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2019年2月

2019年2月27日 (水)

69歳になって考えること 「 気持ち 」その1

私は、団塊世代に生まれ、マルクス主義を是とする私立大学の法学部を卒業し、周囲の状況で地方公務員になり、出世もせず退職して、現在は年金暮らしをしている老人です。

ですから、心理学・哲学・科学・文学などには全く縁のないことを学んで来ましたので、それらに関する書籍は数えるほどしか読んでなく、ここに書きます記事は、すべて思考上の産物であることを申しておきます。

タイトルを「 気持ち 」としましたが、他に書かれている書籍やブログがあると思いますので、本当に興味を持たれている人は、そちらをお読みください。

さて、「 気持ち 」と申しますのは、幅広く使われる言葉ですが、私は「 気持ち 」とはなんだろうと思いまして、いろいろ考えたのですが、まずその中身についての私の考えと、あとは私の思考体系の中の「 気持ち 」について書こうと思いますので、二、三回になってタイトルが続くと思います。

1、「 気持ち 」とは

いい気持ち、嫌な気持ち、気持ち悪い、気持ちがわからないなど、いろいろと、フレーズが思い当たりますが、誰でも持たれていると思いますが、この「 気持ち 」とはなんでしょう?

「 気 」プラス「 持ち 」ですから、人は「 気 」を「 持っている 」ということでしょう。

それがどうしたと申されるかもしれませんが、これについて、私の思考上からの考えを書きます。

私の体系では、「 気(ki)」は重要な位置を示していまして、宇宙(自然)エネルギーとしての「 気 」、例えば「 天気 」・「 気候 」・「 空気 」・「 気象 」などから、ご想像ください。

もう一つは、生命エネルギーとしての「 気(ki)」、例えば「 病気 」・「 病気は気から 」・「 寒気 」など、生きてゆくときのエネルギーなどに使われるのではないでしょうか。

「 気持ち 」とは、生命エネルギーを表現するのだろうとは、思いますが、私の思考体系では、気はエネルギーであり流れるものであり、例えば人体であれば毛穴かたあるいは呼吸から、宇宙(自然)エネルギー生命体の中に取り入ることが、生命維持の基礎だとしますから、「 気持ち 」と申しますのは、「 宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーを、人体が外部にある全部の表面で感じている、自分の存在意識 」などではないかと、現在は思っています。

「 存在意識 」ですから、自然環境から物理的に独立した物体の意識でしょうし、それは「 自我 」とか「 自意識 」などという「 自分 」と「 自分ではない物 」を別けて考えるのでしょう。

ですが、上述のように、人体は絶えず新陳代謝を繰り返し、エネルギーを外部と内部に通じさせ、ある程度は、独立したとは言い難い面もあると思います。

私には「 意識 」がありますが、「 人体 」という物質も共にあり、自然環境に存在する人体を感じる「 意識 」が「 気持ち 」なのだと思っています。

ですから、「 心変わり 」とか「 気持ちの変化 」など、自分を取り囲む状況によって、コロコロ変わるのだと思いますし、また自然が「 色即是空 空即是色 」の世界ですから、「 気持ち 」は変わらざるを得ないのです。

例えば、老人の私が、いつまでも青年のような気持ちなどですと、自分の身体がその気持ちについてゆけない様に、自然からしっぺ返しをくらうでしょう。

それが、お釈迦様の言われる「 苦 」の発生にも通じるのではないかと思います。

ですから、私は「 気持ちが変わった 」というのはあり得ることでして、「 気持ちを変えて再出発する 」ことも可能だと思います。

或る程度、自然のエネルギーから独立していると思う生命のエネルギーによる意識の内容が「 気持ち 」かも知れず、生命」のエネルギーは先祖代々つながる遺伝子情報にもつながると思いますから、「 意識 」と言いましても「 無意識 」に近いと思います。

私の体系では、「 無意識 」は「 自然 」とも通じる、人体を動物として動かすエネルギーであるとも考えますし、「 自意識 」とか「 自我 」というのも、西洋の「 意識 」ではなく「 無意識 」に近いのだろうと思います。

ですが、動物一般とは違う人間だけが持っているエネルギーを「 気持ち 」というでしょうし、「 無意識 」であれば動物の「 本能 」とも共通すると思いますので、もっと幅広いものかも知れません。

