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2019年3月

2019年3月31日 (日)

69歳になって考えること 私の進路 10、進路 その1

「 その1 」では、一般的と思う事を書き、「 その2 」で自分のことを書きたいと思っています。


いままで書いて来ましたように、高校や大学や就職などの自分の生活を決める進路と、人生の進路などがあると思われます。

前者は、人間が孤独ゆえにそれを補う社会の仕組みの選択であり、後者は、人間は誕生から死亡まで孤独であり、そのあいだの「 自我 」の構成の選択であるように思われ、どちらも選択であるゆえ精神的でありますが、前者は社会の仕組みが「 人のため 」に作られているのですから、いずれを選択し誤ったとしても「 人のため 」の仕事に従事するならば成功で、社会的な名誉も与えられますが、後者は既存の生き方ではなく自分の手による「 自我 」の形成ですから、失敗や成功は無いのですが、「 死んだつもり 」にならなければ、変更することが困難な人格や思想の持主になるかも知れません。


これまで書いて来ましたように、人間は頭脳を持った動物として生まれますから、先祖から引き継ぐDNAを持って生まれながらにして、認識から生じる「 苦 」を背負って孤独で、自分の道を選択して、「 人間の多様性を示すように 」生きることが神様(エネルギー)に決められていると思います。


前者でどんな学校を卒業してもどんな職業に従事しても、後者である以上は、生活上の「 楽 」はあるとしても「 生老病死 」の「 苦 」を背負いながら生きるしかなく、「 自我 」を中心として「 苦 」や「 楽 」の浮き沈みが続くと思います。


その中で、「 忘我 」とか「 無我 」とか「 無心 」を感じた時は、「 自我 」から離れた「 人のため 」の時かも知れません。


後者は、「 空なる我 」あるいは「 神仏習合してエネルギー 」を、先祖から受け継ぐDNAのもとに如何なる「 自我 」を形成し、それに与えられる困難からくる「 苦 」を如何に「 楽 」に変えるかが、個人個人に問われ、それは障害を持つ人とか健常者とかに関わらず、すべての問われとぃるのであり、障害を持つ人はその神様の指令を健常者より、「 より早く 」感じることができて、「 死 」というゴールの前では、「 勝ち組 」になっているかも知れません。


従って、後者の立場に立ちながら前者の選択に向かうことがベストのように思われますが、若い時は「 夢 」がありますから、それが邪魔するのではなかろうかと思います。


所詮、成るようにしか成らないもので、初恋の人と結婚できる人がラッキーでありますように、自分が選んだ配偶者も理想から離れている人が、案外、自分の人生を支えてくれることもありますから、「 夢 」も、ほどほどに、と思います。

私は失敗した者ですので、「 夢破れて山河あり 」で、結局は「 自然 」の「 現象 」に戻ってしまいましたが、成功された方は、違う見解だろうと思います。












(3月31日)

2019年3月30日 (土)

69歳になって考えること 私の進路 9 選択 その2

私は、「8 選択その1」で(B)宇宙(自然)エネルギーと(A)生命エネルギーの混然一体となったものが「 霊 」で、それは「 空の我 」つまり、エネルギーの集合体、言い換えれば「 神仏習合したエネルギー 」であり、それが人間という動物のDNAに従って形作られたのが「 自我 」という「 意識 」(精神)(A)であり、生身の人体(B)であると考えます。

私は、エネルギーの現れであり、(B)によって形を付与された自然物と同様に「 エネルギーの一つの現象 」であると捉え、ただ「 生きている 」という特徴(エネルギー)を持った「 現象 」であり、その「 生き方 」はDNAによって人間の可能性を発揮するようにそれぞれ道があり、それが「 人生 」なのかと思います。

私が使用した(A)は「 顕教 」の流れで(B)は「 密教 」の流れをさし、それぞれの思想を意味します。


上述のことは、(A)であり(B)であることで、それが一体となったのは「 ブッダ 」でしょうが、はずかしくも私の頭の中では、それらが別になっていて、それらが、混然一体の「 からだ 」の中で「 無意識 」に不完全に結合させているのが「 神仏習合したエネルギー 」であり、「 生きること 」であり、それが「 新陳代謝 」することでしたら、「 生死一如 」であり「 死 」と「 生 」が同居した矛盾をかかえた物体で、「 神仏習合したエネルギー 」の「 生のエネルギー 」により誕生という形の現象になり「 死のエネルギー 」によって死亡する形をとるのであり、消滅したと人間の眼で見える「 神仏習合したエネルギー 」は、エネルギー保存の原則で宇宙(自然)のどこかに留置されていると、自分勝手に考えています。


この「 神仏習合したエネルギー 」が(B)の世界で、絶えず「 因果 」を繰り返す原因であり「 空 」を、(A)の世界で「 無意識 」を通して、自分に都合の良い可能性という無意識(力)に取り入れるのですが、繰り返す「 空 」を認識できず(A)の「 縁起縁滅 」で一旦は区切って可能性に収納するため、「 空 」を「 無 」として考えるために、形は見えずとも存在するとは考えることが出来ず、どうしても齟齬が出て来ると思います。


「 持続は力なり 」と申しますが、(B)の連続を不連続としたり(因果)、不連続を連続にしたり(時間)するのも「 力 」である生命エネルギーの働きであり、その間違いを糾すのが宇宙(自然)エネルギーなのかも知れないと思います。


「 持続は力なり 」と考えないと自我である心は「 不安 」で生きてゆけないと思いますし、自我である心を「 安心 」させるには、「 持続する 」と考え「 自我 」は変わらないと考えざるを得ないと思うのです。


しかし、それは「 神仏習合したエネルギー 」は、自然を変化させるエネルギーと同様に、「 自我の形 」を絶えず変えていて「 無常 」であるから、「 自我 」を不安定にし、持続を中断させ、「 気(心)がわり 」させるのかも知れません。

生命エネルギーの働きとは、頭脳の働きを考えています。


(B)の世界に人体があり、その原則に従いますから、「 生きる 」とは「 新陳代謝 」を繰り返し、絶えず「 死 」を乗り越えて「 生 」となり(死中生あり)、「 生 」は「 死 」をんでいますから、「 生 」は純粋な「 生 」ではない(生中生なし)であるのに、「 死んだら終わり 」とか「 永遠に生きる 」などは、(A)の世界での、一つの因果を切り離したもので、(B)と(A)を一致させた「 ブッダ 」の考えではないと思います。

「 進路を決める 」ことは、「 道を選択 」することで、高校や大学や就職の進路の決定に限らず、生きるために自分を持続するために、死ぬまで人間がすることだろう思います。













(3月30日)

2019年3月27日 (水)

69歳になって考えること 私の進路 8 選択 その1

私は、以前、書きましたように、(B)宇宙(自然)エネルギーと(A)生命エネルギーという気(ki)が混然一体となって「 霊 」になり、素粒子を結びつけて、姿形になったのが「 霊体 」であると考え、(B)と(A)が混然一体となっているため、選択に迷いが生じるのだろうと思っています。


7「 その2 」で書きましたように、この世は「 一切皆空 」で、私の解釈ですと「 一切は皆、エネルギーである 」ことになり、「 無我 」と申しましても、否定すべきが「 苦 」の原因ともなる「 自我 」でして、(B)と(A)が混然一体となった、「 空なる我 」ともいうべきエネルギーは、生命の根幹であり、否定できません。


生きる以上、(A)によって、「 空なる我 」の周りに(B)である世界を(A)の認識で(B)である自分の可能性を海馬に蓄えて「 自我 」とするのですが(ですから、人間は生まれながらに「 苦 」を背負うように作られている)、自分という「 霊体 」自体が(B)であり、(B)は「 一切皆空 」で絶えず変化しますから、それに伴う「 霊体 」も変化しており、その変化に追いつけないのが(A)によって蓄えられた可能性(B)であり、地球が回り、(B)の変化に対応できない蓄積されたエネルギーとなるのが、「 自分には不可能だ 」とか「 選択を誤った 」ということだと思います。


自然界と「 霊体 」は同じ(B)の世界ですが、自然エネルギーの変化に対応する生命エネルギーの中の(B)は、「 無意識 」であると思います。



この(A)は「 顕教 」に、(B)は「 密教 」に通じていると思います。



生きる以上、若い時は、やはり(A)の喜び、つまり「 気持ち 」や「 心 」ともいう「 自我 」を成長させ、増大させる喜びを求めるのが自然でしょうが、「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように、(A)をいくら高めましてもその終焉の「 死 」により、(A)は消滅し、あるいは他の動物のエネルギーになり、高めた可能性は自分の元から社会へと流れだし循環するだろうし、(B)は、「 死 」によって「 霊体 」から分離して、その人を生んだ自然のエネルギーとなって戻るのだと思います。



ですから、私のような老人には、(A)の成長より(B)に従いたくなり、(A)の認識をやめて、認識不能とされる(B)についての宗教などに走るのかも知れません。



私の考えでは、若い時の「 空なる我 」で選択することは、非常に困難に思われ、ただ「 5、合理性を疑う 」で書きましたように、客観的で流行している事と「 真理 」は違うという(A)の働きを疑う態度が、どうも「 空なる我 」のようにも見え、そんな人の態度には金銭儲けなどの「 私欲 」は少なく、人には不可解な手間暇かけて選択する「 無欲 」さを感じてしまいます。



自分の「 私欲 」を押さえつけるのではなく、後世に続く後輩のため、現在の合理性より更なる合理性を求めて、定説とされる常識を破るような態度をとることによる方が「 無欲 」に到達しやすいのだろうと思います。











(3月27日)

 

2019年3月25日 (月)

