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2019年3月 5日 (火)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その5 不安

私は、「 気持ち その4 」で、気配(sign)から気持ち・心持(feeling)、そこから、一つは、不安(anxiety)から、心配(worry)への道と、もう一方の、安心(releve)から心配り(anxious)や気配り(attentive)への道があると書きました。

気配(sign)から不安(anxiety)と安心(relive)までは「 無意識 」の領域で言葉にはできなく、心配(anxious)や心配り(anxious)や気配り(attentive)は「 意識 」の領域としました。

漢字を見てみますとわかるように、「 無意識 」は心的なもので、「 意識 」の言葉には「 配る 」という、位置などを指す精神的な、意識的な言葉が使われています。

実際、その内実は、「 無意識 」の準静電気のようなもので気配(sign)を感じ、「 持つ 」という言葉でわかるように気持ちや心持(feeling)は「 無意識 」により獲得した情報の集合体と思われ、その中身は「 無意識 」で、不安(anxiety)か安心(relive)かで、「 意識 」が決定されると思います。

それで、なぜ不安(anxiety)が生じるのでしょうか?

それは、キルケゴールなどの哲学者がキリスト教的に発生のようすを書かれているようですが、仏教的にはどうでしょう?

もちろん、僧侶でもない私が、仏教的な観点ではわかりません。

私なりに考えますと、人間は生まれて経験により自分の可能性を「 無意識 」で蓄え(海馬の中?)、気配(sign)を察知すると同時に自分の可能性と比較し、不可能であれば「 不安 」、可能であれば「 安心 」すると思いますので、人間の根底に仏教でいう「 我 」があり、それが「 気持ち 」であり、「 自然の中の自己存在感 」があり、自分の可能性を主張し、「 無意識 」で得た気配(sign)と比較するものだと思います。


気配(sign)から得た情報を「 我 」で処理可能なら安心しますし、「 我 」で処理が不可能なら不安になるでしょう。

ですが、他人から、自分の可能性を否定され、自分では出来ないと思うことを可能としたり、自分が可能なのにそれは不可能だとされるとき、これから自分が、うまく達成可能かどうか「 不安 」になると思います。


それが、キリストであれば、キルケゴールが書いたようになるのでしょう。

では、仏教で、命じるひとがブッダであればどうでしょう?

ブッダが真理を説く人ですから、「 我 」をなくして「 無我 」になればブッダをそのまま是として、「 我 」を捨てて受け入れると安心(relive)し、「 我 」を主張すれば、「 我 」とブッダと比較して対立することになり、不安(anxiety)になると、私は思います。

では、ブッダが死ねば、誰に従うのかと言えば、ブッダによりますと、ダンマに従うことですが、これは宇宙の真理ですから、わかりませんが、私は、これを「 色即是空 空即是色 」を受け入れることになります。

安心(relive)なら、失敗しないように心配り、気配りを喜んでするでしょうし、不安(anxiety)
なら心配(worry)し、キリスト教では、キルケゴールがいうように、「 罪 」を犯すのでしょう。
















(3月5日)

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