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2018年12月

2018年12月29日 (土)

69歳になって考えること 「現象としての私2018」

テレビでは、今年のニュースなどの番付発表が盛んです。

私も、友達の奥さんがガンを患ってホスピスを探しているとのニュースに衝撃を受けまして、「現象としての私」や「地震への不安」や「配置替えと使用価値」などの記事を書いて来ましたが、これらを「 年末特番 」として、「現象としての私2018」をマトメにして年末の区切りにしたいと思います。

「 南海トラフ地震 」の可能性が、来年も続くといいますし、今年の年末が危険という学者もいるそうですから、年末の地震の最中に、とてもこんな記事は書けませんので、ここで、一応の区切りにしたいと思います。

「配置替えと使用価値」においては、「物」が無駄には作られてはおらず、本来の使用する場所があるはずだから、その「場」を考えるように書きましたが、私は「 現象としての私 」に書きましたように、「 物 」(色)は「 エネルギー 」(空)に変換可能であり(E=MC²」)、「エネルギー」は「物」を通して現れるから、「 この世は無常である 」あるいは「 万物が流転する 」のだと考えますから、100円ショップの「物」(100円グッズ)でも、自然物としての「エネルギー」を出す「場」を与えれば、「使用価値」という自分の欲望を満たす道具になれますが、店が指定する固定した「場」という観念でその100円グッズを見れば、人間は自分が望むように物事や事態を判断する、つまり色メガネをもって自然を見る傾向がありますから(地震への不安1)、店が指定する100円の価値しかないグッズだと思うことになるのだろうと考えます。

「 物 」は「 場面 」の中で見るものであり、物がエネルギーの転換により違う形になる可能性を持つというのは、「 物 」が展開される「 場面 」が無数にあることで、それを因果の物語でとらえたのが「 縁起縁滅 」であると考えるなら、自然は無数の展開可能な場面を持っていて、人間は「 縁起縁滅 」の物語の場面しか捉えられない。

頭脳の力による「 時間 」と「 空間 」という概念の中で、因果という関係の物語でしか捉えられないのだろうと思います。

人について想定される確かな場面が、生老病死などの場面であり、「 我 」を捨てることにより「 苦 」から逃れられるというのがお釈迦さまの教えだろうと思います。

その方向に考えることが、人間に与えられた意識の正しい使い方であるのかも知れません。

実際、意識など持たないと思われる猫などは、死期がわかるのか、人に見えないところに行って冥途に赴くといわれています。

私には、猫のように、平然と、心静かに冥途に赴く行為が出来るとは、とうてい思いもつきません(私の考えは外道である)。

ですが、最初から固定観念を持たず、「 (この世は無常であり、)日常とは、一日が無常である 」(地震への不安2)と思うなら、100円グッズの前には、使用する広大な「 場 」が与えられ、自分の欲望である使用価値が10倍にも20倍にもなる(配置替えと使用価値)と思います。

「 南海トラフ地震 」につきましても「 無常 」を考え、「 日常 」を「 いつものこと 」とする固定観念を持たず、「 一日が無常である 」と考えて、平凡な瞬間の中に地震という悲劇的な画面につながる「 C(可能性) 」を探すことが、何事も無駄なものを神様(エネルギー)は作らない(配置替えと使用価値)方向を探ること、すなわち、地震が起こる可能性を探ることであり、それが、占星術しか出来ず、学者も科学者も「 南海トラフ地震 」を想定することが出来ないのが日本国の悲劇(地震への不安1)であると思います。

「 日常をいつものこと 」と思うのは、自分という存在があると思っていることと同じですが、「 星の王子様 」のように、 長い時間をかけたものには「 愛着 」が生まれ、長い間変わらないから「 自我 」があるのだろうと考えることだと思います。

それは本当だと思うのですが、「 自分 」は絶えざる瞬間においての「 我 」であり、お釈迦様は、その「 我 」を否定されたのですから、その意味を考える必要があるでしょう。

多分、お釈迦様も「 アートマン 」はあると思われていたと思いますが、あえて無いとしたのは、そう考える方が「 苦 」から逃れられるからでしょう。

自我は無いと考えた方が、色メガネをもって一面的に考えるのではなく、自然本来の神様(エネルギー)が作られた方向を探すことが容易だという優しい配慮かもしれません。

地震の場合は、「 色即是空 空即是色 」から得た「 無常 」の目をもって被災現場を見れば、希望が湧くと考えますと、「 瀬戸内寂聴 」さんが東日本大震災の被災地で、「 無情 」ではなく「 無常 」を説いたこと(私の考えは外道である)が納得できるような気がします。


災害にあたり、私が希望しますのは、被災時の行動には「 無意識 」つまり「 人格 」や「 価値観 」が現れると申しますし、人間は神(エネルギー)には勝てませんから、震災に対しては、東北の人たちが取った行動に恥じないように、せいぜい「 無意識に現れる人格 」を磨く努力をしておいて、日本古来から伝わる「 忍 」の気持ちを持って(地震への不安2)過ごし、「 無常 」の目で被災を見て、その中で「 希望 」を持つ方向に考えるように心がけ、もしも日々が無事に過ごせたら「 自然に対する畏敬の念 」と「 感謝 」の気持ちを持つことが、火山列島の上に住む日本人の宿命だと思って(地震への不安2)、過ごせたら満点だと思っています。

自分がまいた種は、自分が刈ることになりますから、少し努力しておけば、死ぬときはそのぶんだけ少し楽になるかも知れません。

また、元の話に戻りますが、100円グッズを「 物 」ではなく「 エネルギー 」と考え、その発露する「 場 」を与えることが「 配置替え 」でしょうが、それを無視し「 配置換え 」をする上司は、事を起こす始めから、100円グッズの本来の「 エネルギー 」などは無く、店が指定する100円しか価値がないグッズだという色メガネをもって、一面的に判断するような人でしょう。

その人が、配置換えの対象になったとき、100円グッズが100円とされた気持ちがわかるかもしれず、あるいは退職後の自分に与えられる女房様からの「 100円の価値 」に悩むことになるかも知れません。


ちょうど、現在の私のように………。

2018年12月27日 (木)

69歳になって考えること  「配置替え」と「使用価値」

迫りくる「 南海トラフ地震 」に備えることと「 年末の大掃除 」を兼ねて、自分の「 山城 」にある小物の配置を替えました。

心は無意識の広がりですから、時間や空間の「 間(ma) 」の区切り方に心が現れ、日本庭園の空間や昔からの歌舞伎や浄瑠璃をはじめ浪曲や歌謡曲、あるいは漫才や落語まどの「 間(ma)」は日本の心、あるいは日本文化を表現するものだと思います。

最近の若者の歌には、一般の日本人を納得させる「 心 」が感じられないことは、残念なことです。

私の「 山城 」の空間は狭く、地震の対策と私の使い勝手を、デッド・スペースがないように、いかに小物を配置するかが、「 私の心 」の現れですから、いろいろと、100円グッズを利用することにしました。

PCやステレオの位置を確保したあと、デッド・スペースを利用した収納のために、紐やリングや使わないカーテンを釣る金具、ペットボトルや100円ショップで購入した四角な囲いを細かく区切った棚を用意しました。

ずうっと前に書きましたが、100円で購入した小物をその通り使ったら100円の価値で終わりますので、自分の要望に沿うように、それらを使ってこそ、使用価値が10倍にも20倍にもなると思います。

料理を作る際に「 おいしいものが出来ますように 」と思って作るように、自分の心をちょっとでも入れる必要がありますが、それと同じだと思います。

例えば、四角を囲んだ棚を並べ、もう一方では、紐の結び目にリングを食い込ませて、「 渋柿を干す 」ように、一連のリングを垂らします。

そして、ペットボトルを半分ぐらいに切って、その横腹に一筋の切れ込みを入れて、カーテンを吊るす金具(一方が引っかけて固定できるもの)を突っ込みペットボトルを吊り下げられるようにします。

それらに小物を入れて、先ほど作った一連のリングや棚の隙間に引っかけると、ずいぶん多くの小物を、安価でぶら下げることが出来ます。

それをもって、デッド・スペースを「 収納空間 」にすることが出来ます。

ソファも高価なものを買うより、100円ショップのクッションを縫って何枚か重ねると対応できますし、しばらくして気分転換をしたいなら、その枚数を増やしたり、減らしたりして、高さも長さも、調整することも出来ます。

死亡したり、汚れたりして捨てるときも、元値が100円ですから、惜しむこともないでしょうし、また組み合わせを変えるとまた、別のものに変更できます。

水素(H)も酸素(O)も人体に有害ですが、水(H₂O)は有用であるように、神様(エネルギー)は組み合わせてくれました。

私たちも、100円の素材を組み合わせることにより、他人が作ったものより、便利なものを作って、神様(エネルギー)の真似をすることが出来ます。

毎年、職場の水が合わないといってノイローゼになったり、退職する人がいます。

彼らは、会社には「 無用の長物 」ではなく、彼らの能力を引き出すように、配置を替えたり、心配なく勤められるように配置してやる「 心 」(文化)が、上司、あるいは会社全体の雰囲気にはないのでしょう。

何事も無駄なものを神様(エネルギー)は作らないように、採用された人は、自分と同じ、「 神の子 」ですから、必ず、エネルギーを持っているのだと思います。

それなのに、そのエネルギー(心)が発露する「 場所という空間 」を作ってやれない上司こそ、「 無能 」つまり、エネルギー(心)を理解しない人であると思います。

若者を途中で挫くような上司は早く、自分の無能を知って、退職され、料理することで女房さまから、いかに心を配るかを教育されんことをお願いします。




2018年12月26日 (水)

69歳になって考えること 地震への不安 2

先回、「 地震への不安 」を書きました。

ユーチューブの動画によれば、占星術で惑星がある形で並ぶときに、大きな地震が発生し、12月21日から25日のあいだに、日本で噂されている「 南海トラフ地震 」がそれに該当するのではないかといいます。

