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2018年5月

2018年5月29日 (火)

国家公務員に対する安倍首相の訓示について

「皆さんは評論家ではない」安倍晋三首相の訓示全文 国家公務員合同初任研修

https://www.sankei.com/politics/news/180404/plt1804040016-n6.html

 

 

首相が言うように、国家公務員の仕事は、国の骨格を作る仕事です。仕事の結果は国民全てに影響が及びます。

 

ですから、安倍首相官邸の公務員と政治家がこれまで為した一連の行為は、国家公務員だけでなく、日本の公務員全体の信用を失墜させる行為であると、これまで、ブログで書いてきました。



そのための、「 働き方改革 」として、「 公務員は如何にあるべきや、政治家は如何にあるべきや 」という課題に対する「 改革 」こそ、率先して第一に内閣が為すべきでしょう。

 


わたしが、ブログで「 国家公務員上級試験の合格者は認知症? 」や「 公務員は公務員、政治家は政治家 」で書きましたが、有名国立大学出身の上級国家公務員が弱い記憶力しか持っていない、でなければ、公務員でありながら「高度の政治判断でウソをついている 」ことと、安倍首相は、お友達のため、自分への「 忖度 」を強要し、首相官邸は政治家とそれを「 忖度 」する上級国家公務員が多く、社会問題になった事件について首相は責任を負わず部下の失敗とし、文句があるなら、いつ、どこで自分が彼らの話をしたかの証明を求める人であることが、ネットを調べますと正しいことを確信しました。


(下記のURLをご覧ください)

 

首相が訓示するなら、安倍首相(自分)は、お友達のため、自分への「 忖度 」を強要し、首相官邸は政治家とそれを「 忖度 」する上級国家公務員が多く、社会問題になった事件について首相は責任を負わず部下の失敗とし、文句があるなら、いつ、どこで自分が彼らの話をしたかの証明を求める人であることを、事前に調べて、政治家特に首相に、国家公務員は、政治家に忖度(そんたく)しなさい、そうすれば、次に「 おいしい 」仕事に就けますよと、訓示するのが、これまでの行動から導き出した安倍首相の「 お言葉 」であると思います。


安倍氏は、行政のトップであるにも関わらず、日本国憲法第十五条に触れないのは、公務員は全体の奉仕者でなくてもよいと言っているようなもので、「 忖度 」を強要する民間の政治家であることは確かである。





 

(記、参考URL

 

1、日刊スポーツ

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201805100000376.html

 

元首相秘書官の江田氏、柳瀬氏は「常識外れ」

[20185101230]

 

 

 

2、加計学園を巡る文書

 

https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_politics20180522j-06-w680

 

愛媛県の反応


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180529-00000002-asahi-pol



3、しんぶん「赤旗」日本共産党

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-04-13/2018041304_04_1.html

 

 

塩川氏は、同学部新設は「首相案件」だという発言は、文部科学省の内部文書にある「総理のご意向」との藤原豊内閣府国家戦略特区担当審議官(当時)の発言とも「非常に符合する」と強調。

 

4、産経ニュース

https://www.sankei.com/life/news/170705/lif1707050010-n1.html

藤原豊審議官が経産省復帰、「総理の意向」文書で国会答弁

2018年5月21日 (月)

自分で考える 4 将棋は格闘技 第三章 将棋と格闘技

第三章、将棋と格闘技

 

さて、第二章の格闘技と将棋とはどんな関係でしょうか?

 

棋士は将棋の駒を使って対局します。

 

車でのドライビングレースのようなものですが、車である駒は一定の動きしか出来ず、しかも相手も同じ条件ですので、「 ゴーカート 」のレースの様だけど、走行する方向が真逆で衝突するゲームだと思っています。

 

競うのはドライビンググテクニックですが、走行する方向は真逆で同一の場で衝突するのですが、どのようなルートを使って衝突し相手を倒す(将棋では王を詰ます)ルートは対戦する個人の自由で、相手の駒を獲得すれば、それを同じ動き(働き)で使うことができるというルールです。

 

対局次第で持ち時間が決められていて、駒も同じ動きをして、それを交互に動かすのですが、同一の場所で同一の動きをした駒を使って、長時間、考えることが出来る。

 

これが、「 格闘技 」でしょうか?

 

私は「 格闘技 」と共通するところを感じますので、やはり「 格闘技 」だと思います。


以下、その理由です。

 

 

  

何を感じるかについては、1、で述べたように、相手の「 気 」(エネルギー)を感じることになります。

 

将棋の対局相手は人間ですから、2-3、で述べたように「 価値観 」を持っています。

 

対局相手は自分の王将を詰ませるのが目的ですから、人生の「 生死 」というより「勝つための戦略や戦術の良し悪し」に伴う「 強気 」や「 弱気 」など、相手の指し手から感じられると思います。

 

第一章で述べた「 雰囲気 」のようなもので、相手の「 気持ち 」が無意識となって、その人の身体から漏れ出るのです。

 

 

駒そのものの力は自分の駒と同じですが、駒の動きや構えの変化は、ちょうど自然エネルギーが形を変えるように、相手のエネルギーを感じられるでしょうし、対局の棋譜は自然事象と同じく「 逆戻り 」はしません。

 

感じるためには、自分の技量を高める、いいかえると、自分の運動可能性を高めておく必要があると思います。

 

それは、武術と同じで、自分の技量が高ければ、構えを見ただけで、自分の技量を上回っているか否かとか、勝負の結果がわかるでしょう。

 

その結果、剣道で「 間合い 」と言うように、技量に合わせて間を空けたり、間を詰めたりするのではないでしょうか?

