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2018年5月21日 (月)

自分で考える 4 将棋は格闘技 第三章 将棋と格闘技

第三章、将棋と格闘技

 

さて、第二章の格闘技と将棋とはどんな関係でしょうか?

 

棋士は将棋の駒を使って対局します。

 

車でのドライビングレースのようなものですが、車である駒は一定の動きしか出来ず、しかも相手も同じ条件ですので、「 ゴーカート 」のレースの様だけど、走行する方向が真逆で衝突するゲームだと思っています。

 

競うのはドライビンググテクニックですが、走行する方向は真逆で同一の場で衝突するのですが、どのようなルートを使って衝突し相手を倒す(将棋では王を詰ます)ルートは対戦する個人の自由で、相手の駒を獲得すれば、それを同じ動き(働き)で使うことができるというルールです。

 

対局次第で持ち時間が決められていて、駒も同じ動きをして、それを交互に動かすのですが、同一の場所で同一の動きをした駒を使って、長時間、考えることが出来る。

 

これが、「 格闘技 」でしょうか?

 

私は「 格闘技 」と共通するところを感じますので、やはり「 格闘技 」だと思います。


以下、その理由です。

 

 

  

何を感じるかについては、1、で述べたように、相手の「 気 」(エネルギー)を感じることになります。

 

将棋の対局相手は人間ですから、2-3、で述べたように「 価値観 」を持っています。

 

対局相手は自分の王将を詰ませるのが目的ですから、人生の「 生死 」というより「勝つための戦略や戦術の良し悪し」に伴う「 強気 」や「 弱気 」など、相手の指し手から感じられると思います。

 

第一章で述べた「 雰囲気 」のようなもので、相手の「 気持ち 」が無意識となって、その人の身体から漏れ出るのです。

 

 

駒そのものの力は自分の駒と同じですが、駒の動きや構えの変化は、ちょうど自然エネルギーが形を変えるように、相手のエネルギーを感じられるでしょうし、対局の棋譜は自然事象と同じく「 逆戻り 」はしません。

 

感じるためには、自分の技量を高める、いいかえると、自分の運動可能性を高めておく必要があると思います。

 

それは、武術と同じで、自分の技量が高ければ、構えを見ただけで、自分の技量を上回っているか否かとか、勝負の結果がわかるでしょう。

 

その結果、剣道で「 間合い 」と言うように、技量に合わせて間を空けたり、間を詰めたりするのではないでしょうか?

 

気を感じたら、その裏に潜む戦術や戦略を知り時間と空間を伴って現れる「 次の手 」を想像することが出来るでしょう。

 

 

1、 の自分の可能性という能力については、日頃の、コンピューターや仲間を相手にした対局で、自分が対局相手にどんな戦略や戦術が有効かを、現実に将棋の駒や将棋盤の上で試すことが必要でしょう。

 

もっとも、頭脳の中に将棋盤や駒があるそうですから、想像で足りるのかも知れません。

 

これは、武術でいう稽古と同じだろうと思いますが、武術が人体の動きを研究(因果関係を追求)するなら、将棋は駒を状況に応じてどのように使うかを研究(因果関係を追求)するでしょうし、それは、車でいう速度を体感することであり、それによって自分に何が足りずに負けたのかという自分の可能性を(能力を)反省し、新たなる可能性へと自分を高める契機になると思います。

 

ブルースリーが、彼の指を見ずに、それが指し示すものを見よというのは、彼の技は、彼が持つエネルギーの発露であり、2-1、で書きました「 彼の運動可能性という能力 」(乗り物なら或る車の性能)の発露であり、稽古する者の運動可能性という能力ではないのですから、彼の動きをすることは不可能なのです。

 

指し示すものが、相手を倒す戦術であるならば、稽古する者自身が彼の指し示す戦術で戦えるように、自分の可能性を高めることが肝要であり、それが「 栄光をつかむ 」ことになる、つまり相手を倒すことが出来ると教えたものだと考えます。

 

 

  

 

2、 の価値観ですが、プロ棋士になることは、将棋に勝つことにより賞金を獲得し、妻子を養うことを決意することですから、プロ棋士は全て、同じ方向の価値観を持っていると思います。

 

同じ「 極 」を持っていると思いますが、宇宙の惑星が「 極 」を持っているとしても、その「 極 」から発生する重力や磁場が違うように、棋士の一人一人が同じ強さの価値観を生じる「 極 」を持っているかどうかは不明です。

 

生死という「 極 」は同じでしょうが、出生の環境や生まれた時代の文化水準とか師匠から受けた教育の度合いにより、その「 極 」の強さも違い、それから生じる価値観も違うのだろうと思います。

 

 

武道に「 自然体 」というのがありますが、自然は「 極 」を持たず、つまり価値観がなく、「 気というエネルギー 」が形から形へと変わるのですから、それに応じるために「 価値観を使わない状態 」が「 自然体 」ではないでしょうか。

 

 

自然は無敵です。

 

敵や味方は人間の「 極 」が作るのであり、自然は敵も味方も、人類として包摂してしまうから無敵ではないでしょうか。

 

