが、人間が考えた「 時間 」や「 空間 」はなくなり、エネルギーという「 無明 」の世界に入ってゆくのだろうと思います。

日本の空海という僧侶やゴーギャンが、どこから生まれて死んでどこにゆくだろうかと問いましたが、私は人類の行き末と同じく「 エネルギー 」という「 無明 」の世界に行くだろうし、生命エネルギーは「 本能 」というエネルギーとなって、仏教がいう輪廻転生する「 無明 」の世界にゆくかも知れません。

なにせ、人間は「 エネルギーの一つの現象 」に過ぎませんから、自分が死んでも人類が滅亡するときと同様に、エネルギーに戻るだけだと思います。










(4月26日)

2019年4月25日 (木)

69歳になって考えること 私の進路 18  「 空 」の解釈と進路その2

私は、前回で「 無我 」を「 空なる我 」として考えますが、根本的に仏教とは違う考えではないだろうかと思います。

仏教は、宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」として考えて、その方向への人の救済の理論かと思いますが、私には、その「 因果 」が生命エネルギーが生み出した煩悩ともいうべきもので、その「 因果 」を考えることは、やはり「 自我 」の範囲に留まり、生命エネルギーから出た煩悩が、本来は清浄であるエネルギー全体を汚し、宇宙(自然)エネルギーの中の生命エネルギーは清浄ではあるが、動物の「 本能 」という無明と私には思われるものを含んだエネルギーでもあり、般若心経でいう「 空(kuu)」という意識で清浄を取り戻せるものだると思っています。


人間の他の動物も、意識でないにしても宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」と捉えて行動するもので、人間も同じという考えもありますが、せっかく「 空(kuu)」は「 エネルギー 」であると意識できたのですから、古来の「 魂 」というのを(神仏)エネルギーの習合であるけれど、それは「 生命一般の生きる事 」だとして、特定の「 魂 」ではなく生命体一般に共通する「 命 」だとし、動物はDNAのため本能の煩悩のまま暴走するのが「 穢れのない命 」の行動であるかも知れませんが、「 空(kuu)」を知った人間が「 穢れのない命 」に従った行動というのは、仏教の「 慈悲 」というか、他人を自分と同じ「 エネルギーの現象 」として、相手を突き放した「 憐憫 」の「 気持ち 」や「 心 」をだくことなく、相手と同時に痛みを共に感じ、喜びを共にするのが「 空なる我 」になることであり、苦しむ人に財物を与えることや道理を教える「 布施 」というのもそれを現す行為だろうと思います。

ですから、なぜ「 布施 」をするかは、目の前の可哀そうな僧侶への寄付でもありますが、同時に私の「 魂 」の浄化であるとも考えていて、私は災害に対する義援金などの財物給付も、目的の第一としては苦しむ人のためでもありますが、自分の「 魂 」の浄化でもあると考えています。

これは、その行為の「 因果 」により、更なる自分の幸福への道ではなく、因果律には従わない幸福だと思っています。

それは、親の子への無償の愛のように「 見返り 」を求めるのではなく、自分が蓄積して来た自分の「 可能性 」を相手に与えることによって、自分の「 魂 」あるいは「 生命一般 」を清浄に戻すもので、それを「 幸福 」と捉えるなら、生きる自分が「 因果 」によっての「 幸福 」と同じ名前の別物を獲得することだと思います。

別物といいますのは、もしも相手が遺恨を残して死んだ主君で、その人から育てられた自分の生命をかけることによって、相手の「 苦抜楽与 」が可能なら、主君の遺恨をはらすために討ち入りをした大石内蔵助の辞世の句である「 あら楽し おもいははるる 身はすつる 浮世の月に かかる雲なし 」と同じ幸福なのではなかろうかと思います。









 

(4月25日)

2019年4月24日 (水)