 

気を感じたら、その裏に潜む戦術や戦略を知り時間と空間を伴って現れる「 次の手 」を想像することが出来るでしょう。

 

 

1、 の自分の可能性という能力については、日頃の、コンピューターや仲間を相手にした対局で、自分が対局相手にどんな戦略や戦術が有効かを、現実に将棋の駒や将棋盤の上で試すことが必要でしょう。

 

もっとも、頭脳の中に将棋盤や駒があるそうですから、想像で足りるのかも知れません。

 

これは、武術でいう稽古と同じだろうと思いますが、武術が人体の動きを研究(因果関係を追求)するなら、将棋は駒を状況に応じてどのように使うかを研究(因果関係を追求)するでしょうし、それは、車でいう速度を体感することであり、それによって自分に何が足りずに負けたのかという自分の可能性を(能力を)反省し、新たなる可能性へと自分を高める契機になると思います。

 

ブルースリーが、彼の指を見ずに、それが指し示すものを見よというのは、彼の技は、彼が持つエネルギーの発露であり、2-1、で書きました「 彼の運動可能性という能力 」(乗り物なら或る車の性能)の発露であり、稽古する者の運動可能性という能力ではないのですから、彼の動きをすることは不可能なのです。

 

指し示すものが、相手を倒す戦術であるならば、稽古する者自身が彼の指し示す戦術で戦えるように、自分の可能性を高めることが肝要であり、それが「 栄光をつかむ 」ことになる、つまり相手を倒すことが出来ると教えたものだと考えます。

 

 

  

 

2、 の価値観ですが、プロ棋士になることは、将棋に勝つことにより賞金を獲得し、妻子を養うことを決意することですから、プロ棋士は全て、同じ方向の価値観を持っていると思います。

 

同じ「 極 」を持っていると思いますが、宇宙の惑星が「 極 」を持っているとしても、その「 極 」から発生する重力や磁場が違うように、棋士の一人一人が同じ強さの価値観を生じる「 極 」を持っているかどうかは不明です。

 

生死という「 極 」は同じでしょうが、出生の環境や生まれた時代の文化水準とか師匠から受けた教育の度合いにより、その「 極 」の強さも違い、それから生じる価値観も違うのだろうと思います。

 

 

武道に「 自然体 」というのがありますが、自然は「 極 」を持たず、つまり価値観がなく、「 気というエネルギー 」が形から形へと変わるのですから、それに応じるために「 価値観を使わない状態 」が「 自然体 」ではないでしょうか。

 

 

自然は無敵です。

 

敵や味方は人間の「 極 」が作るのであり、自然は敵も味方も、人類として包摂してしまうから無敵ではないでしょうか。

 

同じく、「 自然体 」も、価値観に縛られず、相手の「 極 」を把握しやすくして相手の動きに臨機応変に反応するから、隙がないのだと思います。

 

また、相手が攻撃する手順やルートにより、受ける衝撃も違いますから、相手の攻撃パターンに対応い易いことも利点かもしれません。

 

藤井聡太七段(2016年9月3日にプロ四段デビューし2018518日に七段になった)が「 平常心 」や「 最善手を打つ 」という態度で対局に臨むのは、ある意味で無敵だと思います(彼は、将棋には必ず「 最善手 」があるから好きだと言います)。

 

相手の「 極 」を読むことは、価値観を読むことであり、相手の戦術を読むことになり、攻撃に対して備える自分の形もそれに対応したものでなければ、相手の攻撃の衝撃による被害は違うだろうと思います。

 

 

それは、自分の価値観を一旦は使わず、勝ちとか負けるとかいう「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見ることが、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

 

将棋盤上の駒組、つまり形を見て、その駒組が将来襲ってくる、目には見えない「 気(エネルギー)」を感じ取り、それが「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるだろうところの形を見る、つまり「 先を読む 」いいかえれば、駒の必然の動きを知ることは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することと同じだと思います。

 

 

いわば、「 直感 」することです。

 

事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーの変化は、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、「 最善手 」と「 必然を掴むこと 」は、エネルギーの違いはあれど、両者は同じことをしていると私は考えます。

 

その能力があれば、必然の流れの全体が見えていることですから、現時点の駒組の形の急所や、相手の王将が詰むあるいは詰まないかを瞬時に見抜ける能力となって現れるでしょう。

 

対局終了後、感想戦でこれまでの軌跡を振り返って将来に生かすのですが、その場で、その能力がある人は、詳しく「 読み 」を披露するでしょう。

 

「 気(エネルギー) 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

 

 

 AIとの闘い

 

上記のような能力を持つ人が指した手に対して、発明に驚く人のように、対局相手は感想戦で、従来の手順にはない、まったくの偶然の一手(偶然の接続)で負けたと思うでしょう。

 

ところが、指した本人は「 最善手 」を指しただけで、相手にとって、それが偶然の一手と感じるのは、相手が「 最善手 」、つまり「 事象が持つ必然の流れ 」を知らないからだと思います

 

社会は、AIをはじめ客観的データーの積み重ねによる必然の一手はあるでしょうが、「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」だと思いますが、AIにはこれが無く、AIが導く必然の一手は客観データーから導かれた最善手であって、その場の相手の対応によって自分が最善手を指すための「 勝負手 」が打てません。

 

「 勝負手 」というのは、自分が敗戦濃厚なとき、対局相手を惑わせるような「 手 」を指し、相手の対応次第では自分に勝ち目が回ってくるときの指し方だと思います。

 

勝負の行方を、相手に委ねるのです。

 

いわば、駆け引きにより自分の勝利へ導く「 格闘術 」であり、藤井聡太七段が、十五歳にして「 勝負師 」といわれるのは、この格闘術が優れているのかも知れません。

 

AIは、相手に勝負の行方を委ねるなど、恐ろしいことは出来ず、常に自分が相手をリードしようとすると思います。

 

「 感動 」を表現する短歌や詩の言葉は感動を伝え終わるとその使命を果たした抜け殻となり、消えてゆくように、「 客観データー 」も、込められた「 工夫 」や「 智慧 」が他人の無意識の能力になれば、消えていくべきなのです。(つまり忘れられる)

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 書を捨てよ、自分で考えよう 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻である「 客観データー 」を自分の手で処分しなければならないと前述しましたが、AIは「 客観データー 」である棋譜を捨てるどころか、「 工夫 」や「 智慧 」を欠いた抜け殻同士を戦い合わせて(人間を信用せず)、「 勝負手 」の無い、正当な戦略を考えるでしょうが、AIは「 生死 」など「 極 」を無視した最善手を考えますから、死の状態から生の状態への発想の転換、あるいは「 発明 」ともいうべき「 工夫 」はなく、それは棋士に任せられることになります。

 

個人的、主観的な「 工夫 」や「 智慧 」が、一般的、客観的「 知識 」として、AIの中に蓄えられて、過去のデーターから「 偶然の接続 」になるのであって、先が見えたときの、人間がした「 偶然の接続 」とはルートが違い、AIは、人間とは真逆の方法であると思います。