「 意識 」としての「 感覚 」の総和が「 気持ち 」でしょうが、それが宇宙(自然)エネルギーから影響されて、「 変わる 」のかも知れませんが、受動的ではなく、例えば書籍を読んで気持ちが変わることもありますから、生命エネルギーの変化の影響で「 変わる 」のかも知れません。

ですが「 気持ちがわかり合える友達 」というのが、私が孤立しているのか、私には理解できません。

私の中に、人間本来は孤独であることを出発点としている所が原因なのかもしれません。

「 気持ち 」を「 何かをしたい欲望 」というように使い、人間を動かすエネルギーだと考え、私も、「 将棋は格闘技 」でも書きましたが、相手が指すことを察するエネルギーを「 気持ち 」とすれば、わからにでもありませんが、自然界に向かっての「 気持ち 」は、どうも違うような気がするんです。

また後日、変更することがあるかも知れません。












(2月27日)

2019年2月25日 (月)

69歳になって考えること 振り返っておもうこと 5、孤独

以前にも書きましたように、ガンを患う人に、何も言えない冷たい私です。

現在、家族もあり、孤独に縁のないような生活をしていますので、孤独死など、本当に悩まれている人には、何て冷たいんだと非難されると思います。

ですが、迎えに来てもらうこの歳になりますと、「 アドラー心理学 」でも書きましたように、人は、周囲に助けられつつも、一人で生まれて来て、周囲の人にお世話になりながら一人で死んでいきますが、人間の本来の存在は、孤独の中で生きなければならず、例え一緒に生まれた双子であっても、それぞれの遺伝子の違いに従って、それぞれの人生という生きる道が、既に決まっているのだと思います。

言い訳かも知れませんが、「 冷たい 」とか「 あたたかい 」とか言っても、人間は基本「 孤独 」で、助けの求めに的確な助言が出来るかどうかの違いでして、「 冷たい人 」と夫婦で暮らしているから、自分が不幸なのではなく、本来の姿は、「 自分 」も本来は孤独な存在であり、自分の道は自分で決断して、死ぬべきでして、より良き方向の道がないのかは、助言を求めるのではなく(助言は助言です)、「 自分 」が決めるべきで、助言を求めるべきではなく、不幸ならば自分が信じる幸福のほうへの「 道 」を自分が決めなくてはならないと思うのです。

ですが、孤独で生きるのが困難な社会では(ロビンソンクルーソは可能です)、助言して助け合って生きるシステムを作っていますので、さきほど申しましたように、的確な助言が出来る人は「 あたたかい人 」で、出来ない人は「 冷たい人 」になると思います。

でも、「 死 」に面した場合、立ち向かうのは「 自分 」でして「 的確な医療 」があろうが、なかろうが、必ず死ぬ存在ですから、「 孤独 」が心で弁えていれば、どんな医療でも許し、遺伝子が指定する「 自分の生きるべき道 」、「 自分の人生の道 」をゆけるのではないかと思います。

死への途中の、愛する人(例えば、配偶者)との別れからくる「 苦 」も、「 孤独 」が心にあれば、忘れることも早まるだろうし、あきらめもつくし、遺伝子による「 道 」への考えがあれば、自分の身体は人間の可能性が多様であることの「 神から指定されの実験台 」であり、自分の凡庸さや無能さも、この先、こんな人生の道が待っていることの実例になり、他人の判断を助けると思ってあきらめることが出来ると思っています。

農業試験場や養殖場で、条件を変えて生物の育ちかたを見るように、条件を作るのが「 神(エネルギー) 」で、育てられている生物が「 私 」ということなのでしょう。

その育てられている生物は、実験どおりの「 死 」を迎えなければ、実験の失敗ですから、「 私 」は、「 自殺 」して実験を中止させることなく最後まで生き続けなければならないと思っています。












(2月25日)

2019年2月18日 (月)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 4 仏教

勿論、私は僧侶ではありませんし、仏教の教えを学んだことも無く、仏教についての本も文庫ぐらいしか読んでいない一般人ですから、何も真実を言うことは出来ません。

でも日本人ですから、一般民衆に幅広く浸透していて、私の住んでいた田舎でも、唱えられている「 般若心経 」は、その全部を先人から覚えさせられました。

日本の至る所に「 霊場 」があり、多くの神を祭っている祠がありますが、そこで唱えられているのも「 般若心経 」で、その響きは呪文のようで、山岳仏教の山伏が唱えるのも「 般若心経 」だと思われます。

