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2019年1月

2019年1月29日 (火)

69歳になって考えること  昔の自分に言いたい事

この単語で、Web 検索しますと、若年期に考えるべき事を多くの人が、自分を振り返って、まだ見ぬ後輩へのアドバイスをされているような気がします。

私も、若い時に気づいていたら69才の今、こんな生活はしてなかったかも知れません。

私が昔の自分に言うことは、「 誕生から死後までの意識 」にも書きましたように、二つほどあります。

①意識は電磁波の構造を持つ②「色即是空 空即是色」={ E=MC² }=「 無常 」という、現在の考えです。


①につきましては、現在が、過去と未来の意識を内包する丸い、あるいは楕円の生命体であると考えて、意識でない未来と意識でない過去をつなぐのが自分の無意識の「 可能性 」であり、「 記憶 」などの意識は「 今 」から過去の体験や衝撃として意識したものを保存している塊に向かって電磁波のような電気を叩き込んで、その結果、これから対処する事態にフィットする可能性を(光電効果のように)飛び出させて行動に適用することだと思います。

学校でノートをとって授業を受けますが、学んだ事を忘れないようにメモするのだと思いますが、それは漫然と教わったことを記録するのではなく、これからの試験の時、あるいは「 今 」、いかに簡単に思い出すためかを考えてノートをとると、おのずと、自分に思い出し易いノートになるでしょうし、歴史を学ぶときは、でその時起こった他のいろんな事を調べると思い出しやすいでしょう。

歴史的事実の周辺を勉強することは、一見すれば無駄のように思われますが、それは「 今 」に生かせる「 生きた知識 」を自分の武器にするためであり、「 物知り 」になることではないと思います。

その点で、間違った勉強をしてきたと反省します。



②につきましては、教師や僧侶などから「 色即是空 空即是色 」がどのような意味を持ち、それをどう使うかを教えてくれませんでした。

昔はネットなどありませんでしたから、それを知るのは至難のことでした。

現在は、この言葉を自分流に解釈していますが、本当は仏教の教えとは全く違うかもしれません。

でも、仏教の教えの通りに理解したとしても、それを自分の生き方に適用し得るのでなければ「 物知り 」であっても、無価値なものだと思います。

昔は、「 物知り 」を目指していましたから、それを自分流に解釈するまで、②の考えとは無縁の生活をしており、形あるものが永遠、死んだら何もない無になるんだと思って、物欲のまま浪費しました。

形なきものを目指すべきなのに、物欲に捉われて、書籍購入然り、ステレオ購入然り、今思いますと正反対のことをしてきたように思います。

自然ではなく思想を絶対不変と考えたせいか、自分の頭では理解など出来ない書籍を、理解できないのは自分の頭が悪いせいで、書籍には絶対真理があるものと思っていました。

ですが②を自分流に解釈しますと、自然の絶え間ない変化に自分の思想を変えるのが大切で、書籍は著者の面した当時の著者の可能性を著したものでないかと気づき、②を自分流に解釈してからは、ブログでも人生でも、自分が可能な範囲でするようになり、実際、それしか出来ないと思うようになりました。

ですから、昔の自分に、自分の可能性を活かすような投資をし、物欲に捉われない生活を送れと言いたいのです。


自然の野の草は、突然変異もなく育つように、自分も遺伝子に決められた範囲でしか育つしかないだろうし、私には私にお似合いの人生があるんだと思います。







(1月29日)

2019年1月28日 (月)

69歳になって考えること  変化と多様性 3

私は、このタイトルで、有名な数式を自分流に解釈してつかっています。

「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=「 万物は流転する 」=「 無常 」???

こういう考えで、前回の「 変化と多様性 2 」において、自分が「 煩悩 」にまみれながらも、「 神仏 」の意図を察して行動するのを「 悟る 」ことだと申しました。

まわりにそれらしい人はいないようですが、今回は、最初に書きました「 尾畠春夫さん 」について、彼が「 ボランティア活動 」に邁進されている様子が、なんだか「 悟った坊さん 」の行動のように思われまして少し書いてみます。


彼は「 79才 」で、結婚もされ独立して生計を立てられている息子さんもおられますが、奥さんは、彼の言葉では「 カミさんは、いま旅に出てる。一人旅です。自由にしたいって、5年前に出かけて、まだ帰ってこない 」らしいです。

彼の経歴はWikipedia にありますから、それをご覧になれば、多くのことが分かります。

65才で、それまで順調だった「 魚屋さん 」を閉ざし(息子さんが、後を継ごうかといったら、自分の人生は自分で決めて進んでいけといって断られたそうです)、それ以降は「 ボランティア活動 」に専念され、2018年8月、山口県周防大島町家房において、3日間、警察などにより発見されなかった2才の男児を、わずか30分で探し出して話題になりまして、私も、それから彼に注目するようになりました。

ご存知のように「 ボランティア 」は求める心と救助したいという心が合致しないと不審を生みます。

「 心 」と「 心 」の上に成り立っているのは、あなたにも誰にもわかる普遍的なものだと思います。

彼の心の中には「 かけた情けは水に流せ。うけた恩は石に刻め 」という言葉があるそうです。

彼は10歳のとき母親と死別し、貧しい環境の中で生きてきて、彼のボランティア活動を突き動かすのは「 おふくろに思い切り抱きしめてもらいたい。あばら骨が折れてもいいから思い切り抱きしめてもらいたい 」という思いだそうです。

2019年1月、東京都の中学校で講師(講演)され、現在は、自分の家がある大分県日出町までの1100km を徒歩で帰宅の途中です。

なぜ歩いて帰るのかについては、「こういう歩きの旅で体を鍛えていたら、もし自然災害が起きたときに、すぐボランティアをさせてもらえるから 」らしいです。

東京は彼が若い時に、勤務していた所で、「 変わっていないと悲しい 」と言われるので、「 無常観 」はお持ちだと思います。

以上は、「 おばたはるお 」でWeb検索して、あふれんばかりの記事の中から抜粋したものです。

興味をお持ちなら、検索してください。


これからは、私の考えを書きます。

経歴や学歴のある人が、「 悟られた 」ならば、その言葉や行動で周りの者が気づくでしょうが、それは普通とは違って奇異な行動と見えるだろうと思い注目するでしょう。

ですが、一般の人はどうでしょう。

「 狂人は天才と紙ひとえ 」と申しますように、普通とは違う奇異な行動をする人は、「 悟っている 」と一応は考える必要があると思います。

私は、彼の思いをWebで拝見させていただいて、昔、映画で見た「 マルセリーノ 」を思い出してしまい、彼は、きっと10歳で死別されたお母さんに逢えるだろうと思い、そしてもう一方では、苦行だと思われる僧侶たちがされる「 托鉢 」のことを思ってしまいました。

そんな、僧侶がすべき「 苦行 」も、私が居住する所で行っている僧侶は見受けられません。

この二つとも、普通の生活をしている私にとっては奇異な行動のように思われます。

詳しくは知りませんが、ボランティアは社会奉仕ですから、自己の欲望は抑制し、清らかな心がないと、救援を受ける人に不審をいだかれます。

心を綺麗にするのは、人の善意のうえで成り立つ「 托鉢 」も同じでしょうし、東京から徒歩で帰るのもお金の節約もあるかも知れませんが、年齢が79才で、しかも雪が降る冬という時期に、地図もお金も健康保険証(これは。いざとなったら病院が治療すると思います)もなくテントと寝袋だけで帰るのは「 自殺行為 」としか思えません。

それでも、綺麗な心で救助に呼んでもらえるからと言われますが、私には、ボランティア先で死亡するより、徒歩の旅で死ぬほうを選ぶといった思いを感じますから、ほどほどで止めたらいいと思いますが、本人の意思を尊重して、日本の多くの人が、その旅を心配する一方で、元気に帰宅できるように沿線の人が励ましているのだと思います。

こういう「 バカげた行為 」により、それを取り巻く国民が、ボランティアとは何かを考えさせるエネルギーになっていると思うと、「 原爆シャツ 」とは違った意味で国民に衝撃を与え、尾畠さんが行動で現した彼の内面のエネルギーが、人間はこんなことも出来るという多様性を広げたことになっているのだと思います。