69歳になって考えること 私の進路 17   「 空 」の解釈と進路

私は、これまでに「 一切皆空 」のもと、お釈迦様が言う「 無我 」も、私の思考の延長で「 空なる我 」と考えました。

私は、仏教と申しましても「 般若心経 」の短い文章を唱え、その意味を自分勝手に解釈しまして、「 空(kuu)」が「 実体がないこと 」だとしましたら、我が国の法律で電気が財物か迷ったすえに財物としたように、もし、「 実体がない 」とは定義は出来ないことならば、定義することは出来なくても存在するものがあるということならば、つまり生命エネルギーのそとに何か不明な自然エネルギーがあると考えれば、「 空(kuu)」は「 (神仏)エネルギー 」でなかろうかという考えになり、「 空 」を「 エネルギー 」としました。

これは、明らかに{ E=MC² }というアインシュタイン氏の考えを頂戴したもので、他のブログにも書いてありますように、古代の釈迦たちの考えには、現代物理学の像が見えていたのだが、{ E=MC² }を知らずこれを「 空(kuu)」としたもので、その智慧に辿り着くまでは古代では呪文を唱えて心を統一するしかなかったのだと思います。

私は、大乗仏教の龍樹の教えの本は読んでおらず、私の考えは仏教からは到底、認められないと思いますが、「 空(kuu)」とは、知識で理解するようなものではなく、「 からだ 」で感じるもので、ちょうど重力を自分の危険度で現すように、感じるものなのだと思いますので、例え龍樹が持っていた知識がなくても「 空 」を知ることが出来ると思います。

先ほど述べましたように、「 無我 」は「 空なる我 」で、「 (神仏)エネルギー 」の習合が「 我 」だとしまして、重力のようなものだと考えますので、それは無意識なら「 人格 」の完成でしょうし、本来はイメージが不可能な「 仏 」を昔の人が「 後光 」を像の背後に書いているのは、仏も「 空 」であり「 エネルギー 」であることを感じているんだと思います。

私は、人が持つ「 魅力 」というのも、そのエネルギーの現れではないかと思っています。

エネルギーは知識から得られるものではなく、感じるものだということは、極端にいえば「 心 」や「 気持ち 」を持つ暇もなく、偶像も作れないことであり、「 将棋は格闘技 」で書きましたように「 石火の間 」という武道にも通じることだと思います。

この考えは、あくまで現代の考えであって、今現在、客観的であり合理的であることは、「空」でもわかりますように「 不合理 」も含むのが「 真実 」だと思いますので、いづれ歴史により淘汰されるのだと思いますが、現代で、世界はホログラフという主張に対しては、そのホログラフだと見ることも、エントロピーも「 エネルギー 」に関するものですから、私にとりましては、その「 エネルギー 」の解釈によって、採択を決めたいと思います。

話は戻りますが、般若心経に書かれている「 無 」や「 不 」の解釈により、釈迦はまた違った世界観を持っていたのかも知れません。

お釈迦様は「 無我 」としましたからそこには違った意味があるかも知れず、僧侶の考えを聴かなくてはなりませんが、私は「 無 」は人類が経験したのではなく思考上の産物だとしましたが、「 無 」が「 0(ゼロ)」であり限りないエネルギーを持ち、「-(マイナス)」という世界は対消滅する異次元の世界であるとすれば、またこれも私の考えは間違いであるのかも知れません。

そこまで考えての「 無 」とはせず、単なる否定の意味で、「 無我 」とは「 我 」を否定するものであるかとも考えましたが、一方では「 唯我独尊 」とまでいわれていますから、「 我 」をまったく否定するのではなく「 自然エネルギーと生命エネルギーの習合 」を考えて「 空なる我 」とし、自分の偶像が「 自我 」であり、その偶像を否定する意味で「 無我 」といわれているのだと考えています。

このように「 我 」を「 空なる我 」とし、自然物が自己を形成するエネルギーがあるように、人間にも人間を形成するエネルギーが「 我 」であり、これらはエネルギーとしては、自然物と同等のエネルギーであり、醜い動物はおのれが持つDNAにより人間の眼には醜くみえるのを自分ではどうすることもできませんが、人間は意識で、容貌を変えることが出来ますが、エネルギー(神仏)から見れば、醜い動物もどんな容姿や思想を持った人間も同等であり、ただ授かった命を「 自殺 」という「 形 」で形だけ変えてしまう人間は、神仏から見れば、真摯に生きる動物より劣った生き物に映るかも知れません。