 

先が見えないAIに未来を託すのは、上記のことを知らず、未来を背負って立つ子供を教育することもしない、人間不信の無能な連中がすることだと思います。

 

今後、AIが一番強いことになるかも知れませんが、人間にはAIが出来ない「 工夫 」する能力を持っていますから、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないと思います。

 

このとき、私の中で、この「 工夫 」や「 智慧 」は、何だろうという疑問が起こりました。

 

それらは、論理が途絶え、もがいて生存可能な運動余地を探すとき(例えば、もう少しで自分の王将が詰まされる、結果負けるとき)に生じることが多いから、それらは、論理が及ばない領域で、論理と論理をつなぐ空間ではないのか?と考えました。

 

電子書籍にも書きましたように、人間は空間意識で、空間(例えば、私の身体の範囲)を作るのであり、人間は種々の契機で自然の空間を閉じているのであって、本来は、身体の中も宇宙空間であり、空間意識が消えれば、自分と他の自然事象と区別することは出来ないから、論理と論理をつなぐ空間は、脳内の右脳の中にあると思いますが、空間意識は何処までも広がりますから、右脳の中だと断定することは出来ないと思います。

 

前述しましたように「 最善手 」は生命エネルギーの現れであり、「 必然 」は自然エネルギーの変化の流れで、「 最善手 」は「 必然 」に対応する生命エネルギーの現れですから、「 工夫 」や「 智慧 」も空間意識ではなく、どちらかのエネルギーの一部であるかも知れません。

 

 

僧侶の空海は、波風により船が難破しようとしたとき、自分を捨てて風になれ、波になれと叫ぶシーンが「 空海 」という映画の中にありました。

 

これは、自分が追い詰められたら、自分という身体意識を捨てて、自然と一体になることを示すものであり、自然の力で「 生きる 」のです。

 

論理が行き詰まったら、空間意識の「 運動可能性 」(行為してみて可能だった、不可能だった)の力を借りて、別ルートの論理を選び、成功した場合は「 思いもしなかった一手 」で「 生きる 」つまり勝つことが出来るでしょう。

 

この場合の空間意識の運動可能性が、「 工夫 」や「 智慧 」であると考えると、これらは、論理で解消できない空間意識の中にあるから、左脳の論理ではなく、右脳の直感や感覚によってでしか獲得できないものだとわかるでしょう。

 

獲得された「 工夫 」や「 智慧 」という運動可能性は、運んできた言葉を抜け殻として左脳に残し、右脳を通って、無意識の可能性という能力として、海馬に蓄えられ、外界の気(=エネルギー)に応じて、臨機応変に対処することになり、勝利に導くだろうとことは、将棋にも武道にも共通すると思います。

 

何故なら、無意識である能力となった可能性は空間意識ですから、「自分の体 」という空間意識を超えて、外部に漏れ出し、自分と事象との「 隙 」を埋めるまで広がり、事象の動きと同時に攻撃することも自分の可能性の中に包摂するからです。

 

言い換えると、自分の運動可能性が、自然事象の生起する空間まで広がるからです。

 

 

 

 

 

「 時間 」ですが、対局によっては長時間の「 持ち時間 」があり、長考する棋士もいます。

 

持ち時間が短い早指し戦ならば格闘技に似ていますが、持ち時間が長時間であるケースが「 格闘技 」と言えるか?ですが、私が電子書籍で書いた時間は「 物語 」を論理的に構成するために脳が作りだしたものとしますので、長考する人は、時間をかけて「 最善手 」を見出そうとする人でしょう。

 

しかし、事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーの中では、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、それは同じと私は考えますが、長時間を費やせば可能かどうかは不明です。

 

人類が誕生して長時間は過ぎましたが、必ずしも「 必然 」を認識したと限らないように、人生経験が長くても、持ち時間が長時間でも、必然を知って勝つとは限りません。

 

指す手の良し悪しや負ける心配などの「 意識を生む 」時間は、一挙に全体を把握することについては邪魔者であり、先を見る(事象の必然の流れを知る)ことが出来る人は一瞬で頭の中に全体像が浮かぶでしょうし、理解できない人は、長時間かけても出来ないでしょう。

 

前述しましたように、その領域は、左脳の論理の中ではなく、右脳の空間意識であるからだと思います。

 

AIは「 時間 」ではなく「 処理速度 」ですから、人間より早い処理速度で「 最善手 」を発見するように作られているため、その能力に長けたAIが人間を凌駕しているのは当然だと思います。

 

しかし、その基本データーは、先人たちが築き上げた「 工夫 」や「 智慧 」の上に立つ「 最善手 」としてまだ論理の領域にあるため現在にも通用すると思いますが、将来、先人の空間意識(運動可能な余地)を上回る人間が出現すれば、その人が指す駒の動きは、AIには無い、自在のドライビィングテクニックとして現れ、AIを凌駕することもあるかも知れません。

 

何事も「 色即是空、空即是色 」で、「 万物は流転する」のです。

 

データーを積分してAIが認識する頃に、エネルギーは既に変化していて、エネルギーの化身である人間も「 工夫 」や「 智慧 」が変化しており、AIが負けることが可能になるかも知れません。

 

ですから、「 考えるな、感じろ 」といいますが、それは「 極 」を持つ対人関係は、そう言えるかもしれませんが、「 極 」を持たないAIを相手にするとき、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないし、工夫しなければAIに永遠に勝てないことになるのではないか?

 

常に考えて「 工夫 」しながら格闘術を磨かなくてはならないから、「 将棋は頭脳の格闘技 」と言われるのではないかと、素人の私は思っています。

 

 

以上が、「 将棋は頭脳の格闘技だ 」とする理由です。

2018年5月20日 (日)

自分で考える 3 将棋は格闘技 第二章 格闘技について

第二章、格闘技につて

    (考えるな、感じろ……という言葉を中心にして)

 

格闘技と言って思いついたのは、カンフーのブルースリーのことでした。

彼は「 考えるな、感じろ 」と言いましたが、そのあとの事は、武道家にしかわからない心情であると思いました。

ネットで調べましても、「 考えるな、感じろ 」につて、私を納得させる詳しい説明を見出すことができませんでした。

「 考えるな、肌で感じろ 」と言う人もいますから、多分、修行して空間感覚を鋭くしなさいという事だろうと思いますが、肌で何を感じて、その後、どうするのでしょうか?