日本の学者も、その辺りに地震が80%ほどの確率で確実に起きるだろうというので、ブログに書きました。

今日は26日で、1日過ぎましたが、天体の動きに比べるとまだ確率の範囲内だろうと思います。

また、2019年には「 富士山大噴火 」と「 南海トラフ巨大地震 」が連発するという予言もあるようです。

これら人間が時間や空間や周期などという頭脳で作られた意識の内容に関わらず、宇宙(自然)エネルギーの発露である地震は発生します。

「 情(なさけ)」がないので、「 無情 」であるとも言えるでしょう。

日本はこんな状態が2から3年のうち地震が起きてから、落ち着くのだと思いますから、日本に住んでいる以上、この期間は「 忍 」で過ごさなければならないでしょうし、外国の人も、日本に地震が起きるまでは、来日を控えたほうが良いと思います。

さて、こんな不安定な列島の上に住む住民は、宇宙(自然)エネルギーの猛威に対して生命を守る仏の教えで暮らすべきでしょう。

今更、地震についての心構えなど書籍で勉強しても遅いかも知れません。

平和な時間が流れているとき、困難に対処する「 心構え 」を勉強しておかねば、実行に移すには遅いのです。

ユダヤの流れといわれる東北の人たちの行動を、関東や関西や西日本に住む人が取れるかどうかは、疑問であるかもしれません。

知能が発達し、賢い人は、政治家やエリートに見られるように、これまで人道に叶う行為をして来たかどうかは、経験でわかるでしょう。

普段の態度が、「 無意識 」として行為に現れるからです。

それは、「 人格が現れる 」と」言ってもよいでしょう。

自分の「 人格 」が現れたら、どんな行為を取るか、各自が思い至るべきで、自信がないなら、今すぐにも、反省すべきでしょう。

私は、まったく自信がないので、これまで書いたように、「 般若心経 」の「 空 」の考えで、行こうかなあ、と思っています。

先回、書きましたが、日々が「 無常 」である。

つまり、毎日、変わらぬものはない。

自分の身体でも、眠っているときでさえも、呼吸で自然エネルギーである空気を取り入れ、新陳代謝で細胞を更新しているので、昨日と同じ身体は存在しないのだと思います。

そうであれば、自分の思考内容も、毎日の出来事の中に新しい「 息吹 」を感じて、日々、更新しなければならない。

「 日常 」とは「 いつものこと 」と軽く考えがちですが、地球は回り、大気は変動し、地面の地殻も変動しているのです。

ですから、「 日常 」は「 一日が無常である 」と考えて、来る地震に対しても、自分が出来る準備をして、自然エネルギーによる災害に備えるべきでしょう。

そうすれば、朝、目を覚ました時、まだ自分が生きていると感じるでしょうし、毎日が家族と何事もなく暮らせることに、「 感謝 」することが出来るでしょう。

何も宗教を持っている人だけが、(神)に「 感謝 」すべきではなく、年老いた貧乏な老人も、生かしている自然エネルギーや体内の臓器が動いて生命を維持してくれるエネルギーが、自分の中に存在していることに、感謝しても「 罰 」は当たらないと思います。

こういった火山列島の上で居住する人類は、自然に対する「 畏敬の念 」と「 感謝する 」という気持ちが要求されるのかも知れません。

2から3年、待つのではなく、地震が襲ってきて正常な生活になるまで、「 忍 」をもって「 希望を捨てず 」耐えなければならないと思うのです。


そして、何の損害もなく、地震をやり過ごしたら、天に「 感謝 」すればよいと思います。



2018年12月25日 (火)

69歳になって考えること  地震への不安

日本の宿命とでも申しましょうか、最近は、「 南海トラフ地震 」や「 関東直下型地震 」などの噂が飛び交っています。

改めて「 日本列島 」を見ますと、火山帯の上に位置しているから、温泉に恵まれ、観光に恵まれているのかも知れません。

「 地震対策 」については、ネットで調べて頂くことにして、私は、今までの考えの延長上で、この「 地震 」などについて、どう考えるかを書きます。

今日の日経平均は、1000円以上の下げて、2万円を割りました。

企業収益もさほど悪くないし、世界情勢と言いましても、アメリカの株式の市場は開いておらず、私の考えでは、ネットに氾濫する「 南海トラフ地震 」や「 関東直下型地震 」に対する個人投資家の不安心理からの「 売り 」ではないかと思います。

私のような貧乏な老人は、守るべき資産もなく、憲法が保障する最低限の生活よりちょっと上の生活ですので、売る株式をもっている人は羨ましいかぎりです。

私でも、こんな自然災害が日本を襲えば、確実に損失を受けることは、確実ですので、その「 考え方 」を確認しておこうかなと思います。

私は、今まで「 色即是空 空即是色 」を重視し、固定した観念、あるいは先入観を持つことを避け、お釈迦様が言われたように「 正見 」をもって、事態に臨むべきで、それはこの世は「 無常 」であることです。

自然のエネルギー(神)は、「 無情 」といいますか、人間がどのような見解をもっていても、「 時間 」や「 空間 」や「 周期 」などとは関わりなく、人間の感情は無視して、発生し消滅すると思います。

人間は、自分が望むように事物や事態を判断する(つまり、色メガネをもって自然を見る)傾向があると申します。

「 正見 」とは、ありのままに見ることで、「 無常である 」と見ることは、この方向だと思います。

ただ、「 ありのまま 」に情報が提示されないことがあり、地学を専門とするエリートたちが、こんな事態に見当がつかないというし、政府も、国民個人で判断してくださいという態度であることが、「 日本の悲劇 」だと思います。

今まで、科学だとかスピリチュアルだとか、仏教であるなどという人たちが、こんな事態に沈黙して、何も発言することが出来ないといのも、日本国民を不安の陥れる要因であると思います。

科学でも仏教でも、人の不安を解消するための方法ではないのですか!

政府と同じく、国民個人で判断してくださいなどと言っておいて、災害が通り過ぎたあとに、科学で仏教だといっても、無責任であるのは、隣の国と同じじゃあないですか!

日本人は、昔から、自然の猛威や政治権力の圧政に耐えてきたという意味で、「 忍者 」であるかも知れません。


「 刃 」の下に「 心 」を置くのですから。


外国に引っ越す財力も、外国の貯える財力もない、貧乏老人としては、ネットなどで、自分を納得させる情報を出来るだけ集めて、政府に頼ることもせず、自分の判断で避難材料を準備して、「 正見 」をもって「 無常 」を心に置いて、「 無情 」な自然エネルギー(神)に対応してゆくしか方法はないかも知れません。

この「 無常 」という観念は、自然災害にだけではなく、親子や夫婦などの人間関係を考えるときにも役立つような気がします。

つまり、「 日常 」は、「 一日が無常 」であることだし、「 当たり前 」とは先入観や固定観念の結果であるかも知れず、絶えず生活から心を離さないように、日々、努力が必要だとも考えられるのです。

よく、親が子に殺されることがありますが、私から見れば、子が親の私を殺したいほど憎んでいたのなら、それはすべて「 私の責任 」であり、自分を殺すように育てた自分が悪いのであり、それも仕方がないことだと思います。

「 無常 」とは、「 エネルギーと自分の考えが乖離しないように、絶えず努力しなさい 」ということで、私のような考えを生むのは、「 日本の自然 」であるかも知れませんが、死ねば私もいずれ自然エネルギーになりますから、自然災害に遭遇して死亡するのも、しかたがないのかもしれません。

人間は、神(エネルギー)には勝てないのですから………。


2018年12月24日 (月)

69歳になって考えること  私の考えは「 外道 」である

私の考えは、仏教徒の方々には、まったくの「 外道 」で、人を惑わす考えだとお思いになっていると思います。

実際、私も、前述しましたように、殺し合う戦争に反対することが出来なかった「 仏教 」に幻滅を感じていました。

東日本大震災のとき、「 瀬戸内寂聴 」さんが、被災地を訪れて「 無常 」を説かれ、それが被災者の心を打ったと感じましたとき、私は、もう一度仏教を考えてはどうかという気持ちになりました。

それまで、私を励ましてくれていた小林係長のため、死に向かい合っている時で、ほかにも「 万物は流転する 」とかゴーギャンの言葉など、これらを解消できる考えを模索していましたが、仏教の「 無常 」といっても、何を見ればよいのかさっぱり分かりませんでした。

そのうち、日本国中で、仏教の宗派を問わず、神道の山伏さえも唱えている「 般若心経 」に注目しました。

あの経文は短いし、過去に暗唱していたこともありました。

その中で「 色即是空 空即是色 」という言葉が有名で、何という意味だろうか?と思いまして、少し調べましたが、仏教界で言われる説明では、「 靴の底を掻く 」ようで、「 空 」を「 からっぽ 」というし、大乗仏教の祖とされる「 龍樹 」の本が安価で発売されていましたが、ちんぷんかんぷんで、こりゃあダメだと諦めていました。


そんなときに、仏教から全く離れて、アインシュタイン氏の「 E=MC² 」に「 空 」と「 色 」を当てたらどうだろうと思い、かねてからの構想であった「 宇宙エネルギーや生命エネルギー 」とか「 派生 」や「 時空は意識 」ということと組み合わせて、私の考えとしました。

私の考えは、これまでの投稿から判断してください。

そこから、「 無常 」を思いつきましたが、元オーム真理教の上祐氏などは、そんなことは一言も触れてはいませんし、般若心経についてもまだその動画を見ていませんし、「 瀬戸内寂聴 」さんも、その経文から「 無常 」が出てくるとは言っておられないようですから、多分、これは、仏教から離れた異端の考えだと思います。

しかし、「 資本論 」を書いたマルクスの「 政治と経済 」のように、事物のエネルギーの変化を表す「 縁起縁滅 」に(経済)、自分の考え(政治)が固定したままであるため、自分の考えが不合理になる(政治のゆがみ)ため、「 苦 」が生じるから、自分の考えを「 縁起縁滅 」に合わせば、「 苦 」も解消するのではないだろうか?