作家などの知識人が「 自殺 」する場合が多いのですが、自分を「 空なる我 」として捉えて、自我は「 (神仏)エネルギーのひとつの現象 」に過ぎず、他人も同じ「 現象 」であると考えると、他人の悲しみを自分の悲しみといて捉えて「 慈悲 」の「 心 」が起こるのではないか、原爆被害に苦しんだり地震災害に苦しむ人を「 あざわらう 」ことなど、当然、出来るはずもなく、知識人であれば、その知識を活かして「 救済 」にまわるべきではないかと思います。

「 自殺 」する人も、原爆や災害に苦しむ人の苦しみなど無頓着、あるいは「 あざわらう人 」と同等であり、自分の容姿だけ「 形 」だけ、あるいは「 自我 」だけしか考えない人であり、ウシやウマやブタやトンボやカやハエや草花が生きている姿見習って「 人生 」をやり直すことが必要ですから、例え「 自殺 」で「 形 」を変えたとしても(神仏)エネルギーは残りますから、人類は幸福にはなれないだろうと思います。

私は、このように「 空(kuu)」の自覚が、仏教の根本にあると思います。

これは、これまで書いてきた(A)の思想も(B)の思想も、共に生きるには必要であり、宗派に分かれて主張されるのには疑問に思っています。

また、「 空(kuu)」を、「 からっぽ 」や「 空虚 」などという意味にして、この世は夢やバーチャルだと思うと、「 希望 」や「 変化 」や「 無常 」というエネルギーを生む考えとは反対に、「 絶望 」や「 あきらめ 」や「 虚無主義 」や「 自殺 」を肯定する考えや生き方になってしまうのではないかと思いますから、ホログラフィック宇宙が正しいかも知れませんが、先ほど申しましたように「 真実 」とは言い難いので、現在の私は、この考えは採用しません。

「 空(kuu)」をどのように解釈するかで、考え方や生き方の進路に大きな違いを見せると思いますから、素人の私としては、仏教の始めに般若心経の「 空(kuu)」の解釈から説明してもらえば、古代の人からもっと、人間が進化するための多くの疑問が湧くと思います。











(4月24日) 

2019年4月22日 (月)

69歳になって考えること 私の進路 16  「 空なる我 」その3

私は、「 空なる我 」は、自然エネルギーと生命エネルギーの習合として、「 一切皆空 」に従って「 自我 」という実体ではなく、ちょうど台風のように、どこに中心があるのか知らないが「 空なる我 」の周りに「 煩悩 」によって「 心 」や「 気持ち 」を作りそれを「 自我 」だと思っています。

仮に、ある株式投資をしていて株を持っているとき、その株自体を自分の煩悩で集めて、その株式の価値が市場で上下して、自分の懐と比べて不安になるように、無常に変動し、「 心 」が安らぐことはなく、手放したら安心するようにいつも自分に不安をいだいています。

煩悩自体は、「 欲 」でして、生命のエネルギーだと思いますから、煩悩を滅却することが「 即身成仏 」になるとは考えずに、煩悩の捉われて不安になったり喜んだりと、煩悩に左右されるのが、「 汚れ 」だと思いまして、「 空なる我 」は、引力のように引き付けたり離したりする力(エネルギー)であり清廉なもので、引き寄せる物が煩悩で偏っているため、地球上がゴミで汚れるように、煩悩が表面を汚しているから、それを捨てて、「 引力そのもの 」になろうというのが「 空なる我 」になることだと思います。

生きているゆえに、本能とも言うべき曇った煩悩を必要としますが、ハスの花が汚泥から首を伸ばして咲くように、本能(煩悩)の中から「 知 」という華を咲かせるのだと思います。

私は、般若心経しかお経は知りませんが、「 空(kuu)」が、仏教の根底にあって、自分を、自然界のエネルギーのひとつの現象だと考えることによって、「 慈悲 」も生まれ、そのための修行段階として、各宗派の戒律があるのであって、目指すところは「 空(kuu)」を実感することではなかろうかと思います。