69歳になって考えること 私の進路 7 私の考え その2

(あ)「 私の考え その1 」の補足と、(い)進路決定する主体について書きます。


まず(あ)について


(A)の「 顕教 」の流れは、「 縁起縁滅 」ですから「 意識 」や「 言語 」の世界、あるいは「 精神 」の世界で、言葉は反対となる言葉と(まるで対消滅するように)相互依存していると思います。


私も「 意識 」の中では、大乗仏教でいわれると思う「 一切皆空 」で、世界は生き物の数だけあり、すべてが実体がない(だから変化する)んであるとは思いますが、私は「 空(kuu)」を「 実体がない 」あるいは「 空っぽ 」などとは解釈しませんで、「 空(kuu)はエネルギーである 」と解釈しますから、仏教の教えとは全く違う解釈だと思います。


世界は生き物の、あるいは観察者の数だけあるとはしませんで、世界全体が「 一切皆空 」とは、仏教の教えとは違って「 すべてがエネルギーである 」ということでして、生き物の頭脳の中にある世界もエネルギーによるもので、「 実体がない 」でしょうが、「 無 」は頭脳の産物であり、認識では「 無 」としか考えられなくても「 空(kuu)」はあるのですし、「 実体がないものが存在している 」ことであり「 それが空(kuu)と名付けられたエネルギーがそれである 」ということが、私の考えです。


ですから、私の考えでは、「 無我 」というのは認識では「 我 」を否定すると思うのですが、「 一切皆空 」ですから、「 無我は空(kuu)であり 」、「 空(kuu)はエネルギーであり 」、そのエネルギーとは宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーであり、私の身体は、自然の事物がなんらかのエネルギーで組み合わさるように、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーによって素粒子を組み合わされた自然物と同じ、「 エネルギーが物となって現れた現象である 」ということになります。


ですから、その時々の「 私 」は、その「 エネルギーの一つの現象 」であることになります。


(い)決定する主体


私は、仏教などで、自我を否定して無我となるようなことをしませんで、人間を考えますと、(色即是空)により、人間は一つの(自然と生命)エネルギーとして、母の胎内に宿り、それ以降、生命エネルギーのDNAを中心に素粒子を引き付けて「 自我 」を形成し、「 自我 」とは「 心 」や「 気持ち 」であり、それが「 姿や形 」として現れ(現象)を他人から認識されて、私の心がわかる(空即是色)のだろうと思います。


人間の時々の態度や言動のすべては、「 エネルギーが形をとって現れたもの 」つまり「 現象 」であると解釈し、それは人間に限ったことではなく、自然界の現象と同一であり、台風や果実などが自然エネルギーによって出来るように(縁起)、人間の誕生(縁起)から成長しやがて死に至る(縁滅)のは、エネルギーの移り変わりを示すもので、消滅はしないので、また新たに「 縁起縁滅 」という因果関係はスタートすることになると思います。

「 縁起縁滅 」と言葉ではいいましても、更にその続きの「 縁起縁滅 」があり、「 空(kuu)」であるエネルギーは「 滅すること 」はないと思います(この点でも、仏教の教えとは違うと思います)。


その循環は「 誕生から死後までの意識 」で書きました。


進路を選択するのは、「 空なる我 」で選ぶか「 心や気持ちの自我 」で選ぶかで、違いがでるかも知れません。


前者で選べばDNAから来る能力は如何ともされませんが、自分を否定した人間に与えられた可能性・能力で選択し、自分を利するという生命エネルギーは少ないですから、案外、悩まずに自分の進路を決めることが出来るかもしれません。


後者で選べば、DNAからくる能力は勿論、それに加えて生命エネルギーの喜びも考慮しますから、前者より多く悩んだすえの進路決定だろうし、それを終えたあとも、生命エネルギーが喜ばなったら、選択が失敗になるかも知れません。


前者は、比較的、冷静で、自分の力・エネルギーに似合った進路を選択して、それ以降は動揺しないでしょうし、後者は条件次第で浮沈する「 縁起縁滅 」の世界ですから、「 気持ち 不安 」の記事でも書きましたように、自分の可能性である「 自我 」と絶えず比較しますから絶えず不安に襲われることや、将来への不安も考えられます(縁起縁滅は続くから)。


また、進路自体ですが、例えば高校や大学などの学校は知識を学ぶ環境や施設や方法の選択であり、入学すれば勉強に専念できるだろうが、後者の場合は、私の卑屈な考えかも知れませんが、前者の選択に加えて、選択が成功して入学すれば心が慢心して勉強しなくなったり、勉強しなかったら卒業後、学歴だけで生命エネルギーが喜ぶ就職が出来るか心配になるかも知れません。


要は、「 心 」を中心にした「 自我 」で選択すると、「 自我 」が揺れ動くために「 無我 」で選択した場合より、悩みが多いことです。


高校や大学の進路で終わるのではなく、それに続く就職や再就職や結婚や離婚、その後の老後など、人生の全部において進路の選択をしなければいけないかも知れません。


進路を誤るならば、死ぬことはありませんが、引き返してやり直したり、手間や金銭の浪費につながるだろうと思います。


また、前者であれば、進路を進んで社会に出ても、「 無欲 」あるいは「 無心 」で、自分が学んだ知識を与えて、人類の進展の貢献する形の「 現象 」として現れるかも知れません。


後者の場合は、当初から、生命エネルギーによる「 自我 」により「 自分を利すること 」を考えるでしょうから、学んだ知識は、「 自分のためだけ 」に使うかも知れませんし、その方が、生命のも経済的にも自分が有利になるという「 私欲 」につながり、やがて、貪欲なまでも求める「 煩悩 」の憑りつかれて、死ぬまで満足しない人生になるという「 現象 」になるかもしれません。


私は、その時々の「 心 」を作っているエネルギーの状態が「 現象 」として外部に現れると思っていますから、宇宙(自然)エネルギーが「 良心 」として現れるといいますから、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混じった私のエネルギーが、出来るだけ「 良心 」に従って「 私心 」、つまり「 私欲 」にならないように「 心 」や「 気持ち 」を作ろうと思います。







(3月25日)

2019年3月23日 (土)

69歳になって考えること 私の進路 6 私の考え、その1

どこで得たのかわかりませんが、ある問いをした人は、既にその解答を持っているはずだという考えがあるかも知れません。


私は、これまで書きましたように、田舎で生まれ、マルクス主義を是とする地味な大学で法律を学んだ者ですので、他の分野での学問には疎い者ですが、「 人間は考える葦である 」と申しますように、私にも、他の人と同様に「 人生哲学 」が有りまして、それを書いているだけですので、全くの素人の狭い主観的な見解であることをお断りしておきます。


私は、これまで「 誕生から死後までの意識 」や「 神仏習合と私 」や当ブログにおいて、私は「 神 」と「 仏 」のエネルギーにより、DNAに従って独自の道を歩くように進路を決め、その根底には、「 色即是空 空即是色 」と「 縁起縁滅 」を主として考え、自然物と同様に、「 エネルギーの現象 」が私の姿であるというのが、現在の一応の結論です。


これの繰り返しを書きますから、興味がない人は、ご退出してください。


私は、「 その1 」で基本の考えを書き、「 その2 」で、進路について書きたいと思います。


まず、(A)「 縁起縁滅 」・「 顕教 」・「 唯識 」・「 意識 」の流れと(B)「 色即是空 空即是色 」・「 密教 」・「 般若心経 」・「 無意識・エネルギー 」の流れを想定しています。


これに、私の持論の(C)「 意識は電磁波の構造を持つ 」という思いが合流します。


私は、人間もそうですが自然は(A)と(B)が重なった状態で、私の目の前に「 現象 」として現れるもので、そのような「 重なり合い 」で物事を考えるのが良いだろうと思っています。


科学や哲学が変遷するのは、(A)と(B)の重なりに齟齬が出来て、体系の崩壊になるだろうと思います。


「 物 」は「 空 」であり、言い換えれば物体はエネルギーであるからこそ、現象として現れる形を変化させるもので、その総体には「 不生不滅 」で、「 エネルギーは形を変えるが消滅しない 」のであり、E=MC² が成立する宇宙内の出来事だからです。


前者が(A)であり、後者が(B)であることを、私は意図しているのですが、間違いかも知れません。


これは、私の持論(C)の中で展開する出来事ですから、間違いだろうと思いますが、私の考えを進めます。


私の頭脳、これはあなたもそうですが、右脳と左脳があり、その根幹に「 小脳 」があると想定します。


右脳は、空間や直観や感情を担当し、左脳は言語や論理や理性を担当すると思いますが、私は右脳から「 空間意識 」が生まれ左脳で「 空間 」という概念になり、左脳の論理から「 時間意識 」が生まれて「 時間 」という概念になり、その組み合わせを頭脳全体で行い「 四次元 」という概念になり、それらを「 因果 」という「 関係・物語 」として大脳で作り、それを、「 小脳 」の近くの「 海馬 」で「 無意識 」の「 可能性 」という「 力・エネルギー 」として蓄えておいて、動物に共通すると思われる運動神経に関係する「 小脳 」を通して、「 行為 」として胎外に発揮され、それが他人から「 現象 」として見られるのだと思います。


これで、他の自然と同じく「 現象 」として現れますから、また私の考えの当初に戻って「 現象 」を「(A)と(B)の重なり合い 」として見ることになります。


このような循環として、「 認識 」を捉えますが、この認識主体である「 私 」も「 現象 」として(B)の流れに従うので、この一定の考えが「 永遠に 」続くことはないと思います。


以上が、簡単な私の考えですが、「 その2 」では、「 進路 」について書きたいと思います。












(3月23日)

2019年3月18日 (月)