「 縁起縁滅 」の世界(自然界)は、仏教界では「 浄土 」らしいから、生前に「 浄土に生きる 」という考えを持ち、死後も「 浄土 」である自然のエネルギーに戻ると考えていますので、生きていても死んでも、「 浄土に生きる 」ことは変わらないのではなかろうか?と思いました。



こう思いますと、「 色即是空 空即是色 」はいつ何時になっても、「 心を柔軟にして 」変化する自分をエネルギーが「 許してくれている 」ように感じて、柔らかく人生を終えることが出来るのではないかと思っています。


ただ、それが、「 猫 」の死を迎えた行動のように、平然と、心静かに冥途に逝く行為が出来るのか心配ではありますが………。

2018年12月23日 (日)

69歳になって考えること  この世は一体で無分別

私が、元オーム真理教の幹部だった上祐氏のユーチューブにUPされた動画を見ていました。

今までの見てきた現時点での感想を書きますが、私は仏教に関しては、今まで書いてきたことしか知りませんので、多分、間違っているのだと思いますが、私なりのブッダの解釈で進みたいと思います。

私が、「 誕生から死後までの意識(増補版)」で書きました、代表的な煩悩である「 三毒 」が「 悟り 」とやらをどのように害しているのかは、詳しく説明してありまして、大変、参考になることが多いです。

私は、「 色即是空 空即是色 」の仏教の教えではなく、自分の解釈で、色(実体)を生命エネルギーで捉えた概念で、空(何もない事)をエネルギーと解釈しました。

それは、E=MC²を、空はE,色はMとしてCは何か分かりませんが、「 可能性 」とでもしておきましょう。

これと、「 神仏習合の私 」を考えまして、自然物をいくら「 分別 」しても、ほかの素粒子などの自然物で説明するだけで、「 私だけの自我 」というのがないとして「 無我 」としました。

上祐氏によりますと、生命エネルギーの働きは自分を問い詰めていっても他人になるし、自分を構成する素粒子も、他人と入れ替わり、世界は「 分別 」でなく「 無分別 」と考えたほうがよいと言う考えではないかと、推察します。

またある学者は、「 点 」という結び目が説明できないから「 無分別 」であるとも私は解釈しましたが、私から見た考えを書きます。


私は、上記のように、この世で発見される物質は、宇宙エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の重なりであり(E=MC²)、物質を人間が量子レベルで如何に分析(分別)しようと、その物質を結合せている宇宙エネルギー(神)、人体であれば命という生命エネルギー(仏)を作り出すことが出来ないということが、彼らがいう「 無分別 」であり、その「 無分別 」という言葉は、私から見れば、「 神仏が分からない 」ということであるに過ぎません。


「 無分別 」とはエネルギー(神や仏)を生命エネルギーの力で見ようとする場合であり、「 分別 」とは、生命エネルギーから派生した形を、同じく派生した時間や空間の概念で分析する場合だと思います。

私は、「 空 」をエネルギーから見た観念とし、「 縁起縁滅 」は生命エネルギーから派生した頭で考えた観念だとします。

私のように、神仏の重なりと見れば、それは人間の命が人工で作り出せないということが「 無分別 」というのであり、分別と無分別を別けなくても、一体のものとして考え、いくら分析しても不可能だということです。

つまり、時間や空間といった頭脳から「 派生した 」道具で、「 派生させる 」生き物としての脳を作り出せないこと、「 人工知能 」は可能であるかもしれないが、「 知能 」を作ることが出来ないという結果になります。

これは、仏教の教えからはなれた独断と偏見に満ちている私の考えであることをお許しください。


69歳になって考えること 私が「現象」であり「無我」であること

今まで、「 現象 」と私と言いながら、なぜ、「 私は現象であり無我だ 」と考えなければならないかを記していませんでした。

それは「 色即是空 空即是色 」から、私も自然物には違いないから、「 私は現象だ 」と考えていました。

しかし、「 色即是空 空即是色 」と「 神仏習合 」という考えをしますと、今まで書いて来ましたように、前段から、自然物は宇宙エネルギー(神)による結合と生命エネルギー(仏)の認識という力(エネルギー)の対象とが重なり合っていることであり、後段から、「 私 」は神仏が習合して「 自分 」という自意識を持っているんだということが分かります。

そうしますと、「 私 」も「 自然物 」も、神仏が重なり合っている状態は同じだと思います。

「 私 」という「 我 」があるなら、「 自然物 」である「 物 」も「 あなた 」という私の外の人間も「 我 」があり、事物は全て事物たる特徴を持つことになり、ブッダの主張と違ってきますが、この「 特徴 」とは生命エネルギー(仏)の力による認識が与える「 主観的 」な社会的な意味に過ぎません。

先に申しましたように、事物は宇宙エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の重なりであることは、人間が呼吸により、空気という宇宙エネルギーを絶えず体内に取り入れなくては、生命エネルギーも絶えてしまうことは人類共通で、生命エネルギーである認識することだけで、宇宙の事物を生命エネルギーだけで物事を決めつけるのは、「 主観的 」と言ってもよいと思います。

そうしますと、「 私」は「 我 」がないのが本来の姿であり、「 私にしか存在しない 」、あるいは「 自分だけが持っている 」という自意識(我)を持つという考えは間違いではないのかと思います。

ですから、地震などの自然災害に遭遇した時には、「 色即是空 空即是色 」、すなわち「 すべてが無常である 」と考えた方が、「 自分だけどうしてこんな目にあわなくっちゃならないの 」と天の神仏を恨む「 苦 」から、この先、「 希望 」に向かう方向を発見し易くなり、自分の気持ちが「 楽 」になると思うのです。


すべてが「 縁起縁滅 」と申しますから、こんな災害に遭遇したら、人間であれば誰もそう思う気持ちは理解してくれると思うのです。



これからの「 日本 」は、「 南海大地震 」や「 富士山の噴火 」などという恐怖に耐えて生きなくてはなりません。

どこかの、「 大砲が飛んでくるから降参する 」人たちのように、「 忍 」を忘れてはなりません。

日本人は「 忍者 」と言われますように、「 刃 」に下に「 心 」を置いた生活をすることは、戦国時代からの宿命です。

「 自然 」に対しても、そんな態度が要求されます。

こんなことは、「 南海大地震 」の真っ最中に、「 瀬戸内寂聴 」さんのように「 無常を説く 」ことは時間がありません。

「 私 」自身も被災しているでしょうし、ネットもそんな非常時に開くことは不可能です。

ですから、「 安全 」なときに、その道理をわきまえておかなければ、とても「 東日本大災害 」に遭遇された「 東北の人たち 」の行為にとうてい及ばない行動をとるのは明白だからです。

今の日本人は、「 昔でいう外人 」と同じで、「 日本 」も精神を考えた人は、テレビを視聴しておりましても、見当たらないのです。

だから、ほかの外国の人のような行動をとる日本人が多いと思います。

「 転ばぬ先の杖 」として、「 色即是空 空即是色 」の考えや「 無常 」を身に着けられんことを願います。


これは、私の考えです。

2018年12月22日 (土)

69歳になって 貧乏老人の楽園作り 2

前回、私の楽園作りを紹介しました。

今回は、その「 楽園 」で、どんな年越しを迎えるかについて書きます。

私は、前回、自分が座っている「 山城 」の頂上で、どんな年越しを迎えるかですが、家族と一緒に年越しを迎えることが一番であるのがもちろん一番良いことだと思います。

ですが、価値観が多様化し、自分の欲求を満たす「 娯楽 」も、私たち「 団塊の世代 」のように、テレビだけではありません。

家族の各々は、神社に出かけるなり、ゲームをするなり、いろいろ好きなように年越しをすればよいと思います。

幸いにも、私たち「 団塊世代 」には、海外や国内のさまざまなミュージックに恵まれました。

私たちの親がしたように、そんな歌の祭典を、年末のNHKなどが放送する「 歌の特番 」に期待するのは無理というものです。

時代は変わり、彼らの番組を編成する人間の頭には、「 視聴率 」しかありません。

ですから、私たちが、昔懐かし歌謡曲などを聞きたいと思うなら、テレビから離れて、自分の楽園での楽しみ方を考えなくてはなりません。

幸いなことに、ユーチューブの動画に、まとめたものがあります。

例えば、フォークソングなら、「 70年代フォークソング 」といのがあり、全23曲で1時間29分ほどの音楽ビデオがあります。

それらは、オリジナルの曲を歌う亡くなった歌手も多く、自分が聞いたころの雰囲気が楽しめます。

歌謡曲などの長いビデオは4時間ほども歌が続きます。

これらは、ダウンロードが出来ますので、好きなジャンルを探し、何種類かのファイルにして、再生すれば、繰り返しも聞くことが出来ます。

もし、PCの音源でご不満なら、そのファイルをICレコーダに録音したり、フラッシュメモリーに保存し、再生可能なステレオにつなぐか、あるいは、PCに接続して手元のスピーカーで聞くことも、1000円程度で購入でき、あるいは、無線でつなぐことも出来ます。

これらを利用して、PCにダウンロードした、お好みの音楽を聴くことができます。

ユーチューブの宣伝をするのじゃありませんが、いろんな音楽ビデオや、宗教や歴史や時事ニュースなど豊富な内容ですので、これを利用しない手はありません。

もちろん、年越しの前に、「 クリスマス 」の音楽も楽しめます。

皆さま、生きているうちに、いろんな事をして、余生を楽しもうではありませんか!