私は、彼の行動に、彼が命を捧げるモノを発見した(悟った)人なんだと感じるのです。

一日日も早く、大分県の実家に辿り着かれん事を願っています………。













(1月28日)

2019年1月27日 (日)

69歳になって考えること  変化と多様性 2

私の思考は不安定でして、檻で捕獲された動物が必死に出口を求めて檻にぶつかる様に、ぼんやりとしたテーマは考えているのですが、方向性もなく間違った出口に突進している様な気がします。

前回は、どうやら「 多様性 」について書いた様で、前回記載しました、有名な数式のもとに、「 変化 」について出来るだけの突進をしてみたいと思います。

「 色即是空 空即是色 」={E=MC² }=「 万物は流転する 」=??を使いまして、「 変化 」に突進しようと思います。

私の身体の生滅のことは、「 誕生から死後までの意識 」に書きましたように、身体自体が自然物であり、他の自然物と同様に「 色即是空 空即是色 」の「 現象 」でして、それは「 万物は流転する 」ように私の身体は日々新陳代謝しており、それに沿うように意識も変えてゆかなければならない事は「 現象としての私の考え 」で書きました。

数式にありますように、E(エネルギー)の変化はM(物質)の変化を通してしか認識されない事は、「 空即是色 」の通りです。

私は、上記の本で、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の二種類のエネルギーが私の身体を動かすエネルギーであることは書きました。

それらのエネルギー(E)の変化は、行為という外部へ現れた身体(M)を動かすエネルギーの目に見える変化により判断されるでしょう。

その身体(M)の変化が、生命エネルギーの発露であれば多くは「 煩悩 」と呼ばれ、宇宙(自然)エネルギーの発露であれば「 悟り 」と呼ばれるのではないだろうかと考えます。

なぜなら、宇宙(自然)エネルギーは人類や生物には普遍的なものであり、生命エネルギーはその生命体固有の特殊的なもので、同じ生命体同士でなければ、理解することは困難であるからです。

私は、人間が「 神仏 」から作られた意図は、「宇宙(自然)エネルギーを絶え間なく持ち続けなさい、生物に普遍的で有益な行為をしなさい」という事で、言い換えれば「 悟ってください 」という意図だと思うのです。

それは、「生きとし生けるものに仏性がある」といわれ、人間は誰でも悟る事が出来るといわれているからです。

呼吸しなければ死んでしまうように、人の中に宇宙(自然)エネルギーを宿さなくては生存することは出来ない仕組みになっているんだから、その人体の中に宿る宇宙(自然)エネルギーを宇宙(自然)に返しなさいという事で、それが「悟り」で、行為としては、自然をあるがままに受け入れ、自然の中で他の物と同様に「 現象 」として生きることになるのではなかろうかと思います。

そんな「 悟り 」のコレクション(例えば、ブッダの悟り)などが、人類の多様性へとつながるものではないかと思います。

さあ、あなたも、「 悟り 」のコレクションに出品されたらどうですか?









(1月27日)

2019年1月26日 (土)

69歳になって考えること  変化と多様性

平成の御代が変わる年を迎える今、私に考えさせる二人の人物がいます。

それは、安倍首相でも世界の大統領などでもなく、大愚和尚さんと尾畠春夫さんです。

今日は、大愚和尚さんについて書きます。

彼は、既に配偶者も有る仏教の僧侶であると推察します。

ユーチューブで「 大愚和尚さんの一問一答 」などという動画を配信され、様々な悩みを持つ人に処方箋なる行動指針をお与えになっているのは、皆さんもご存知の事だと思います。

若いながら、69歳の私にとりましても有益なお話をされているのに大変感心しております。

その中で、いつでしたか、或る障害をお持ちのひとから、「 結局、生きなさいと言うだけで、この身で生きる事が如何につらいことか、あなたには分からないでしょう 」という苦言をご紹介され、「 障害というものを負い目と考えるのではなくて、人間の多様性を示すものだと考えたらどうでしょう 」と思われるような言葉をかけられました。

私は、身内に障害に近いハンディを持つ者をかかえてはおりますが、私自身は五体満足で、苦痛といえば腰椎分離症で片足が時々、痺れるくらいで、ガンを患っているでもなく、平々凡々と毎日を過ごしていますから、その言葉を、どのように捉えるものかなどは特別に考えたことはありませんでした。

例のごとく、自分の考えを繰り返していますと、有名な E=MC² という数式を考えるとき、物質とエネルギーのあいだには、お互いに変換させ得る「 可能性 」があると思っていましたが、これをこの言葉の解釈に役立てすることは出来ないだろうか?と思いました。


それで、「 或る障害と言われるハンディを持つ人間という物質 」は周囲に及ぼすエネルギーに相当すると考えますと、ハンディが有ることは、誕生に「 神仏 」の意図があるとすれば、ハンディを持つ人間という目に見える物体を生み出し、周囲の人間が、その人にどんな気持ちを持っているのかを推察させたり、あるいは自分を顧みて、これから自分の為すべき道へのエネルギーとするのかを考えさせる事が「 神仏 」の意図ではないだろうか?

自分あるいは人間一般の子孫たちがその様なハンディを持つ事になる可能性を持っていることを、示唆するものではないだろうか?

一般の人間の中に、ハンディを持つという条件を持った人間という物質を作ることによって、同じ人間である自分もそう成り得ると自覚させ、紹介された苦言のように「 この世が、生き難い 」ならば、生き易い社会や意識に、一般人の意識を高めることが、「 神仏の意図 」であるとするならば、ハンディを持つ人間が生まれる事は、人間という物質が作られる多様性を示すものであって、大愚和尚さんが言われるようにハンディに負けずに自分の人生を自分らしく堂々と進めることは、安倍首相や有名人の行為と同じ価値があることであり、「 神仏 」から見れば、それらは「 等価 」であるかも知れない。

自分に課せられたハンディを、自分なりに消化し、自分を変化させることは、自分以外の人間にも可能だということを示すことであり、自分という物質の変化は、人間一般の変化の多様性、エネルギー発散の多様性へとつながるものではなかろうか?

そう考えて、ヘレンケラーさんやホーキング博士の生きざまを見るとき、改めてその凄さを感じて、自分にエネルギーとして彼らが残した力を戴くことになるのではないだろうか?

そのように考えますと、やっとのことで、自分なりに大愚和尚さんが言われた内容に近づくことが出来たのではなかろうかと思います。

これらは、すべて私の主観であり、皆さんもこんな言葉を疑いになって、自分の考えを確立されんことを願っています。



「 色即是空 空即是色 」={ E=MC² }=???








(1月26日)

2019年1月23日 (水)

歌: Youtube で探した団塊世代の懐メロ

先日、ストリップ劇場を表現するため、笑福亭鶴光さんが歌う「 うぐいすだにミュージックホール 」を発見しまして、団塊の世代にあたる私の青春時代の歌が、YouTube にあるのではないかと思って探してみました。

私は、前回、申しましたように、中学から高校にかけて音楽に目覚めまして学生ソングからグループサウンズ、そしてフォークソングからポップスへと歌の好みが変わったのですが、その進行でYouTube で拾ったタイトルを書きます。

自分の心に残る歌を、検索して「 一本釣り 」をしてファイルにすることも出来ますが、ここでは、一連のメドレーになったファイルのタイトルをご紹介します。

………

学生ソングとその周辺の歌謡曲

①昭和の歌謡曲 昭和33年~昭和の名曲

②懐メロ60年代メドレー(60年代ヒット曲フォーク)

③懐かしい歌謡曲(1961~2008)

グループサウンズ

①グループサウンズ(GS)リバイバルスペシャル

②懐かしのミュージック⑤グループサウンズ編

フォークソング

①フォークソング名曲メドレー作業用

②70年代ヒット曲メドレー フォーク昭和の名曲まとめ

③我が青春のフォークソング(フォークソング名曲メドレー)

など多数あり。

フォークソングのライブ

①いこまいか80花の湖ピクニック

ポップスと周辺の歌謡曲

①心に残る懐かしい邦楽ヒット集(昭和の名曲歌謡曲ヒット曲集70,80,90年代)

②j-pop メドレー70年代(70年代ヒット曲メドレーフォーク)

③80年代邦楽メドレー(ベスト版)