【 悲報 】 歌手、内田裕也さん、死す

今日、テレビで、ロックンロール歌手の内田裕也さん(79歳)が、17日、肺炎でお亡くなりになったというニュースが流れました。

私には、あまり馴染みがない分野の歌ですから、歌手だとは知っていましても、昨年の9月にお亡くなりになった、樹木希林さんの旦那さんぐらいしか思っていませんでした。

昨今では、「 亭主いなくて留守がいい 」とばかり、「 夫源病 」から逃れて、生き生きした人生をお送りになっているご婦人や、子供のためとばかりすぐ再婚したりするご主人もいらっしゃいますし、毎年11月22日を「 いい夫婦 」という語呂合わせで結婚される方も多くいらっしゃいます。

内田裕也さんと、樹木希林さん夫婦のお話など、ネットでよく拝見し、樹木希林さんがお亡くなりになった時は、どんな夫婦も、こうして別々に死んでゆくんだなあと思っていましたところ、旦那さんの裕也さんが、妻の希林さんのお亡くなりになってから、半年しか経っていないのにお亡くなりになり、改めて、二人は「 いい夫婦 」だったんだなあと思います。


きっと、希林さんが「 ねえ、あなた、わたし独りで寂しいの。人はみんな死ぬんだから、あなたも、いつまでわたしを待たせるのよ 」と、枕元で、おいでおいでされたんだと思います。


私の場合、母が若くして亡くなりましたが、偶然にも父とツーショットの写真が好きで、遺影にしたため、父を招いたんだという話をしていました。

本当に、仲睦まじい「 比翼の鳥 」のような夫婦は、他方を一人でおけないのだと思います。

語呂合わせに結婚記念日を決めても、そんな決めごとは、「 神前 」では通りません。

内田さんと樹木さん夫婦のように、自然に、「 間(ma) 」を置かずに、あの世に旅立つ人たちこそ、「 いい夫婦 」といえると思いますが、これが人間の思う通りにならないのも事実です。

ご冥福をお祈りいたします。














(3月18日)

69歳になって考えること 私の進路 5、合理性を疑う

私は、「 気持ち 不安 」の所でも書きましたように、論理性や合理性は、誰にとりましても同じ結果になるから、無意識で感じた無常を宥めるものだと思っています。

ですが、この齢になった私には無理な話ですが、皆様の更なる進展のたまめには、「 合理性を疑う 」ことをお勧めするのです。

これを、実際に実行していると思われる人がいます。

その人は、「 藤井聡太七段 」だと私は思うのです。

彼が「 後手 」にまわった時、決まったような手を指すことには、以前「 藤井聡太七段の後手 」で書きました。

今度は、彼が指す手に、非常に長い時間を費やすので、それはなぜだろうと思っていました。

結局は、解説者が言うような手になるのですが、多分、彼はその手に納得して指したのでしょう。

私は、彼は「 合理性 」を疑っているために時間を要するのだと思います。

私は「 気持ち 不安 」のところで書きましたように、カントの言う感性で、無意識で気配を探り、自分の可能性という無意識に比べて不能と感じた時に不安になるとしましたが、解説者の言う通り、一見では合理的という考えも、疑うのではないかと思うのです。

合理性は、他人も同じ結果に導くという意味では客観的ですが、それは「 真実 」を意味するものではないからです。

科学の変遷を見ればお分かりでしょうが、ガリレオ氏やニュートン氏やアインシュタイン氏らの理論を超えるものが、量子論や超弦論などと言われ、これらは当時の世代に客観的
ではあるが、それが「 真実 」であるという保証はどこにもないのです。

素粒子から天体まで含んだ数式が、量子論と相対性理論と組み合わせで出来たと言いましても、その過程では朝永氏や南部氏らの対称性の崩れなどと考えなければ、現実を説明する理論にならなかったように、「 合理性 」は、小さな誤差を捨てて、大きな流れを把握したもので、「 神の数式 」というなら、全ての誤差も許さない数式であるべきで、なんの誤差も出してはいけないのです。

アインシュタイン氏が、「 神様はサイコロを振らない 」と言われましたが、「 真実 」は確率などではなく、「 必然 」なのです。

誤差が起きるなら、なぜ起きるかの確率も含んだ、「 必然にも迫る 」完全なる確率である必要があるのです。

中には、現実を説明するために頭脳で作り出した妥当性もあるでしょうし、頭脳自体が持つ弱点からくる「 実体化 」が加わっているかも知れません。

「 時間 」や「 空間 」は、意識なのではないですか?

人間の認識構造も明らかでないのに、「 神 」を考えることができるのですか?

「 神 」とはなんですか?

お釈迦様は、完全な「 知 」に到達するために、三毒を捨てなさいと言われました。

その三毒の一つである「 実体 」を考えることが間違いではないでしょうか?

「 色即是空 」で、実体は空(kuu)なのでしょう。

私によれば、それはエネルギーですが、言葉はエネルギーから派生、あるいは生み出された不可逆的なものですから、それで、自分を生み出したエネルギーを説明することは、困難だと思います。

「 合理性 」もエネルギーでしょうが、様々なエネルギーがあるように、世間から客観的という評価は、「 真実 」の前では効果がありません。

それを崩す「 合理性 」こそ、人類を前進させるのではないでしょうか?

藤井聡太七段は、「 将棋界 」の常識である「 指し手 」を変革しているのです。

それは、彼がAIにも勝る「 神の一手 」を繰り出すことからも、推察できると思います。

















(3月18日)

2019年3月17日 (日)

69歳になって考えること 「 接して漏らさず 」

これは、煩悩の一つである「 性欲 」に対する方法につて考えたものです。

これらは、電池の極みたいなもので、男女問わずお持ちのことと思います。

神仏から頂いたもので、田舎には奇祭とも呼ばれる風習があり、子供ながらに恥ずかしい思いで見ていましたが、今では、卑下するようなものではないと思います。

私も男性のひとくれとしまして、やはり時にはその気が起きますが、事件を起こす勇気も力も若さもありません。

テレビなどで、50歳すぎた男性のセクハラや駅構内やトイレなどでの盗撮などで逮捕される人もいるようでして、かってのストリップ劇場で逮捕される若者を見るような、そんな事件を起こす気持ちに羨望と自分の情けなさを感じることもあります。

「 接して漏らさず 」という江戸時代の貝原益軒の教えもあり、江戸時代は浮世絵などで、事件を起こすことを我慢したかも知れませんが、現代ではどうでしょう。

浮世絵はないし、ストリップ劇場はなくなり、女性の人権侵害が叫ばれる時代で、犯罪を犯さず、貝原さんの教えを活かして、長生きするには、どうしたらよいか?

「 この世は無常なんだから、あんたの齢すぎたら性欲なんかなくなるさ 」と言われるかもしれませんが、もしソレが残っている人は、どうなりますか?

すべて無常とは言えど、本などは比較的、長く楽しめますが、自分が死んだ後とか老人ホームのお世話になって、他人から発見されることもあります。

その方面の本は、恥ずかしくて、高価なものが多く、郵送で取り寄せたとしても人の眼につきます。

そうしますと、比較的、長く楽しめ、無料で、自分が死んだ後は現物を見られないこと、老人ホームへ持って行けて、楽しめるだろうというものを探したくなります。

私もそうですが、執念深い性分で、なかなか楽しい事が忘れられない人に、私の方法をお教えします。

PCなどでこの記事を見られているので、私がPCを使って楽しんでいることを記事にします。

現役で仕事一筋の時はどうしても出来なかったことが、退職して有り余る時間で、これを実行できます。

かねてから、Hな動画をダウンロードして貯めておいて、今は大容量ながら安価のハードディスクが発売されています(例えば、2テラで一万円ほど。私は4テラのヤツを使っています)ので、この4テラに、好きな名称のファイルを使ってため込むのです。

有料アダルト会員であれば凄いものが手にはいるかも知れませんが、私の場合は、無料のHな動画を海外からダウンロードし、一つのハードディスクに集結させていますので、あまり刺激的なものではないと思います。

これでしたら、老人ホームに電気が有り、PC持ち込み可能だったら、PCとハードディスクを持ちこめば、仲間にも見せてあげれるし、欲しいなら、フラッシュメモリーにコピーしてやることも出来ます。


若いAV女優さんが、我が身を削って、お仕事されたおかげで、日本のAVも海外から見直されたんだと思いますが、その結果として残るHビデオをストリップ劇場代わりに拝見させて頂いています。


残念なのは、今までのストックが少なく、もう少し若い時から、ここを目指しておけばよかったと思います。
この齢になりますと、セキュリティなどが面倒になって、新たなHビデオを収集する気がありません。

みなさま、どうか犯罪を犯すことなく、末永く「 接して漏らさず 」を実行して、長生きされんことを願います。
























(3月17日)

2019年3月16日 (土)

69歳になって考えること 私の進路 4 人の見方

私は「 進路 3視座の決定 」で書きましたように、「 色即是空 空即是色 」に従いまして、人間も自然物と同様に「 現象 」として捉えまして、人間は「 自我 」を持っていますが、本来は「 我 」という「 空(kuu)」、即ちエネルギー(宇宙エネルギーと生命エネルギー)が「 誕生 」という事で「 物 」を伴った人間という「 霊体 」に生まれて、生命エネルギーの終焉である「 死 」により「 物質 」と「 宇宙(自然)エネルギー 」に分かれて、またこの世を循環すると思います。

「 人間は、エネルギーの一つの現象であり、現時点では、その現象の一面しか見ていない 」ことを基本にして、親は子の躾、教師は生徒の指導、電極にプラスとマイナスがあるように自分の「 からだ 」にもそれがありサドやマゾという性癖を生んだり、あるいは自分の極にフィットするような異性を求めて結婚したり離婚したりするのを眺めていますと、私の考えは間違いかもしれぬが、思うところを書いてみます。