2018年12月20日 (木)

69歳になって考えること ガンを患った友達の奥さん

先日、ひさびさに集まって、友達と念仏をしています時に、彼の奥さんがガンを患ってホスピスや緩和ケア病院などを回っていると聞きました。

私は、何も言えず、ただ昔ブログを書き始める契機となった小林係長が在宅のままガンで亡くなったことを思い出していました。

何のアドバイスも出来ず、帰宅した私は、両親の死をはじめ親しかった人の死を想いはじめました。

女房の叔父さんは、戦死をしています。

私が仏教を一心になって信仰できないのは、大学で「 わだつみの像 」を見ていたせいか、学徒出陣とか何とかやらで、学生が戦地に駆り出されたとき、神仏分離のためか仏教界から戦争反対の声が上がらず、大学教授や哲学者で戦争に反対する人は少なかったと思います。

彼ら学生が戦地に赴く際に、懐に忍ばせていたのは、浄土真宗の親鸞が著したとされる「 歎異抄 」であったと聞いたことがあります。

戦争は殺し合いです。

目の前に銃を持った敵兵が自分に銃口を向けられたとき、殺さざるをえないでしょう。

人を殺すことは、「 地獄 」に落ちる行為をすることです。

自分が人を殺害する「 悪人 」となる。

そんな「 悪人 」をも救われるという「 歎異抄 」を読みながら、戦場で殺害したのでしょう。

前線に立つ一兵卒としては、「 歎異抄 」を読むことにより、悪人の自分を救ってくれる仏を信じて、何とか心のバランスを取ったのだと思います。

そんな「 慰め 」しか出来ない仏教に失望していたのです。

敵兵に恐怖を与えた「 神風特攻隊員 」は、死地に赴く際に、「 散る桜 残る桜も 散る桜 」という言葉を好んだと聞きます。

その気持ちが、「 死んで靖国の桜になる 」のであれば、それはそれでいいかも知れませんが、人は皆それぞれに違います。

「 私は、こうして死んでゆくが、残った(日本に住む)人も死ぬのだけど、私のような死は迎えないでくれ 」と思ったかも知れません。

あるいは、「 このままでは、日本は必ず負ける。私は、こうして死んでゆくが、今の日本の政治体制を崩して新しい日本のための土になる 」という気持ちなら、「 桜の下には亡くなった戦没者が眠っている 」と考えて、戦争反対もその遺志に沿うことになるかと思います。

こうして、仏教から離れたのですが、東日本大災害の津波ですべてを失った被害者の前で、「 無情 」とおもいがちな人たちの前で「 無常 」を説く「 瀬戸内寂聴 」という僧侶を見て、とても自分が出来ないことだと思いながら、「 どうして仏教は無常というのだろうか? 」と考えだして、それが「 色即是空 空即是色 」から来ていると思い、現在の考えに至りました。

さて、何も出来ない私ですが、帰宅した翌日、奥さんから電話を頂いたときに、「 散る桜 残る桜も 散る桜 」で、死ぬのは奥さんだけではなくて、私も死ぬし、あなた方の子供さんも死ぬのですよ。奥さんがPCを出来ないのなら、現在の心境をノートに書いて、お子さんに渡してあげたら、奥さんがどんな心境で死を迎えたかが、将来、お子さんが亡くなるときの指針になるかも知れません、と言って、子供さんのためにノートを作られるように言いました。

この齢になりますと、「 老・病・死 」が身近になりますが、「 生 」の「 苦 」を感じることを生きている証として、生きてゆくことしか出来ません。

「 生死一如 」で、より良き死を迎えたい、理想は「 ほほえみ 」を顔に浮かべて死ぬことですけど………。


「現象」としての私の生き方  「 死 」

このテーマについては、「 誕生から死後までの意識 」に書いた通りですので、少し違った考えを書きたいと思います。

私は、「 色即是空 空即是色 」から、人間は自然物と同じく素粒子が宇宙エネルギー(神)により結合し他の形へと移行するが、生命エネルギー(仏)の力である認識には、「 縁起縁滅 」とか「 万物は流転する 」とか「 諸行無常 」とかいう言葉になると思います(E=MC²)。

しかし、この「 無常 」を、同じ発音をする「 無情 」だと考えてはいけないと思います。

「 無常 」であることは「 常ならず 」であり、自分がどうすることも出来ないから諦めなさいという意味ではなく、自分に固定した観念があれば、それをエネルギーの現れである自然の流れに合わせなさということだと思うのです。

私は、「 般若心経 」を仏教とは違った自分の解釈で、「 苦 」を考えてきました。

ある動画で、仏教の「 浄土 」は、自然(宇宙)であるとする僧侶を発見しまして、私はそれを採用しますと、「 誕生から死後までの意識 」で書きましたように、「 死 」によって宇宙エネルギーと生命エネルギーに分離して、「 ブッダ 」になったら「 宇宙エネルギー 」に戻って「 輪廻転生 」から逃れるでしょうが、私は、輪廻の中に吸い込まれるでしょう。

なぜなら、私は、「 猫 」には負けるからです。

猫は、自分の死期が迫りますと、ふっと人前から姿を消して、目立たないところで死を迎えるらしいです。

お釈迦様は死後のことについては無記といってお答えにならなかったので、自分の死後の行く場所をどこかに定めて安心したとしても、「 私は、猫のような行動を取る 」ことは出来ない。

心が「 涅槃 」に至った(悟った)としても、まだ生命エネルギーは消滅しておらず、「 生きたい 」という欲のため、猫のように、生命エネルギーの消滅に合わせて行動することは出来ないと思うからです。

これは、私の考えですので、自分が死に臨んで、どこを到着点としたら安心するかを想像し、地上から受けたものはすべて地上に残し、導かれるままに進めばよいと思います。

ただ、これは私の間違いだと思うのですが、「 色即是空 空即是色 」を思うことは、自分を「 苦 」から逃れる方法を教えるもので、「 智 」を求めるために「 六波羅蜜 」の修行をしなければならないというのは、「 愛 」を育てる修行であり、本来の自分を愛することであり、それが、最澄がいう「 忘己利他 」であれば、東日本大災害の被害地に赴いた僧侶の「 瀬戸内寂聴 」さんが、被害者の前で、「 この世は無常だ 」と法話されたことが、「 無情 」と思いがちの被害者の前で「 無常 」を説いた意味が分かるような気がします。



2018年12月19日 (水)

「現象」としての私の生き方 「 老 」・「 病 」

前回に続いて、お釈迦様の「 生老病死 」の「 老 」と「 病 」をまとめて書きます。

僧侶なんかでなく、あくまでも一般人の無責任な発言だと思ってください。

「 色即是空 空即是色 」での解釈では、この世の物質は素粒子が宇宙エネルギーにより結合した姿形を、認識という生命エネルギーで見るため、宇宙エネルギーの絶えざる変化を、人間の認識では、「 縁起縁滅 」や「色即是空 空即是色 」とか、西洋では「 万物は流転する 」という言葉になるので、この世の事物である「 私 」も、自然物と同じく「 現象 」であり、現象は現象らしい考え方をすべきだと考えます。

「 苦 」が、「 思い通りにならないこと 」であれば、自然のエネルギーの流れに従い、自分の考え方を変えれば「 苦 」が解消させるかも知れません。

その「 苦 」の根源にあるものは、人の不幸を踏み台にして、ちょうど「 原爆Tシャツ」を来た男のように、他人の不幸を「 あざ笑い」ながら、この世の衣食住の幸福を求める考えです。

このような考え方を、宇宙(自然)エネルギーからの警告だと捉えて、自分の考えを見直すことにより、同じ方向で「 苦 」を感じている心から離れることが出来るかも知れません。
これは、「 老 」や「 病 」の「 苦 」にも言えると思います。

現在、自分が置かれている環境が「 老 」や「 病 」や「 被災 」の状態で、それと健康時と比べて「 あの頃とは違って、今は出来ない。不幸だ 」と思い、それを周囲の他人のせいにして、自分が「 いかに老いて、いかに病気で、いかに被災で苦しんでいるか!自分は不幸だ!」とこの世を恨む気持ちはあるかも知れませんし、私も、そう思うかも知れません。

しかし、その「 不幸 」なるものが、「 幸福 」に対する「 不幸 」であれば、先ほど書きましたように、他人を踏み台にして、他人の不幸の上にたつ「 幸福 」と、心の性質は同じと思います。

例えば、食卓に牛肉のステーキが出たとしまして、私が食べて「 幸福 」になるのは、「 牛さん 」の生命を奪った上の「 幸福 」であり、「 おいしかったね 」というとき、「 バkなお牛さんね 」と言うもではなく、「 お牛さん 」の生命を戴いたことを感謝しなくてはいけません。

「 苦 」を他人のせいにするのではなく、この「 苦 」を宇宙エネルギーからの警告と捉え、「 本当に目指すべき幸福は何か?」を考えるべきでしょう。

私には分かりませんが、「 意識 」を本能と共に頂いた人間は、その与えられた方向に「 意識 」を向け、宇宙エネルギーに沿って、「 病気なら快復するまで待てばよいし、老人なら、これから死へ向かうようにペースを落としていけばよいし 」、他人の幸福に比べて、自分の不幸を嘆くべきではないと思います。

人間は誰でも、病気し、老人になるように、宇宙エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)が情を通じて人間を作ったのであり、老人は自分だけ、あるいは病気は自分だけではないのです。

不老の薬は無いでしょうが、今まで難病とされていたパーキンソン病や脳梗塞も、ips細胞を使い、回復の可能性も、現実性となってこの世に出てきました。

ですから、病気だ、老人だといって悲観することはありません。

それより、「 パラオリンピック 」を見て御覧なさい。

身体が不自由であるにも関わらず、健常人に負けないほどの記録が出ているではありませんか!

また、だいぶ前になりますが、「 ガンとの闘病 」をブログにした女優が、同じ病気を患っている人に勇気を与えたじゃありませんか。

それに、亡くなった女優さんが、ガンと戦いながら、生涯現役として舞台に立ち続けたではありませんか!