私は、仏教に関しては全くの素人ですが、学校の授業で、仏教は「 顕教 」と「 密教 」に大別されて、前者は、最澄を祖としたもの(例えば、天台宗)で比叡山を修行場とし、後者は、空海を祖とした密教で、高野山を修行場としていると教えられました。

中学や高校生でしたから、知識の一つに過ぎませんでしたが、歳を経るにつれ、前者はテレビでよく拝聴する、末那識や阿頼耶識という意識を分析し、多くの僧侶が学ばれる「 唯識 」の世界で、鎌倉仏教から続く主流派だろうし、後者は、日本国の至る所まで広まっている「 般若心経 」の世界ではないだろうかと思うようになりました。

前者は多くの経文があり、その源は「 阿弥陀如来 」や「 ブッダ 」であり、後者は真言を主とする教えで、その源は「 大日如来 」とされているようですが、私の持論においては、前者は生命エネルギー(仏)を説くものであり、後者は宇宙(自然)エネルギー(神)を説くものと分類しています。

前者は、言葉などの「 認識 」の世界で、後者は、言葉では言い表せないエネルギーのようなもので、それがそのまま、「 般若心経 」の中では、前者が「 無(mu)」で後者が「 空(kuu)」であると表現されているのだろうと私は思っています。

私は「 無(mu)」は前者の頭脳の生命エネルギーの発露である「 認識 」の中にしかなく、言い換えれば想像した事柄であり、「 空(kuu)」は後者の宇宙(自然)エネルギーの発露である「 存在 」の世界で、何も無い「 無(MU) 」と思われている真空がクオークやヒッグス粒子の存在が充満する空間の様なものだろうと思います。

ネットでは、「 この世は全ては空であり、全ては縁起縁滅の世界である 」という考えがありますが、「 全てが空である 」ことは、「 全てが無である 」ことではありません。


虚無主義などと叫んで自殺する人もいますが、その人の存在は決して「 無 」ではなく「 空 」であると考えます。

その「 空 」を「 空虚(からっぽ)」と考えてしまうと、「 無 」と同じことになり、絶望への道になりますが、「 空 」を「 エネルギー 」と考えると「 今の自分には認識することが出来ない力があるのだ 」ということになり、その力を探り求める希望への道につながると思います。

すべてが空と考えれば、「 自我が無い 」とは「 自分という我(自我)が空であること 」でしょうし、「 空であること 」は、「 自分という我(自我)」は、何かのエネルギーであることになるのではないでしょうか?

私の持論では、人間は宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーが、認識を可能とする「 霊体 」になっていますから、それを動かす「 力 」であることになります。

前に戻りまして、「 顕教 」は阿弥陀仏の教えですから、私が死亡して阿弥陀仏の所に行けるように僧侶から唱えて欲しいのですが、現在を生きるときには、「 座禅 」をはじめとする顕教よりは、密教に近いと思われる「 般若心経 」の「 色即是空 空即是色 」に興味があります。

持論として、「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=無常、というのがありまして、この世が「 浄土 」であるなら、この「 浄土 」の流れのままに生きることは、死後も「 浄土 」に遊ぶ、つまり、死後も「 浄土 」であるこの世に永遠に生き続け、星になったり富士山の上にいたり、あるいは子孫の体内にエネルギーとして働くことに通じると思うからです。

ネットでは、私のように「 般若心経 」をE=MC²のような物理法則で解釈しようとする素人がいまして、心強いのですが、「 色即是空 空即是色 」がE=MC²であるのは良いのですが、仏典である以上、それが「 縁起縁滅 」をも同時に説明できるように解釈すべきだと思うのです。

その点では、手前味噌ではありますが、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの重なりが人間の認識を可能にし、前者の変化が後者の物質の変化に現れ(空即是色)、認識では、条件によって物質が生起する「 縁起 」として現れ、後者の物質の変化を問い詰めると前者の条件になって分からなくなる(色即是空)即ち「 縁滅 」となります。