戒律を守っておけば涅槃に到達するのではなく、「 空 」を知り、「自分」と同じ「 現象 」である他人のすべての悲しみを我が身の悲しみとして引き受け、悲しむ人に「 慈悲 」を行う僧侶こそ「 即身成仏 」した人だというのではなかろうかと思います。

仏の教えを受けた、そんな人が現れることを切に願っています。










(4月22日)

2019年4月21日 (日)

69歳になって考えること 私の進路 15  「 空なる我 」その2

私は、「 一切皆空 」に従って、私という自我も「 空 」であり、その「 空 」とは、自然エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合で、自然界にあるように「 形 」を作る働きがそのエネルギーであり、「 自我 」というのは、その時どきまでに、自分の生命維持のために「 可能性 」を集合させて無意識に「 からだ 」を動かす能力となっていて、そのエネルギーが自分のDNAなりの変化して現れた「 形 」だと思っています。

自然界での自分の存在感が「 気持ち 」や「 心 」で、それが「 自我 」であると思っていますから、今、自分が感じている気持ちは、神仏エネルギーが自分の煩悩に応じて「 形 」を作ったものを感じていることで、それは自然界と同じような「 現象 」を感じることであり、自分も他の自然界の動物も同じ「 エネルギーのひとつの現象 」として捉えるべきことは、「 13 」で書きました。

その「 自我 」を「 空なる我 」にすることは、自分の存在を全否定するのではなく、「 自分のため 」という方向を「 人類一般のため 」と変えて、今、持っている可能性を、間違いに拘らずに、人間進化のために「 創造 」することが「 空なる我 」になることだと「 14 」で考えました。

無論、禅などを実施する仏教の立場ではなく、人間を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えて人間進化を目指すことは、仏教のいう人格の完成を目指すものではないですが、禅で真理を悟ったとしてもその後はどうするのかという進路の問題に突き当たりますから、真理を悟っていなくても方向が正しいのなら、神仏には同等だと思います。

人は人間の生きる多様性を示すためにDNAを違えて作られていると思い、現在の自分は、自然界と同じく「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えるなら、セミやトンボやクマや馬や犬や猫のように、エネルギーが尽きるまで、一所懸命に生きて死なねばならないのが生物を創った創造主の意図であるだろうし、「 自殺 」するのが人間だけというのは、人間の欠点であり、誇るべき考えでないことは明白です。

「 どうして死んではいけないの 」というのは、犬や猫のようにエネルギーが尽きるまで生きなくてはならないのが、命を持つ生物の生き方であり、「 自殺したら犬や猫に叱られますよ 」というべきでしょう。

「 私は無神論者だ 」という人には「 あなたのなかで生きている神様(エネルギー)が泣きますよ 」とでもいうべきでしょうか。

私のようなDNAを持つ者にとって、「 人間の進化 」に役立つことができるのかを考えますと、今まで、偉人たちが疑問や嘆きとして残した文句や、昔から受け継がれている難解な文章に、自分なりの解釈を与えることぐらいしか思いつきません。

私は「 無我 」というのを、「 一切皆空 」に従って「 空なる我 」と考え、それを実体の無いもので「 からっぽ 」ではなく、自然エネルギーと生命エネルギーの習合と考えることによって、一切を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉え、その発展した「 形 」を「 自我 」としましたので、「 形 」を変えてもエネルギーは消滅しないならば、「 自我 」という「 形 」を自分をはずした「 形 」に変えることで、「 無我 」の「 形 」のエネルギーとなることを書きました。

ここから、おのずと「 生きる意味 」や「 自殺の意味 」もわかると思います。













(4月21日)

 

 

2019年4月20日 (土)

69歳になって考えること 私の進路 14  「 空なる我 」になる

「13、私の考えの適用 」の延長上で、「 空なる我 」になるとは、どのように考えるかを書きます。

「 自我 」は、神仏エネルギーの混合である「 空なる我 」が生存のために集積した自分のための可能性を無意識な「 能力 」として蓄えたエネルギーであり、この齢になって全てを放棄しなさいと言うのではありません。