………

その他に、「 演歌 」や「 ムード音楽 」や海外の歌もありますが、これも多数のメドレーがありますので、好みの方は、ご検索ください。


お目当てのファイルをPCで開いて聴くことが普通でしょうが、PCはニュースなどの検索や調べものに使い、音楽鑑賞は別の方法が良いのではないかと思います。

昔なら、「 それ、カセットデッキで録音 」となるでしょうが、PCで探したものであるため、音質も悪く、現在はカセットは使わないのが普通だと思います。

「 じゃあ、聴くだけなのか 」と言われるかも知れませんが、今はカセットに代わる強い味方がいます。



「 ICレコーダー 」です。


これに録音しておけば、イヤホーンで聴くことが可能であることは勿論のことで、もしも1000円ほどで、電池で作動するテレビの音声を手元で聴くスピーカをお持ちなら、コードをICレコーダーに接続すれば、屋内はもちろん介護施設や公園や旅行先に持ち込んで、「 懐メロ 」のメドレーを聴くことが可能だと思います。

普段は、私のように、「 ココログ 」に投稿しながら、BGMとして聴き流すことも出来ますし、気に入らなくなったら、消去すれば良いことです。

音質に拘らず、昔の曲を聴くだけで満足なら、PCで探せば無料ですし、既に廃盤になってCDがないものや、既に亡くなった歌手が歌う曲もあります。


当時の歌手が歌うのを見ると、そのときの自分が思い出され、歌の歌詞よりも自分の記憶を懐かしいと思うかも知れません。


それを聴きたいようでしたら、Youtube を探しますと、今まで思いもつかなかった懐かし曲や歌手を発見することも出来ると思います。


もうテレビに「 懐メロ 」の放送を求めるのはやめましょう。

もし、「 懐メロ 」に興味を持つご老人が介護施設などに入居されていましたら、ご家族で探してあげて、手元で聴くスピーカーを持ち込み多くの入居者と共に聴くことがきましょうし、ダメなら本人にイヤホーンで聴かせてあげることも出来ると思います。


認知症を患っている老人も、長期記憶は保持されていると言われますから、喜ばれるかも知れませんよ。

私にもそんな家族が残っていますなら嬉しいですけど………





(1月23日)

2019年1月22日 (火)

69歳になって考えること  過去の意味付け 2

前回は、アドラー心理学で既に言われていたようですので、今度は私独自と思われることを書きたいと思います。

「 過去 」をどのように意味づけるのかは、「 現在 」の本人の主観によって同居中の「 未来 」をどのように意味づけるかになると思います。

私が影響を及ぼすことが出来るのは、「 現在(今)」の私の頭脳の中で意識としてある「 過去や未来 」であって、それが現実の「 未来 」になるのかは別問題でして、来るべき現実は「 色即是空 空即是色 」の世界である自然事象次第であるのでして、それが「 底 」に向かえば、考えた通りの未来にならないことになるだろうし、「 上昇 」すれば思いもかけなかった幸運になるかも知れません。

ですから、現実に対して、「 色即是空 空即是色 」を、この世は空虚で頭脳の産物なんだ、あるいは何をしても過去のせいで不可能なんだ、あるいは何をしても空虚だから許されるんだ、なんてなことと解釈するのではなく、「 現実は常ならず 」、つまり世界が空虚どころか、未来への様々な要素が混在する「 無常 」の世界だと解釈すべきだと思います。


「 無常観 」は「 虚無主義 」ではないと思うのです。


それは、真空や死を頭の中でしか成立しない「 無 」と考えるから虚無主義になり、真空も死後も、物理的に「 有 」であるとするのが「 無常 」ではないでしょうか?

このようにして、「 過去を意味づける 」のですが、自分だけの主観的な観念であることは、他人も主観的に「 過去を意味づけ 」ていることも承認しなければ片手落ちでしょう。

就職のときに履歴書を提出しますが、自分の過去を晒すことであり、会社の人事課の人は、その人の能力を知るためだけかも知れませんが、それは「 自分の性向 」を晒すことであり、犯罪を為した経歴があれば、その人が将来、人殺しをする性向があると判断されるでようし、その事を阻止することも出来ないと思います。

自分は変えられるが他人は変えられない。

これは、「 あの国 」がいう「 歴史問題 」も同じことを適用すれば、面白いと思います。

歴史は過去でしょうし、国家の過去で、これまで政権を握った者が都合のよいように書き換えたことは、過去の為政者は既に「 過去を意味づけ 」していたことになるかと思います。

日本が第二次世界大戦の加わっての敗戦国であることも日本の過去であり、それを「 あの国 」のように、戦勝国でもないのに、日本の過去を未来まで引きずることも、日本は阻止することは出来ないでしょう。

「 現在 」においていくら犯罪は犯さないと言っても、履歴書に犯罪の過去があることにより、信用されないのでしょう。

このように国家の歴史を過去と捉えるなら、国家は昔から有りましたから、その歴史は面々と続いており、日本も「 あの国 」の国家の歴史、過去を見てみますと、「 あの国 」は歴史上、停戦協定など破ることにより戦果を挙げてきたことがわかります。

中国の「 清 」との停戦協定を破ったし、日本に対しても停戦を約束して引き上げようとした豊臣軍の薩摩に対して襲撃し、迎撃されて滅ぼされた「 あの国 」の軍の例もありますし、「 あの国 」は、過去から「 裏切り 」を常習としてきた国であり、その性向が「 あの国 」の国民感情であると解釈すれば、そもそも日韓条約などは廃棄されることは承知の上で国際法の条約を結ぶべきであり、このような条約違反の最高裁判決が出たり、レーザー照射を受けることは、「 あの国 」の国民感情から日本の国家中枢を担う政権は覚悟すべきことかも知れません。

「 常に変わらない 」国も有る。

これを、充分考慮して、「 未来志向 」を目指すべきだと思います。

私が、「 書を捨てよ 自分で考えよう 」というのも、「 書 」の意味付けは各自の可能性に合わせて自由であり、「 書 」の通りに行動すれば、「 色即是空 空即是色 」の世界の中の自分の可能性を否定することにもなるから、「 書 」の可能性に支配されてはならないということです。

こんなことは、アドラーは言っていませんが、アドラー心理学を否定的に意味づけるなら、過去なんか無視することも自由だとなると思うのです。

過去を認めた上で、こんな過去を持つ人間が、どのように他人の意味付けを破るような行動が可能なのかを考えるとき、これから開ける自分の道が見えてくると思います。


過去に絶望することなく、その過去を未来に繰り返さないことが重要ではないでしょうか?








(1月22日)

2019年1月19日 (土)

69歳になって考えること  昔懐かしストリップショー

こんな歳になりますと、若かりし青春時代を思い出して、昔に戻りたいという気持ちが湧いてきて、ついその昔を振り返ってしまいます。

苦しくも楽しく自由だった学生時代などではありません。

今は、自由で少しは楽しく暮らしてますから自分にあわせてタイムスケジュールを作りますので、苦学生でもあったせいか、自由な学生時代を思い出すことはありません。

就職して、少々の給料が入るようになったころの、結婚する前のことを思うのです。

そのころは「 オオカミ 」でしたので、異性には興味がありまして、今のようにPCで「 女体 」を見ることも出来ず、青春を燃やすために、時折、大枚を叩いて当時は数多く営業していたストリップ劇場に行ったものでした。

そこは、ピンクの世界で、自分より年上の踊り子さんが、微笑みを浮かべながら観客に裸体を披露してくれ、未知の世界へと誘ってくれました。

その雰囲気は、言葉では表現できませんが、笑福亭鶴光さんが歌う「 うぐいすだにミュージックホール 」(これは、ユーチューブで検索すると視聴することが出来ます)の、ほんわりもっこりした温もりがある空気なのです。

当時は過激なサービスもあり、血気盛んな青年が踊り子さんと舞台で華々しく盛り上がるのに嫉妬してか、その様子を通報されて、警察沙汰になることもありました。

国家権力に隠れてのスリルもあり、踊り子さんも観客も、今思うと滑稽なのですが「 真剣に 」異性と向き合っていてように思います。

また当時は、観客も踊り子さんも日本人が多く、外国の女性は僅かでして、観客は青年と、以外にも老人が多く、「 かぶりつき 」には老人の姿が目立ちました。

老いてもこの劇場に来るという情熱を持った老人に目を見張りながら、ああ、自分も老人になったら、お金を集めてこんなストリップ劇場に来たいものだと思っていましたが、現実に老人になったら、ストリップ劇場は、ほとんど閉鎖され、あるとしても、ネットで探して遠方にしかありません。