武道家ではない私は、彼の言葉をつぎのように考えました。

 

 

1、「 考えるな、感じろ 」というのは何を感じるのだろう?

 

ネット情報では、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」という意味らしいですが、私は次のように考えます。

考えるには時間が必要で、時間は「 間(ma)」ですから、「 隙が出来る 」のは分かります。

しかし彼は、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」と言って、時間を必要としない「直感」を強調します。

 

 

では、「 直感的に 」とは、何を直感するのでしよう?

「 何かと考える前に、何かを感じろ 」というのでしょうが、「 何か 」とは何でしょう?

 

「 感じる」という漢字は「 感動 」や「 感情 」という言葉にも使い、「 感動 」は一瞬だけのエネルギーを俳句や短歌や詩などの「 物語(脳内の回路)」にしたり絵画にしたりして保存し、後日、脳の働きで蘇らせて他人に伝えますから、五感で感じたエネルギーを体内に取り入れたものを「 気 」と私は考えますから、彼は、感動などの「 気(実際はエネルギー) 」を感じろと言っているように思いました。

 

第一章で書きましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)と生命エネルギーがあり、前者を「 感じる 」ことについては後述しますが、彼は、格闘技ですから、後者を「 感じろ 」といっているものだと思います。

 

「 それは月を指差すようなもの。指に集中していては栄光はつかめないよ 」とは、指差した「 月 」が現実の「 月 」ではなく、「 格闘術 」であり、「 指 」は彼の身体の動きであると考えると、身体の動きを考えるのではなく、見えない「 格闘術 」を「 感じろ 」あるいは身体を動かすエネルギー(気(ki))を「 感じろ 」というのだろうと思いました。

 

 

2、「 感じて 」その後、どうするのでしょうか?

 

2-1、格闘術に対する自分の運動可能性はどの程度か?

 

私は、「 意識は電磁波の構造を持つ 」というとき、それから得られた「 運動可能であるという能力 」は、外部に行為として現実化しなければ、認識することが出来ないだろうと思います。

ちょうど、自分の顔が鏡に写さないとわからないように。

S(距離)V(速度)×T(時間)ということを、小学校で学んだと思いますが、これら全部が、結果が出ないとわからない(乗車中、車の速度はメーターを見て知るが、速度というエネルギーは不明であるし、時間も時計を持っていない場合は不明)し、走行中では、その全部が意識であり、それらは目的地に到達した後でしか判明しないと考えました。

 

車の走行中はV(速度)がわからないのでS(距離)V(速度)×T(時間)という数式に当て嵌めて、V(速度)を計算します。

車の走行中は、車内の「 スピードメーター」で現在の車の速度が分かり、持っている時計で時間が分かるでしょうが、人生を走行中の人間は、走っている自分の速度(可能性という能力)は分かりません。

車の走行可能な速度は「 性能 」といい「 車の能力 」でしょう。

 

人間について考えますと、多分、仏教の考えだと思いますが、ネットで検索すると、「 身体は借り物、魂の乗り物 」という言葉がヒットします。

 

身体はまさしく走行中の乗り物だと思われ、その乗り物のV(速度)は「 車の性能 」であり、「 能力 」ですから、「 運動可能な性能・能力 」が速度Vであると思います。

 

2-2、格闘術の獲得に対する自分の運動可能性の習熟度を認識し、臨機応変に反応する。

 

私は、人生の途中である「 走行中 」の数式をS(空間意識)=V(自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギー)×T(時間意識)と私は置き換えます。

S(空間意識)は右脳の働き、T(時間意識)は左脳の働きと、それぞれに計算した結果、V(運動可能性という能力)が意識されます。

 

過去に五十メートルの高さを何分で走ることが出来るか行為した結果、自分の運動能力が自覚され、それを分速や秒速として、過去のデータで現在の自分の能力を測る指針とするのだと思います。

 

V(自分の運動可能なエネルギー・能力)S(右脳の働きによる空間意識・到達すべき目的までの広がり)÷T(左脳の働きによる時間意識・目的達成のために求められる一般的なエネルギーの消費の度合い・あるいはリズム)

 

 私は、「 空間 」を「 運動可能な余地 」としましたから(誕生から死後までの意識、第一章、6、)、この数式を、「 自分の運動可能な余地(S)を、何分(T)で、あるいはどの様なリズムで、埋める力(エネルギー)が自分にあるのか? 」という意味に解釈します。

 

「考えるな、感じろ 」というのは、「 考えが発生する前に行動しろ 」ということで、武道家の彼がそういうのは、時間がなくても反撃可能であるように自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処せよというように、私は解釈しました。

 

私の考えでは、「 気 」の発生に伴って右脳と左脳が働いて時間や空間などの認識が発生すると考えますから、「 考える 」、つまり、脳内で認識する前に「 気 」を感じて行動しろという意味だろうと思います。

 

VS÷Tにおいて、Tが限りなく小さければ、V(空間意識・目的達成地)=S(自分の能力が及ぶ所)で、到達すべき自分の運動可能な余地(S)を完全に埋めることが出来るように、自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処しなさいというように解釈しました。

 

「気(=エネルギー)」を知るなら、そのエネルギーは「 時間 」と「 空間 」という認識する形式を伴って、現れるから、事前に、「 気(=エネルギー)」を知っておけば、エネルギーが形として現れる「 時間 」も「 空間 」も予測可能だと思います。

 

この「 気(エネルギー)」を捉えるためには、捉える機能が人体に必要だと考えますと、私は、生命エネルギーにより動く脳が作り出す「 意識は電磁波の構造をする 」と考えなければ、外界の「気(エネルギー)」に同調し、それを感じることは出来ないだろうと思います。

 

2-3、人間は誰でも価値観を持つ

 

しかし、まだやっかいな問題があると思います。

それは、「 心は磁場である 」からです。

 

その意味は、生命エネルギーである「 気 」は、無意識で本能とともに「 流れるもの 」で、それはDNAにより、人それぞれに「 極 」を作り、ちょうど地球が地磁気で囲まれているように、その「 極 」から発生する磁場の全体が「 心 」であると考えるからです。