煩悩によって集積したものですから、多くの物を捨てることになるかも知れませんが、「 可能性を集積する力 」は、「 空なる我 」が、他の自然物が諸物を集合し結合して「 形 」を作るエネルギーと同じく人間に与えられているエネルギーとして残り(自然エネルギー)、生存するためのエネルギーは生命エネルギーとして、人間に与えられた様式に沿って使うことが条件で残ると考えます。

「 自我 」を捨てて「 空なる我 」になるのですから、自分の為を捨てて人間一般の為に置き換え、自分がこれまで生きて来て得た「 可能性 」という能力(エネルギー)を人間一般の「 可能性 」として、自分から離れて、人類進歩の為に「 可能性を活かす 」ことが、自然エネルギーと付与された生命エネルギーに戻ることになるかと思います。

「 自我 」を捨てることは、「 可能性 」を放棄するのではなく、人類進歩のために「 可能性 」というエネルギーを使うことで、才能ある人がノーベル賞を受けられるのは、自我から離れて「 空なる我 」になって社会に還元したことだと思います。

勿論、ノーベル賞は貰えませんが、趣味といえない趣味があるように、自分が「 空なる我 」をもって、自分のエネルギーを人類のために使うなら、生命エネルギーを司る「 仏 」の立場からは、同等であると思います。

人類の為というのは、「 創造 」にエネルギーを使うことだと思います。

客観的な評価に捉われずに、当時の「 合理性 」を疑って一見して不合理とも思われることでも、その方向を貫くことだと思います。


「 方向 」は精神の問題で、いづれ間違いが後世になってなされるでしょうから、間違ったことを言わない自分であるため何も言わないではなく、間違っているかも知れないが「 自分の信じる道を行く 」ことが肝要かと思います。

勝負では、「 勝つと思うな、思えば負けよ 」といいます。


将棋なら、「 勝ち 」や「 負け 」に拘らず、自分が考えた最善の手を指して、「 負けた 」としても、「 その手では負ける 」と示すことで、人のためになるかと思います。


菊の花がバラにはなれないように、アヒルが白鳥になれないように、人間も皆、自然界にはDNAがあり、自然界から見れば生物として同等で優劣はなく、世間でいうノーベル賞を貰えないけれど、人類進歩に役立ったならば、人間として生きるべき「 仏の世界(生命エネルギー) 」から見れば、「 空なる我 」になれたことになるから、ノーベル賞の受賞者と同等に扱われると思います。

自分のDNAに従って、自分のためという観点を捨てて、自分の能力に「 可能 」なかぎりを尽くすべきだと思います。








(4月20日)

2019年4月 9日 (火)

69歳になって考えること 私の進路 13 私の考えの適用

私は、これまで、仏教で言われる「 一切皆空 」の考えのもと、(A) 顕教の考え(唯識)・「 縁起縁滅 」と(B) 密教の考え(色即是空 空想是色)をもって進み、「 一切皆空 」により「 自我 」も「 空(kuu)」としました。

ただ、私の場合、仏教と大きく異なり「 空(kuu)」を「 エネルギー 」としまして、そのエネルギーは空気などの宇宙(自然)エネルギーとDNAの力などの生命エネルギーとし、前者は宇宙の創造者たるエネルギーですから「 神 」とし、後者は生命の創造者たるエネルギーとして、「 仏 」としました。

その二つの集合を神仏習合している人体(精神を持つ霊体)として、二つのエネルギーが混在しているがゆえに「 死中生あり生中生なし 」の新陳代謝の世界で、外界の「 色即是空 空即是色 」の世界に対応していると思います。

現在は、超弦理論やホログラフィック宇宙論が流行しているようですが、以前に申しましたように、客観性や評判は人間思考のためであり、人間の思考そのものが神の考えとは違うかもしれませんので、それは「 真実とは限らない 」し、「 空(kuu)」を「 空虚 」とか「 からっぽ 」などと考えれば、この世は夢であるとなって、自殺、テロ、虚無主義、無情というような思想に導かれるから、そうではなく、「 ホルグラフィック 」に目で見える事も「 エネルギー 」によりますから、「 エントロピー 」は「 エネルギー 」に関係する概念でしょうから、その「 変化 」する「 エネルギー 」とは何か、「 色即是空 空即是色 」をこの宇宙論でどのように説明するのか?が判明しないのなら、この理論は、最新の科学者が主張するのですから真実かも知れませんが、「 道義的 」に採用することはできません。