ですから、笑福亭鶴光さんの「 うぐいすだにミュージックホール 」を聴きながら、昔に戻りたいと思うのです。

その曲の雰囲気は、当時を思い出させ、懐かしくなって思わず歌詞にあわせて歌ってしまいます。

現在は、外国からの人も多く、女性蔑視の禁止など言われますし、観客もむかしほど多くなく、PCやスマホでも裸の女体は見れますし、こういう私も、そんな劇場が有っても無くても、あまり気にしないようですので、壊されて廃業した劇場が復活するのは難しいのかもしれません。


昔、つわものだった若者も、今は老人。


街の風景も人の容貌も消えてゆきます。
「 命短し、恋せよ乙女 」というように、若い人は今の青春を精いっぱい楽しんでください。





(1月19日)

2019年1月17日 (木)

69歳になって考えること  臆病(おくびょう)について

これは、私の主観的な思いですので、どう思って頂こうが、あなたの勝手です。

臆病であることは、少しも負い目として思い悩むことはないと思います。

実は、こういう私も臆病でして、当時、公務員という職業を思ってか、公私の生活にわたり、もめ事は起こさぬように穏便に、なるべく公平に、法律を盾として暴力に対処しておりました。

ですが、退職して死も間近になってきますと、その「 臆病であった 」ということが、なぜだったのかと思うようになりました。

「 誕生から死後までの意識(増補版)」に書きましたように、自分を振り返り、「 自愛 」の念で自己中心的に見てみますと、「 臆病 」といのは生命を大事に思うことだと考えますと、その当時はわかりませんでしたが、「 自分は何かをしなければならない 」という思いがどこかにあって、こんな事で命を落としたくないと、漠然と思っていたのではないだろうかと憶測をします。

「 ヤクザ 」と呼ばれる人は、映画などでは「 一宿一飯の恩義 」で人殺しをしたりするようですが、彼らは、「 ソコ 」に自分の生きる意味や意義を感じており、生命を失うことには執着しないのでしょう。

役人の業務をしていた私は、その言葉じりに怯え、臆病な自分を見ていました。


ですが、この歳になり、これから自分の可能性を考えるとき、「 命をかけて取り組むこと 」を見出せば、「ヤクザ 」と同じく命に執着もなくなり、対等に渡り合えるのではないかと思うようになりました。

退職して、断捨離をして配置替えなどをしていますと、いままで価値を見出せなかったものが、まるでそこに配置されることが既に決まっていたかのように、ぴたっとフィットするのです。

それと同じように、あなたも社会の一員として何かを為すべき位置が、宇宙(自然)エネルギー(神)のプログラムに配置されていて、偶然、そこに置かれたとき今までの自分からは想像も出来ない「 生きがい 」を感じるかも知れません。

ですから、現在、「 自分は臆病だ 」と悩んでいる人は、将来、とんでもない事に従事することになるかも知れませんから、今、自分が置かれている所で、出来る限りの能力を身に着けて「 色即是空 空即是色 」を自分なりに解釈して、現状で変わりつつある事象に自分の能力を「 ロックオン 」して、事象の流れに乗ってゆけば、今、あなたが持っている「 臆病 」さが無くなることも考えられます。

ですから、自分の負い目を過剰に思い込んで「 不変のもの 」と考えずに、そこから「 天 」は自分に何をさせようとするのかを探り、見出すまで「 決して自殺などをせず 」命を大事にして、天命を待つべきでしょう。

未来を変えられるのは「 今 」あなたがどんな行動を採るかで決まることは、「 アドラー心理学 」でも書いてあると思います。

私もそう思うのですが、アドラー心理学を読んだだけでは、自分は変わりません。

そこに示された可能性を実行するのは、自分しかありません。

アドラーでなくても、ほとんどの書物で先人が言うのは同じです。

自分が「 苦 」に負けることなく、本懐を遂げることが、悔い亡き人生を送ることになるのではないでしょうか?

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」は、こうして死んでゆく私と同じく、私の死を見送ってくれるあなたも同じように死ぬのですよと言う意味だとしましたら、見送っている私も死んでゆく先人と同じ心境になり得ると考えて、自分が悔い亡き人生を遂げて、それを後輩に引き継ぐことを考えて、より良き自分を目指すことも「 文化の継承 」になるのではないでしょうか?









(1月17日)

2019年1月16日 (水)

69歳になって考えること  原子爆弾とテロ

私は、幸いにして原爆の被害者家族ではありません。

ですから、被害者の考えとは違うのかもしれませんが、私は九州出身者であり、原爆が落とされた長崎にも近い所で生まれ、修学旅行でも長崎に行きましたので、全く無縁であるとは思えません。

「 ある国 」のBTSが、原子爆弾が投下されて、苦しむ人たちに向かって万歳して喜ぶシャツに思わず反応してしまいましたが、なぜなのかを考えてみました。

「 現代はテロとの戦いである 」と言われ、日本の神風特攻隊がテロとみなされ、「 ある国 」の駆逐艦クルーが日本の哨戒機の行動が、まるで神風特攻隊の行為であるかのように感じられたということもユーチューブで知りました。

神風特攻隊の行為が「 テロである 」というのが国際感覚であるかも知れませんが、「 テロ 」とはなんだろうかと思いました。

神風特攻隊は、戦争においての国家の指示で、相対する武装集団の艦隊へ自爆行為をさせられたので、何も知らない一般人を巻き込んでの殺傷を目的とするのではないから、「 テロ 」とは思いませんが、国際感覚がそうであればそうなのかも知れません。

人の殺し合いの戦争でも、戦争戦闘員ではない人たちを殺すことは、虐殺と呼ばれ、まさしく「 人殺し 」であり、それが「 テロ 」と呼ぶと仮定しましょう。

戦争でなくても、人殺しを認める宗教は宗教ではないし、オーム真理教が起こした地下鉄サリン事件も、その意味では「 テロ 」だと思います。

それは「 サリン 」を使わなくても「 原子爆弾 」を使う場合も、一般人を殺すことになりますから、原子爆弾を使う事も「 テロ 」でしょう。

ユーチューブを拝見していますと、南北朝鮮が統一され、「 北 」が持つ核を「 民族の核 」として、日本から自国を守るのが「 あの国 」の愛国心で、それに対して、日本に核武装させるような考えがある事を紹介している動画もあります。

詳しくは知りませんが、「 北 」の核を放棄する、あるいは放棄させるニュースも聞きません。

「 あの国 」の大統領の年頭の発言は、自国が国際法上で大統領がすべき行為をしないで日本に責任転嫁する発言であると思うしかなく、核を放棄させてくれる期待も持てません。

南北の朝鮮が一つになることはドイツにもありましたように自然の流れかも知れませんが、ドイツと違って核保有が認められた状態で、南北朝鮮の鉄道が開通すれば、「 民族の核 」を作るために「 南 」の原発から出た処理困難な核物質を列車で、堂々と「 北 」に運ぶことができ、「 北 」は喜んで「 原子爆弾製造 」の「 エサ 」にするでしょうし、彼らの国民感情とやらで、日本に核を落とすことも、国際法を守らない彼らですから、無いとは言えません。

ですが、「 原子爆弾を保有する 」とはどういう気持ちでしょうか?