 

人間には誰もがある「 極 」とは「 生と死 」であり、それを取り囲むように、その中に物事を判断する「 価値観 」が生まれ、「 死なないように 」善悪や好き嫌いを作り、生命体を維持するものだと考えます。

 

このように、人間は必ず「 極 」を作り、人それぞれに「 価値観 」を持ち、生命体を維持するものだと考えます。

 

ゲームや格闘技では、勝ちたい、負けたらどうしょう、と言う思いがその「 極 」になるでしょう。

 

しかし、これは、生命エネルギーに限ったことで、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」や「 勝敗 」という「 極 」は無く、人間の生命エネルギーが作る「 極 」に都合がよいものは「 良いエネルギー 」で都合が悪いものは「 悪いエネルギー 」として、自然エネルギーが区別されて摂取されるだろうということです。

例えば「 太陽光 」は「 良いエネルギー 」でしょうし、「 台風 」は「 悪いエネルギー 」でしょう。

 

この、自然エネルギーである「 気 」を取り入れることは後述することにして、格闘技は対立する人関係の中で起こり、生命エネルギーによる「 極 」を持つもの同士の関係であり、「 極 」つまり「 生死 」から生まれる価値判断を持つ人が、ある状況で死に面した時、生きようと動く気持ちが無意識に行動に出て、生きようともがくところに「 隙 」が出来て、相手に付け込まれ、敗北するのだろうと思います。

 

私は、このように、「 気持ち 」は無意識を含み、自分の行動を惹起させるだけでなく、それを見た相手にも、自分の次の行動が察知されるのだと思います。

 

時代劇が華やかだった昭和の頃、仇討ちに当たり、まったく剣に自身がない婦人が仇討ちを遂げる方法を剣術の先生に聞いたところ、自分も倒れる「 相打ち 」する覚悟で、相手の剣の動きに合わせて剣を突き出しなさいと教える場面がありました。

 

「 生死 」という価値観を捨てて戦う者は、相手には不気味な存在に見えて、剣を持つ手に狂いが生じるでしょう。

 

剣に自信がない者にとって、その時が、「 仇討ち 」するチャンスなのでしょう。

 

戦時中、神風特別攻撃隊も、相手にとっては「 生と死 」の価値観を持たない自然物のように思われ、嫌がったのでしょう。

 

こうして、行動に潜む「 気持ち 」を知ることは相手の「 気(エネルギー)」を知って次の行動を予測することも可能かも知れず、それを予測することが出来たら、臨機応変に、「 直ちに 」反撃することも可能だろうと思います。

 

これは、江戸時代に、沢庵和尚が柳生但馬に伝授したという「 石火に機(せっかのき)」と同じ意味であると武道家ではない私は考えています。

 

2-4、「 空気を読め 」という態度との違い

 

ところで、このように、臨機応変に行動することが「 考えるな、感じろ 」で、求められると思いますが、職場内で臨機応変の行為を求める「 空気を読むこと 」は同じでしょうか?

 

「 空気を読む人 」は、その社会の組織の中で、組織の価値観を認識し、上手に「 泳ぐ 」ことができる人。

組織内の人間関係に順応できる人で、会社などの営業目的の達成のために「 空気を読むこと 」は、「 臨機応変 」に行動することだと思いますが、「 読む 」範囲は、自分に密接に関係し、協力し合う人間関係でしょう。

 

現代の日本で流行している「 忖度(そんたく)」も同じ種類のものであると考えています。

 

しかしながら、組織のすべての人は、DNAの違いで、すべての人が、それぞれの違ったV(速度・可能性の能力)を持つと思いますが、その違いを認めない、あるいはその放棄を要求するのが「 空気を読め 」という態度だろうと思います。

 

格闘技では「 考えるな、感じろ 」といわれ、同じく臨機応変の行為を求めますが、「 空気を読め 」とは言わないだろうと思います。

 

実際、ジャッキーチェンが、あの映画のシーンで「 空気を読め 」といったら、どんな意味になるのでしょう。

 

その感覚の違いが、「 違い 」なのです。

 

なぜなら、格闘技は対立し合う対人関係で、「 考えるな、感じろ 」という理由は生命の存否に関わるからであり、個人の可能性を無視するのではなく、その個人本人の可能性が無限に進展することを求めるからであり、その放棄を求めるものではないからです。

 

「 空気を読め 」とは個性を無視しますから組織の人間関係の円滑化には役立つでしょうが、後述する、自然エネルギーに対して臨機応変を求める場合、その言葉は行為の指針には全く役に立たないだろうと思います。

 

2-5、宇宙(自然)エネルギーに対して「 考えるな、感じろ 」の態度で臨む

 

 

前述しましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」という「 極 」は無く、人間にとって、「生死」という生命エネルギーの「 極 」に都合の良いときだけ「 良いエネルギー 」として、自然エネルギーが摂取され、都合が悪いときは「 悪いエネルギー 」として排除されるだろうということです。

その態度は、仲間を選別するときも、同じでしょう。

人間は「 気 」が形を表現したものですから。

 

 

宇宙(自然)エネルギーは、形を変えることはあっても、消滅しない。

 

それとの闘争は、「 誕生から死後までの意識 第三章、記憶・認識から行動まで 」の1,2,3を参照して下さい。

 

人間は、時間や空間などの概念を持つ言葉で、自然エネルギーの発生や消滅の因果関係の物語を作りますが、それは「 色即是空、空即是色 」というように、自然事象を言葉で実体として捉えられないと知るでしょう。

 

それなら、捉えられない「 気(エネルギー)」を「 感じる 」ことにより、時空間に表出するものを、先取りすることを考えるでしょう。

 

「 考える 」のは、今までのデーターによる蓋然性の確率であり、これから現れることの、時空を使っての予測ですが、エネルギーの変化そのものを捉えたのではありません。

 

 

 

捉えなくてはならないのは、「 感じる 」ことにより得られる「 気(エネルギー) 」の変化そのものであり、私情や価値判断のない、生命エネルギーにとっての良し悪しとか見えるとか見えないとか大小など、「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見た場合、「 気(エネルギー) 」を捉えたと言えるでしょう。

それが「 直感 」であると思います。

 

その状態が、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

目には見えない「 気(エネルギー)」を把握した後は、それが「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるのは必然であるだろうと思います。

 

だから、「 先を読む 」とは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することでしょう。

 

発明は間違いから生まれるように、従来の手順にはない、まったくの偶然の接続から生まれるケースが多いと思います。

 

この世が夢の世界で、まったく脈絡のない「 物語 」ならばあり得るかもしれませんが、AIをはじめ客観的データーによって判断する世界では、人間のための発明は大変困難であると思います。

 

「 必要は発明の母 」と言いますように、必要とは人間にとってであり、人間にとって不便なことを解消するのが発明であるとしたら、人間でないあるいは人間の心情や「 気持ち 」が理解できないAIが発明をするとは、何を発明するのでしょうか?