なぜなら、私の考え上に「 無常 」や「 希望 」や「 変化 」という概念が活きるからです。

「 一切皆空 」により人間も自然物と同様に「 空 」ですが、私の「 空 」は「 エネルギー 」ですから、人間はそのエネルギーを生殖という行為によって「 エネルギー・力 」を継承しているのだと思います。

母親の体内には「 エネルギー 」が宿るもので、「 我 」がその「 エネルギー 」であり生存するために生命エネルギーの力により、台風や太陽系ができるように「 我 」のまわりに、自分の都合のよく合理的で客観的な思想や養分を他の動植物の生命を奪って「 自分 」のものにして、「 自我 」を作ると思います。

それは、(A)の唯識を見ればわかりますし、それが(B)の思想により、「 一切皆空 」であるからこそ、「 変化 」が生まれ、「 空 」即ち「 エネルギー 」であるからこそ、「 変化 」し、それを「 縁起縁滅 」と因果で自分のために獲得した「 可能性 」が、更なる因果を生んで、自分のための固定した「 可能性 」は否定されることになり、「 自我 」という偶像は捨てることになります。

その「 可能性 」は静止したものではなく絶えず変動しますから、無意識のなかで気配を感じ取って、偶像になっている「 自我 」と比較して「 不安 」になったり「 安心 」したりという「 自我 」を変動させると考えます。

それは、「 神 」を一夜にして感じ取って永遠の安心を得ることも出来るでしょうから、ブッダやキリストのように一夜にして「 悟る 」ことも出来るかも知れません。

そろそろ、「 私の進路 」について、結論を書かなくてはいけません。


「 一切皆空 」で、自然物が皆「空」であり、変化するならば、自分の「 我 」も「 空 」であり、その時々の自分が、「 そのエネルギーのひとつの現象 」として、捉え「 自我 」を偶像のように固定せず、生死の形を問わず、「 エネルギーの宇宙への回帰 」を信じて、その「 回帰 」の方向に自分を進めることであり、「 死 」という形をして人体は消滅しても、宇宙(自然)エネルギーとなって「 生きている 」ことを希望することだと思います。


それまでは、他の動植物の命をありがたく頂いて食前の「 いただきます 」と食後の「 ごちそうさま 」という命を頂いた感謝のお礼と、これからこの命を自分の命に替えて、自分もまた自然の回帰すると考えて生きようと思います。


「 散る桜 残る桜も 散る桜 」で、DNAにより障害を持とうが健常者であろうが、日本人であろうが外人であるが、頭脳明晰であろうが劣等生であろうが、美人であろうがなかろうが、「 エネルギーのひとつの現象 」であることには変わりなく、みんな孤独で、世界でたったひとりの自分だけの人生を歩んで、「 人類の多様性 」を示さなければならないという神(宇宙エネルギー)が課した任務があると思います。

バラの花が「 私は美しいでしょう 」とかトンボやセミが短命を嘆かないように、お金持ちの人生が貧乏の人の人生を劣ったものとすべきではありません。


お金持ちになることが自分の道だと限りませんし、バラやトンボやセミのように、生きることが自分の道を進むことで、たとえ貧乏であっても、幸福かも知れません。


お金持ちが貧乏な人より幸福と思う人は、そんな幸福が至上の幸福だと思っているかもしれませんが、その幸福も「 死んだら終わり 」です。


「 あら楽し おもいははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」と死に際に歌った、大石内蔵助の幸福などわかりもしない人であるかも知れません。

負け惜しみになりますが、自分の境遇を嘆かないで、自分なりの人生を自然と共に生きてゆくことが、「 宇宙(自然)エネルギーの回帰 」の方向に進むことで、それが、安倍首相がいった、日本人のひとりひとりが自分の花を咲かせることだと思うのです。


これは、私の進路に対する考えであり、一般的には、以前に亡くなられたアップルの創始者である、スティーブ・ジョブズ氏の演説が参考になると思います。









(4月9日)

2019年4月 7日 (日)