昔の教科書で、「 人を手段、あるいは道具のように使ってはならぬ 」など教えられたことがありますが、これは人間は道具とは違い精神を持っていると思っていましたが、この言葉の裏には私が「」で前述したことが暗黙のうちに含まれていると考えますと、その応用範囲が広がると思います。

わたしが以前書きましたように、人はみな孤独で、各自のDNAに従って「 人間の多様性 」を示す道を歩くようにDNAに書いてあるのかも知れませんが、その孤独で自分の道を探す際の助けとなる親、あるいは教師が社会にいます。

彼らが上記のことを知らず、ただ自分の感情のままに躾をしたり、あるいは単なる事務的に進路指導をしたりすれば、子にとっては「 有難迷惑 」です。

それは、子の一面しか見ずに、自分の「 自我 」で判断しているのだと思います。

子の杖になって助けるのが親であり教師でしょう。

躾のために食事を与えなかったり暴行したり、あるいは生徒が「 いぢめ 」の救済を教師に求めているのに、教師はその子の親の反感をおそれて、子が訴えた被害状況を親に知らせる。

こんなことが、現実に起きるようでは、親も教師も、その存在理由を持たない動物であるに過ぎません。

人間を「 もの 」としか見ず、こんな親や教師でしたら、この世の悪人だと思います。

また、「 結婚 」や「 離婚 」なども、「 美貌 」とか「 学歴 ・身長・年収 」など一面しか見ず、それらは無常なものであるのも関わらず「 道 」を決めるのが、一般的かもしれませんが、私には疑問です。

青年時は野性的な人、あるいは美女であっても、齢をとれば(即ちエネルギーの衰退と伴に)衰えて「 ただの人 」になるのは、無常の常であって、だから離婚する理由にはならないと思います。

自分の将来も連れ添う相手を決めるというのに、それだけ見て満足するのでしょうか?私には疑問です。

私が前述した「」で書いたことを念頭に持っていれば、失敗も少なくなるかも知れません。














(3月16日)
 

2019年3月15日 (金)

69歳になって考えること 私の進路 3 視座の決定

これまで、「 気持ち 」や「 私の仏教の解釈 」や「 その後 」で来ました、三流大学卒の私が、畑違いの事を解釈して来ましたが、これを基にして「 進路決定の視座 」を決めたいと思います。

「 自分探し 」の旅も収穫もなく終わったのは、私の考えでは、自分が自然界とは違うと思っていたのが原因であり、この世は、「 色即是空 空即是色 」=万物は流転する={ E=MC² }=無常であり、自分も自然物のひとつなのだと考えもせず、頭脳の思考により人間独自のものを追求してきたからではないか?と思うようになりました。

ネット情報では、お釈迦様は「 この世は、縁起 縁滅の世界だ 」と言われたとあります。(A)

「 般若心経 」は「 縁起、縁滅」の流れの中で後世の人が作ったと思います。(B)

人が亡くなれば「 南無阿弥陀仏 」を唱えられ、日本国中の霊場や田舎の名も知れぬ人々の間では、「 般若心経 」が唱えられていることから、生存中は(B)、死後は(A)という感じがします。

私の偏見では、生存中は自然法則にも通じる(B)が好まれ、死後は、生命の仏たる「 阿弥陀仏 」によりあの世の「 浄土 」へ導かれるのを好まれているように思えます。

ですが、「 私の進路 」を決めるとき、生存中も死後も、一貫した道を進む道を考えなくてはなりません。

私の場合は、「 死 」まで残された時間が短いので、一層、そんな考えになります。

では、どのように考えるのか?

それは、私の「 命 」が生存中も死後も、変わることがなく目指すべき「 浄土 」をどこに設定するかでしょう。

いままでの「 自分探し 」において、自分とは何かを考えますと、「 神仏習合 」をしているエネルギーになるし(色即是空)、いま私が生きている身体をなぜ持っているのかは根源にあるエネルギーが今の身体を作った(空即是色)のであり(つまり、生存中はB)、死後は、この世を嫌って(厭離穢土)、想像もつかない阿弥陀仏が住む「 浄土 」を目指す(A)のだと思いますが、(A)の阿弥陀如来も(B)の大日如来も、共にエネルギーであるとすれば、死んだ後にしか分からない所で働くエネルギーと一体となるのではなく、エネルギーが宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混然一体となって様々に変化をみせる「 今 」、「 この世 」こそ、エネルギーである如来が住む「 浄土 」と考え、エネルギーと共に生活をし、死後も、この世にエネルギーとして残ることにより、「 永遠の命 」を得ることになるだろうと思います。

では、どうするのか?

それは、「 その後 3 」で書きましたように、「 自我 」をそのまま認めてしまうのではなく、「 無我 」として、自分の中心にあることを認めることです。

「 自我 」はこれまで積み上げてきた自分のための可能性の塊であり、それを壊し自分のものにするエネルギーである「 我 」(言い換えれば命)だけを認め、そのエネルギーが自然現象のように、現実に形を持って現れる(空即是色)と考えることにより、無明から続くエネルギーに乗って「 誕生 」という形を以て現れ、「 死 」という形をとってエネルギーに戻って再び循環すると考えます。

「 誕生 」や「 死 」と見えて、いかにも実体が現れて消えるように人間から認識されますが、その実、エネルギーが「 形 」を変えるだけでして滅することはなく、エネルギー保存の原則で、再び将来に出現するのも面白いと思います。

自然物として生命エネルギーに従い生きながらも、人間にしか与えられていない思考のエネルギーを誕生以前から持っていた宇宙(自然)エネルギーに沿って生きることは、死後も同じだと考えますと一貫した生き方だと思います。



















(3月15日)

2019年3月14日 (木)

69歳になって考えること 「私の仏教の解釈」 その後 3

私は、「 その後 1」において、もし「 色即是空 空即是色 」=「 万物は流転する 」={ E=MC² 」}=無常が成立するならば、人間が現象であると言いました。

「 その後 2」において、「 無我 」は「 無 」ではなくて「 空 」であり、「 自我 」は否定さるべきかも知れないが、「 我 」自体は「 空 」、即ちエネルギーであるとしました。( 色即是空 )

このエネルギーの周りに、周囲からの力(エネルギー)を引き付けて「 自我 」になると思いますが、このエネルギーは何でしよう?

私の「 持論 」から、そのエネルギーは宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混然一体となった「 気(ki) 」(霊)であろうとします。
生命と申しますが「 命 」が、「 我 」というエネルギーとしませんと、なぜ動物が生きるのかわかりません。

これは、私の考えですが、

この「 命 」は「 気(ki)」でありますが、呼吸その他により宇宙(自然)エネルギーを内部に取り込むことは必須ですから、本当の根源は宇宙(自然)エネルギーであり、それは地上の全ての生物と同じく「 宇宙(自然)エネルギーの現出するもの(般若心経の「色」)という意味での現象である 」ことになります。

それは、当然、「 色即是空 空即是色 」や「 縁起縁滅 」や「 無我 」などを包摂するエネルギーであり、人間の認識を可能とするものだということになります。

ですから、人間は単なる物質ではなく、エネルギーの現出でありますから、「 誕生 」とか「 死亡 」などは、エネルギーの単なる通過点にすぎなく、将来、人間に宿るのは「 霊 」なだではなく、エネルギーが循環して、また現れることになり、私の持論であります「 誕生前は無明というエネルギーであり、死後は生命エネルギーと宇宙(自然)エネルギーが分離して、エネルギーとして故郷に戻る 」ことになります。

ここでは、「 人間はエネルギーの現出した姿 」( 空即是色 )としておきます。
















(3月14日)

2019年3月13日 (水)

69歳になって考えること 「私の仏教の解釈」 その後 2

これまでの事を書きます。

「 顕教 」-意識界(無意識A”)ー唯識ー「 縁起、縁滅 」-(A)

「 密教 」-自然エネルギー界ー般若心経ー「 色即是空 空即是色 」-{E=MC²}-(B)

「 意識は電磁波の構造を持つ 」という私の持論ー(C)

「 自我 」-自然界の中の自分という存在感ー無意識ー(D)

最後の「 自我 」と「 無我 」ですが、仏教の教えとは違って、「 我 」を否定するものですが存在するので「 空 」であり、エネルギーであり、それは宇宙(自然)エネルギーが生命エネルギーとなったのであり、後者は「 呼吸 」などで前者がなければ存在しないという意味で、自然物を形作る宇宙(自然)エネルギーであるから「 無我 」とします。

無我が生命維持のために無意識の力(エネルギー)を集めたものが「 自我 」というエネルギーだと考えます。

「 その1 」で述べたのは、(B)の中の(A)に「 無知 」があれば「 不安 」を生じさせる。
(A)の中で(B)が「 無知 」である時は、概念の破壊か新たな概念を要求して、「 安全 」に向かう。

(C)により、前者が、感情や空間意識を担当する右脳、後者は、言語や論理や因果や時間意識を担当する左脳で主に行われ、その「 安定 」した状態で、海馬で自然界のも流れ出す「 無意識 」の形をしたエネルギー(可能性の無意識)として蓄えられたのが「 自我 」(D)であると考えます。

(C)により、この一連の流れを可能にするのが宇宙(自然)エネルギーが生命エネルギーとなった「 無我 」というエネルギーであり、結果が「 自分 」だと考えます。

私の考えでは、お釈迦様は「 縁起、縁滅 」を言われているようですから、(B)の中の(A)の無知が「 不安 」や「 苦 」を生み出すから、完全な「 知 」を求め、「 自我 」と比較することにより「 不安 」を生じるので、「 無我 」を要求したのではないかと思います。