 

人間全体に都合の悪いものも、AIを操る人に都合がよいなら、「 発明 」になってしまうでしょう。

 

その意味で、AIは従来の「 発明 」が出来ないのです。

 

「 発明 」を生む「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」という自分の可能性なのだろうと思います。

 

 

「 感動 」が伝わるのに「 言葉 」は必要でなく、『言葉に出来ない事象こそ、それが「 無常 」のなかで「 常なるもの 」であり、必然性であり、宇宙の真理は不明だということが、生命エネルギーの中で「 真理であり常なるもの 」である』と思います。

 

 

言葉で表現した短歌や詩は、感動を伝え終わるとその使命を果たし、そこには当時の意味しか無い抜け殻となって消えてゆくでしょう。

 

意識から無意識、派生したものから流れるものに形を変えたのだと思います。

 

そのようにして得たのが能力であり、「 気 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 考えるな、自分で考えろ 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻は自分の手で処分しなければなりません。

なぜなら、その抜け殻が一人歩きをして、本来とは違う価値観を産んで、自分を苦しめることになるかも知れないのです。

 

自然エネルギーを自分の「 極 」に従って変えることが「 工夫 」で、自然界にも人間界にも通用するのではないかと思います。

 

自然界では、自分に対立するものを同じ方向にするのが「 発明 」でしょうし、都合の良いものを悪い方向にするのは「 反省 」でしょう。

 

人間界で、自分の「 極 」と同じ方向で、協力する関係では「 規律 」でしょうし、その反対に自分の「 極 」の方向と逆の対立関係では、「 格闘術 」として現れるでしょう。

 

目的とする格闘術が、自分の中で無意識の可能性という能力になった時、月(目標)を指していた師匠の指の姿は消えるでしょう。

 

AIの目には、指している師匠の指だけが見えるかも知れません。

 

 

 

 

 

2018年5月19日 (土)

自分で考える 2 将棋は格闘技 第一章

第一章 「 気 」についての説明

 

1、 これは、「 誕生から死後までの意識 」の実践編ですので、私が使います「 気 」について説明したいと思います。

詳しくは、電子書籍をご覧ください。

 

ここで言う「 気 」の内容はエネルギーで、それを五感で受け止め、自分の身体に感じたのが感情であり、それを言い表したのが「 気 」であると考えます。


外界の「 宇宙エネルギー 」を、体内の「 生命エネルギー 」に取り込み意識や無意識の力となった時、それを「 気 」と呼ぶと考えます。


例えば「 熱気(netsuki)」とか「 寒気(kanki)」などは分かりやすいと思いますが、「 空気(kuuki)」といっても、それは肺が感じた時にそう言うだろうし、「 天気(tenki)がいい 」とか言うのも、視覚や触覚で感じた意識または無意識の力であると思います。


感覚により人体の外部から、「 気(自然エネルギー)」を取り入れるためには、頭脳は電磁波の構造を持つ必要があるというのが、私の主張です。


詳しくは、電子書籍をご覧ください。

 

2、それに付けくわえる事

 

人間は、感覚器官により捉えた感情を「 気持ち 」といい、気持ちがよいとか気持ちいいとか申しますが、この「 気持ち 」は、流れるものである生命エネルギーの無意識の「 気 」であり、知らず知らずのうちに、人体の外部に漏れ出していて、それを他人が察知できると考えます。


流れ出したものは「 心 」となって、人から人へ、時代を超えて伝わるものだと考えます。


また、「人のいるようす」を人気(hitoke)といいますが、人を取り囲む雰囲気が他人に伝わることで、人の存在から流れ出るからこそ、雰囲気が存在するのだと思います。

 

 

2018年5月18日 (金)

自分で考える 1、将棋は頭の格闘技(はじめに)

将棋は頭の格闘技か?

 

私は、将棋の駒の動かし方は知っているつもりですが、戦略や戦術を知らないこともありまして、将棋を指しますと負けてしまう場合が多いのです。


ある日、地元の東海出身で、十四歳の中学生プロ棋士としてデビューして、二年も経たないうちに、現在、十五歳の六段になった藤井聡太氏の将棋をPCで観て以来、もっぱら「 観る将 」になってしまい今に至っています。


そんな私が、今こんな記事を書くのは、将棋界のことを知るうちに、将棋の対戦が終わった後3キログラム痩せるくらい、「 将棋は頭の格闘技だ 」と知るようになり、それがどのような場合に、格闘技というのだろうか?と興味を持ったからです。

 

これは、まったくの素人の解釈ですので、創作話あるいは机上の空論として閲覧して頂きますようお願いします。

2018年5月17日 (木)

公務員が、首相の指示なく、高度な政治判断をしていること

 

私のブログ記事が、Yahoo でもGoogle でもヒットしないことは、私のFace Book に書きましたが、多分、私の記事がニュース発信者の「 著作権 」を犯しているためだと思います。


これからは、ニュースのURLだけを記載しておきますので、詳しくはそれを参照して下さい。



結論は、わたしがブログで心配していた通りに、「 国家公務員上級試験の合格者は認知症? 」や「 公務員は公務員、政治家は政治家 」で書きましたように、有名国立大学出身の上級国家公務員が弱い記憶力しか持っていない、でなければ、公務員でありながら「高度の政治判断でウソをついている 」ことと、安倍首相は、お友達のため、自分への「 忖度 」を強要し、首相官邸は政治家とそれを「 忖度 」する上級国家公務員が多く、社会問題になった事件について首相は責任を負わず部下の失敗とし、文句があるなら、いつ、どこで自分が彼らの話をしたかの証明を求める人であることが、ネットを調べますと正しいことを確信しました。

