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2018年5月20日 (日)

自分で考える 3 将棋は格闘技 第二章 格闘技について

第二章、格闘技につて

    (考えるな、感じろ……という言葉を中心にして)

 

格闘技と言って思いついたのは、カンフーのブルースリーのことでした。

彼は「 考えるな、感じろ 」と言いましたが、そのあとの事は、武道家にしかわからない心情であると思いました。

ネットで調べましても、「 考えるな、感じろ 」につて、私を納得させる詳しい説明を見出すことができませんでした。

「 考えるな、肌で感じろ 」と言う人もいますから、多分、修行して空間感覚を鋭くしなさいという事だろうと思いますが、肌で何を感じて、その後、どうするのでしょうか?

武道家ではない私は、彼の言葉をつぎのように考えました。

 

 

1、「 考えるな、感じろ 」というのは何を感じるのだろう?

 

ネット情報では、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」という意味らしいですが、私は次のように考えます。

考えるには時間が必要で、時間は「 間(ma)」ですから、「 隙が出来る 」のは分かります。

しかし彼は、「 相手の動きに対して直感的に動けるようになれ、考えていれば隙が出来る 」と言って、時間を必要としない「直感」を強調します。

 

 

では、「 直感的に 」とは、何を直感するのでしよう?

「 何かと考える前に、何かを感じろ 」というのでしょうが、「 何か 」とは何でしょう?

 

「 感じる」という漢字は「 感動 」や「 感情 」という言葉にも使い、「 感動 」は一瞬だけのエネルギーを俳句や短歌や詩などの「 物語(脳内の回路)」にしたり絵画にしたりして保存し、後日、脳の働きで蘇らせて他人に伝えますから、五感で感じたエネルギーを体内に取り入れたものを「 気 」と私は考えますから、彼は、感動などの「 気(実際はエネルギー) 」を感じろと言っているように思いました。

 

第一章で書きましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)と生命エネルギーがあり、前者を「 感じる 」ことについては後述しますが、彼は、格闘技ですから、後者を「 感じろ 」といっているものだと思います。

 

「 それは月を指差すようなもの。指に集中していては栄光はつかめないよ 」とは、指差した「 月 」が現実の「 月 」ではなく、「 格闘術 」であり、「 指 」は彼の身体の動きであると考えると、身体の動きを考えるのではなく、見えない「 格闘術 」を「 感じろ 」あるいは身体を動かすエネルギー(気(ki))を「 感じろ 」というのだろうと思いました。

 

 

2、「 感じて 」その後、どうするのでしょうか?

 

2-1、格闘術に対する自分の運動可能性はどの程度か?

 

私は、「 意識は電磁波の構造を持つ 」というとき、それから得られた「 運動可能であるという能力 」は、外部に行為として現実化しなければ、認識することが出来ないだろうと思います。

ちょうど、自分の顔が鏡に写さないとわからないように。

S(距離)V(速度)×T(時間)ということを、小学校で学んだと思いますが、これら全部が、結果が出ないとわからない(乗車中、車の速度はメーターを見て知るが、速度というエネルギーは不明であるし、時間も時計を持っていない場合は不明)し、走行中では、その全部が意識であり、それらは目的地に到達した後でしか判明しないと考えました。

 

車の走行中はV(速度)がわからないのでS(距離)V(速度)×T(時間)という数式に当て嵌めて、V(速度)を計算します。

車の走行中は、車内の「 スピードメーター」で現在の車の速度が分かり、持っている時計で時間が分かるでしょうが、人生を走行中の人間は、走っている自分の速度(可能性という能力)は分かりません。

車の走行可能な速度は「 性能 」といい「 車の能力 」でしょう。

 

人間について考えますと、多分、仏教の考えだと思いますが、ネットで検索すると、「 身体は借り物、魂の乗り物 」という言葉がヒットします。

 

身体はまさしく走行中の乗り物だと思われ、その乗り物のV(速度)は「 車の性能 」であり、「 能力 」ですから、「 運動可能な性能・能力 」が速度Vであると思います。

 

2-2、格闘術の獲得に対する自分の運動可能性の習熟度を認識し、臨機応変に反応する。

 

私は、人生の途中である「 走行中 」の数式をS(空間意識)=V(自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギー)×T(時間意識)と私は置き換えます。

S(空間意識)は右脳の働き、T(時間意識)は左脳の働きと、それぞれに計算した結果、V(運動可能性という能力)が意識されます。

 

過去に五十メートルの高さを何分で走ることが出来るか行為した結果、自分の運動能力が自覚され、それを分速や秒速として、過去のデータで現在の自分の能力を測る指針とするのだと思います。

 

V(自分の運動可能なエネルギー・能力)S(右脳の働きによる空間意識・到達すべき目的までの広がり)÷T(左脳の働きによる時間意識・目的達成のために求められる一般的なエネルギーの消費の度合い・あるいはリズム)

 

 私は、「 空間 」を「 運動可能な余地 」としましたから(誕生から死後までの意識、第一章、6、)、この数式を、「 自分の運動可能な余地(S)を、何分(T)で、あるいはどの様なリズムで、埋める力(エネルギー)が自分にあるのか? 」という意味に解釈します。