キリスト教ではありませんが、「 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます 」という言葉がありますが、自分の闘病生活を生き抜く様子で、他所の同じ病気で「 苦 」を感じている人への、「 希望に導く 」燈明になり、人のために働く契機であるかも知れません。

ですから、病気の「 苦 」に諦めず、生命エネルギーを燃やし続けられんことを祈ります。




2018年12月17日 (月)

69歳になって考えること 「現象」としての私の生き方 「 生 」

私が、ちょっと聞きかじったのですが、仏教では、人生は苦に満ちており、「四苦八苦」で苦の連続であるらしいのです。

私は僧侶などではなく、仏教で知っている経文といえば、「 般若心経 」ぐらいしか読んだことはなく、またその教えが何たるかは、僧侶からではなく、Web情報ですので、その信憑性は紙のごとく薄いものだと思います。

つまり、仏法僧により得たものではなく、主観的な見解であることです。

ただ言えますことは、その般若心経のなかで、「 色即是空 空即是色 」という言葉で、この世の物事は、人間にとっては皆「 現象である 」として捉えるべきだろうとの考えを持っていますし、私が出版しました電子書籍に表わしておりますように、「 神仏習合 」の状態がベストであると考えており、その基本の軸は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーと肉体である霊の三つで考えています。

そういう立場で、この「 四苦八苦 」を考えてみますに、経験があると思われる、「 生老病死 」ぐらいにしか考えが及びませんのでこれについて考えたいと思います。


「 生 」の苦について

それは、誕生に始まると思いますが、何かの縁で両親から宇宙エネルギーと生命エネルギーが結合した霊体として母の中に胎児として宿り、両親が苦痛をもって産み出してくれた自分には、DNAが持つ生命エネルギーの中に埋もれた宇宙エネルギーを思い出すべく、絶えず取り入れるために「 呼吸 」することを霊体に仕込まれたと思います。

そして、本能や煩悩という生命エネルギーは生殖を通じて子孫を残すように両エネルギーが情を通じて与えた霊体が生きる力ですが、それぞれのエネルギーが発揮できるように、DNAは霊体を構成し、頭脳は主に繁殖のために使うのでしょうが、埋もれた宇宙エネルギーを発見する可能性が、物理的な悩ニューロンから派生する「 意識 」の働きに託されたのだと思います。

ですから、「 意識 」を誕生により使命として向けられた方向に使うことが、最も肝要であると考えます。

両エネルギーが情を通じて与えられた霊体は、生命エネルギーが活躍する青年期や壮年期を経てその終焉たる死をもって、両エネルギーは分離しますが、それが分離できない状態が、いわゆる「 霊 」であり、「 霊界 」というのがあるなら、そこに行くのでしょう。

「 霊 」が「 霊魂 」であれば、「 魂 」もそこに行くでしょう。

私は、それの存在は知らないから、何も申せません。

ここでいう「 苦 」というのも、その死に至る過程での「 霊魂 」に与えられる宇宙エネルギーからの忠告と考えるべきだと思います。

宇宙エネルギーは埋もれていますから、旺盛な生命エネルギーには警告でしか思い出させることが出来ません。

職場環境の人間関係に悩んで、あるいは恋人と不調で、生きる意味が分からず自殺をする人もいるでしょう。

しかし、退職し同僚もなくなり、あるいは配偶者を亡くすとわかるかも知れませんが、人から囲まれて生活することは、「 人とは何か 」を知るには、絶好のチャンスです。

キリスト教や仏教が教える教訓を十分に生かすと、自分が生まれた意味や自分の課題を発見できるでしょうし、「 苦 」とは「 思いどおりにいかないこと 」であれば、「 色即是空 空即是色 」の意味を知り、自分の苦境が常に存在し続けるのではなく、万物が流転するなら、その流れに自分の考えや思想を合わせる、つまり、自分は「 現象 」であることを自覚して、宇宙エネルギーに沿って考えるならば、まだ若いのですから「 希望 」を持てるはずですし、自分の身体は霊体であり、見える身体は自分勝手に処理をしたとしても、宇宙エネルギーや生命エネルギーを処理することが出来ず、「 幽霊 」となって、往くべきところにいけないと思えば、自殺も少なくなるでしょう。

「 苦 」を滅するためには、ブッダの教えで煩悩を抑制することもできる人は、それで良いし、もし知らないとしても、「 苦 」は「 人が何たるか 」を知らせる警告であると考え、「 色即是空 空即是色 」の教えの通りに「 苦 」あるいは「 絶望 」の中に、「 現象 」が持つエネルギーが「 希望 」に変わることで、「 苦 」を脱出することが出来るかもしれません。

ですから、「 自分は自然と同じく現象なのだ 」と考えることにより、来るべき自然の大災害に遭遇したとしても、「 現象 」である自分の頭の中の考えを変えて、絶望から「 生きる希望 」は持つことが出来るでしょう。

「 苦 」は「 このままじゃあ、私に気づかないようだから、五感で認識することが出来るように身体の中で私を示そう 」とする宇宙エネルギーからの警告だと思えば、これから先の人生を思えば、早く気付くチャンスであるとも思われます。

青年期には自我の確立がなければ、生きられず、その根本にある「 魂 」を認め、その「 魂 」の歪みが「 苦 」であるかも知れず、その時は、仏教での「 無我 」を考えると、その「 苦 」も消滅するかも知れません。

私は、宇宙エネルギーからの警告に気づく力は、生命エネルギーの一部ですから、煩悩を全否定することなく、誕生したときの宇宙エネルギーと生命エネルギーの結合を気づく生命エネルギーは残さなければならない(つまり、生きているうちしか、それを気づけない)ので、その意味で「 霊 」を認めます。

私の個人的な考えは、ブッダが「 無我 」というのは、そんなふうに考える方が「 苦 」から逃れられるよという優しさであり、若いころは「 アートマン」を認め、宇宙の真理と合一する「 梵天一如 」の気概を持って、出来るところまでは自我を進め、息詰まったらブッダの教えに従って人間は「 無我 」だと考えた方が楽ではないかと思います。


言い遅れましたが、宇宙エネルギーを総称して表わす言葉を「 神 」とし、生命エネルギーを表す総称を「 仏 」とするのは、「 神仏習合と私 」や「 誕生から死後までの意識 」で展開しているものと同一であることは、言うまでもありません。

こんなことを言う老人に耳を傾ける若者はいないと思いますが………。

2018年12月16日 (日)

69歳になって考えること 「 現象 」たる我々の生き方

私は、「 誕生から死後までの意識(増補版)」の結論として、次のように考えました。

 <引用>………………………………………

昔の私は「 空 」というのがわからずに、大乗仏教の龍樹が一番嫌いでした。

初版で、エネルギーを「 神 」とし、空間を「 神の身体 」だとしました。

これは、仏教で、法身と報身と応身を考えた結果です。

よく見ますと、日本語で「 身体 」は「 空だ 」と同じ「 karada 」という「 よみ 」をしますし、「 空 」は「 からっぽ 」という意味だと思いますが、どうしても想像することが出来ず、「 物質 」と等価で結ばれる「 エネルギー 」ではないのかと思い、モノはエネルギーでエネルギーはモノだとしますと、モノに台風や蜃気楼なども含めると、現象といわれる形が不明なものもモノになり、エネルギーが裏に隠れていると考えました。

それで、仏教とは全く違いますが、「 空 」は「 エネルギー 」としたのです。

当然、人間もみな「 現象 」であるということになります。

こういう考えは、私だけかなと思いましたが、ある僧侶が「 空 」は「 いのち 」そのものとか、「 時間も空間も、じつは意識が概念へ移行する過程で生み出しているもの」 で「 波動といものは、おそらく耳だけではなく、もっと幅広く「 いのち 」に直接訴える力をもっている」などと書いておられるのを見ました。

私が考える、人体のエネルギーは「 いのち 」そのものだということになると思います。

 

こんな状態で、第一章を見ていますと、人体は平等に素粒子によって構成され、その人がアメリカ人ならそのDNAで素粒子を結合させ、日本人なら先祖代々のDNAで同じ素粒子を構成し、すべての人類は同じで、クオークやヒッグス粒子で地球の人類ものすべてがつながり、宇宙空間の星々にも、ヒッグス粒子で数珠繋がりになっているのかもしれない。

そして、万物の素粒子が流動し、万物が、「 色即是空 空即是色 」の関係であることになる。

つまり、神(エネルギー)の前では、人種や宗教いかんに関わらず、みな平等なのだと思う。

  <引用>………………………………………

さて、私は、69歳の年金生活者ではありますが、生きている人間です。

宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーは、何かのご縁で、母親の中で霊魂に結集されて私をお作りになり、この子が生きて行けるように、頭脳をはじめ人間として備えるべき臓器をお作りになり、ソフトウェアとして本能を仕込まれたと思います。

誕生した私は、本能を早速動員して、呼吸して頭脳を働かせたでしょう。

お釈迦は、貪・瞋・癡(とん・しん・ち)という三毒(煩悩を毒に例えたもの)を滅して悟るようにいわれます。

三毒の中の生活は、本能の一部であったソフトウェアを極限にまで肥大化させ、本能のおもむくまま生きることだと思います。

私は、これは、本来、脳の中のにあって、生きるために自己中心に情報を収集、貯蔵して大脳を中心にして、動物になることを目指す態度だと思います。

これも、本能に一部で、神(エネルぎー)から頂いたものであり、その探求に徹することも、神(エネルギー)を追求することで、悪いことではないと思います。

ですが、「死中生あり、生中生あり」や初版で申しましたように、それらは、生命エネルギーが終焉を迎えると、それらは滅するものであり、その後、後世に続くものは、煩悩から抜け出た宇宙(自然)エネルギーですので、それを、生前に発見して「 人間らしく 」生きなさい 」ということを、お釈迦さまがおっしゃっているのだと思います。