ですが、いかにコンピューターを並べても、これから来たりくる「 未知 」ともいうべき「 無知 」は防げませんから、達成まではほど遠く、それより(B)と認めて、自然物と同様に人間を考えると、「 無我 」に到達しやすく、「 苦 」からも逃れ得るかも知れません。 
















(3月13日)

2019年3月12日 (火)

69歳になって考えること 「私の仏教の解釈」その後 1

「 私の進路 」を書く前に、少し書いておきたいことがあります。

それは、素人ながら、やっとの事で「 私の仏教の解釈 」まで来ましたので、それ以降の妄想とも言うべき考えを書きます。

妄想ですので、あしからず。


現代は脳科学という分野もあるようですから、人間はみな右脳と左脳を持っているのだから、それをどのように使うのかは、すぐ判明するものだと思っていましたが、努力不足かも知れませんが、私に理解可能な情報がないので、これも私の解釈を書きます。

私は仏教に「 顕教 」と「 密教 」があると教えられましたので、前者を(A)後者を(B)と略して書きたいと思います。

私の「 持論 」として、「意識は電磁波の構造を持つ」(C)としていますので、この流れと私の「 仏教の解釈 」の流れをどうにか統合したいと思います。

(C)において、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが合流した気(ki)が、生命体を貫き、頭脳も心臓もすべての臓器を動かす「 無意識 」(A”)の形の気(ki)が人体を動かしていると思います。

右脳や左脳などの頭脳の中の「 意識 」はそれから「 派生 」したもので、生命エネルギーの発露だろうと思います。

もし、この世が、「 色即是空 空即是色 」=「 万物は流転する 」={ E=MC² }=無常(B)でありますなら、人間個人も他の自然物と同様に、エネルギーが形として現れた「 ひとつの現象 」であり、(D)を形成する「 意識 」(A)も「 無意識 」(A”)も他の動物と同じく、エネルギーから「 派生 」したものであるとします。


(C)の考えで、DNAなどにより内容の違いがあっても、同じ「 派生 」したものですから、個人を区別する特有のエネルギーが無いという意味で、生来は「 無我 」であるのに、自らの環境に適応するため、情報を統合して「 個体の自分の可能性 」を蓄積する「 自我 」(D)が現れるのだと思います。(これは、論理などを担当とする左脳)

人体が、自然界から受け取るのは、自然界に共通する「 無意識 」(A”)で以て獲得し、それを(D)と比較することによって「 自然界の中の存在感 」である「 気持ち 」の内容を「 不安な気持ち 」や「 安心の気持ち 」(A”)に変化させ(これは感情や直観を担当する右脳)、「 自我 」(D)を変化させるのだと思います。

ですから、右脳は主観的な感情や空間意識などの「 無意識 」で自然界に共通な世界(B)であり、左脳は因果の時間意識や客観的な論理などの「 意識 」の人間特有の世界(A)と、解釈します。

右脳において、(B)の中の(A)は、「 無知 」であれば「 不安 」を生み(狭い空間や高い空間は生命への不安)、左脳において(A)の中の(B)は、「 無知 」であれば概念の破壊や新しいものに概念を与えて安心させるから、無意識の「 気持ち 」は、最後は安心という形で終わると思います。

「 無知 」から煩悩が生まれ、「 知 」への道を閉ざすと申しますが、「 無知 」には(B)という地球が自転しなければ不明なものと、(A)という、自分の認識が至らぬため不明のものがあり、般若心経では、前者を「 空(kuu)」と呼び、後者を「 無 」と呼ぶんだと思います。

AIは生物ではないですから、(B)を持たず、従って「 空(kuu)」の概念で物を認識できず、ただ否定に終わる「 無 」の概念しか持っていないため、(A)の無知は指摘できても(B)の無知は指摘出来ない、つまり神のような予想は出来ないと思います。


















(3月12日)

2019年3月11日 (月)

69歳になって考えること  私の進路 2

私は、これまで書いてきましたように、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが混合一体となって「 霊 」となり、それらを容易に分離することは出来ず、生命エネルギーの終焉たる「 死 」を迎えて、初めて分離すると考えています。

前者が「 色即是空 空即是色 」に従うエネルギー(無意識)で、後者を「 縁起、縁滅 」で認識できる思考のエネルギー(意識)であるとしています。

私を含めて、あなたもですが、進むべき方向である進路を決定するのに迷う場合があると思います。

どうしてか?

私の考えでは、方向などは、後者の「 意識 」の領域が多くをしめ、目の前の世界が前者による世界ですので、認識不能であり、自分の身体や能力などは無意識が多くを占める前者であるため認識不能であるから、迷うのだろうと思います。

後者がDNAに力が大きいと仮定しますと、人類は皆、違うDNAを持ち、前者の環境も違いますから、障害を持っているとか健常者とか貧富とか美貌とかには関わらず、人類は皆、「 人類の変化の多様性をとれ 」と、生まれながらに宿命づけられており、寿命をまっとうするまで生きる責務を誕生により生きる目的として背負わされ」ていると思います。

本能という無意識のエネルギーが持つ「 自我 」を持つと勘違いする(?)ゆえに、自我から生まれた、生きる「 苦 」を伴う責務から逃れるために、自我(後者)により、「 からだ 」(前者)を故意に消滅させるために、自殺をすることがありますが、前者のエネルギー保全の原則で、「 からだ 」という形は消滅したとしても、エネルギーが残っているため「 成仏 」することが出来ないので「 幽霊 」や「 怪奇現象 」が現れるのだと思います。

「 死 」は生物的・肉体的な「 死 」もありますが、社会的な「 死 」もあるかと思いますが、精神的な「 死 」もありますから、単なる肉体の死をしたとしても、それに付随した「 死 」は死んではいないのです。

つまり、「 縁 」という条件は、前者に附随しますから、無数に存在し、消えたと思ってもエネルギーは生命エネルギーと宇宙エネルギーに分離しない「 霊 」である以上、「 存在する 」と考えます。

「 死 」で消そうとした苦しみは「 縁滅 」でない以上は、形を変えて残りつづけるのです。

ですから、「 苦 」や殺意を催す「 自我 」を捨てることは自然エネルギーに任せることも、より良き方向の発見に役立つかも知れません。

それは、能力に見合った方向を選ぶことで、無理をすればやがて「 苦 」を迎えるでしょう。

それが、お金儲けにならなくても、多様性の一つであることを示したおきは、貧富に関わらず「 宿命を果たした 」ことになるかと思います。

その「 死 」の中に「 生身を捨てて、武士として生きる喜び 」を感じる武士道などは、時代錯誤であるとも思えますが、儚い生を捨てて、永遠の生の喜びに生きると言われると、生まれた使命を果たすようにも思われて、なにか魅かれるところがあります。












(3月11日)

2019年3月10日 (日)

69歳になって考えること  私の仏教の解釈

私は、ご存知のように僧侶でも哲学者でもありませんが、現時点の「 仏教 」の解釈を書いてみたいと思います。

私が学校で教えてもらったのは、「 振り返って思うこと 仏教 」のも書きましたことと、「 色即是空 空即是色 」や「 縁起、縁滅 」ぐらいのものでして、現時点でのこれ等の関連を考えてみました。

その解釈の流れは、「 誕生から死後までの意識 」などで書きました私の思考の仕組みを使いましたので、これは私の思考の産物であり、真実とは申しません。

私は、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)がなんらかの縁(条件)で、母の胎児として宿り、誕生したものだと考えています。

学校で教えてもらったのは、比叡山を修行の場とし、最澄が開いた、天台宗から続く法然や親鸞や日蓮という鎌倉仏教の祖する「 顕教 」と高野山を修行の場とし、空海が開いた「 密教 」で、前者は阿弥陀仏、後者は大日如来を中心とするもので、前者は「 南無阿弥陀仏 」と唱え、後者は「 南無遍照金剛 」と唱え前者は「 唯識 」という意識を探求する思想が強く流れ、後者は「 般若心経 」の流れが強く流れているように思います。

これを、そのまま私の考えに当てはめますと、前者は生命エネルギー(仏)の世界で、後者が宇宙(自然)エネルギー(神)の世界、前者は、認識できる「 縁起、縁滅 」の世界、後者は「 色即是空 空即是色 」のエネルギーの世界であり、認識不能の世界となり、前者は「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱えて、「 欣求穢土 」を求め、後者は、「 南無遍照金剛 」と唱えて、現在に漂う「 大師 」に助けを求めるのだろうと、素人の私は、一応そう思っています。


それは、「 浄土 」をどこに決めるかで違うと思います。

私は、前述しましたように、生命エネルギー(仏)と宇宙(自然)エネルギー(神)が混然一体となって「 霊 」になっていると考えまして、生命エネルギー(仏)は前者の「 顕教 」で、宇宙(自然)エネルギー(神)は後者の「 密教 」にあたり、生命エネルギーは「 縁起、縁滅 」で捉えらられ、認識可能な「 唯識 」の思想で頭脳の中の世界、宇宙(自然)エネルギーは「 色即是空 空即是色 」の世界で認識不能の世界で、アインシュタイン氏の{ E=MC² }の数式が成り立つ自然の世界だろうと思います。

その、生命エネルギーで動く認識が宇宙(自然)エネルギーの認識不能であることの、言葉での表現が「 万物は流転する 」とか「 無常 」とかいうのだろうと思います。


生命エネルギーが終焉し閉じ込められていた宇宙(自然)エネルギーが放出される「 死 」を生命エネルギーで心配しても、心配などの思考をさらに凌駕して宇宙(自然)エネルギーは推移すので、「 取り越し苦労 」になっていまうと思います。