原爆を保有することは、「 原爆 」自体がテロの道具ですから、保有していることは、自分たちは「 テロリストである 」と発表していることであり、「 テロ 」を容認する国家であることであり、口には出さずとも心の中は「 テロリスト 」であり、人殺しも許すことになり、これは、目に見えるテロリストである「 IS 」と同じ思想であると思われ、彼らを非難する資格はないと思われます。
それが人間の根底にあるならば、日本人が核武装することも有りうることでしょうが、それを使用した場合の被害は神風特攻隊のそれとはとうてい違う規模になり、人類の破滅にもつながるでしょう。

ですが、原爆の被害国であり、「 テロによる人殺し 」の証拠もあり、核武装には抵抗するのが日本であって欲しいと思います。

将来、物理的に原爆が使えなくなる状況になることが良い事ですが、それまでは「 良心 」に頼るしかないだろうと思います。



「 良心 」を育てることもせず、悪魔に心を売る人たちが増えないように期待しながら………。








(1月16日)
 

2019年1月10日 (木)

69歳になって考えること  過去の意味付け

ユーチューブを見ていましたら、「 大愚和尚の一問一答 」という僧侶の動画に出会いました。

私は、仏教など「 般若心経 」を唱えるくらいでして、それに自分が「 屁理屈 」をつけて生きているのが現状です。

ですから、仏教のことなど分かりませんが、大愚和尚さんは、まだ若いというのに自分に寄せられた手紙での相談への「 処方箋 」として生き方をアドバイスされています。

とても自分にはできないことをされているのを拝見しまして「大変、立派だなあ」と思って動画を拝聴させて頂いています。

私は、先回、「 アドラー心理学 」から得たものとしまして、「 今 」の中に「 過去 」を意味づけて「 今 」に潜む「 未来 」の自分を獲得すべきと申しましたが、「 大愚和尚の一問一答 」で、不安を生んでいる背後霊をつかみ出すというようなことを申されました。

私は、「 誕生から死後までの意識 」で、自分の死後を予想するのは各自の自由だとしましたが、お釈迦様は死後の世界については、何も言われていないと私は理解したからでした。

死後、自分がどこに逝くのか不安であれば、それを自分なりに想定して不安から逃れることも可能だろうと思ったのです。

「 他の動植物のエネルギーに輪廻転生してもよい 」と思うならそれでいいだろうし、ブッダになってその輪廻転生から逃れることを目指すのもいいと思います。

死後の世界は誰も知らないし、自分が想定した世界に逝くと思えば、死後の世界への不安もなくなるでしょうし、その世界が間違っているとは誰からも言われないでしょう。

こうして未来への不安を解消したとしても、過去から、現在も未来も決定されていると考えてしまえば、また不安になるかと思います。

お釈迦様は、自業自得と申されますから、その領域はそうかも知れませんが、自分の責任がない過去や能力については、前回、書きました。


私は、そんなときに「 アドラー心理学 」を生かして、「 過去は過去、未来は未来で、自分に力が及ぶところではなく、自分の力を発揮できる今という瞬間で、自分の能力を出し切ろう 」と考え、現状を過去のせいにするのではなく、未来の自分への「 課題 」や発展への「 可能性 」と捉えて、ジャンプの踏切り板にすべきだと思います。

「 今 」という瞬間を真実を写す「 写真 」や「 鏡 」のようにあるがままに自分を捉え、「 美人 」にするため紅など塗って化粧をするように、「 今 」の中に共存する「 過去 」に「 可能性 」という化粧を付与して、「 未来 」へ自分を生かすのです。

そのとき「 道具 」となるものは、「 アドラー心理学 」とか他の書籍から、自分の手で獲得したもの(例えば、流水をすくい挙げた手のひらの中にある水)がその「 可能性 」であると思います。

「 アドラー心理学の本 」とか「 有名な哲学の本 」自体は著者の可能性であっても、自分の「 可能性 」ではなく、それから自分が切り取った内容でなければ、自分が面した現実には役に立たないでしょう。

「 書 」を捨てて、書から得た「 可能性 」をまとった裸の自分が、現実に立ち迎えなくてはなりません。

なぜなら、すべては無意識の中での「 色即是空 空即是色 」の展開で、自分も事象も常に変化しているからです。

一時はその「 可能性 」が現実にマッチしたとしても「 無常 」ですから、いつの間にか不都合になるかも知れませんが、これは心配することはないと思います。

ちょうど、海の波のように、「 どん底 」であろうと必ず「 上昇 」はあると思います。

なぜなら、自然事象自体が「 無常 」であるからです。

サイン波のような波動に乗りながら、常に波の表面での「 接線 」を引いているという人生であるかも知れません。


その行きつくところに、生命エネルギーの源である「 阿弥陀仏 」がいらっしゃるだろうというのが私の考えです。







(1月10日)

2019年1月 8日 (火)

69歳になって考えること 「アドラー心理学」から得たもの

私は、前回、述べましたように人間は孤独であり、意識も別であれば「課題」も違うと思っているからでしょうか、女房は「 あんたには人情がなくて、冷たい 」と言って非難しますが、長男は女房とは違い、私を別方向から見てくれる「 優しさ 」があるように思えます。

小林係長のガンを見ながら、何も言えなく、友人の奥さんがガンであっても、何のアドバイスも出来ない自分を見まして、「 なんと冷たい人間だろうか 」と、なさけなくなってしまいます。

自業自得と申しましょうか、これが私が積み立てて来た人格だと思います。
生来、頭脳明晰ではなかったので、たいして出世も出来ず、病気もして平凡に生きてきましたが、小林係長の死にあたり、死を課題として考えるようになり、ここまで来まして、「 無常 」を知って、電子書籍を作りました。

今回、「 アドラー心理学 」と面しまして、自業自得の因果の外に、私の生来の凡庸さや、過去に患った病気を、現在を決定する因子とは考えずに、自分になぜ生まれて、残った人生で何をすべきかをたのか考えさせるための宇宙(自然)エネルギーからの「 苦い薬 」だと思って自分を変える要因とすることは有意義だろうと思います。

世の中の自分には責任がない病気や障害を持った人たちは、とっくの昔に、それに気づき、パラオリンピックでの活躍者や物理学者のホーキング博士のように、自分が行為することにより、同じ障害を持った人や困難な場面に直面している人にエールを送っているのでしょう。

彼らを見まして思いますことは、自分が障害という負い目を持たされて生まれてきたのに、産んだ親を怨むことなく自分がこうして生まれたのが、世の中で何を為すべきことを、宇宙(自然)エネルギーや生命エネルギーが結託して、自分に課した「 課題 」を、誰を恨むでもなく授かった能力を、淡々と果たすところに、自分も「こうありたい」と思い、死まで残された時間を捨てることなく「 苦 」に耐えて生き続けて、その果てに死を迎えるようにしなければと、思っています。

「アドラー心理学」により、自分の過去や未来を意味付けすることが出来るのは、「 今 」だけであることを刻み、「 今 」を生き続けまくてはと思います。

その他の問題は、私の指針として「 色即是空 空即是色 」を持っていますから、アドラー氏とは違う結果になってしまいます。

「 今 」が終わる「 死 」まで、これを貫き通すことが出来るかが問題ですけど………。










(1月8日)

69歳になって考えること  私から見た「アドラー心理学」 2

私は、心理学など言及するほど、勉強もしていないので、アドラー氏が挙げた、目的論、承認欲求、課題、共同体意識などについて私の考えを述べたいと思います。

目的論については、1、で述べました。

私の考えから、他の問題を見ますと、それが一連の行為となってしまうので、とても分析して結論を出すことは出来ません。



私の考え

私は、「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように「 人間 」を捉えますので、一連の行為になってしまうのです。

私は、以前書きましたように、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)が、何かのご縁で生命体として母に宿り、誕生したのが「 霊 」と考えていて、生命エネルギーから「 本能 」として「 煩悩 」を持った人間(霊体)として生きて行けるように身体が作られているだろうと思います。

霊体だから人間は霊長類というでしょうが、脳から派生する「 意識 」を持っていて、その中に「 良心 」として宇宙(自然)エネルギーが潜み、生命維持のための本能の中に、ひょいと現れる(ちょうど呼吸しなければ生命維持が出来ないように)のだろうと思います。

私には分かりませんが、「 意識 」には本来あるべき姿形があるのだろうと思います。

人間は生まれるときも死ぬときも一人で、本来は孤独であるかも知れません。

ですが、生まれる時などは、自力で母親の胎内から出てくるのではなく、人の手を煩わせて生まれ、死ぬときなどは、自力で死ぬのではなく、病気などで人の手を煩わせて死んでゆくのだと思います。

生きると言いましても、生きるためには食べることが必要ですので、お互い孤独でありますので協力して獲物を獲ったり、植物を食べたりするために、社会(共同体)を作るでしょう。

「 幸福 」という言葉がありますが、ある仏教者から「 福 」というのは、衣食住のことを指し、「 幸 」というのは、上や下などの方向を指すと聞きました。

現状の「 衣食住 」と他人のそれを見比べて、よりよいそれを求めるという意識が、頭のどこかにあり、「 他人を踏み台にして 」得た幸福や、自分も他人も幸福であるという状態の幸福があると思います。

もうここまで来ますと、アドラー氏への答えが出てしまったような気がします。

「 承認欲求 」は、誰かに喜ばれるような行動をすることの欲求であれば、私にも当然、ありますが、孤独でありますため誰からというのは、私もあなたも、すべて違うと思います。

それは、違って当然のことですし、むしろ違わなければならないのです。

なぜなら、人間は孤独で、意識は頭脳から派生したもので、人間のすべてが違うのだと思うからです。

「 共同体 」といいましても、それは「 社会 」でありましょうし、それは、親や子、妻などの身近な共同体から村や町や国家など、人間は一人で孤独だというのに、何重もの共同体という関係の中で生きているだろうと思います。

その中で、私が「 幸福 」を求めますなら、「 幸福 」が先ほど述べたもので、それも何重もの共同体という関係の中での「 幸福 」でしょう。

生命エネルギーの煩悩からの「 幸福 」と自然エネルギーの良心からの「 幸福 」があるとします。

前者は、他の動物の生命を奪ったあとの肉を食べて「 おいしい 」と幸福を感じる、あるいは他人を犠牲にして得て幸福と感じることではないでしょうか?