 


以下は、その知った手順を書きますから、興味がある人はお調べください。



まず、柳瀬氏の国会での発言は、日刊スポーツのもありますように、「 柳瀬氏は、常識外れ 」であることです。



柳瀬氏の発言によれば、内閣法20条で、首相秘書官は総理の命を受けて補助するという役割があるのも関わらず、総理の指示もなく、加計学園関係者と3回会ったと認めながら、首相に1度も報告していなく、「個別の案件で総理に報告することはない」のが、首相秘書官の仕事らしいのです。



………………………(参考記事)…………………………………………………


日刊スポーツ

https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201805100000376.html

 

元首相秘書官の江田氏、柳瀬氏は「常識外れ」

[20185101230]

………………………………………………………………………… 

 

 

 

それにたいする安倍首相は、柳瀬氏と加計側の面会を知ったのは今年の大型連休中で、今井尚哉首相秘書官からの報告だと訴え、一連の問題で官僚による忖度(そんたく)が疑われていることについて「私として『なかった』と言い切ることはできない」と否定せず、「忖度をされる側には分かりにくい面がある。忖度があったのではないかとの批判は、真摯(しんし)に受け止めたい」と述べたという記事があります。

 

………………………(参考記事)…………………………………………………


YAHOO ニュース、日刊スポーツ

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180515-00208975-nksports-soci

 

安倍首相「途中で説明受けない」柳瀬氏主張を擁護

5/15() 9:33配信

 

………………………………………………………………………

 

これをどのように、解釈するのでしょうか?



自分は、加計氏を紹介しただけで、自分が言わなくても、自分が知らないうちに、官邸の公務員が、勝手に「 忖度 」して、「お友達 」に有利に事を運んでしまうのを容認していると思ってよいでしょうか?



これには、次の指摘があります。

 

共産党議員である、塩川氏は、同学部新設は「首相案件」だという発言は、文部科学省の内部文書にある「総理のご意向」との藤原豊内閣府国家戦略特区担当審議官(当時)の発言とも「非常に符合する」と強調する。

 

………………………(参考記事)…………………………………………………


しんぶん「赤旗」日本共産党


https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-04-13/2018041304_04_1.html

 

………………………………………………………………………

………………………(参考記事)…………………………………………………

産経ニュース

https://www.sankei.com/life/news/170705/lif1707050010-n1.html


藤原豊審議官が経産省復帰、「総理の意向」文書で国会答弁

………………………………………………………………………

 

柳瀬氏は、現在、経済産業審議官で、藤原豊氏は、経済産業省大臣官房付の職を務めておられます。

 

このように、有名国立大学出身の上級国家公務員が弱い記憶力しか持っていない、でなければ、公務員でありながら「高度の政治判断でウソをついている 」人が、今もなお、経済産業省という重要国家機関で、「 幹部 」として、公務についておられます。

 

日本の国家公務員は、こんなにも自由に忖度し、キャリアなら幹部にもなれるところであると知って、こんな輩が「日本国を背負って行くのか!!」と思うと、わたしだけだと思いますが、背筋がゾッとします。

 

下級の国家公務員や地方公務員が真面目であることは、私がそうでしたから、よくわかります。



国民の皆さん、公務員は「 こんな、ずるがしこい奴 」だけではありませんよ。



心配しないでね。

2018年5月12日 (土)

「働き方改革」は、首相官邸から

 

「 国家公務員上級試験の合格者は認知症? 」や「 公務員は公務員、政治家は政治家 」で書きましたことと重複するかもしれませんが、有名国立大学出身の上級国家公務員が弱い記憶力しか持っていない、でなければ、公務員でありながら「高度の政治判断でウソをついている 」ことから始めます。

 

ヤフーニュースとして次の記事がありました。

………………………(以下引用)…………………………………………………

<加計問題>柳瀬氏答弁広がる矛盾 愛媛知事、証拠示し反論

5/12() 0:59配信 

 

 学校法人「加計学園」の獣医学部新設を巡り、柳瀬唯夫元首相秘書官(現経済産業審議官)が国会の参考人招致で、2015年4月2日の愛媛県職員らとの首相官邸での面会について答弁した内容に対し、同県の中村時広知事は11日、定例記者会見で柳瀬氏の名刺を示すなどして反論。「県職員の信頼にかかわる」と批判し、面会の人数、現獣医学部長の同席の有無など重要な点についても矛盾が広がった。

 

 柳瀬氏は10日にあった衆参両院の予算委員会の参考人質疑で、学園関係者との面会を認める一方、県や今治市の職員については「随行者の中にいたかもしれない」などと答弁した。また、「(面会相手は)10人近くのずいぶん大勢」とした上で、話していたのはほとんどが吉川泰弘・元東大教授(現・岡山理科大獣医学部長)や加計学園の事務局職員で、「保存している名刺の中に、県や市の職員の人の名刺はなかった」とも話した。

 

 これに対し、中村知事は会見で「県職員は子供の使いではない」と反発。県、市、加計学園関係者の計6人が全員メインテーブルにつき、真ん中には県職員がいたと説明した。吉川氏については「2日(の面会の際)はいなかった」と断言した。

 

 更に県職員が当時の記憶を基に、柳瀬氏に説明した内容をまとめた文書も公表。「(柳瀬氏と)会った会わないという単純な話をなぜ引きずらないといけないのか」と述べ、一連の問題に終止符を打つため、職員からの申し出で名刺を公開したことを明らかにした。

 

 一方、県職員が作成した文書に「首相案件」と書かれていたことについて、柳瀬氏が「(私は)普段から首相という言葉は使わないので違和感がある」と述べたことに反論。「地方では総理ってあまり言わない」と述べ、「総理」という言葉を聞いた職員が「首相」とメモした可能性に言及した。

 

 今治市も11日、柳瀬氏との面会の際、獣医学部新設に関する取り組みなどを説明したと明らかにした。【花澤葵】

 

………………………(引用を終わる)…………………………………………………

 