「 時間 」や「 空間 」や「 無限 」などが認識の都合上の作られたものであれば、計算どうりに天体が動くからそれらが正当だとされるのではなく、天体のエネルギーがその様にエネルギーが推移していることであり、その概念が宇宙に存在することを是とするのではない。

それらは、「 意識 」に過ぎないからアインシュタイン氏が言われる重力によって曲がるのではないだろうかと思って、私は、それらを左右の脳で作った「 意識 」だとしています。

従いまして、宇宙を人間が完全に知ることは出来ないだろうと思っています。

ただ、出来ることは、「 彼岸 」に行って「 死中生あり、生中生なし 」を体得するだろうが、なにもミイラになったり臨死体験しなくても、気持ちを自然に集中して、無我の境地で、自然のエネルギーの推移を感じ取ることで可能だろうと思っています。

人間の「 無意識 」は、自然のエネルギー(気)を捉えられると現在は思っています。

ちょうど、地震を予知できる(?)生物がいるように。
















(3月10日)

2019年3月 9日 (土)

69歳になって考えること  私の進路 1

こんな事に思い悩む時期もありました。

私の場合、高校卒業後の大学選択や大学卒業後の就職先の選定の時期と、今でしょうかね。

その時は、自分の無能さに直面し、「 川の流れに 」ではないですが、無事に退職を迎えられたものだと、これまで面倒をかけてきた人々に感謝しています。

私は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが、母の胎内で、どういう縁か結びついて、誕生したものだと、今は思っています。

二つのエネルギーは、生きている今の私の中では霊となっていて、容易に分離させて取り出すことが出来ません。

この後者のDNAによって私の身体能力が決定され、その範囲で「 私の進路 」を決めてゆくのかなと思います。

進路決定で迷っているとき、前者が現れて、「 お前の行く道はこちらだよ 」と教えてくれるのなら、決定後の試練に対して選択した自分の愚かさを攻めることはなく、「 これも私の進路だ 」と思って心安らかに、後者の終焉たる「 死 」を迎えることも出来るだろうと思います。

ですが、実際は、自分が決めて「 死 」へ生きるしかありません。

その決定が前者の指し示すものでしたら、「 結果オーライ 」で、良いんですが、その決定とやらが難しいのだと思います。

現在の北朝鮮の金委員長のように、自分がこれまで「 自分の進路だ 」と思って積み上げて来た結果を、トランプさんから一蹴されたように、自分が一所懸命に積み上げた物(例えば、マイホーム)などが地震や津波のような自然エネルギーによって破壊されることが多いのです。

ですから、東日本大震災などで、親も子も財産もすべて破壊され、絶望に沈む人たちを、いかに心のケアで今後の進むべき道に戻してやることが、人道的行為で全国の僧侶がこれにあたったのでしょう。

私は、そんな絶望的な状況の中で「 無情 」ではなく「 無常 」と説く僧侶に感銘を受けまして、その後の私の思考方向を変えたのでした。

こうして、DNAにより、進路が制約されるのだと思いますが、諦めてはいけないと思います。

長くなると思いますから、あとは後日………。












(3月9日)

2019年3月 6日 (水)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その6 武士道

これまで見てきますと、「 神仏習合 」を是とする私の考えから、エネルギーである神(=無意識)には成れずとも、仏教徒なら目指すべき仏(人格完成者)にはなりたいと思います。

これからは、私の思考産物を書きます。


前述から引き続いて考えますと、ブッダはいませんから、彼のいうダンマ(宇宙真理)が「 色相是空 空即是色 」の世界、自然を浄土として自然と共に生きることだと、いう「 私の解釈 」で生きること、即ち、自然現象と区別することなく、自分を現象として生きることであると仮定しますと、「 無我 」になって自然界の法則を受け入れることでしょう。

「 私 」という自然界とは違う「 意識 」を持った存在であるとして、自然環境の中で感じる自己存在感(気持ち)を持つことは、「 無意識 」を通して察知した気配(sign)を絶えず自分がこれまで蓄えてきた可能性と比較して、不安になったり安心したりする生活は、一般的な生き方であろうが、仏になる道ではないと思います。

過去の仏や神といわれるキリストやブッダはエネルギーの現れである行為だけを残し、それゆえに「 神 」とされ、後世の人がそれを解釈する経典を作ったのなら、この世には、人のために人知れず行為をして亡くなった仏とも扱われるべき多くの人がどこかにいたのかもしれませんが、私は「 即身成仏 」、つまり生きながらも仏である人に出逢っていません。

私は、ミイラになることが「 即身成仏 」になるとは思いませんが、ただ禅などにより、自分の人として感じる全ての感覚を捨てて自然と一体になることが可能でしたら、自分の利己的な思考など無い「 無我 」の心境となり、それは自分の仮の「 死 」であり、その中に自然から生かされている生命のエネルギーを感じること。

「 死中生有り 生中生無し 」の状態を保つのが「 即身成仏 」の状態であろうから、そんな境地の人の考えを聴かせてもらえたらと思います。

前述の言葉は、戦国時代の上杉謙信の言葉とされますが、忠臣蔵の大石内蔵助の辞世の言葉に、その内容があるのだろう、と思っています。

彼の辞世の句は「 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」ですが、切腹を前にした句ですから、「 死中 」だろうし、「 あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 」と言いますから、死を前にして、主の遺恨を晴らせることが出来て、そのために養ってきた身体を捨てられることが「 楽しい 」といっていますから、「 死の中に 」、漫然と快楽に耽って生きるという意味ではない「 武士としての務めを果たせた 」という武士として、生きる喜びを見つけたと思うのです。

滅私奉公が武士道であると思うのですが、この言葉に、「 無私 」あるいは「 無我 」を感じ、仏教ではないが、「 即身成仏 」された人の言葉のように思えます。

しかし、69歳になっても、相変わらず、自分な考えは、間違っているとしても、理論構成を崩そうしない私わ、まだ決定的ないことをYoutube で探しています。











(3月6日)

2019年3月 5日 (火)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その5 不安

私は、「 気持ち その4 」で、気配(sign)から気持ち・心持(feeling)、そこから、一つは、不安(anxiety)から、心配(worry)への道と、もう一方の、安心(releve)から心配り(anxious)や気配り(attentive)への道があると書きました。

気配(sign)から不安(anxiety)と安心(relive)までは「 無意識 」の領域で言葉にはできなく、心配(anxious)や心配り(anxious)や気配り(attentive)は「 意識 」の領域としました。

漢字を見てみますとわかるように、「 無意識 」は心的なもので、「 意識 」の言葉には「 配る 」という、位置などを指す精神的な、意識的な言葉が使われています。

実際、その内実は、「 無意識 」の準静電気のようなもので気配(sign)を感じ、「 持つ 」という言葉でわかるように気持ちや心持(feeling)は「 無意識 」により獲得した情報の集合体と思われ、その中身は「 無意識 」で、不安(anxiety)か安心(relive)かで、「 意識 」が決定されると思います。

それで、なぜ不安(anxiety)が生じるのでしょうか?

それは、キルケゴールなどの哲学者がキリスト教的に発生のようすを書かれているようですが、仏教的にはどうでしょう?

もちろん、僧侶でもない私が、仏教的な観点ではわかりません。

私なりに考えますと、人間は生まれて経験により自分の可能性を「 無意識 」で蓄え(海馬の中?)、気配(sign)を察知すると同時に自分の可能性と比較し、不可能であれば「 不安 」、可能であれば「 安心 」すると思いますので、人間の根底に仏教でいう「 我 」があり、それが「 気持ち 」であり、「 自然の中の自己存在感 」があり、自分の可能性を主張し、「 無意識 」で得た気配(sign)と比較するものだと思います。


気配(sign)から得た情報を「 我 」で処理可能なら安心しますし、「 我 」で処理が不可能なら不安になるでしょう。

ですが、他人から、自分の可能性を否定され、自分では出来ないと思うことを可能としたり、自分が可能なのにそれは不可能だとされるとき、これから自分が、うまく達成可能かどうか「 不安 」になると思います。


それが、キリストであれば、キルケゴールが書いたようになるのでしょう。

では、仏教で、命じるひとがブッダであればどうでしょう?