弱肉強食といいますし、自然の本能のままの営みでしょう。

ですが、肉を食べないことが最上かもしれませんが、生命を奪った動物に自分が生かされていると感謝し、供養してやる生活をしながら、動物の肉を「(ありがとう)いただきます」と感謝しながら食べたり、自分が死んだあとは他の動物のエネルギーとなることを覚悟して当面、自分の生命を維持するために食べることは、後者の「 幸福 」になるのではないかと思います。

この「 幸福 」をどの共同体の中で求めるかは、各自が違いますが、例えば「夫婦」という共同体の中でしたら、私が後者の幸福を求めているのに、妻が前者の幸福を求めていたら、私と妻は求める方向が違いますから、別れることになるでしょう。

その「 幸福 」を村の中でしたら、村から別れ、国家でしたら国家から別れることも考えなくてはなりませんが、これは村や町や国家などの現在の共同体ですが、未来の、例えば5年ほど先の共同体の中では「 承認 」されるかも知れません。

ですから、「 幸福 」というのが人間の欲求であるなら、私の追求する根っこには、本能である「 承認欲求 」があるのだと思います。


この「 幸福 」は一つの有るべき姿形への「 課題 」であり、それは共同体的(社会的)であるだろうし、「 課題 」は誰かの承認によって解消されるもので、その承認を求めて「 課題 」は追求されるものだと私は考えます。

先ほどの例でしたら、私は、本能の中の良心としての「 幸福 」とは何か、でしょうし、妻は本能が求める「 幸福 」とは何かでしょう。

幸福の外に、自分が生存中に為すべき「 課題 」だと思う意識の姿形があると思います。

それは人間が孤独である以上、各自の課題は相違しているものであり、共同体としての許容範囲内であれば妥協してもよいだろうし、許容範囲外であれば「 課題 」の相違により別れるしかないだろうと思います。

「 共同体感覚 」といいますが、先ほど述べましたように、共同体も色々あり、どの共同体感覚かは各自が決めることであり、現時点の共同体感覚はなくても、未来の共同体感覚であっても良いはずで、「 将棋は格闘技 」で申しましたように、共同体の「 空気を読む 」必要はないのであって、そうすれば共同体は同じ感覚を持って生きてゆけるかもしれませんが、「 課題 」によっては、「 格闘 」することも必要で、自分の命に限りがある以上、自分がここで主張しなければ「 死人に口無し 」で「 課題 」は闇から闇へと葬られるかも知れないからです。

自分の思いを抑えて現在の共同体感覚に合わせて暮らす必要はなく、国家を離れ、あるいは「 時間 」を超えて「 共感 」してくれ、「 承認 」してくれる人がいるかも知れないのです。

その共同体を離れ、他の共同体感覚を持つことも一つの方法かも知れません。



私は、地道にブログを書き、電子書籍としてネットの上で無料公開して、「時間 」や「 空間 」を超えて「 共感 」あるいは「 承認 」してくれる人を待っているのですから、その先駆者かも知れません。



(1月8日)

2019年1月 6日 (日)

将棋 藤井聡太七段の後手

藤井聡太七段は、現在16歳で高校一年生。

 

Wikipedia によりますと「 中学2年生、14歳2か月でプロデビュー(四段)して以来、将棋界において数々の最年少記録を更新し、ついに2018年5月18日、15歳9か月で七段に昇段し、同年7月31日、通算100局の最年少記録を更新したが、この時点での勝敗数(85勝15敗)と勝率(0.80)は、中原誠十六世名人と並ぶ歴代1位タイ記録 」であるらしいです。

 

ご存知のように、将棋には先手と後手があります。

 

その勝敗をWebで調べてみました。

 

2018年10月31日現在の通算で先手対局数50のうち勝ちは45、負けは5、勝率9割。

 

2018年12月28日現在の通算で後手対局数56のうち勝ちは56、負けは13、勝率8割1分2厘。

 

先後合算の勝率、2018年12月28日対局終了時点では、総対局数119のうち、勝ちは101、負けは18、勝率8割4分9厘

 

であるらしいです。


これから、私が知っています範囲で書きます。

 

彼は、先手のときには「 角換わり 」という割に積極的で最新の戦法を使いますが、後手のときの初手は、決まって「 飛車先の歩 」を突き出すことが多いという印象を持っています。

 

先手のときの負けは、積極的な攻めが裏目になることも多く、これは10代らしさを感じますが、後手のときは、まずお茶を飲んで気持ちを落ち着かせた後に、「 飛車先の歩 」に手を伸ばすのが、現在の通例の手順になっています。

 

しかしですよ。

 

野球で剛速球で知られた投手も、そればかり投げると打たれてしまうケースが多いです。

 

高校野球でなら剛速球だけでも勝てると思いますが、相手の打者がプロの場合、彼らは「 打ってなんぼ 」の世界ですから、いくら剛速球といえども研究され尽くして打たれてしまい負けるケースもあると思います。

 

上述のように、藤井聡太七段は16歳で高校一年生ですから、彼を投手と仮定しますと、プロ野球で高校生が、プロの打者を相手に、通算8割1分2厘の成績でアウトにしている、つまり10人のうち8人をアウトにしていることになるかと思います。

 

高校一年生ですよ。

 

相手はプロですから、野球でも将棋でも、プロである以上、研究はするでしょう。

 

特に将棋は、相手(藤井七段)の棋譜を将棋ソフトを使って研究もするでしょう。

 

なのに、高校生の藤井聡太七段は、後手になったとき、決まって「 飛車先の歩 」を突き出し、「 居飛車 」のケースになります。

 

これでは、相手もこれを予想して、自分が指す手順を研究するでしょう。

 

勝てば賞金も出ますから、生活もかかっていることでもありますから、相手は勝ちに来るでしょうから、藤井聡太七段が後手のとき先手のときとは倍くらいに負けているのも頷けます。

 

では、負けるケースが多いというのに、なぜ藤井聡太七段は、後手のとき「 飛車先の歩 」を選ぶのでしょう?

 

私は、初めはオーソドックな手が最強の手かなと思ったり、一番応用が出来る柔軟な手なのかなとか、この手が自分が今まで指して来た手で自分に一番合っていると思っているのかなと、一人合点をしていました。

 

しかし、待てよ。


 

勝っても負けてもこの手を指すということは、この手に対してプロ棋士はどのような手で勝ちに来るかを見ている、つまり、本や将棋ソフトで自分が指す手を研究するのではなく、プロ棋士が全精力をかけて自分の手の「 可能性 」を教えてくれている、本よりもソフトよりも、生の人間が実地に賞金をかけて勝負してくれている事であり、どんな本でもソフトでも教えてもらえない「 可能性 」を教わっていると考えると、この藤井聡太七段は、スケールが「 でかい 」棋士なのではないかと最近では思っています。


 

「 色即是空 空即是色 」で、事象は常に変わり、PCから教わった手も「 無常 」であることから逃れられません。

 

自分の頭の中にある「 可能性 」こそ、変化する事象に対応できる人間独特の武器ではないでしょうか?

