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2018年12月29日 (土)

69歳になって考えること 「現象としての私2018」

テレビでは、今年のニュースなどの番付発表が盛んです。

私も、友達の奥さんがガンを患ってホスピスを探しているとのニュースに衝撃を受けまして、「現象としての私」や「地震への不安」や「配置替えと使用価値」などの記事を書いて来ましたが、これらを「 年末特番 」として、「現象としての私2018」をマトメにして年末の区切りにしたいと思います。

「 南海トラフ地震 」の可能性が、来年も続くといいますし、今年の年末が危険という学者もいるそうですから、年末の地震の最中に、とてもこんな記事は書けませんので、ここで、一応の区切りにしたいと思います。

「配置替えと使用価値」においては、「物」が無駄には作られてはおらず、本来の使用する場所があるはずだから、その「場」を考えるように書きましたが、私は「 現象としての私 」に書きましたように、「 物 」(色)は「 エネルギー 」(空)に変換可能であり(E=MC²」)、「エネルギー」は「物」を通して現れるから、「 この世は無常である 」あるいは「 万物が流転する 」のだと考えますから、100円ショップの「物」(100円グッズ)でも、自然物としての「エネルギー」を出す「場」を与えれば、「使用価値」という自分の欲望を満たす道具になれますが、店が指定する固定した「場」という観念でその100円グッズを見れば、人間は自分が望むように物事や事態を判断する、つまり色メガネをもって自然を見る傾向がありますから(地震への不安1)、店が指定する100円の価値しかないグッズだと思うことになるのだろうと考えます。

「 物 」は「 場面 」の中で見るものであり、物がエネルギーの転換により違う形になる可能性を持つというのは、「 物 」が展開される「 場面 」が無数にあることで、それを因果の物語でとらえたのが「 縁起縁滅 」であると考えるなら、自然は無数の展開可能な場面を持っていて、人間は「 縁起縁滅 」の物語の場面しか捉えられない。

頭脳の力による「 時間 」と「 空間 」という概念の中で、因果という関係の物語でしか捉えられないのだろうと思います。

人について想定される確かな場面が、生老病死などの場面であり、「 我 」を捨てることにより「 苦 」から逃れられるというのがお釈迦さまの教えだろうと思います。

その方向に考えることが、人間に与えられた意識の正しい使い方であるのかも知れません。

実際、意識など持たないと思われる猫などは、死期がわかるのか、人に見えないところに行って冥途に赴くといわれています。

私には、猫のように、平然と、心静かに冥途に赴く行為が出来るとは、とうてい思いもつきません(私の考えは外道である)。

ですが、最初から固定観念を持たず、「 (この世は無常であり、)日常とは、一日が無常である 」(地震への不安2)と思うなら、100円グッズの前には、使用する広大な「 場 」が与えられ、自分の欲望である使用価値が10倍にも20倍にもなる(配置替えと使用価値)と思います。

「 南海トラフ地震 」につきましても「 無常 」を考え、「 日常 」を「 いつものこと 」とする固定観念を持たず、「 一日が無常である 」と考えて、平凡な瞬間の中に地震という悲劇的な画面につながる「 C(可能性) 」を探すことが、何事も無駄なものを神様(エネルギー)は作らない(配置替えと使用価値)方向を探ること、すなわち、地震が起こる可能性を探ることであり、それが、占星術しか出来ず、学者も科学者も「 南海トラフ地震 」を想定することが出来ないのが日本国の悲劇(地震への不安1)であると思います。

「 日常をいつものこと 」と思うのは、自分という存在があると思っていることと同じですが、「 星の王子様 」のように、 長い時間をかけたものには「 愛着 」が生まれ、長い間変わらないから「 自我 」があるのだろうと考えることだと思います。

それは本当だと思うのですが、「 自分 」は絶えざる瞬間においての「 我 」であり、お釈迦様は、その「 我 」を否定されたのですから、その意味を考える必要があるでしょう。

多分、お釈迦様も「 アートマン 」はあると思われていたと思いますが、あえて無いとしたのは、そう考える方が「 苦 」から逃れられるからでしょう。

自我は無いと考えた方が、色メガネをもって一面的に考えるのではなく、自然本来の神様(エネルギー)が作られた方向を探すことが容易だという優しい配慮かもしれません。

地震の場合は、「 色即是空 空即是色 」から得た「 無常 」の目をもって被災現場を見れば、希望が湧くと考えますと、「 瀬戸内寂聴 」さんが東日本大震災の被災地で、「 無情 」ではなく「 無常 」を説いたこと(私の考えは外道である)が納得できるような気がします。


災害にあたり、私が希望しますのは、被災時の行動には「 無意識 」つまり「 人格 」や「 価値観 」が現れると申しますし、人間は神(エネルギー)には勝てませんから、震災に対しては、東北の人たちが取った行動に恥じないように、せいぜい「 無意識に現れる人格 」を磨く努力をしておいて、日本古来から伝わる「 忍 」の気持ちを持って(地震への不安2)過ごし、「 無常 」の目で被災を見て、その中で「 希望 」を持つ方向に考えるように心がけ、もしも日々が無事に過ごせたら「 自然に対する畏敬の念 」と「 感謝 」の気持ちを持つことが、火山列島の上に住む日本人の宿命だと思って(地震への不安2)、過ごせたら満点だと思っています。

自分がまいた種は、自分が刈ることになりますから、少し努力しておけば、死ぬときはそのぶんだけ少し楽になるかも知れません。

また、元の話に戻りますが、100円グッズを「 物 」ではなく「 エネルギー 」と考え、その発露する「 場 」を与えることが「 配置替え 」でしょうが、それを無視し「 配置換え 」をする上司は、事を起こす始めから、100円グッズの本来の「 エネルギー 」などは無く、店が指定する100円しか価値がないグッズだという色メガネをもって、一面的に判断するような人でしょう。

その人が、配置換えの対象になったとき、100円グッズが100円とされた気持ちがわかるかもしれず、あるいは退職後の自分に与えられる女房様からの「 100円の価値 」に悩むことになるかも知れません。


ちょうど、現在の私のように………。

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