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2019年3月11日 (月)

69歳になって考えること  私の進路 2

私は、これまで書いてきましたように、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混合一体となって「 霊 」となり、それらを容易に分離することは出来ず、生命エネルギーの終焉たる「 死 」を迎えて、初めて分離すると考えています。

前者が「 色即是空 空即是色 」に従うエネルギー(無意識)で、後者を「 縁起、縁滅 」で認識できる思考のエネルギー(意識)であるとしています。

私を含めて、あなたもですが、進むべき方向である進路を決定するのに迷う場合があると思います。

どうしてか?

私の考えでは、方向などは、後者の「 意識 」の領域が多くをしめ、目の前の世界が前者による世界ですので、認識不能であり、自分の身体や能力などは無意識が多くを占める前者であるため認識不能であるから、迷うのだろうと思います。

後者がDNAに力が大きいと仮定しますと、人類は皆、違うDNAを持ち、前者の環境も違いますから、障害を持っているとか健常者とか貧富とか美貌とかには関わらず、人類は皆、「 人類の変化の多様性をとれ 」と、生まれながらに宿命づけられており、寿命をまっとうするまで生きる責務を誕生により生きる目的として背負わされ」ていると思います。

本能という無意識のエネルギーが持つ「 自我 」を持つと勘違いする(?)ゆえに、自我から生まれた、生きる「 苦 」を伴う責務から逃れるために、自我(後者)により、「 からだ 」(前者)を故意に消滅させるために、自殺をすることがありますが、前者のエネルギー保全の原則で、「 からだ 」という形は消滅したとしても、エネルギーが残っているため「 成仏 」することが出来ないので「 幽霊 」や「 怪奇現象 」が現れるのだと思います。

「 死 」は生物的・肉体的な「 死 」もありますが、社会的な「 死 」もあるかと思いますが、精神的な「 死 」もありますから、単なる肉体の死をしたとしても、それに付随した「 死 」は死んではいないのです。

つまり、「 縁 」という条件は、前者に附随しますから、無数に存在し、消えたと思ってもエネルギーは生命エネルギーと宇宙エネルギーに分離しない「 霊 」である以上、「 存在する 」と考えます。

「 死 」で消そうとした苦しみは「 縁滅 」でない以上は、形を変えて残りつづけるのです。

ですから、「 苦 」や殺意を催す「 自我 」を捨てることは自然エネルギーに任せることも、より良き方向の発見に役立つかも知れません。

それは、能力に見合った方向を選ぶことで、無理をすればやがて「 苦 」を迎えるでしょう。

それが、お金儲けにならなくても、多様性の一つであることを示したおきは、貧富に関わらず「 宿命を果たした 」ことになるかと思います。

その「 死 」の中に「 生身を捨てて、武士として生きる喜び 」を感じる武士道などは、時代錯誤であるとも思えますが、儚い生を捨てて、永遠の生の喜びに生きると言われると、生まれた使命を果たすようにも思われて、なにか魅かれるところがあります。












(3月11日)

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