 

それを藤井聡太七段に見たのは、彼が状況に応じて、時折披露する「 AI 超えの手 」があることです。

それは偶然の結果ではなく、その終末を見通した決定打であることも、彼のスケールから見れば不思議だとは思われません。

 

一切が「 無常 」ですから、藤井聡太七段の「 飛車先の歩 」が変わるかも知れませんが、その時は、他のプロ棋士たちの思考を混乱させ、頭の中の脳みそを、グルグル掻き回すことを期待しております。







(1月6日)

 

 

 

2019年1月 5日 (土)

時事 最高裁の元徴用工判決も執行されず

ユーチューブによりますと、「あの国」の最高裁が下した「元徴用工判決」は、下級審においてまだ決裁が下りていないから、年を越しても執行されず、執行は10年後あるいは20年後になされるらしいです。
 
最高裁判事の首を挿げ替えたのは大統領ですが、その判決には「尊重する」という発言があったように思われますが、10年後あるいは20年後の執行というのは、あまりにも最高裁の判決を軽んじているように思われます。


 
彼は、元弁護士だと言われていますから、自分の意見が反映した判決が出るのは、小学生でも分かる因果関係だと思われますが、彼は小学生以下の知能しかないのでしょうか?


 
「 レーザー照射事件 」でも沈黙し、北朝鮮との会談だけは大事にするのは、かっての女性大統領が中国だけに顔を見せて、日本を無視したことと似ているし、違うのは、「 セウル号事件 」では民間人も軍艦も派遣しなかったが、彼は、軍艦旗も挙げず、他国に近い所まで北朝鮮の遭難舟を救うために、軍艦を派遣し、銃口を向けると同じ意味のレーザーを複数回に渡って照射したことでしょう。


 
自国のまだ将来性がある若い学生が、遭難することよりも、北朝鮮の遭難船を救うために軍艦を派遣することが、彼らが言う「 愛国心 」なのでしょうか?


彼らの頭の中の「 愛国心 」とは「 原爆 」と「 津波 」を喜ぶことだけなのでしょうか?


 
国家を代表して発言を求められた大統領が、何も言わず、他の政府職員に任せるとは、大統領の行動なのでしょうか?


 
「 セウル号事件 」でも「 レーザー照射事件 」でも「 元徴用工判決 」でも、彼らの大統領がすることは、同じです。


 
黙って、人のせいにする。


 
日本でも同じですが、過去の経歴の割には「 役立たずな人物 」であることが多いと思います。


 
人を指導すべき立場にいる公務員ならば、国民のために働くことが職務だと思い、自分もそう思いつつ、苦情にも耐えて来ました。


 
彼らは、国家の中枢にいるのですから、中枢機関として働くのが、「 公務員 」でしょう!


 
まだ、「 南海トラフ地震 」は来ませんから、自然に感謝しつつ、これらの「 公務員 」が、いかに汚れてきたないかを、ユーチューブを見ながら、ブログで書こうと思います。
 








(1月5日)

2019年1月 4日 (金)

69歳になって考えること 私から見た「アドラー心理学」1、目的論

最近、ユーチューブで、「100分で名著「アドラー心理学」}という動画を拝見しまして、私はこれをどのように解釈して受け入れるかについて考えました。

ご存知のように、私は法科の大学卒で、しかも三流大学で、「心理学」などには、まったく無縁の生活でしたが、私の「 誕生から死後までの意識 」で触れましたように、「記憶」や「無意識」などには少し違った考えをもっていますため、この「アドラー心理学」に触れないわけにはゆかず、これを糧として、私の考えを整理が出来ればと思っています。

この「アドラー心理学」について、動画を拝見していますと、現在における「 過去 」や「 未来 」と「 自分 」をどのように考えるかで、フロイトやユングやアドラーの心理学を選ぶのではないかと思います。

医者のように、患者の人生を観察や分析したり、夢診断に興味がある人はフロイトを選ぶかも知れないし、社会学などの無意識に興味がある人はユングを、そして「心理学」を自分が人生を送るときの道具にしたいと思う人はアドラーを選ぶのかも知れません。

これまでの私は、フロイトの本は分厚過ぎて読む気になれなかったし、ユングの「クラウド」のような無意識も同感が持てず、自分なりに仏教の「末那識」や「 阿頼耶識」などを参考にした意識を考えていて、アドラー心理学は知りませんでした。

今になって、本ではなくて動画を拝見した印象では、この「アドラー心理学」につて知っていたら、もっと楽に、「 時間意識」と「空間意識」や「記憶」を思いついたかも知れません。

もう一つの動画である「アドラー心理学入門」の中に、アドラーは目的論、課題の分離、共同体感覚を主体に論じているらしいです。

まず、第一に考えるのは、彼の、「 目的論 」についてです。

私は、「あるのは地球の自転によってもたれされる今だけであり、過去や未来は意識だろう 」ということを、「 意識は電磁波の構造を持つ 」で書きましたように、左右の悩により時間意識と空間意識を作り出し、「 記憶 」とは、「 今 」から過去に経験したことを(生理的な電気で探って)「 阿頼耶識 」から「 末那識 」に引きずり出すことであり、長期記憶や短期記憶の分類を無意味とし、「 意識から運動可能性という無意識 」を身体に流すことによって行動するという立場から、この「 目的論 」を考えます。

フトイトの原因論から現在や未来の行動をする私にとって、選択範囲が狭く、プラスでもないし、マイナスでもない「 今 」を「 過去に縛られて」マイナスに考えがち(マイナス思考になりがち)になるのではないかと思います。

「アドラー心理学入門」の動画では、「過去から現在に一直線に進む運動 」で、アリストテレスの「 キーネーシス 」という考えの延長らしいです。


(詳しくは、動画を見るなり、図書館で調べてください)

一方、アドラーは「 今・この瞬間で刻々と変わる運藤」で、「 今・この瞬間が重要 」というこれもアリストテレスの「 エネルゲイア 」という考えの延長で、今、この瞬間で今の時点で、過去の意味付けを変えて、自分がその方向な変わることにより、これからの自分の人生を変えることが出来る。

「 今、この瞬間から自由だ 」と主張されるようです。

私の考え

私は、基本的に、アドラーの「 過去 」の意味付けと、自分を変えようとするプラス思考には賛成しますが、どのような目的に自分を変えるかは、自分の生き方という哲学になりますので、アドラーとは違った「 今 」の解釈になるかも知れません。

私の立場は、「 色即是空 空即是色 」から来た万物はエネルギーの化身であり、時間意識や空間意識」で捉える人間の認識は、言葉でどのように表現しても「 存在」、「エネルギー」を規定し尽くすことは出来ず、どこかで妥協し現実化してしまおうという「無知 」のため、例え心理学であっても、自然物である自分の行動を決定することは出来ないだろうと思います。

つまり、「 万物は流転する 」し、「 常なるものは無い(無常)」であり、「 当然、自分も流転している 」から、自然災害に絶望することも間違いで、自分を変えるのにアドラーがいうような「 勇気 」は必要とせず、ただ、自然の中に未来への「 芽生え 」を発展してゆく、つまり「 無常の心 」で自然物である事物を見て、自然のエネルギーの流れに沿って、自分の「 無意識 」を流してゆくと「 苦 」が少ない生活を送れると思いますので、目的を立てれば「 思うとおりにならないという意味での苦」が生じるだろうし、何か目的を立てて行動するというより、毎日を絶望しないで生きる方が、永遠の目的になるのではないか、とも思います。

目的は自然の流れの奥にあるものであり、自分が目的を設定して、目的どおりに行動して人生を変えるという自信はないのです。

自分が変われば、人生が変わることが多いでしょうが、自分を変えても思うとおりにならず、「 苦 」に陥ることも考えると、「 アドラー心理学 」さえマスターしておけば、人生に怖いことはないというのは行き過ぎで、学問はあくまでも道具であり、自分の目的を立てるなら、慎重にすべきだと思います。

目的を立てずとも、すべて学問は学問であって、生の自分の人生には、その学問を「 自分の可能性 」として、何時、如何なる場合でも、発揮できたと、死ぬときに思えたらそれでよいとも考えます。



はからずも、去年、書いていたような「 書を捨てて、自分で考えよう」に戻ってしまいました。

心理学に頼るだけではなく、「 無常 」の目で、この世の中に、自分の可能性を見ることも忘れてはいけないと思うのです。

一年経っても、なかなか前進できません。

願わくば、「 猫 」のように、黙って人知れずこの世から去りたいものです……。








(1月4日)