柳瀬唯夫元首相秘書官は公務員なのか?と疑問を持って調べますと、「 東京大学法学部 」出身で、通産省に採用された「 経済官僚 」ですから、国家公務員上級試験を合格した国家公務員であることになります。


上記の国会の参考人招致のニュースはテレビでチラリと見ましたが全部を見たのではありませんから、いつもの「 忖度をしたんだな 」としか思わなかったのですが、内容を見てみますと「 これが公務員か! 」と驚くほど、「 高度な政治判断 」が入っているようで、彼の陳述は「 公務員全体を貶める言葉 」のように思われ、地方公務員の退職者の私は、退役後に名誉を傷つけられた退役軍人のような気持ちになりました。


アメリカや大韓民国の退役軍人ならわかってもらえると思います。

 

私の出身校は「 マルクス経済学 」しか教えてもらえず、近代経済学は図書館に通い、国税専門官の一次試験はパスしましたが、二次の面接試験の際、合格をしたいばっかりに自衛隊合憲論を展開しました。


面接官に「こいつは勉強していない」とか「正義感に欠ける」と判断されたのか不合格になりました。


地方大学出身でありながら上級国家公務員であった親戚に「国税庁に入れば人格が変わるから、落ちたほうが良かったかも知れない」と慰められましたが、地方公務員試験に合格した私は、憲法どおりに「 全体の奉仕者 」として、誰彼と区別することなく一律に事務を済ませることに努めました。


退職後、ネットで調べますと、国税専門官の自殺が多いことが分かります。


彼らは、正義と不正のはざまで苦しみ、自らの命を絶ったのでしょう。


そんな下部の公務員に比べ、上部の公務員は、如何に腐っているのか、怒りを覚えます。

 

「 国家公務員上級試験の合格者は認知症 」で書きましたように、財務省理財課で国家の資産を安価で払い下げた重要書類を紛失したり書き換えをしたりして「 一部の者に奉仕する 」国税庁長官や、上記の柳瀬唯夫元首相秘書官(現経済産業審議官)が認知症の老人のように過去最近の事実の記憶がなかったり、名刺をもらったことも忘れる言葉がテレビで中継されるにつき、「 この人達のおかげで、日本全体の公務員に対しての信用を失うのではないか?」という怒りでこの記事になりました。



この事件で、首相官邸は政治家とそれを「 忖度 」する上級国家公務員が多く、社会問題になった事件について首相は責任を負わず部下の失敗とすることを、国民はテレビを通して知ったと思います。


総理大臣は国家公務員上級試験を合格したのではなく、日本国民の代表の国会議員が選んだ民間人でありますから、公務員一般が受ける教育は受けず、その心情も知らないのは当然であるのかも知れませんが、彼らを選んだ国民の心情や期待も知らないと思います。


なぜなら、原発問題でもお分かりのように、国会議員を選んだ国民の「 民意 」、あるいは「 心情 」を無視し、平和憲法の中に「 通説は違憲 」の自衛隊を明記するように、憲法改正を目論む人ですから。


改正後、自衛隊が戦場に赴くことになるかも知れません。


そんな自衛隊員のために、憲法を改正するのかも知れません。


彼が言うのは「 信用 」が出来ないからです。


戦力を持たない憲法の規定と戦闘能力を持つ自衛隊を併記するのが「 矛盾 」であると知らないのは、私が国税庁の面接試験で論じたことと同じですから、面接官に「 忖度 」がなければ、公務員は不合格になる筈です。


そのうえ、憲法が定める公務員として「 全体の奉仕者でなければならない 」ことを教えて貰ってないのですから、その人が行政機関の総理官邸で、民間では許される「 お友達にため 」に便宜を図ることは、公務では許されないことも知らないのでしょう。


だから、柳瀬唯夫元首相秘書官(現経済産業審議官)のように秘書官の次の職を用意して、獣をエサで釣られ、反抗しない公務員を傍に、はべらせたいのでしょう。



柳瀬唯夫さん、杉原千畝(すぎはら ちうね)はどうしました?


同じ国家公務員ですよ。


彼が、当時の軍部の指令に背き、自分の命の危険を顧みず、多くのユダヤ難民を救ったのは、自分と同じ人間が苦しんでいると思ったからでしょう。


人の心がわかれば、あなたが、今までに言ったすべての言葉が、国民の心を裏切っていると感じるでしょう。


正直に、「 安倍さんの友達の加計さんのためにウソをついていました 」と言いなさい。


もしも、公務員としての良心が在れば……ですけどね。


東京大学法学部の出身者には、あまり、期待しませんが。

 

 

つけたしになってしまいますが、「 働き方 」を改革したいのなら、まず、このような「 忖度 」が上手な公務員を、首相官邸にはべらせないことです。


彼らは、頭脳は一級品であっても、公務員として「 腐っていて不潔 」もしくは「 良心や正義感がない 」あるいは「 宦官と同類 」だからです。


首相官邸を改革しなければ、日本国の公務員全体が信用を失い、上級国家公務員はますます「 腐り 」ます。



首相を変えることも一つの方法です。


今までで分かったように、安倍首相は、お友達のため安価の国有財産を払い下げ、地方公共団体に迷惑をかけ、自分への「 忖度 」を強要する人です。


国防が心配なら、同じ自民党の中で、二階氏を除き、有力者がいると拝見します。


アメリカが反共の砦にした「 岸 」を先祖に持つ安倍氏をアメリカはお好みのようですが、「 人民による、人民のための政治 」を期待できない以上、アメリカに逆らっても安倍氏を切るのが、国民の政治集団ではないでしょうか?



権力で国民を変えようとしても効果は期待できません。



ブログでも書いてきましたように、「 変わるのは自分から 」であって、妻の妊娠中に不倫する政治家や、選挙民を騙して他人の旦那を寝取り相手を離婚させる元検事の政治家や妻子がありながらハワイで結婚式を挙げる政治家などに、政治家として為すべき「 働き方 」を教育すること、つまり、「 政治家として襟を正す 」ことを教育し、政治資金の領収書を改ざんをしないこと、政治活動費は政治をするために使うこと、など、ずるい小学生のような政治家に丁寧に教えることが「 働き方改革 」の出発点にならなくてはならない。

 


でないと、口先だけで態度を変えない政治家を見て、しかも民意を無視される国民は、政策に付いて来ませんよ!

 

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