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2019年1月 8日 (火)

69歳になって考えること  私から見た「アドラー心理学」 2

私は、心理学など言及するほど、勉強もしていないので、アドラー氏が挙げた、目的論、承認欲求、課題、共同体意識などについて私の考えを述べたいと思います。

目的論については、1、で述べました。

私の考えから、他の問題を見ますと、それが一連の行為となってしまうので、とても分析して結論を出すことは出来ません。



私の考え

私は、「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように「 人間 」を捉えますので、一連の行為になってしまうのです。

私は、以前書きましたように、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)が、何かのご縁で生命体として母に宿り、誕生したのが「 霊 」と考えていて、生命エネルギーから「 本能 」として「 煩悩 」を持った人間(霊体)として生きて行けるように身体が作られているだろうと思います。

霊体だから人間は霊長類というでしょうが、脳から派生する「 意識 」を持っていて、その中に「 良心 」として宇宙(自然)エネルギーが潜み、生命維持のための本能の中に、ひょいと現れる(ちょうど呼吸しなければ生命維持が出来ないように)のだろうと思います。

私には分かりませんが、「 意識 」には本来あるべき姿形があるのだろうと思います。

人間は生まれるときも死ぬときも一人で、本来は孤独であるかも知れません。

ですが、生まれる時などは、自力で母親の胎内から出てくるのではなく、人の手を煩わせて生まれ、死ぬときなどは、自力で死ぬのではなく、病気などで人の手を煩わせて死んでゆくのだと思います。

生きると言いましても、生きるためには食べることが必要ですので、お互い孤独でありますので協力して獲物を獲ったり、植物を食べたりするために、社会(共同体)を作るでしょう。

「 幸福 」という言葉がありますが、ある仏教者から「 福 」というのは、衣食住のことを指し、「 幸 」というのは、上や下などの方向を指すと聞きました。

現状の「 衣食住 」と他人のそれを見比べて、よりよいそれを求めるという意識が、頭のどこかにあり、「 他人を踏み台にして 」得た幸福や、自分も他人も幸福であるという状態の幸福があると思います。

もうここまで来ますと、アドラー氏への答えが出てしまったような気がします。

「 承認欲求 」は、誰かに喜ばれるような行動をすることの欲求であれば、私にも当然、ありますが、孤独でありますため誰からというのは、私もあなたも、すべて違うと思います。

それは、違って当然のことですし、むしろ違わなければならないのです。

なぜなら、人間は孤独で、意識は頭脳から派生したもので、人間のすべてが違うのだと思うからです。

「 共同体 」といいましても、それは「 社会 」でありましょうし、それは、親や子、妻などの身近な共同体から村や町や国家など、人間は一人で孤独だというのに、何重もの共同体という関係の中で生きているだろうと思います。

その中で、私が「 幸福 」を求めますなら、「 幸福 」が先ほど述べたもので、それも何重もの共同体という関係の中での「 幸福 」でしょう。

生命エネルギーの煩悩からの「 幸福 」と自然エネルギーの良心からの「 幸福 」があるとします。

前者は、他の動物の生命を奪ったあとの肉を食べて「 おいしい 」と幸福を感じる、あるいは他人を犠牲にして得て幸福と感じることではないでしょうか?


弱肉強食といいますし、自然の本能のままの営みでしょう。

ですが、肉を食べないことが最上かもしれませんが、生命を奪った動物に自分が生かされていると感謝し、供養してやる生活をしながら、動物の肉を「(ありがとう)いただきます」と感謝しながら食べたり、自分が死んだあとは他の動物のエネルギーとなることを覚悟して当面、自分の生命を維持するために食べることは、後者の「 幸福 」になるのではないかと思います。

この「 幸福 」をどの共同体の中で求めるかは、各自が違いますが、例えば「夫婦」という共同体の中でしたら、私が後者の幸福を求めているのに、妻が前者の幸福を求めていたら、私と妻は求める方向が違いますから、別れることになるでしょう。

その「 幸福 」を村の中でしたら、村から別れ、国家でしたら国家から別れることも考えなくてはなりませんが、これは村や町や国家などの現在の共同体ですが、未来の、例えば5年ほど先の共同体の中では「 承認 」されるかも知れません。

ですから、「 幸福 」というのが人間の欲求であるなら、私の追求する根っこには、本能である「 承認欲求 」があるのだと思います。


この「 幸福 」は一つの有るべき姿形への「 課題 」であり、それは共同体的(社会的)であるだろうし、「 課題 」は誰かの承認によって解消されるもので、その承認を求めて「 課題 」は追求されるものだと私は考えます。

先ほどの例でしたら、私は、本能の中の良心としての「 幸福 」とは何か、でしょうし、妻は本能が求める「 幸福 」とは何かでしょう。

幸福の外に、自分が生存中に為すべき「 課題 」だと思う意識の姿形があると思います。

それは人間が孤独である以上、各自の課題は相違しているものであり、共同体としての許容範囲内であれば妥協してもよいだろうし、許容範囲外であれば「 課題 」の相違により別れるしかないだろうと思います。

「 共同体感覚 」といいますが、先ほど述べましたように、共同体も色々あり、どの共同体感覚かは各自が決めることであり、現時点の共同体感覚はなくても、未来の共同体感覚であっても良いはずで、「 将棋は格闘技 」で申しましたように、共同体の「 空気を読む 」必要はないのであって、そうすれば共同体は同じ感覚を持って生きてゆけるかもしれませんが、「 課題 」によっては、「 格闘 」することも必要で、自分の命に限りがある以上、自分がここで主張しなければ「 死人に口無し 」で「 課題 」は闇から闇へと葬られるかも知れないからです。

自分の思いを抑えて現在の共同体感覚に合わせて暮らす必要はなく、国家を離れ、あるいは「 時間 」を超えて「 共感 」してくれ、「 承認 」してくれる人がいるかも知れないのです。

その共同体を離れ、他の共同体感覚を持つことも一つの方法かも知れません。



私は、地道にブログを書き、電子書籍としてネットの上で無料公開して、「時間 」や「 空間 」を超えて「 共感 」あるいは「 承認 」してくれる人を待っているのですから、その先駆者かも知れません。



(1月8日)

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