2019年1月 3日 (木)

時事 海自機へのレーザー照射を謝罪しないから思うこと

私は、ユーチューブの動画を見て楽しむ老人ですが、現在問題になっている海難事故について、面白い物語を考えてみました。

私は、以前、「BTS」の行動で、日本が再び原爆で苦しむことを喜ぶ人を知りました。

彼らが属する大統領も、彼らに勲章を与えるくらいですから、彼らの世論も支持をしているのだと思います。

それと、今回の、海自機へのレーザー照射と「 せどり 」を考えて、一連のストーリーを作ってみました。

日本の近郊で遭難した北朝鮮の船舶を救護する人道的な行為といいますが、防衛省から発表になった動画では、遭難するような悪天候ではありませんし、北朝鮮の船舶を救護して、近くに保護したあとだというのに、わざわざ空中の海自機にレーザーを照射したように思われます。

日本の近郊で遭難する北朝鮮の船舶が、なぜ日本に救助を求めなかったのか、そして「あの国」は、それをどんな方法で知り得て、軍艦を、海軍旗もつけず派遣したのかをつないでみます。

まず、北朝鮮は核を離す意思はなく、「あの国」も、悲願の南北統一をなしとげて、経済援助をしたいという現状だと仮定します。

北朝鮮は核の原料である「 プルトニウム 」が欲しいと思っているでしょう。

「あの国」は、南北統一を果たして「 民族の核 」として、北朝鮮の核を温存したいことは、以前「 BTS 」の所でも書きました。

そして、南北の朝鮮の会談の密約に、「 プルトニウム 」を「 せどり 」することを加え、それを実行していたのが、今回の日本近郊による「 海軍旗もつけない軍艦 」の護衛、あるいは運搬による「 せどり 」の行為で、それを発見されることを恐れた軍艦が、レーザー照射をしたのではないかという疑惑が持たれます。

日本でも原発から生じる「 プルトニウム 」の処理については捨てることも出来ず、困ったものですが、それを喜んで受け入れる所があれば、プルトニウム処理の問題は解消します。



もし、そんな密約があれば、北朝鮮も「 プルトニウム 」を作る施設は必要としないから、喜んで外国の報道陣の目の前で、爆破して破壊するだろうし、一方の「あの国」は、原発からの「 プルトミウム 」を北朝鮮にプレゼントすることにより、邪魔物を処理できるし、その後は、自国からの「 せどり 」によって、北朝鮮の核製造をコントロールすることができるし、自国を攻撃すれば「 プルトニウム 」の供給が出来なくなることにより爆撃を阻止することができるうえに、先進国としての名誉も北朝鮮に対して誇れるとうもので、両国は「 Wini Win 」の関係になるだろうという「 物語 」です。



同じ民族が、他国の力の都合で二つに分断されていることは、「 ドイツを見習うと 」、苦しいという心境はわかります。

ですが、「 民族の核 」を持ち、他国にそれを誇示するのは、まわりの他国をあなたがたと同じ不安にさせることであり、二つに分断した国と同じレベルの考えになり、日本国憲法がいう「 戦争を紛争の解決に用いない 」ことや「 国際法の遵守 」に反すると思います。

今回は、国連決議を破るような行為はなかったと思いますが、このように考えますと、一連の出来事が納得されるような気持ちがしますし、事実でありそうな気もします。


「 事実は小説より奇なり 」とも申しますから………。




(1月3日)

2019年1月 2日 (水)

69歳になって考えること  新年おめでとうございます

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

このブログを見て頂いている皆様が、今年も健やかに過ごされますようお祈りいたします。

幸いにも、まだ、「 南海トラフ地震 」に見舞われていません。

今年は、この地震を睨みながら、このブログを続けてゆきたいと思います。

この地震が列島を襲えば、日本経済は麻痺し、世界で最貧国となるだろうと言われています。

そうなれば、日本憲法の生存権から来る年金制度も破綻し、私たち年金で生きている老人の生活はいっそう苦しいものとなるでしょう。

列島には数多くの原子力発電所があり、運転をやめている所もあれば、再稼働をしている所もあり、政府はエネルギーバランスといって、民意である原発廃止を軽んじて、政財界のいうがまま、安全であれば再稼働する方針だろうと思います。

浜岡原発をはじめ、太平洋に面した海岸に稼働する原発も多くあり、立地条件である活断層の有無について、充分に検討されないまま建設されたものもあります。

原発は原子爆弾どころか、その数十倍の破壊力を持っていますから、隣国からの通常ミサイルでも十分に破壊可能だろうし、現在心配されている巨大地震による倒壊の結果も、同じように、周囲あるいは海へと、放射能が漏れて、人間が住めなくなることは十分に考えられることであり、それを政府は考慮のはずであり、前回のように「想定外」という言い逃れは、民意を無視して原発を再稼働した政府に対して国民は黙ってはいないでしょう。

そんな被害が発生すれば、「原爆Tシャツ」を着ていた愛国者は、原爆や津波の被災者を見るのが大好きですから、被災した日本に対して、東日本大震災の時と同じように、小躍りして喜ぶことでしょう。

なにせ、人の不幸をこよなく喜ぶ人たちですから。

そんな輩と一緒の日本ユニシス協会にも期待は出来ませんから、アメリカがユニシスを脱退するのも頷けるような気もします。

日本はユニシスへの分担金も払えなくなり、脱退するのかもしれませんが。

この巨大地震が日本を見舞うのが確実とされているので、東京オリンピックが無事に開催されるかは不明ですし、ユニセフが如何に世界遺産を認定してくれようと、ここ数年、地震が襲うまで外国の人たちは、来日を控えたほうがよいでしょう。

なにも死ぬために、わざわざ日本に来ることはないのです。

自分の国にも、ユニシスが指定する世界遺産なんかより遥かに美しく、自国の愛国心を高める自然は必ずあるはずです。

そんな自然を見出して、自然を大切に守っておれば、それは神様(エネルギー)の現れですから、人間が及ぶことが出来ない自然美をきっと発見できるはずですし、発見しようとする心が愛国心ではないだろうかと思います。

自国の自然美を保全しながら、自分たちの子や孫が同じ感動を受けるように、自然を保全するのも立派な愛国心だと思います。

なぜなら、ある仏教僧がいうように「自然は浄土」であるなら、死んだあなた方の霊魂(?)が戻るのは自然の中にでしょうし、自然を守ることは戻っている先祖様を敬うことであり、かつ、自分の死後に戻るところなので、自然を守ることは、自分を愛することにもなると思うからです。

こうして、巨大地震は経済や自然美といった人間が勝手に認定した人工物をすべて破壊し、ゼロの状態にするのがそのエネルギーの使命ですが、これが「 無常 」であり、自然の営みであると思いますが、もし生存が許されたときは、「色即是空 空即是色」による「 無常 」の考えにより、どんな悲惨な状況の自然の中にも、来るべく未来への「 芽生え 」がきっとあるはずであり、悲惨な場面に遭遇して「 無情 」というマイナス思考をするのではなく、「 無常 」というプラス思考の頭に切り替えて生きる方向で暮らすほうが楽しいのではないかと思います。

人間は「 散る桜 残る桜も 散る桜 」でして、どんなに経済力に格差があろうとも、だれもが死を迎えるということは、神様(エネルギー)から平等に与えられています。

自然は、プラスでもなければマイナスでもなく、地震から与えられた自然災害をどの方向に捉えて、いかに生きるかは、各自の思考に任されているのであり、それを課題にすべきだと思います。

今年、頂いた年賀状のなかで「 オレ、癌だった 」というお知らせをして来た人もいます。

死に接する年ごろになりましたので、そろそろ「 死 」のことも考えておかないと、死期を悟るのか人目を避けて黙って死を迎える「 猫 」に笑われないとも限りません。

あとに続く、子や孫が、親の死生観を参考にして自分が死を迎える時の「 苦 」から逃れるように、死にゆく自分の死生観をノートに書き残すなりしてやるのも、先に死を迎える親の子への愛かも知れません。


なにせ、人間である以上、「 散る桜 残る桜も 散る桜 」という宿命は、親も子も同じですから………。






(1月2日)

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