折角、現代まで続いて来た「 顕教 」と「 密教 」ですから、これを両方活かしまして、生きているうちは「 密教 」のお世話になり、死後は「 顕教 」のありがたい経文を唱えて頂くことにしています。













(2月18日)

2019年2月17日 (日)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 3、無常観

漠然としたことを書きます。

私は、「 誕生から死後までの意識 」の電子書籍をはじめ、これまで「 無常 」のことを言ってきましたが、なぜ無常などと考えるのかを振り返ってみました。


この世は、「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」である。


これが現在の私の到達点なのですが、どうして自分の頭の中で「 無常 」などと思うのでしょうか。

「 現象 」の世界で暮らす私は、生きる可能性を探るために、心の中で「 本質 」という「 恒常的 」なものを求めるのでしょうが、この「 現象 」とか「 本質 」とか言いましても、それらは{ E=MC² }から来るものだと思っています。

脳科学でどんな結果が出るのか知りませんが、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で書きましたように、頭脳の中で伝達され貯えられる「 印象 」というのは、現実の現象から受けたE(エネルギー)であるのだと思います。

事物はE(エネルギー)に変換され得るからこそE(エネルギー)に合わせて「 変化 」するのだと思います。


このE(エネルギー)を自分の「 気持ち 」という無意識で捉えたのが「 誕生から死後までの意識 」でいう「 印象 」であり、捉えることが可能であるのは、物質を物質たらしめるように結合させるE(エネルギー)と、頭脳の中の宇宙(自然)エネルギーが同質だから、「 感じられる 」のであり、それが「 無意識 」として海馬に「 可能性 」として蓄えられ、次に面する「 現象 」の中のE(エネルギー)に対応するとき、それに合わせて海馬の中の「 可能性 」が、事物を動かすE(エネルギー)に、同質の物理エネルギーであるため、適用が「 可能 」であると見ます。

この繰り返しであるため、「 無常観 」が生まれ、頭脳は新しいE(エネルギー)に更新され、絶望から希望への自分が進むべき道が生まれるのだと思います。

「 無常観 」を感じられるのは、自分の存在(自我)が自然物と同様の現象であり、頭脳の中のE(エネルギー)を通して自然のE(エネルギー)を得て「 無常 」と感じられるのであり、自分の存在(自我)が、恒常的で人間は自然物ではないと思うほど、絶望の闇が深く、自然の持つ力(エネルギー)による救済も困難になるだろうと思います。

人のE(エネルギー)が物化したのが本などの書籍であり、それはその人を取り巻く自然の力(E・エネルギー)であり、万能ではなく、読者は常に自分の可能性を自分の頭で考えて摂取すべきことは勿論のことで、書籍と違う結果になっても、自分を卑下する必要もありません。

自然が無常であるからには、自分の思考も無常に成らざるを得ませんし、絶対不変の本質などは無く、「 無常であること 」が本質であるかも知れません。

ちょうど、伊勢神宮が遷宮することによって、その造営技術を古代から現在まで継承させてきたように………。












(2月17日)

2019年2月16日 (土)

69歳になって考えること 振り返って思うこと 2、 正月

また振り返ってみます。

正月も過ぎ、もう2月ですが、この「 正月の風習 」のことを振り返ってみました。


私は、団塊世代で、私の田舎の家は百姓でして、「 もち米 」からお鏡餅を作って、神棚は勿論、身の回りの品々の上にお供えをし、大晦日に大掃除をし、正月のための「 しめ縄 」や「 門松 」を玄関に飾り終えてから、毎年恒例になっている「 紅白歌合戦 」をテレビで見終わると全国各地からの除夜の鐘を打つ映像が流れ、午前零時を過ぎると同時に神棚に参り、家族の皆に年賀の挨拶をして、近所の氏神に新年の挨拶をして眠り、その翌日は、餅が入った「 雑煮 」を食べ終わってから、今度は遠くの神社の「 赤い鳥居 」をくぐり「 三柱 」になるように、三つの神社を参拝しました。