生前に、お釈迦さまの意見を達成した状態が、ジャイナ教でいう涅槃(ニルヴァーナ)で、

「生をも望まず、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地であると思います。

………………………………………<引用、終わり>



そして、「 色即是空 空即是色 」を考えますと、私の目の前に展開する現実は、「 現象 」であり、自然は観察している私に構わずに、どんどん宇宙(自然)エネルギーを移行させ、観察している私から見れば、いったん「 因果 」がわかって「 縁起縁滅 」するんだと申しましても、その瞬間から自然は次の「 因果 」を繰り返して、留まることはありません。

私は、絶えず「 因果 」を繰り広げる「 現象 」を見まして、「 諸行無常 」の念に襲われ、「 万物は流転し、この世は無常だ 」と落胆するでしょう。

ですが、この私の身体も「 現象 」で、「 私自身 」が「 現象 」であることを自覚して、頭脳の内容(考え方)も目の前の事物の展開に合わせて、変えていかなければ、自然の流れに取り残されます。

自分が「 現象 」なら、いつまでも「 無常だ 」と嘆いてばかりいないで、芽生えてくる未来へのエネルギーに注目しなければなりません。

それが、「 色即是空 空即是色 」は「 明るい絶望だ 」といわれるのかも知りません。

これから、私の住む東海地方は、近年、あるいは近日中に起こる「 南海トラフ 」でも「 大規模地震 」に備えなくてはなりません。

「 原爆Tシャツ 」事件で、人の不幸を喜ぶ韓国人が、地震で起きる被害が今か今かを待ち構えている人がたくさんいることが分かりました。

彼らが「 あざわらった 」東日本大震災の被害者は、DNA鑑定でわかったように、ユダヤの血を受け継ぐ優秀な人たちです。

だから、彼らは、災害時に、同じ日本人も驚くような行動を示したのだと思います。

今度の、「 南海トラフ 」地震の被害者は、さほど優秀でなく、取り乱すこともあるかと思いますが、先ほど述べたように、「 明るい絶望 」を持たれて、これから起こる災害に対処されんことを願っています。

69歳になって考えること 私の解釈 「色即是空 空即是色」

私は、これまで、西洋の「 万物は流転する 」と東洋の「 色即是空 空即是色 」の共通項を考えていました。

「 誕生から死後までの意識 」に書いていますように、アインシュタイン氏のことを考えていました。

彼の E=MC² という数式を見たとき、私は、宇宙エネルギーと生命エネルギーで考えますと、 人間が認識可能な物質は、素粒子を結合させた宇宙エネルギーと人間が物体と認識するのを可能にする生命エネルギーの重なりであり、前者の連続したエネルギーの移行が、後者では物質から物質への「 因果 」とか「 縁起縁滅 」と捉えます。

前段で、色(物質)が「 仮のもの 」であり、その本質は空(なにもない)とするのは、物質が宇宙エネルギーと生命エネルギーの重なりであることを示すのであり、それは E=MC² ということを示していて、色(物質)を突き詰めると生命エネルギーの産物である概念しかなく、空(くう)はエネルギーじゃあないだろうか?」と考えました。

ですから、空(くう)を、仏教の考えとは違って、宇宙と生命のエネルギーと解釈することにより、上記のような捉え方になり、西洋も東洋も同じことを考えているのだという結論になりました。

後段は、エネルギーである空(くう)は、色(物質)を通してしか認識することは出来ないことになります。

これは、まったく私の考えですが、アリストテレスが運動と時間を考えたときの、運動を宇宙エネルギーとして「 時間 」を生命エネルギーと考えると、アリストテレスも西洋や東洋の問題と同じことを考えていて、ハイデッガーが、生命エネルギーである時間で宇宙エネルギーである「 存在 」を説明できなかったのは妥当だと考えています。

このように、物質はエネルギーであると考えたのは E=MC² がヒントになったことを書きました。

何も知らない老人ですから、間違っていたら、ごめんなさい。

2018年12月13日 (木)

69歳になって考えること 貧乏老人の楽園作り

これは、私だけの特殊な楽園作りでして、病身ながら余生を楽しもうとする老人の試みとしてご覧ください。

私は、69歳で、天気の具合で足が痺れたりする「 第5腰椎分離症 」を患い、死ぬまでこの病気と「 お付き合い 」をしながら、上りもしない年金額通知を見て、恨めしそうな女房をチラ見しながら、余生をどう楽しみながら生きようかと、試行錯誤の生活をしています。

幸いなのは、ずうっと前に書きましたように、他人から時間順守を迫られることもなく、自分のバイオリズムと申しましょうか、生活リズムに合わせて、寝たり食べたりすることが出来ることでしょうか。

まず、この自分の生活リズムを把握することが、大変でした。

女房や子供、それにご近所の目もありますから、「 このひと変だわ 」と思われないうちに、リズムを発見しなければいけなかったのです。

それを掴んだら、身体をそれに合わせるだけでした。

「自分は、農業が好き」とか「自然が好き」とか、いろんな趣味を発見すれば、田舎に暮らして畑いじりをするなり、趣味の同好会などに参加することもできましょう。

無趣味の私の場合は、宮勤めでは出来なかった「 自分探し 」と死んでも後悔しない自分の思想を確立させることでした。

その目的を果たすべく、退職前からブログを書いていましたが、退職してからの有り余った時間と病気と貧乏を前に、暗い未来しかイメージすることは出来ませんでしたが、「 窮鼠、猫を噛む 」と申しましょうか、「 ここは、チエで乗り越えなくては 」と思い、生活を見直し、幸いにも、狭いながらも自由に自分だけに使える部屋がありましたので、ここを「 楽園にしょう 」と思いました。

退職後、すぐに断捨離をしたため、利用できる物体は少なかったのですが、私は、一国一城の主らしく、この部屋に「 山城 」を作り、眼下にPCとステレオを配置し、山城の天守閣から、リモートコントロールしようと考え、すべて手元から装置を作動可能であるように、配線をしました。

「 山城 」はベッドを使うのは好きでなかったので、土台は、日常はあまり使わない折り畳み式のテーブルや、大きな空き箱に使わなくなったビデオテープを詰め込んで固くしたものなど、ハードな物体を使いました。

上に乗せるものは日本式の布団や座布団やマットレスですが、自分が寝る所は、出来るだけ自分が楽しめるオリジナル製品が良いと思い、100円ショップで小さめに作ってあるクッションを購入し、それらを指定の敷き袋に入れるのではなく、四枚を広い一枚のクッションに縫い合わせて何枚かを大きな座布団カバーに入れた後に、引っ越しに使う座布団入れや布団入れに詰め込んで、紐でくくり大きなクッション兼ベッドにしました。

後は、病身のため、普通に座るようでは腰椎に負担がかかると感じましたので、その「 山城 」の上で、「 寝たきり状態 」で過ごすのが快適だと感じました。

もちろん、介護保険対象の「 寝たきり 」ではありませんので、「 寝たきりゴッコ 」でして、天気がいい日は散歩もしますし、買い物や女房の料理の補助もしますが、基本は「 寝たきり 」です。

雨の日や寒い日は、「 寝たきり 」ですが、人間ですから「 飲水 」と「 排尿 」は、必ず必要です。

その対策としては、前者は、遡ること平安時代から続く「 麦茶 」を飲み、後者は、100円ショプで買った「 ガラスビン 」です。

女房は、後者が嫌がり、それも「 夫源病 」の原因の一つだと申します。

そこで、「 尿の臭いの根絶 」のため、100円ショップで台所で使う「 キッチンポり 」を購入し、びんを四重に包んでナイロン製の箱に入れ、その横に、消臭剤を二個も設置しました。

その作業をしているとき、留置所で暮らす拘引された囚人の気持ちが分かったような気がします。

しかし「 尿 」といえど、自分の体内から出た液体で、そうしながら生きる動物としての「 人間 」であることも受け入れなければなりません。

ま、これも、齢をとって介護が必要な時の「 予行演習 」だと思って、続けています。

他にも、いろいろと工夫しましたが、助かったのは、LEDの照明と各種機械のリモートコントロール、それに充電式の乾電池でした。

これらの助けがなかったら、とても、ここまでやれなかったと思います。



まさに” 文明に感謝 ”です。

2018年12月11日 (火)

69歳になって考えること 世界文化遺産・富士山

私は、以前、KDDIが提供していたホームページ作成の「 お試し 」で、「 おめでとう世界文化遺産富士山 」というタイトルで写真集を出していたが、その廃止により、私のホームページも消えました。

私は、過去、富士山から怖い山であると共に自分に美しい姿態を見せてくれた富士山に親しみを感じて、そうしたのかも知れません。

それ以来、ネットでアップされた写真を、「 ピイタレスト 」をはじめYahoo や Google の富士山の画像を見て來るうちに、人は、幾つか富士山の光景を見て、その中で自分の気持ちにフィットする光景を写真を撮るのではないか?と思うようになりました。

ですから、「 富士山 」は、各自、自分だけの「 富士山 」しか持っておらず、専門家が撮った写真で、美しいと感じることはあっても、自然の「恐れ」や「親しみ」を感じないときは、その写真を手元に置きたいとは思わないし、反対に自分が撮った富士山は、どんな下手な写真でもまわりに置きたいと思うのは、その中にその時に感動した自分の気持ちが反復して蘇るからだと思うようになりました。

あるもの、例えば「富士山」を見て、膨大な自然を凝縮した「 形 」と自分が感じ、それを手元で蘇らせたいと思うなら、写真でなくても、彫像・絵画といった美術品や、京都の寺院にある「 石庭 」を見ることでも構いません。

私は、写真以外に好きなものは、「 横山大観 」という日本画家が描いた富士山です。

一見したところ、日本画の画家ならもっと緻密な絵を残せというくらい、小学生が描いたように粗雑で、外国の人が見たら、「 富士山って何て粗末な山でしょう。こんなんで、世界遺産なのかしら?日本人って単純なのね 」と眉を顰める人も多いでしょうし、私も小学生の頃は、そう思っていました。