ブッダが真理を説く人ですから、「 我 」をなくして「 無我 」になればブッダをそのまま是として、「 我 」を捨てて受け入れると安心(relive)し、「 我 」を主張すれば、「 我 」とブッダと比較して対立することになり、不安(anxiety)になると、私は思います。

では、ブッダが死ねば、誰に従うのかと言えば、ブッダによりますと、ダンマに従うことですが、これは宇宙の真理ですから、わかりませんが、私は、これを「 色即是空 空即是色 」を受け入れることになります。

安心(relive)なら、失敗しないように心配り、気配りを喜んでするでしょうし、不安(anxiety)
なら心配(worry)し、キリスト教では、キルケゴールがいうように、「 罪 」を犯すのでしょう。
















(3月5日)

2019年3月 4日 (月)

69歳になって考えること 昔懐かしストリップショー・その2

笑福亭鶴光さんが歌う「 うぐいすだにミュージックホール 」を検索していましたら、1月の記事にした「 昔懐かしストリップショー 」も検索対象になっていることが分かりました。

今回は、検索の結果と、わずかに心に残る「 ストリップ劇場 」の有様を少し振り返ってみます。

Wikipedia では、「 うぐいすだにミュージックホール 」は、山本正之さん(現在67歳・安城市出身)の作詞・作曲であり、愛知県刈谷市のストリップ劇場のことも話に昇ったが、ローカルを避けて架空のストリップ劇場として「 うぐいすだにミュージックホール 」にされたとあります。

1975年に、ラジオDJをしていた笑福亭鶴光さんが大ヒットさせた「 放送禁止歌謡 」で、落語の師匠さんの笑福亭松鶴さんに、「 ろくに落語もできんくせに流行歌手かい」とか「 ストリップの歌うたいやがって 」と言われて三か月の破門にされたらしいです。



1975年ですから、24歳で就職した私は26歳にあたりますから、まだ緊張しながら仕事に従事しているころで、まだストリップなるものを知っていなかったと思います。

放送禁止ですから当初の頃の歌は聴いていたと思いますが、30歳過ぎの結婚の前には「 ストリップ劇場 」は知っていましたので、放送禁止で歌われなくなったのがその頃でしたら、急に聴かなくなった頃に、この曲への愛着が生まれていたのだろうと思います。

ストリップ劇場は、どこでもそうですが、踊り子さんが自分の動きにマッチして自分も好きな歌で、それは日本の歌謡曲に限らずディスコミュージックだったり、民謡だったり、中年男性が青春のころのアイドルの歌などの歌が舞台に流されて、通った人だけが知る、さまざまなピンクショーが展開され、それが終わると鶴光さんのセリフのような主催者からの案内がありまして、単なる「 女体のストリップショー 」だけでなく、「 踊り子さんが選んだ曲を楽しみながらのショー 」でしたから、「 ミュージックホール 」という名付けも頷けます。

しかし、「 ショー 」と申しましても、セリフにもありますように、女体を前にしても「 手を触れずに見るだけ 」で、時には前回に書きましたように「 警察の出動 」にもなる「 睨み合いの真剣勝負のショー 」でして、セリフにありますように「 拍手で踊り子さんがハッスル 」したり、目の前に来て女体を披露して頂く「 ショー 」でして、興奮した観客が踊り子さんから冷静な声で注意される「 ショー 」でもありました。

ですから、男の真剣な探求と女の「 はぐらかし 」の勝負でして、緊張感を伴うショーでもありました。

帰路は、財布の中身を見ながら、次回は入場をあきらめようかと、吐息をつく「 ショー 」でもありました。

もう、今は無い、昔の若かりし頃の懐かしい思い出です。















(3月4日)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その4

私は、「 気持ち その1 」で次のように書きました。
………

私の体系では、「 気(ki)」は重要な位置を示していまして、宇宙(自然)エネルギーとしての「 気 」、例えば「 天気 」・「 気候 」・「 空気 」・「 気象 」などから、ご想像ください。

もう一つは、生命エネルギーとしての「 気(ki)」、例えば「 病気 」・「 病気は気から 」・「 寒気 」など、生きてゆくときのエネルギーなどに使われるのではないでしょうか。

「 気持ち 」とは、生命エネルギーを表現するのだろうとは、思いますが、私の思考体系では、気はエネルギーであり流れるものであり、例えば人体であれば毛穴かたあるいは呼吸から、宇宙(自然)エネルギー生命体の中に取り入ることが、生命維持の基礎だとしますから、「 気持ち 」と申しますのは、「 宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーを、人体が外部にある全部の表面で感じている、自分の存在意識 」などではないかと、現在は思っています。

………

私の体系と書きましたが、「 意識は電磁波の構造を持つ 」として「 誕生から死後までの意識 」で書きましたが、「 気持ち 」は「 気(ki) 」を「 持つ 」ことで、上記のように、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの「 気(ki) 」を持つと、「 気持ち その1 」で書きました。

私の体系では、思考一般の「 意識 」はエネルギーの「 気(ki) 」から派生したもので、海馬に眠る「 無意識 」はエネルギーである「 気(ki) 」としています。

「 気持ち その3」で、「 気持ち 」と「 心 」について書きましたが「 心は心持 」という単語もあり、それは、英語で、「 feeling 」で同じような単語で、「 気配 」は「sign 」、「 心配 」は「 worry 」、「 気配り 」は「 attentive 」、「 心配り 」は「 anxious 」と調べました。


英語では明らかに違う単語ですが、日本語は、あまり変わらない「 形 」の単語です。
ここに、私の体系で、別けてしまって、次のようにしました。

「 人体 」は「 霊体 」であり、エネルギーは一体となっていますが、エネルギー(気・ki)は「 無意識 」で、物質的であり、動物の本能に通じ、「 意識 」は精神的で、心的な認識内容とし人間的な生命エネルギーからの派生物とします。

余談ですが、「 空間 」はエネルギー(神仏)の「 からだ 」であり、人間の細胞空間も含みエネルギー(神仏)が出入りすると考えます(誕生から死後までの意識)。

私は動物というのは、レーダーで物体を感知するように、「 無意識 」のエネルギー(気・ki)を体内に発して自分の可能性を確かめながら、外部へエネルギー(気・ki)を発し自分の可能性に役する外部の可能性を探り、そのエネルギーで「 からだ 」を動かすと思っています。

ひょっとして、眼で見ることは、アニメのように、視線という形で自分の(可能性である)「 無意識 」を発しているのかも知れません。

外部へ発した自分の可能性である「 無意識 」が「 気配(sign)」を感じ「 気持ち、心持(feeling)」となり、不安と推移するとき「 心配(worry)」という「 形 」の認識になり、現状維持、あるいは安心と推移するとき「 心配り(anxious)、気配り(attentive)」という「 形 」に認識され、「 無意識 」が物質的であるため「 色即是空 空即是色 」の世界ですから、常に変動し、それに従って、その集合である「 気持ち、心持 」も「 不安な気持ち 」とか「 安心な気持ち 」とかに変動し、その推移が「 形 」の変化とした現れたときの条件、即ち、「 心配(worry) 」になった条件である「 気配(sign) 」と「 自分の可能性 」を「 無意識 」の中で比較して不安や安心となった条件の生滅を「 縁起、縁滅 」として認識されるのだろうと思います。

自然エネルギー(無意識)を生命エネルギー(意識)が凌駕することは出来ませんので、その(心配や心配り)行き過ぎが、「 取り越し苦労 」とか「 骨折り損 」になるのだろうと思います。

「 気持ち、心持 」は、「無意識 」の集まりなので言葉に表現できませんが、「 形 」になって現れたとき、「 心配 」とか「 心配り 」を認識されることになると思います。

なお、ネットでは、「 気配(sign)」を感知できるのは、内臓に「 無意識 」に働く、脳波や心電図に現れる「 準静電気 」を持っているからという情報もあります。

これは人間以外の動物や魚も有しているらしいです。

そうすれば「 気持ち その3 」の「 無意識 」の働きも考えられるだろうと思います。















(3月4日)

2019年3月 3日 (日)

歌  懐メロを作る

なあんて、出来っこないよ。

そうです、時が必要です。

ですが、今、時を超える懐メロを作るのです。

だったら、どうして懐メロが出来るか、事前に考えて作ったら?

「 歌は世につれ、世は歌につれ 」と言われますように、懐メロは、歌われる当時、世の多くの人に影響を与え、流行した大衆歌だとしますと、名声や宣伝で流行したとしても、私たち大衆の心を掴み、強い印象を与え、時が経ても、その印象を持ち続ける大衆が必要で、大衆は時代の変遷につれ歌を覚え、また忘れるものです。

私の場合、自分に残された生きる時間を意識し、汚れた「 心 」を洗いたいと思いまして、勝手に、きれいな「 心 」だった自分の昔、流行した歌を、浴びまして「 汚れ 」を洗い流しまして、当時の自分の「 気持ち 」を思い出そうとします。

「 気持ち 」が当時の世情の中の「 自己存在感 」だとしますと、感銘を受けた世情を帯びた歌を意識的に浴びることで、歌が流行した当時の自分の「 気持ち 」を取り戻すことによって、きれいな「 心 」を取り戻すことになると思います。

「 老人鬱 」という病気もあるそうですが、「 暗い気持ち 」にならないように、残された短い時間を過ごしたいと思い昔の「 気持ち 」を取り戻すことにより、死を思う「 暗い心 」に陥らないようにするために、「 懐メロ 」を歌ったり聴いたりすると思います。

「 病気は気から 」なら「 病気は心から 」にも通じ、「 自己存在感 」を強く持つことにより、病気の予防へと意図して、ボランティア活動することにより社会の中の「 自己存在感 」を持つことでしたら、懐メロを歌うことは人生の中の「 自己存在感 」を取り戻すことでしょうし、ボランティア活動することと類似した「 病気を予防する 」結果をもたらし、介護施設の認知症ケアに「 懐メロ 」を使うことも納得できる気がします。



このように、私の考えでは、「 懐メロ 」が意義を持つと思いますから、何かの方法で「 懐メロ 」の社会的な意義を考えてもらって、作詞・作曲・歌手を揃えて、美空ひばりさんが自ら「 川の流れのように 」を歌う事を申し出られたように、歌手もそんな歌を選んで歌ってもらい、お金のための流行ではなく、大衆が強く世情の中の自分を意識できるような歌を歌えば自分も自分が歌った歌も「 懐メロ 」として、残るのではないだろうかと思いますし、作詞・作曲家もそんな歌詞を提供されんことをお願いします。












(3月3日)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その3

前回、「 気持ち 」と「 心 」の範囲には、さほどの差はないとしまして、同じ扱いをしてきましたが、考えるところを書きます。

「 気持ち 」は「 自然環境の中での存在感 」としまして「 自我 」や「 自意識 」に似たものとしましたが、なぜでしょう?

出来る原因は、自分の「 からだ 」全体で感じる、曖昧とした感覚を保持しているからで、目や鼻などの所謂、感覚器官を含んだもっと広範囲の全身の毛穴から「 からだ 」の内部の内臓によって感じるものも含むもので、その曖昧な全体像を「 気持ち 」というのではないのだろうか?