その後、七日まで正月気分で、元旦から数えて七日目に鏡割りをしたものでした。



幼い頃の私は、どうして正月になると、そんなことをするのかなど思いもせず、日本国中で繰り返される行事に従事していました。

ですが、名古屋で退職を迎え、最近、ユーチューブの動画を見ていましたら、その「 正月風景 」を物の見事に説明する動画を見てしまいました。

それが、URTにある動画でして、「 ダビテ神社が存在した……」などというタイトルで、こんなの嘘に決まっているだろうと思い見ていましたら、この動画の最後の方で「 旧約聖書 」と正月風景を比べる場面が出てきまして、私が田舎でしていた「 過去から面々と続く正月の風習 」が、「 旧約聖書 」とそっくりな生活ではないかと思いました。

上記の正月風景が、物の見事に説明されているのです。

大掃除をするのも、午前零時の正月になるまで起きていることも、正月に餅を食べることも、しめ縄も「 赤い鳥居 」も、それが「 なぜか 」ということを説明しているのです。


日本人は宗教がないと、欧米各国から、散々言われてきましたが、欧米のキリスト教徒たちは、「 旧約聖書 」が言う通りの事を、新年を迎えるにあたり、実行しているのだろうか?

二十一世紀の今、「 旧約聖書 」のことを実行しているのは「 日本だけ 」ではないだろうか?


そう思いますと、「 日ユ同祖論 」が、全くのデタラメとは言えないように思いました。

つぎは、「 邪馬台国 」について思い返してみます。





*上記で引用した動画のURTです。
https://www.youtube.com/watch?v=17JT-HsgrYg&fbclid=IwAR15vcQATbO337FftGk6AaUDzxN5r01GsPTMqI3soeUNTzvClwa35a0qvX4













(2月16日)

2019年2月15日 (金)

69歳になって考えること  振り返って思うこと

こういう歳になりますと、こんな思いをする老人も、いるものです。

私は、故郷に大詩人や文学者がいたのもかかわらず、興味を示さないで、散文的なことしか書けないことは私がいかに凡庸であるかを示すものでしょう。

北原白秋が創った童話には限りない愛着を覚えますが、詩に対しては触手が動かないのです。

ただ、短歌には興味がありまして、中学・高校のころは短歌を暗記していたものでした。

短歌は、金銭を目的とするものでない事は、その頃から感じていましたし、その才能を持つ人が羨ましい気持ちもありました。

百人一首も好きですが、有名な歌人が歌った失敗作が好きで、いまも覚えています。



「 そでひじて むすびしみずの こおれるを はるたつきょうの かぜやとくらむ 」


などの藤原定家の歌が好きで、これこそ、「 無常 」を知らない貴族の、のどかな気持ちが伺われてととも好きです。

近代になりますと、石川啄木の歌集であります「 一握の砂 」のなかの歌が好きです。

これは、「 石川啄木 」でWeb 検索しますと、詳しく紹介されています。

その中で、二つを紹介します。


「 たわむれに 母を背負いて そのあまりの軽き(かろき)に泣きて 三歩あゆまず 」


「 はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 」


これは、心にじんと来る歌でして、苦しい生活の今、まことに同感の意を表するものです。

昨日でしたか、国会で安倍首相に対して野党の人が、老人は、生活するのに苦しくて非正規労働をせずにおれないのではないかという質問に、非正規労働が好きだから老人はそうしているという答弁がありました。

首相が言う老人は幸せな生活を送っている人たちで、首相のまわりにはそんな老人ばかりなのでしょう。

底辺の老人は、「 一握の砂 」にありますように、食費を切り詰め、孫や子に小遣いをあげたり、あるいは生活のため、病をおして、非正規労働をしているのです。

こんな生活も、天のどこかで「 神 」が見ていると思えば、自分に恥じない行動を採っておれば、「 色即是空 空即是色 」の世界に暮らす「 人間の多様性 」を示すものになると自分を慰めています。



「 はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 」

(石川啄木)






















(2月15日)

2019年2月14日 (木)