同じく、「 自然体 」も、価値観に縛られず、相手の「 極 」を把握しやすくして相手の動きに臨機応変に反応するから、隙がないのだと思います。

 

また、相手が攻撃する手順やルートにより、受ける衝撃も違いますから、相手の攻撃パターンに対応い易いことも利点かもしれません。

 

藤井聡太七段(2016年9月3日にプロ四段デビューし2018518日に七段になった)が「 平常心 」や「 最善手を打つ 」という態度で対局に臨むのは、ある意味で無敵だと思います(彼は、将棋には必ず「 最善手 」があるから好きだと言います)。

 

相手の「 極 」を読むことは、価値観を読むことであり、相手の戦術を読むことになり、攻撃に対して備える自分の形もそれに対応したものでなければ、相手の攻撃の衝撃による被害は違うだろうと思います。

 

 

それは、自分の価値観を一旦は使わず、勝ちとか負けるとかいう「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見ることが、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

 

将棋盤上の駒組、つまり形を見て、その駒組が将来襲ってくる、目には見えない「 気(エネルギー)」を感じ取り、それが「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるだろうところの形を見る、つまり「 先を読む 」いいかえれば、駒の必然の動きを知ることは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することと同じだと思います。

 

 

いわば、「 直感 」することです。

 

事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーの変化は、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、「 最善手 」と「 必然を掴むこと 」は、エネルギーの違いはあれど、両者は同じことをしていると私は考えます。

 

その能力があれば、必然の流れの全体が見えていることですから、現時点の駒組の形の急所や、相手の王将が詰むあるいは詰まないかを瞬時に見抜ける能力となって現れるでしょう。

 

対局終了後、感想戦でこれまでの軌跡を振り返って将来に生かすのですが、その場で、その能力がある人は、詳しく「 読み 」を披露するでしょう。

 

「 気(エネルギー) 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

 

 

 AIとの闘い

 

上記のような能力を持つ人が指した手に対して、発明に驚く人のように、対局相手は感想戦で、従来の手順にはない、まったくの偶然の一手(偶然の接続)で負けたと思うでしょう。

 

ところが、指した本人は「 最善手 」を指しただけで、相手にとって、それが偶然の一手と感じるのは、相手が「 最善手 」、つまり「 事象が持つ必然の流れ 」を知らないからだと思います

 

社会は、AIをはじめ客観的データーの積み重ねによる必然の一手はあるでしょうが、「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」だと思いますが、AIにはこれが無く、AIが導く必然の一手は客観データーから導かれた最善手であって、その場の相手の対応によって自分が最善手を指すための「 勝負手 」が打てません。

 

「 勝負手 」というのは、自分が敗戦濃厚なとき、対局相手を惑わせるような「 手 」を指し、相手の対応次第では自分に勝ち目が回ってくるときの指し方だと思います。

 

勝負の行方を、相手に委ねるのです。

 

いわば、駆け引きにより自分の勝利へ導く「 格闘術 」であり、藤井聡太七段が、十五歳にして「 勝負師 」といわれるのは、この格闘術が優れているのかも知れません。

 

AIは、相手に勝負の行方を委ねるなど、恐ろしいことは出来ず、常に自分が相手をリードしようとすると思います。

 

「 感動 」を表現する短歌や詩の言葉は感動を伝え終わるとその使命を果たした抜け殻となり、消えてゆくように、「 客観データー 」も、込められた「 工夫 」や「 智慧 」が他人の無意識の能力になれば、消えていくべきなのです。(つまり忘れられる)

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 書を捨てよ、自分で考えよう 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻である「 客観データー 」を自分の手で処分しなければならないと前述しましたが、AIは「 客観データー 」である棋譜を捨てるどころか、「 工夫 」や「 智慧 」を欠いた抜け殻同士を戦い合わせて(人間を信用せず)、「 勝負手 」の無い、正当な戦略を考えるでしょうが、AIは「 生死 」など「 極 」を無視した最善手を考えますから、死の状態から生の状態への発想の転換、あるいは「 発明 」ともいうべき「 工夫 」はなく、それは棋士に任せられることになります。

 

個人的、主観的な「 工夫 」や「 智慧 」が、一般的、客観的「 知識 」として、AIの中に蓄えられて、過去のデーターから「 偶然の接続 」になるのであって、先が見えたときの、人間がした「 偶然の接続 」とはルートが違い、AIは、人間とは真逆の方法であると思います。

 

先が見えないAIに未来を託すのは、上記のことを知らず、未来を背負って立つ子供を教育することもしない、人間不信の無能な連中がすることだと思います。

 

今後、AIが一番強いことになるかも知れませんが、人間にはAIが出来ない「 工夫 」する能力を持っていますから、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないと思います。

 

このとき、私の中で、この「 工夫 」や「 智慧 」は、何だろうという疑問が起こりました。

 

それらは、論理が途絶え、もがいて生存可能な運動余地を探すとき(例えば、もう少しで自分の王将が詰まされる、結果負けるとき)に生じることが多いから、それらは、論理が及ばない領域で、論理と論理をつなぐ空間ではないのか?と考えました。

 