「 心 」も、単に頭脳による意識的な感覚も含んだもっと広範囲の内臓からも生じ、心臓は無論のこと、ネットでは「 腸が心を作る 」という情報も得ていまして、所謂、「 無意識 」の働きによると考えると、「 気持ち 」も「 心 」も無意識で働いてくれている内臓にも、大きく依存するものだと思えないか?

言葉についても、「 心配り 」とか「 気配り 」や「 心構え 」とか「 気構え 」とか、似た言葉があり、その意味するものは、「 出来る原因 」に物質的なものと心的なものが混在し、前者の「 色即是空 空即是色 」による推移が、心的に「 配置 」や「 構え 」のような外部から判別可能な「 形 」として把握しているのではないだろうか?

こう考えて来ますと、言葉も自然現象と似た動きをしますが、その「 不可逆性 」のため、相違を示すのではないかと思い、「 不可逆 」な言葉によって、自分の「 生きた 」可能性を探る思考には、既存の言葉を、自分の環境や状況に応じて変化させなければ、どんなに学問を尽くしても実際の社会に貢献することは困難であると思うのです。

こうして、我田引水ではありますが、私の主張に、ひとつの筋を見るのです。

言葉を使っての思考は、必然であると思いますが、その根底に、自分の可能性を探る「 心 」がなければ、どんな自分流の思想という「 形 」を形成するには困難と思われます。

そうすれば、思考を牽引するエネルギーは「 心 」であり、既存の言葉の「 眠っている可能性 」と格闘する「 気持ち 」であることになり、自分の行動のエネルギーである「 無意識 」にも通じ、それは、自分の海馬に「 可能性 」として「 意識 」から、日々蓄えられる「 無意識 」に合わせて取捨選択することであり、そこから引き出した「 無意識 」は「 物質的 」で自分の「 からだ 」から抜け出て、他人の「 からだ 」に入り込み、自分だけではなく、他人にも感じることが可能になり、「 テレパシー 」のような「 言わずとも通じる」「以心伝心 」することが出来る人の存在が予見できます。

「 神仏習合と私 」に書きました実在人物とは申しませんが「 聖徳太子 」のような人が過去にも存在したようなので、未来にも有り得る事実なのではないかと思うのです。

また、後日………。












(3月3日)

2019年3月 1日 (金)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その2 の説明

「 気持ち 」その2 は、あまり整理されていない頭でしたので、わからないフレーズになりましたので言いたい事を説明します。

説明にならないかも知れませんが、書きます。

「 気持ち 」は「 環境の中での自分の存在感 」で「 心 」との違いが、まだ出来ていません。

それは「 自我 」とか「 自意識 」というものだと、現時点では思っています。

前に書きましたが、自分も含めて自然界は、「 色即是空 空即是色 」の世界=「万物は流転する」世界={E=MC² }=無常の世界だと思っていまして、自分も含んで全ての物が変化・変動し、そのエネルギー、あるいは法則を知ることが、「 知 」を得ることだと思いますがそれは、凡人の私に及ぶところではなく、その中での生命エネルギーの働きである「精神」の一つである「 認識 」について書いたのです。

常に変動するエネルギーは、上記の世界ですが、エネルギーの推移が物質の形の変化として現れる時、つまり現象として現れる時、その現れたり消えたりする条件を、認識の中で「 縁起、縁滅 」の世界として表現し、「 気持ち 」や「 心 」の「 縁起、縁滅 」を「 心変わり 」とか「 気持ちが変わった 」とか表現するのだろうと思います。

宇宙(自然)エネルギーの世界を、生命エネルギーによる「 認識 」で捉えるとき、頭脳で認識するために作り出した概念である「 時間 」や「 空間 」や「 無限 」などでは捉えることは出来ないので、なぜ「 時間 」とか「 空間 」とか言うんだろうという謎が、前者の「 捉えられないという意味での」謎が、二つとも「 永遠の謎 」として残りAIには解明することは出来ないだろうと思います。

「 気持ち 」の「 気(ki)」を宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーと分けたのは、人間界のコミニュケーションで人間が相手なら生命エネルギーの「 気持ち 」は使えるが、例えば熊や猿などを相手にした場合は生命エネルギーではなく宇宙(自然)エネルギーの「 気持ち 」を以て熊や猿の行動を見極める必要があるだろうと思います。

「 気持ち 」は、内部に秘めたエネルギーだと思いますので、現象である限り、当然「 万物は流転 」しますが、生命エネルギーですので「 縁起、縁滅 」を当てはめて、「 認識 」することも出来るし、「 縁滅 」する状態も認識可能だと思います。

その「 縁滅 」する状態の認識の使い道として、「 即身成仏 」や「 無我 」があり、それが「 縁滅した状態 」でして、なにも実際に、生きたままミイラになったり、臨死体験をしなくても、例えば禅をする方法で、生命エネルギーを限りなく少なくして宇宙(自然)エネルギーを把握すること、即ち、「 生きたままの死 」を得ることが出来て、「 彼岸 」に達することが出来るかも知れません。

ただ、それによって得られるものは自然界の「 知 」ではなく、自然界のエネルギーに沿って生きる事であり、お釈迦様がいう「 苦 」がない生活だと思うのです。

その「 生きたままの死 」の中で、「 生 」を発見するのが「 死中生有り、生中生無し 」の状態でなかろうかと思うのです。












(3月1日)

69歳になって考えること  「 気持ち 」その2

前回、「 気持ち 」について、少し書きましたが、その延長上で、私の考えを書きます。

「 気持ち 」とは、「 気(ki)」を「 持つ 」ことで、「 気(ki)」には、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーがあると書きましたが、「 身体(karada)」は、細胞の集まりだと思いますが、物質であり、宇宙エネルギーの支配下でしょうし、「 精神 」を意識の集まり、あるいは統合と考えますと、感覚など頭脳の働きなどは外界への反応であり物質的なものを原因とするものや、祖先から引き継ぐ個人のDNAの設計図から作りだされた器官を原因として、人様々に相違し、その相違の発生原因が不明であるため、私は物質から「 派生 」する相違としました。

相違は、「 精神 」という生命エネルギーの働きが、認識可能な物質の変化として現れる宇宙(自然)エネルギーの推移(これは、エネルギー保存の原理で物質の形の変化として現れるが消滅しない)を、どのような固定した物質であるかを認識するかだろうと思います。

「 物質 」はエネルギーと等価だと思われるゆえに、エネルギーの推移が様々な固定した形に変化として現れることが出来るし、その変化の条件を探るとき「 縁起、縁滅 」という精神による認識形式で表現し、エネルギーが様々な形に推移する経過の「 精神 」も「 物質 」の変化が、自然界では常に惹起し、絶えることがない事を、「 精神 」で表現するときに、「 色即是空 空即是色 」という謎めいた言葉になると考えています。

このように、絶えず「 縁起 縁滅 」を繰り返す認識対象を認識する「 精神 」も物質から派生したものであるため、「 縁起 縁滅 」するのだが、それが「 心変わり 」とか「 違う気持ちになった 」というのではないかと思います。

現時点では私は、「 心 」と「 気持ち 」の範囲に大きな違いはなく、それらは、自然界と自分の存在感であり、「 暗い気持ち 」は「 暗い心 」となりますが、これは私の主観であり、真実とは相違すると思いますが、今の時点では、「 気持ち 」は「 自我 」や「 自意識 」と類似したもので、個人独特の認識主観であり、「 自分 」を行動に導くエネルギーという意味で、生命エネルギーに属すると考えます。

そうしますと、日本の仏教でいわれる「 即身成仏 」や「 彼岸 」という状況は、なにも生きたままミイラになったり、臨死体験をすることでは「 なく 」、「 気持ち 」を身体から消滅させ、(多分、禅をするように)自然界のひとつの人間という現象物に成り切ることで、そうすることにより、自然界のエネルギーの流れに乗った行動が可能となるのではなかろうかと思います。

「 彼岸 」に達したとしても、自然界の法則を発見できる保障はなく、自然のままに生きるだけではなかろうかと思います。

なぜなら、自然界は「 色即是空 空即是色 」の世界でして絶えず変動して、例えば地震予知のように、人知には遠く及ばない、永遠の謎だと思うからです。

宇宙の時間って有りますか?
宇宙はどこまで広がっていますか?

これらの疑問に、頭の意識で作った「 時間 」や「 空間 」という概念は説明することは出来るでしょうが、宇宙からの借り物であるため、その限界を「 無現 」という頭の中にしか存在しない「 無 」で以てしか表現できないからです。

将来、AIが社会で活躍しようとも、自然界を支配できようとも、人間が作り出した作品を自然界から引き出すことは出来ないでしょうから、「 時間 」も「 空間 」も「 無 」も解明することは出来ない永遠の謎となり、自然界の謎とは違う謎をAIが抱えることになるのではないかと危惧します。

「 将棋は格闘技 」で書いたかも知れませんが、人間界のコミュニケーションでは「 空気を読む 」ことや戦闘方式の選択には役立つかも知れませんが、対自然界(例えば熊やイノシシや猿と対面したとき)など、相手の「 気持ち 」は宇宙(自然)エネルギーですから、無能でしょうし、「 自我 」を捨てて「 無我 」にむかうときに役立つかも知れません。


それは、生命エネルギーを極力、抑えて、自然エネルギーを知ることでしょうが、凡人の私が向かう方向ではないと思っています。


「 死中生有り、生中生無し 」という言葉を、いかに理解するかを考えるべきなのかなあと思っています。










(3月1日)

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