ですが、私のように老人になれば、やれ「 ダイヤモンド富士 」など「 逆さ富士 」などと言った写真を見なくても、「 横山大観 」の日本画の富士を見れば、もうこれでどんな写真も叶わない「 富士山 」が、そそり立っているのです。

たとえ富士山が噴火して爆発して、その姿を変えても、頭の中に現実の富士山から離脱し、消したくない感情を伴った富士山というイメージが、亡霊のように残っているのです。

今の若者は知りませんが、「 横山大観 」が描いた富士山を見れば、「 ほほえみながら 」、「 これは富士山ね 」と答えてくれる老人がいると思います。

外国の人には分からないと思うのですが、日本人の中では、もうそれだけで、写真に写らない富士山も含めて、心が伝わるもので、写真が与える効果を凌駕する日本画であると思います。

写真の話はそれくらいにして、私の考えを言います。

私は、かって、「 神仏習合と私 」という電子書籍で書きましたように、山から農耕の神様が降りてきて稲作をして、それが終わると、豊作を祝う秋の祭りと共に、神様が帰ってゆくとか、人が死ねば山に戻るという自然信仰が好きで、「 霊峰富士 」といいますように、山に神が宿っており、そのパワー(その山が持つ自然エネルギー)を身体に移すために山岳信仰があったと考えます。

また、仏教では、この世はすべて「 縁起縁滅 」で「 無我 」といいますが、人間は生きていれば、自分と他人を区別しますから、「 自我 」は必要だと思うのでうが、その「 自我 」を持つために苦しみが多くなるから、「 無我 」と考えたほうが楽ですよというブッダの優しさではないかと思います。

「 無我 」であれば、死後、他の生命体に変わることも出来ましょうし、それを嫌って悟るのがブッダの教えでしょうが、私は、とても今更、「 涅槃 」の状態にはなりませんので、他の生命体に姿を変えるでしょう。

ですから、私も死んだら富士山に宿り、馬や牛や豚や猫や犬の生命体でもよいから、再び富士山から降りて、人間界に混じり、あなた方に向かって「 お前が殺生(殺している)牛や豚は、先祖様が姿を変えたものだから、大事に食べて、生命エネルギーを増すんだよ」 と教えて、「 お前さんが、私を殺生した後、どんなふうに生きて、死んで私の所に来るのか見ているよ 」と言ってみたい気がするのです。



ひよっとして、今食べている牛肉が、そう私に言っているならどうしょう???
いただきまーす!!

2018年12月 7日 (金)

69歳になって考えること それでも神仏習合

前回は、「 日ユ同祖論 」について書きましたが、その事が、DNA判定という科学的な方法によって真実であるかも知れませんが、私は、結論として、原始の「 神道 」が一神教であっても、いままで「 やおよろずの神 」という多神教に留まり、私の「 神 」が多神教の神としました。

その理由について、少し書きたいと思います。

私は、「 誕生から死後までの意識 」においての「 神 」を、宇宙エネルギーとし、「 仏 」を生命エネルギーとして、「 神道 」の神をエネルギーとしまして、いわば「 自然信仰の神 」と考えていますので、宗教としての神道の神とは、違う意味にして基礎としましたので、科学で「 神 」が示唆されたとしても、私の思想上の「 神 」ですので、変更することはありません。

「 神 」が「 父 」や「 精霊 」や「 キリスト 」であっても、私は、人が生まれてくる所も死んだ後に戻る所も、DNAなどの生命エネルギー(煩悩も含む)と結合することにより生存させた、人知も及ばない、思考不能である宇宙エネルギーであり、生命エネルギーを結び付くことにより「 誕生 」し、生命エネルギーが滅することにより、宇宙エネルギーが解放されて、もとの宇宙に戻るものだと考えます。

地球が自転、公転し、自然は常に変化し、人間の身体を作る細胞は死亡まで絶えず新陳代謝を繰り返し、同じところに留まりません。

それらは、「 万物は流転する 」し、日本では「 諸行無常 」というのだろうと思います。
その様子を、「 時間 」や「 空間 」による「 因果 」でとらえると、「 縁起縁滅 」とか「 色即是空 空即是色 」というのだと思います。

私にとっての、その「 空(kuu)」は、人間の頭の中で何もないと考える「 無(mu)」ではなく、「 エネルギー 」であり、その強さや種類を違わせることにより、「 色 」(現象)が変化し、「 色 」(現象)を通してしか「 空(kuu)」を見ることが出来ないと考えます。

もし、「 エネルギー 」が把握できれば、ある現象がこれから、どのような現象に変化するかを観ることもできるかもしれません。

私は、科学などの法則は現象の変化を説明する「 物語 」であって、現象の裏側にある「 エネルギー 」を法則では作れないと思うのです。

例えば、植物を構成する物質を集めたとしても、それを一つの植物に作り出して「 命 」を与える「 エネルギー 」を法則が作り出すことは出来ないだろうと思います。

「 私の三位一体 」でも書きましたように、私にとって、キリストもブッダも、同じ「 応身 」であり、 私たちも、神仏(エネルギー)の前では平等であり、生きている人間は「 神(エネルギー)」にはなれませんが、「 涅槃 」に達すると、「 応身 」になり、ブッダとなれる、つまり「 即身成仏 」を目指すことも可能であると思います。

2018年12月 4日 (火)

69歳になって考えること 「 日ユ同祖論 」について

ふとしたことから、ユーチューブで、「 日ユ同祖論 」というビデオを見ました。

これから書く記事は、69歳という年齢上、ろくな調査もせず、ただユーチューブから感じて、考えることを書きますから、興味をお持ちの人は、ユーチューブを見たり、図書館で詳しく文献にあたるなりして頂きたいと思います。
私の考えも、変わるかも知れません。

以前は、イスラエルの人たちは、聖書とはあまり関わりがない東洋から、メシアが誕生することを期待するというビデオを見ましたが、遠く離れたイスラエルと日本がどんな関係なのか知らず、可笑しなことをいう人たちだなあと思って気にも留めませんでした。

しかし、私は「 神仏習合と私 」という電子書籍を出しているので、日本でいう神は古代ユダヤの神だという見出しを見て、そんなことはあるまいと思いつつ、視聴しました。

ところが、イスラエルには12支族が存在し、国技の「 相撲 」という漢字はアテ字で、それはイスラエルでも神事であり、行司がいう「 ハッケヨオイ、ノコッタ、ノコッタ 」という掛け声や京都の祇園祭りの山車の引手にいう掛け声、それに北海道の民謡のソーラン節の掛け声が、今まで習った学校の知識では解決できなかったのですが、ヘブライ語でその意味を説明することが出来たり、国歌の「 君が代 」や、小さいころ歌った謎めいた童謡の節の意味が、ヘブライ語で説明されたり、伊勢神宮の灯篭に書かれたマークが、イスラエルでも使うマークであることなどを知りました。

更に別の動画を見ると、思想面では、古代キリスト教で、西洋のヨーロッパなどに広がるカトリックから、マリア像をめぐって対立したネトリウス派が、東洋に向かったのですが、イスラエル12支族のうち王を輩出していた2つの支族が前者で、それに反対する10の支族が後者らしいと知りました。

そして、最近のDNAの検査を見た時、これは少し考えるべきだと思いました。

細胞の核を取り囲むミトコンドリアの遺伝子の検査は母系で、今までの調査では日本人のルーツはトルコ・中国・チベット・東南アジアだろうと教えられましたが、最近では、父系、(父親から息子へ伝わる)核DNAのYAP細胞を検査し、Y染色体を検査するということで、その人のルーツがわかるということで、縄文時代の遺骨の歯茎の部分から核DNAを取り出したところ、日本人にはO系統とD系統とC系統のうち、日本の周辺の国にはなく、チベットやイスラエルなどに有るD系統が日本人の30~35%有り、北海道のアイヌに90%、沖縄に55%有るという結果、日本人のルーツが朝鮮や中国やモンゴルの人であるというより、チベットあるいはイスラエル付近からも日本に渡来したと思うようになりました。

歴史的に、狩猟を主とする縄文時代から稲作中心の弥生時代に変わりましたので、母系統は稲作を伝えた中国の長江付近の呉人や韓半島から移住して来た渡来人の血が混じっているのだろうと思います。

それに、日本では「 邪馬台国 」がどこにあったのか、「 九州説 」と「 畿内説 」が分かれていますが、私は、この「 景教 」を中心とした優れた技術を持つ人たちが、邪馬台国と闘い無傷で渡来したとは考えられず、九州や山陰などに争いの跡があることから、「 倭国の大乱 」というのは、この人たちの渡来と無関係とは思えませんので、通説は「 畿内説 」ですが、畿内は「 ヤマト 」というヘブライ語の国に変わりますから、畿内以北は争いがないようですから、そこは既に「 ヤマト 」が支配済みであるとするなら、縄文人は沖縄にもいますから、そことの争があるでしょうから、「 九州説 」にしたいと思います。
このような古代ロマンが広がる以上、「 日ユ同祖論 」についても考えようかなと思いました。

二つに分かれ、東方に向かったイスラエル人は、肌の色は、白人とは違って、蒙古斑を持つ者たちで、蒙古斑を持つ、民族を頼りに東方のシルクロードを旅し、バイカル湖のあたりで「 ヤマトゥー 」(ヘブライ語・イスラエル語でヤハウェの民)と呼ぶ集落を作ったといいます。

一説では、中国の西、ウイグル、カザフスタンあたりに「 弓月 」という国があり、中国の「 秦 」の始皇帝の末裔だが、「 秦 」から逃れて百済にいたとき、その王である「 弓月君 」の帰化に伴い、その民族そっくりが日本に帰化し、渡来後は「 秦氏 」と名乗り、持っていた養蚕や機織りや和紙制作などの現在日本の伝統といわれる技術を広め、宮廷に仕え、洪水に見舞われていた京都の鴨川や桂川の治水をして、都を整備し、松尾大社や伏見稲荷など古い神社を創建したという。