69歳になって考えること 私の進路 12 進路その3 「 空なる我 」

私は、「 自我 」を否定すると申しましても、(神仏)エネルギーとしての「 空なる我 」は否定しません。

「 空なる我 」とは、どのように考えるのかについて書きます。

私は、「 エネルギーは素粒子その他を結びつける力 」と考えまして、(B)の思想である「 空 」を「 エネルギー 」とし、仏教の言葉でありながら、大乗仏教の龍樹の考えに従わないように「 我 」についても、古代インドの考えではなく「 空 」つまり、「 (神仏)エネルギー 」の集合と考え(なぜなら、すべて空だから)、それが都合の良いように結びつけたものが心や気持ちなどの「 自我 」であり、この「 自我 」を固定した実体と考えずに、(神仏)エネルギーが進展する可能性を含むものと考え、それが生死という形を問わず、続くものだと考えています(エネルギー保存の原則)。

自分の目の前には脳内錯誤した世界であるとしても、「 生きるため 」には呼吸が必要であるように、脳内錯誤しているのが生命エネルギー(仏)であれば生命維持のためには、空気という宇宙(自然)エネルギー(神)を必須とするものだと思います。

上記の考えを進めて、「 死 」とは、生命エネルギーの終焉とするべきで、宇宙(自然)エネルギーは宇宙に回帰し(エネルギー保存の原則)、そのご、また別の生命エネルギー結びつくと考えますと、「 輪廻 」の思想も理解できます。

人間が「(神仏)エネルギーのひとつの現象 」としての自然物であれば、動植物はもちろん台風などの、あらゆる現象を含むように考えるべきで、プラズマ宇宙論のフィラメント構造やビルケランド電流などの考えも包摂するように考えるべきだと思います。

私には、とてもそんな考えは思い付きませんが、仏教で「 三身 」を「 法身・報身・応身 」とする概念がありまして、その解釈は、仏教典に従うべきでしょうが、私は、法身は宇宙、報身は思想、応身は変化する人体と解釈しています。(これは、ご自身で検討してください)

この世は、すべて「 空 」であれば、すべて「 エネルギー 」であり、この「 三身 」もエネルギーであり、それだからこそ、応身たる人体が新陳代謝して絶えず細胞を入れ替え、法身は拡大とか縮小するだろうし、報身も、その思考自体がエネルギーであるから、体系を破壊し新たな概念を生むだろうし、「 死 」は頭脳の産物である「 無 」になることではなく、「 生きる身体 」という形は消えても、それまでの人体を構成していた宇宙(自然)エネルギーは回帰して「 有 」であり、それだからこそ、万物は固定した因果関係で終わることはなく、絶え間ない因果の世界(A)という思想が活き、「 無常 」や「 希望 」といった概念も活きるし、(B)の思想も活きると思います。

現在の私の考えは、「 法身・報身 」に合一する「 応身 」であれば良いと思っています。

(4月7日)

2019年4月 5日 (金)

69歳になって考えること 私の進路 11 進路 その2 「自我」という偶像を作らない

以前、書きましたが、問う人は既にその答えを知っているというのは、本当だと思います。

私は、69歳だから、お前の進路は「 死 」への進路だけじゃないのか?というのは、まぎれもない真実の道だと思いますが、あなたはどうでしょう?

古来から「 散る桜 残る桜も 散る桜 」と申しますから、あなたも私と同じ「 死 」への進路しかないと思われます。

それは、物心をついた頃から考えるでしょうし、小学生の頃、「 いぢめ 」にあって、私にはもう「 死 」への道しかないと思いつめて自殺する人もいるでしょう。

真実の道の選択ですから、私に対して「 お前には死ぬしか道はない 」という人は「 いぢめで死ぬのもお前の道だ 」というのかもしれません。

ですが、あなたは、そう思って生活されているのですか?

自分が生きるため、あるいは家族にひもじい思いをさせたくないから、行きたくもない会社に出て、報酬を得られているのではないでしょうか?

あなたの子供に「 お前には死への進路しかないんだよ 」と教えておられるのでしょうか?