69歳になって考えること 我が故郷柳川 2 柳川から名古屋

前回でご紹介しなかった偉人ですが、柳川に関係がある人の中に、マルクス主義哲学者の廣松渉氏(山口県出身・伝習館中退)と壇一雄氏(福厳寺に墓地がある)がおられます。

2、私と柳川そして名古屋

私は、長谷健さんの近所に住み、長谷健さんが校歌を作られた東宮永小学校に通学しました。

後輩として相撲取の琴奬菊がおられます。

隣町には相撲の不知火型土俵入りを考案した10代横綱の雲龍久吉の記念館があります。

私の「 高口 」という姓は、あまり多く有りませんが、全国の中で福岡県が多く、特に柳川に多いそうです。

私の祖父が養子に来たということで、なぜ柳川のしかも近くに多いのかは知りません。

その小学校を卒業して柳川城の跡地に立つ「 柳城中学 」に入ったのですが、藩主の立花氏の子孫のご令嬢や家老を務めた十時氏の子孫のご令嬢や当時の市長のご令嬢がおられる所でして、百姓の私は小さくなっていましたが、恩師の青木先生に出会い、県立伝習館に入学しまして、マルクス主義の傾向があった立命館大学に進みました。

その頃、廣松渉氏の本は知っていましたが、まさか伝習館中退した人とは知らず、マルクス主義の教育への反抗と中学二年の時に死亡した母親と「 マルセリーノ 」に影響されて、実存主義のキルケゴールに魅かれていきました。

その後、名古屋市の地方公務員になりまして、病気を患いましたが無事に退職を迎え、私の病気を気遣ってか、元上司から下記のような「 同窓会 」にお招き頂き、この平成の御代を終える三月に、同窓会を解散することになりました。


幹事さん、ご苦労さんでした。




1、「 同窓会 」が始まったころのメンバー

Photo1


2、「 同窓会 」の終わりのころのメンバー


2017





















(2月14日)

2019年2月 7日 (木)

69歳になって考えること  我が故郷柳川 1 柳川について

私の退職後は、生まれ故郷であります柳川に戻って、女房の実家にお世話になる予定でしたが、道路拡張のため家を取り崩し、跡取りもいないので、土地も売り払いまして、こらからどんな生活をするのか、まったく目途が立っておりません。

故郷の偉人であります北原白秋の「 帰去来 」の詩碑にもありますように、官をやめてその地を去って故郷に帰るつもりでしたが、このままでは、それも夢のまた夢になりそうです。

頭がまだ正常なうちに、故郷である柳川につきまして、少し書いておこうと思います。

第一回は、福岡県の柳川市について、第二回は、柳川と私の「 特殊 」の事柄をかきとめたいと思います。

ありがたい事に、子供のころにはなかったPCがあり、その情報でほとんどの概要がわかると思いますので、ご興味がありましたらWebを検索して、詳しくお知りください。



柳川市のWikipedia で、柳川市の概要がわかると思います。

「 ふるさと柳川 」というFacebook もあります。

「わたしのふるさと~柳川」や「 柳川弁」Wikipediaで検索すれば、(そこで話されている?)方言を知り得ます。

「 北原白秋 」で検索すれば、彼の著作がわかりますから、興味がありましたら、図書館で本をお読みください。

彼の「 帰去来 」の詩の朗読は、メールアドレスを入力すれば、音声ファイルが送られます。

「 長谷 健 」で検索すれば、彼の著作と私の出身校(小学校)と私の出生地が、おおよそ判別できるでしょう(これは第二回で書きます)。

柳川の写真は、いろんな所で見れると思いますが、もしあなたが、メールアドレスを晒して、「 Pintaresut (ピンタレスト)」に加入されているのなら、私の名前(katsunori kouguchi)で検索されれば、「 私の日本(自然編)」で私の故郷として集めた画像が見れます。

動画は、ユーチューブで探すと発見することが出来ると思います。



私が、まだ高校生のころに、こんなにもインターネットが普及するとは思いませんでしたので、故郷の近くの都市に就職しておれば、もっと面白い写真を紹介したり、柳川で今起こっていることを書けたかも知れません。

誰にでも故郷があり、石川啄木の短歌にもありますように、故郷の方言が聞こえて来る方向に思わず耳を傾けてしまいます。

この記事も「 お国自慢 」になってしまうのかも知れませんが、故郷でPCを使う人たちへの応援になればと思っています。









(2月7日)

2019年2月 5日 (火)

69歳になって考えること  私にとっての E=MC²

私は、これまで
「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」
という、私なりの解釈で、ここまで来ました。