電子書籍にも書きましたように、人間は空間意識で、空間(例えば、私の身体の範囲)を作るのであり、人間は種々の契機で自然の空間を閉じているのであって、本来は、身体の中も宇宙空間であり、空間意識が消えれば、自分と他の自然事象と区別することは出来ないから、論理と論理をつなぐ空間は、脳内の右脳の中にあると思いますが、空間意識は何処までも広がりますから、右脳の中だと断定することは出来ないと思います。

 

前述しましたように「 最善手 」は生命エネルギーの現れであり、「 必然 」は自然エネルギーの変化の流れで、「 最善手 」は「 必然 」に対応する生命エネルギーの現れですから、「 工夫 」や「 智慧 」も空間意識ではなく、どちらかのエネルギーの一部であるかも知れません。

 

 

僧侶の空海は、波風により船が難破しようとしたとき、自分を捨てて風になれ、波になれと叫ぶシーンが「 空海 」という映画の中にありました。

 

これは、自分が追い詰められたら、自分という身体意識を捨てて、自然と一体になることを示すものであり、自然の力で「 生きる 」のです。

 

論理が行き詰まったら、空間意識の「 運動可能性 」(行為してみて可能だった、不可能だった)の力を借りて、別ルートの論理を選び、成功した場合は「 思いもしなかった一手 」で「 生きる 」つまり勝つことが出来るでしょう。

 

この場合の空間意識の運動可能性が、「 工夫 」や「 智慧 」であると考えると、これらは、論理で解消できない空間意識の中にあるから、左脳の論理ではなく、右脳の直感や感覚によってでしか獲得できないものだとわかるでしょう。

 

獲得された「 工夫 」や「 智慧 」という運動可能性は、運んできた言葉を抜け殻として左脳に残し、右脳を通って、無意識の可能性という能力として、海馬に蓄えられ、外界の気(=エネルギー)に応じて、臨機応変に対処することになり、勝利に導くだろうとことは、将棋にも武道にも共通すると思います。

 

何故なら、無意識である能力となった可能性は空間意識ですから、「自分の体 」という空間意識を超えて、外部に漏れ出し、自分と事象との「 隙 」を埋めるまで広がり、事象の動きと同時に攻撃することも自分の可能性の中に包摂するからです。

 

言い換えると、自分の運動可能性が、自然事象の生起する空間まで広がるからです。

 

 

 

 

 

「 時間 」ですが、対局によっては長時間の「 持ち時間 」があり、長考する棋士もいます。

 

持ち時間が短い早指し戦ならば格闘技に似ていますが、持ち時間が長時間であるケースが「 格闘技 」と言えるか?ですが、私が電子書籍で書いた時間は「 物語 」を論理的に構成するために脳が作りだしたものとしますので、長考する人は、時間をかけて「 最善手 」を見出そうとする人でしょう。

 

しかし、事象の自然エネルギーの変化である「 必然 」を掴むことは、人の生命エネルギーの中では、その場その場で「 最善手 」を打つことが対応しますから、それは同じと私は考えますが、長時間を費やせば可能かどうかは不明です。

 

人類が誕生して長時間は過ぎましたが、必ずしも「 必然 」を認識したと限らないように、人生経験が長くても、持ち時間が長時間でも、必然を知って勝つとは限りません。

 

指す手の良し悪しや負ける心配などの「 意識を生む 」時間は、一挙に全体を把握することについては邪魔者であり、先を見る(事象の必然の流れを知る)ことが出来る人は一瞬で頭の中に全体像が浮かぶでしょうし、理解できない人は、長時間かけても出来ないでしょう。

 

前述しましたように、その領域は、左脳の論理の中ではなく、右脳の空間意識であるからだと思います。

 

AIは「 時間 」ではなく「 処理速度 」ですから、人間より早い処理速度で「 最善手 」を発見するように作られているため、その能力に長けたAIが人間を凌駕しているのは当然だと思います。

 

しかし、その基本データーは、先人たちが築き上げた「 工夫 」や「 智慧 」の上に立つ「 最善手 」としてまだ論理の領域にあるため現在にも通用すると思いますが、将来、先人の空間意識(運動可能な余地)を上回る人間が出現すれば、その人が指す駒の動きは、AIには無い、自在のドライビィングテクニックとして現れ、AIを凌駕することもあるかも知れません。

 

何事も「 色即是空、空即是色 」で、「 万物は流転する」のです。

 

データーを積分してAIが認識する頃に、エネルギーは既に変化していて、エネルギーの化身である人間も「 工夫 」や「 智慧 」が変化しており、AIが負けることが可能になるかも知れません。

 

ですから、「 考えるな、感じろ 」といいますが、それは「 極 」を持つ対人関係は、そう言えるかもしれませんが、「 極 」を持たないAIを相手にするとき、プロ棋士は考えて工夫するという態度を忘れて欲しくないし、工夫しなければAIに永遠に勝てないことになるのではないか?

 

常に考えて「 工夫 」しながら格闘術を磨かなくてはならないから、「 将棋は頭脳の格闘技 」と言われるのではないかと、素人の私は思っています。

 

 

以上が、「 将棋は頭脳の格闘技だ 」とする理由です。

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