考えますと、69歳とか18歳とかいう年齢や時間や、死とはなんだろうか、進路はなんだろうか、生きるとはなんだろうか、なんてなことを考えた上での発言でしょうか?

「 死ぬまでは、時間がある 」と申しましても、自分が生きる「 時間 」は、あと数秒であるかも知れません。

永遠と申しましても、人間社会での「 永遠 」ですので、「 永遠 」は「 今 」の中にあるかも知れません。

まして、「 死ぬ事 」は誰でも解ることですが、生前では想像に過ぎず、実際は全く思考が及ばないものかも知れません。

なのに、単純に地球が、位置を変えながら、太陽の周りを公転する回数であるとお考えであれば、「 あなたは幸せです 」と私は言うしかありません。

地球も宇宙の星屑になって、人類がいなくなっても「 時間 」はあるとお考えだろうと思います。

本題に戻りまして、私の進路について「 その2 」です。

今までは、神仏のエネルギーが姿形をしたものが自分であり、(A)顕教と(B)密教の考えを持って、「 無我 」の気持ちで生きるとしましたが、もいひとつ書きます。

これは、付随することかも知れませんが、「 無我 」のところでも書きましたが、「 自我 」を否定して「 空(kuu)なる我 」すなわち、「 宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが結託した神仏エネルギー 」に戻ることを心掛けるのですが、それはなんだろうかと考えました。

「 気持ち 不安 」の所でも書きましたが、(B)の世界に置かれていると、無意識を張り巡らして「 気配 」の中に自分への脅威を捉え、頭脳の海馬に蓄えられた自分の無意識である「 可能性 」と比べて「 不安 」や「 安心 」、あるいは「 快 」と「 不快 」や「 嫌 」とか「 好き 」などの無意識の感覚を保持したものが(A)の世界の「 気持ち 」や「 心 」であって、これが「 自我 」であるとしたら、これを否定しなければならない、あるいは考えてはいけない事になります。

それでは、どうするのか?

それは、「 そんな感覚を保持しない事 」で、「 心 」を作らないことです。

具体的にはどうするのか?

それは、「 将棋は格闘技 」という電子書籍で書きましたように、相手の動きに間髪を入れず動くことで、行動することを意識にまで高めず

無意識のままで反撃、反応することです。

その為には、常に無意識を磨くこと、無意識に出た行動は「 人格の現れ 」ですから、人格を磨いておけば、人間関係もうまくいくでしょうし、意識して技術を鍛錬して、無意識で相手を制して試合にも勝つでしょう。

勝つ為の技巧は、破られるものです。

柳生宗矩がいった形の無い構えこそ最強であるかもしれません。

その延長ですが、上記の事は、「 心 」を持たないことは「 心像 」を描かないことで、可能性はそのまま可能性として活かし、「 自分はこんなもんだ 」と自分で可能性を実体化しないことだと思います。

それは、宗教界で昔から言われる「 偶像廃止 」だと思いまして、神(宇宙エネルギー)を人間の想像で限られた「 像 」にしないことで、エネルギーは無意識で感じられますから、実体化すべきではなく、私が「 空なる我 」を「 自我 」と同一にしないことは、自分という実体を作らないことで、現実の可能性は生命エネルギーの終焉とともに消えるかも知れませんが、宇宙(自然)エネルギーとなり、ほかの形に変化できる可能性を持ったまま「 死 」を迎えたいと思うのです。

なぜなら、「 自我 」は「 空なる我 」に自分の都合の良いように感覚を統一したもので、「 心 」を自分に理解できる「 心像 」にしたもので、「 自我 」を持つことは、「 偶像を作っていること 」であり、自ら自分を縛っているようなもので、生命エネルギーの段階で、自分を規定することであり、「 空なる我 」には宇宙(自然)エネルギーも含まれていますから、そのエネルギーを生命エネルギーで規定することは出来ません、規定することは「 自殺 」と同様な行為で、魂ともいえる生命を創ることは出来ないのなら、それを消滅させることも出来ないと思うのです。

人間の本来の道は、神仏から与えられたエネルギーをそのまま発揮して、「 人間の可能性 」を自分のDNAに従って孤独で独自の道をあるくことだと思うのです。










(4月5日)

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