認識上では、実体・物質(M)が様々な形に変化する(例えば、水(液体)から蒸気(気体)になり氷(個体)になる)のは、物質がエネルギーと等価であるからだと思っていました。

しかし、このアインシュタイン氏のE=MC² というものを数学に無知であるため、どんな意味なのか知りもしないでいましたので、改めてこれをWebで調べてみました。

すると、Wikipedia に以下の説明を発見しました。
この E = mc2 と言う関係式は、アインシュタインによる公式の中で最も有名なものではあるが、経験則に基づく仮説として、長年の間厳密な証明はされないままであった。しかし、原子核核子を構成するクォークと核子同士を結び付けるグルーオンは、それぞれ質量が全体の5%および0であるにもかかわらず、これらクォークとグルーオンの動きや相互作用によって発生するエネルギーが原子核の質量の源となるという論文が、2008年11月21日発売のアメリカ学術誌ネイチャー』に掲載された[5][6]。このことにより、これまでは仮説だったこの関係式が、ようやく実証されたことになる[6][7]

これをそのまま認めまして、この「 クオーク 」を生命エネルギー(仏)とし「 グルーオン 」を宇宙(自然)エネルギー(神)と置き換えるますと、物質・人体(M)と「 クオーク 」(仏)と「 グルーオン 」(神)の総計が一人の人間のエネルギー(E)となり、私がこれまで書いてきた「 三位一体 」とか「 神仏習合 」などが、その「 内容 」になると思います。


尚、私のもう一つの考えである「 意識は電磁波の構造を持つ 」というのは、神仏が私の身体のなかで、意識(末那識)と無意識(阿頼耶識)の形で潜んでいて、「 今 」から発せられた電気信号を照射することにより、それらが「 光電効果 」のように飛び出して私の行動のエネルギーになると考えますと、「 我田引水 」ではありますが、私が言うすべてが一連につながることになります。

まことに自分勝手な解釈でありますが、私のような考えは世界中を探しても無い「 唯一無二 」の考えでして、私の自己肯定です。


このように考えて生きるのも、私の人生だと思っています。














(2月5日)


2019年2月 3日 (日)

田村正和主演「 忠臣蔵~その男 大石内蔵助 」の感想

年末に録画していた未鑑賞ビデオを暇に任せて整理していましたら、タイトルのビデオを発見しまして、思わず最後まで見てしまいました。

田村正和という俳優さんは、最近は見ないなと思って調べますと2018年4月ごろ、俳優の引退を発表されているようです。

多分、私はその事が頭のどこかにあって、録画したんだと思います。

タイトルをWeb の検索にかけますと、既に多くの寸評がありますので、私は、それに書かれていないこを書きますから、もし興味をお持ちでしたら、他のブログをご参照ください。

①忠臣蔵

これは、年末恒例になった江戸時代の物語ですが、詳しくは、Webでご検索してください。

これについては、一年にわたってNHKが大河ドラマを作りましたので、事実関係は日本の皆さんは、充分、ご存知のことと思います。

他のブログで書かれていますように、これを見ただけでは、「大石内蔵助」は何者かを正確に把握することは出来ないのは同意します。

ですが、彼が切腹を前にした辞世の句(短歌)の「 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」と彼の歴史的行為から、彼の「 武士道 」を充分に推察されると思います。

「 武士道 」につきましては、いろんな本が出版されています。

私は、「 武士道 」は無常の流れに「 サオ 」をさして、世の動きに影響を受けない、ある程度無常ではない精神的な支えなのだろうと思っていまして、それが世の動きに逆らっているがために悲惨な結果をもたらすところに、憐憫の念が湧くのではないだろうかと思います。

この物語では、忠臣蔵の浅野氏も、「 わいろ 」が幅をきく世の中では、「 わいろ 」を送っておけば、お家断絶もなく、家臣が路頭に迷うこともなかったと思いますが、世の流れに逆らい「 わいろ 」を使って世を渡るのではなく「 建て前 」(決めごと)でに沿って世を渡ろうとしたため、世の流れである「 わいろ 」を要求する者から叱責され、屈辱に耐えきれず、江戸城内で刃傷に及ばれたが、刃傷に及んだ者は切腹という「 建て前 」(決めごと)により一方的に切腹させられて、「 わいろ 」を要求した者に処罰はなかった。