他のブログでは、この「 秦氏 」が日本の神道や神社・仏閣の元を作り、伊勢神宮も作りそれらが天皇家の財産ですから、天皇の元が「 秦氏 」であり、その子孫の秦河勝は聖徳太子に仕えています。


現在皇后の美智子は、養蚕して納采の儀のときに使う布を作成することを趣味にされ、先ほど、雅子皇太子妃にそれを引き継がれましたから、秦氏と皇室が何かの関係があるかも知れないと思います。
その「 秦氏 」以前に日本に既にいたのが物部氏(=ニギハヤヒ)で、その人たちは、中国で「 景教 」という古代ユダヤ教を持ったユダヤ人であり、従って「 神道 」も古代ユダヤ教で、一神教だったといいます。

その後、百済から蘇我氏が仏教を持って渡来し、聖徳太子は蘇我氏とともに、物部氏と戦闘し、勝った後に「 十七条の憲法 」を制定し、「 和を以て貴とし 」と、神仏習合の政治をされたと私は思います。

ま、伊勢神宮は「 天照大御神 」の一本で、「 アマテラス 」も古代ユダヤの神であるとしましても、「 神仏習合と私 」に書きましたように、日本には「 やおよろず 」の神として、自然の神がいたるところに宿るという思想を捨て去ることは出来ません。

しかも、私が考える「 神 」は自然エネルギーであり、神道の神は、厳しい自然に逆らわず、それを受け入れるために考案された、人知で対応困難な自然エネルギーを耐え忍ぶ概念だと考える方が、好きなのです。

他のユーチューブを見ますと、西洋に広まったキリスト教はユダヤの色を消してゆき、純粋な一神教として、哲学や科学に応用されるようになったが、東方に広まったキリスト教の神は、「 失われた10支族 」を中心にして、各地に根付いたといいます。

日本に渡来したときは西洋のキリスト教のような一神教に教義であっても、自然崇拝からくる民衆の多神教を否定することは出来ず、多神教の中に埋まり、仏教が伝来し、教義を必要としたので「 神道 」なるものを作ったが、教義はないというのが実情だったと思います。

これは想像ですが、神道がユダヤ教であることを見抜いたのは、万葉カナから学んで、「 古事記 」を研究した「 本居宣長 」であり、その響きなどで内心では知っていたが、日本のカナが生み出すところに、「 日本の美 」を感じたのだと思います。

さすがに、「 君が代 」がヘブライ語であったり「 やまとことば 」がヘブライ語であるなどは知らなかったと思うが、カナ文字が、中国の漢字を単純に「 略 」したものでないことは知っていたかも知れません。

ユーチューブで知ったのですが、カナ文字は、中国の漢字を略するのではなく、「 やまとことば 」の発音に合わせて漢字から抽出したように感じてしまいます。

漢字を取り入れながらも、自分の文法に合うようにカナ文字を抜き出し、漢字とともに、日本の人同士のコミュニケーションに役立つように、組み合わせた文章を作ったのだと思います。

現在も、同じように英語などの外国語もカナ表示の「 やまとことば 」にしたりして、受け入れるのと同じです。

「 やまとことば 」がヘブライ語で、縄文時代から日本人のベースとして持っていたことは感謝しますが、「 景教 」はキリスト教で一神教で、キリスト教は最初の教えに戻るといいましても、そうすることは自由ですが、今のままの、堕落した多神教としての神道に留まることも自由だと思います。

ちょうど、国民主権の「 日本国憲法 」から、天皇主権の「 大日本帝国憲法 」に戻らなくてもいいように。

それと同様に、「 神道は宗教ではない 」として「 万世一系 」の「 国家神道 」により一神教的な要素を取り込みましたが、それまで多神教としての神道とすることが、仏教をはじめ他の宗教や宗派を取り込んで、柔軟性を保つと思いますから、このまま、即ち「 私の三位一体 」という記事に書きましたように、神仏習合を守りたいと思います。


ブッダは「 無我 」といって、霊魂や宇宙の構造など問題にせず、もっぱら行為を追求され、輪廻転生から逃れるための方法を説きますが、私なんかに悟ることは出来ず、輪廻転生すると思いますが霊界は信じず、霊になって「この世」に残るのもいやですから、霊魂はブッダと同様に捨てます。

本居宣長の死後、弟子と称する平田篤胤が、本居宣長とは正反対に霊魂を研究しましたが、それは「 討幕 」に利用され、「 国家神道 」が確立すれば捨てられたように、霊のことを勉強しても、自分がどの程度、発達できるのか疑問です。


2018年12月 1日 (土)

69歳になって考えること  私の「 三位一体 」

最近、「 誕生から死後までの意識(増補版)」で、誤字を見つけまして、あの本を修正することが出来ませんので、ここで「 補正 」と同時に、私の考えを提示したいと思います。

 

 実は「 法身・報身・応身 」と書くべきところを、「 法身・報見・応見 」と書いてしまったために、私の考えが何のことやら分からないと思うのです。

 

 「 法身・報身・応身 」とは、仏教の言葉でして、Wikipedia の「 大乗仏教における、仏の種類の身のあり方で、仏身観の一種である、三身説 」でして、詳しくは、Wikipedia をご参照ください。

 

 私の場合は、その仏教でいう三身説ではなく、私の考えでして異端ではありますが、「 身 」を仏の身体と捉え、「 神 」はエネルギーとしますから、神の身体の「 法身 」は「 全宇宙の空間 」であり、「 報身 」とは「 神 」をイメージする頭脳の産物ですから、その「 身体 」は「 人間がありとあらゆる方法で神の身体を考える空間 」とし、人間がイメージしたものですから、その「 神 」は「 仏 」であり、「 応身 」は「 神(エネルギー)が人間の姿に変化したものの身体 」と考え、それら三つの「 身体 」は共通して「 空間 」を持ち、その空間を「 神 」(エネルギー)が往来するという考えですが、仏教にいう「 三身即一にまします、いと尊き如来よ 」というとき、三身即一であるブッダが理想の人間であることは、変わりありません。

 

その「 ブッダ 」は悟った人であり、それは、あなたにもブッダになる契機はあるという事です。

 

 「 神 」、すなわち宇宙エネルギーは「 法身 」という空間を通じて、「 仏 」すなわち生命エネルギー(例えば、血液が持つDNA)と結合して、意識を持った人体すなわち「 霊 」という三次元と頭脳が認識する空間を持つ「 応身 」になり、宇宙エネルギーは生命エネルギーに姿を変えるため、「 神に従って生きる 」ことは、人間の頭脳で考える「 報身 」と「 応身 」を生命エネルギーで動かし、運営するものであると思います。

 

理想は「 三身即一にまします、いと尊き 」ブッダですから、人間は自分の中に埋もれている宇宙エネルギーである「 神 」すなわち「 真理 」を獲得しょうとします。

 

 ですから、「 修行 」するのでして、自分が「 霊界 」で生まれ変わって更に上のステージに登るための「 修行 」なんかじゃないと思います。

 

 しかし、人間は「 時間と空間 」という意識を持ってしか、認識することは出来ず、認識する対象(現象)が、次から次へと変化します(万物は流転する)から、「 神 」を姿のない「 空(kuu)」とみなし、宇宙の万物が「 身体(karada)」として共通して持つ「 空間(kuukann)」を通して「 神 」が移動するので、「 万物は流転するのだ 」と考え、それが東洋の仏教では、「 色即是空 空即是色 」とブッダがいう言葉であると考えます。

 

「 空(kuu) 」は頭脳で作る「 無(mu)」ではなく、「 真空(sinkuu)」と呼びますように、何もない宇宙空間にも「 神の数式 」でありますように、対消滅しなかったクオークやヒッグス粒子が存在しますように、「 有 」であり、宇宙空間は隙間なく素粒子で埋め尽くされているのであり、「くりこし理論」で示されるように「 無限大 」は物体の質量に含まれることになれば、なぜ含まれるのか数式で解決できるのなら、理論全体が「 神の数式 」ではないとも思われます。

 

私は、その「 空(kuu)」をエネルギー、つまり「 神 」が何も認識できないものとして、存在するものと考えます。

 

 認識の世界は、「 縁起・縁滅 」と申しますから、アインシュタイン氏がいう万物(素粒子も含めて)は、「 神の数式 」で示したように「 波 」・「 超弦 」であり、それを結束するのが「 仏 」である生命エネルギー(DNA)から見た「 縁 」という「 条件 」のもとでの原因と結果であり、個人の思想から国家の国民感情を形成し、見る物の全てが主観的で、一致する客観とは、約束事に過ぎないと考えます。

 

 その生命エネルギーは、本能などの動物の習性や煩悩という自己中心の欲望も宇宙エネルギーに混じっていますから、「 真理 」の追究には、それらを捨てることはもちろん、頭脳の産物である「 無 」や「 無限 」、それ以上に「 時間 」や「 空間 」という意識や概念さえ捨てなければ、到底、「 色即是空 空式是色 」の真理の獲得には至らないでしょう。

ですから、生存中に「 真理 」の発見は困難であり、しかも、宇宙のどこかにエネルギーの変動があれば、宇宙エネルギーは「波動」として日々刻々変化が伝わり、それらがすべてを振動させ、宇宙を変えるものだと考えます。

「 生死一如 」と申しまして、生きることは死んでゆくことでありますから、「 死中生あり 生中生なし 」の態度が、真理追求には必要でしょう。

死に向かって生きるのですから「 どのように生きるか 」は「 どのように死ぬか 」であり 現象としての私を、どのような終わりを迎えさせるかの準備でしょう。

ですから、停止した「 真理 」などは存在せず、移り変わる現象を同じ現象である自分が、その「 真理 」の内容を更新し、哲学してゆかねばなりません。

一つの出来事にこだわり続けると、教条主義といって「 真理 」の足元にも、遠く及ばない所に留まっていることに過ぎないと思います。

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