浅野氏は「 喧嘩両成敗 」という「 建て前 」(決めごと)を無視した幕府に無念を覚える。

家臣である、大石は、主君の浅野氏の無念を晴らそうと、「 わいろ 」を要求した者の家に「 討ちいって 」その者の首をはねた。

幕府は、自身の裁断を正当として、「 討ち入り 」をしたものを切腹させた。


大石は、「 討ち入り 」をするのは、自分の身を捨てて主君の無念を晴らすという忠義をもって、幕府の不当なご政道を指摘しようとしたのであり、それが彼の辞世の句から感じられる彼の「 武士道 」だろうと思います。

これは、邪推ですが、時代を超えて民衆に人気があるのは、日本という所が「 わいろ 」を好まない風土であるかも知れません。

上記の「 短歌 」に戻りますが、ダラダラと言葉を並べるよりも、「 5・7・5・7・7 」という短い文字で、内面にひそむ「 感情 」ではなく「 心情 」を表現した日本古来の短歌で表現されたほうが、後世に生きる私たち団塊世代にとっては、わかりやすいと思います。

もっと「 忠臣蔵 」や「 大石内蔵助 」や「 武士道 」が知りたいとお思いの方は図書館へ行きましょう。

最近のテレビドラマを観るのが嫌になったのも、どんな「 心情 」を「 どんな俳優さん 」を使って「 どのように 」表現するのかが、趣味のない私の趣向にあわないのです。

②俳優さん

田村正和さんはWikipedia で詳しく紹介されてありますから、興味がお有りならWeb検索をお願いします。

私の印象では、言葉の発音が聞き取れず、昔から私の苦手とする俳優さんでした。

彼がテレビで「 大石内蔵助 」を演じるのは最初らしいですが、今回も、同じかなあと思ってみていました。

団塊世代を泣かせる場面に、大物俳優の北大路欣也さんや松平健さんや岩下志麻さんを配していますが、皆さん、セリフが少ないので、田村正和さんに合わせて言葉が少ないのかなあと最初は思っていました。


しかし、鑑賞しているうち、「 短歌 」と同様に、俳優の皆さんは言葉ではなく、身振りや仕草、あるいは目配りなどの「 間(ma)」で、「 心情 」を訴えておられるのではないかと思いはじめました。

そう思いますと、田村さんが発声されるかすかな言葉など苦にすることもなく、北大路さんとの睨み合いや目配りなどから、その人物のその時の「 心情 」がなんとなく理解できるようになりました。

表現には言葉だけではなく、ボディランゲージと申しますように、身振り手振りで表現する、かってのチャップリンさんの無声映画もあります。

浮かべる表情とか江戸時代を連想させる女性の泣き方や剣劇の立ち回りなどが、時代劇の特徴であるとともに、日本の他の芸能や庭園や絵画などにおける「 空白 」のとり方が、内面にひそむ日本文化を表現するのかも知れません。

何でもかんでも空白がないように塗りつぶすのも絵画でしょうが、風神、雷神などの配置や日本画に見られる空白は、故意に空白にした意味を考えるべきだと思います。


俳優さんに、長いセリフで、事細かに喋らせ、状況を観衆に理解させるのも映画でしょうが、上述した「 沈黙 」で心情を表現するのも映画です。


私には、後者による映画が、観衆に自分の心情を引き出させ、その場の心情に同化させて、その人なりの感動を受ける作品になると思います。



このビデオでは、俳優さんたちが、目配りとか睨み合いなどによって作りだす沈黙の時間(間・ma)が含む心情と思われるものに、観衆は自分の心情を同調させやすい、つまり感動しやすいし、それが観衆のなかにひそむ、それぞれの「 武士道 」なのかも知れません。

脱線してしまいましたが、「 俳優さん 」は、顔形が綺麗とか人気があるとかで評価されるべきではなく(それは時の流れによって変貌します・無常のもの)、その人が配置された意味やその場面に含まれる心情を「 いかに演じることが出来るか 」によって決めるべきだと思います。

そんな俳優さんが、この世からあの世へ旅立つ人の中に多いというのが残念で、残された俳優さんが、なぜ俳優と呼ばれるのかを早く気づかれて、おおいに日本文化の継承に役立たれんことを、願っています。










(2月3日)

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