 

「考えるな、感じろ 」というのは、「 考えが発生する前に行動しろ 」ということで、武道家の彼がそういうのは、時間がなくても反撃可能であるように自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処せよというように、私は解釈しました。

 

私の考えでは、「 気 」の発生に伴って右脳と左脳が働いて時間や空間などの認識が発生すると考えますから、「 考える 」、つまり、脳内で認識する前に「 気 」を感じて行動しろという意味だろうと思います。

 

VS÷Tにおいて、Tが限りなく小さければ、V(空間意識・目的達成地)=S(自分の能力が及ぶ所)で、到達すべき自分の運動可能な余地(S)を完全に埋めることが出来るように、自分の能力という無意識の力になった運動可能性、運動可能なエネルギーを高めておき、臨機応変に対処しなさいというように解釈しました。

 

「気(=エネルギー)」を知るなら、そのエネルギーは「 時間 」と「 空間 」という認識する形式を伴って、現れるから、事前に、「 気(=エネルギー)」を知っておけば、エネルギーが形として現れる「 時間 」も「 空間 」も予測可能だと思います。

 

この「 気(エネルギー)」を捉えるためには、捉える機能が人体に必要だと考えますと、私は、生命エネルギーにより動く脳が作り出す「 意識は電磁波の構造をする 」と考えなければ、外界の「気(エネルギー)」に同調し、それを感じることは出来ないだろうと思います。

 

2-3、人間は誰でも価値観を持つ

 

しかし、まだやっかいな問題があると思います。

それは、「 心は磁場である 」からです。

 

その意味は、生命エネルギーである「 気 」は、無意識で本能とともに「 流れるもの 」で、それはDNAにより、人それぞれに「 極 」を作り、ちょうど地球が地磁気で囲まれているように、その「 極 」から発生する磁場の全体が「 心 」であると考えるからです。

 

人間には誰もがある「 極 」とは「 生と死 」であり、それを取り囲むように、その中に物事を判断する「 価値観 」が生まれ、「 死なないように 」善悪や好き嫌いを作り、生命体を維持するものだと考えます。

 

このように、人間は必ず「 極 」を作り、人それぞれに「 価値観 」を持ち、生命体を維持するものだと考えます。

 

ゲームや格闘技では、勝ちたい、負けたらどうしょう、と言う思いがその「 極 」になるでしょう。

 

しかし、これは、生命エネルギーに限ったことで、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」や「 勝敗 」という「 極 」は無く、人間の生命エネルギーが作る「 極 」に都合がよいものは「 良いエネルギー 」で都合が悪いものは「 悪いエネルギー 」として、自然エネルギーが区別されて摂取されるだろうということです。

例えば「 太陽光 」は「 良いエネルギー 」でしょうし、「 台風 」は「 悪いエネルギー 」でしょう。

 

この、自然エネルギーである「 気 」を取り入れることは後述することにして、格闘技は対立する人関係の中で起こり、生命エネルギーによる「 極 」を持つもの同士の関係であり、「 極 」つまり「 生死 」から生まれる価値判断を持つ人が、ある状況で死に面した時、生きようと動く気持ちが無意識に行動に出て、生きようともがくところに「 隙 」が出来て、相手に付け込まれ、敗北するのだろうと思います。

 

私は、このように、「 気持ち 」は無意識を含み、自分の行動を惹起させるだけでなく、それを見た相手にも、自分の次の行動が察知されるのだと思います。

 

時代劇が華やかだった昭和の頃、仇討ちに当たり、まったく剣に自身がない婦人が仇討ちを遂げる方法を剣術の先生に聞いたところ、自分も倒れる「 相打ち 」する覚悟で、相手の剣の動きに合わせて剣を突き出しなさいと教える場面がありました。

 

「 生死 」という価値観を捨てて戦う者は、相手には不気味な存在に見えて、剣を持つ手に狂いが生じるでしょう。

 

剣に自信がない者にとって、その時が、「 仇討ち 」するチャンスなのでしょう。

 

戦時中、神風特別攻撃隊も、相手にとっては「 生と死 」の価値観を持たない自然物のように思われ、嫌がったのでしょう。

 

こうして、行動に潜む「 気持ち 」を知ることは相手の「 気(エネルギー)」を知って次の行動を予測することも可能かも知れず、それを予測することが出来たら、臨機応変に、「 直ちに 」反撃することも可能だろうと思います。

 

これは、江戸時代に、沢庵和尚が柳生但馬に伝授したという「 石火に機(せっかのき)」と同じ意味であると武道家ではない私は考えています。

 

2-4、「 空気を読め 」という態度との違い

 

ところで、このように、臨機応変に行動することが「 考えるな、感じろ 」で、求められると思いますが、職場内で臨機応変の行為を求める「 空気を読むこと 」は同じでしょうか?

 

「 空気を読む人 」は、その社会の組織の中で、組織の価値観を認識し、上手に「 泳ぐ 」ことができる人。

組織内の人間関係に順応できる人で、会社などの営業目的の達成のために「 空気を読むこと 」は、「 臨機応変 」に行動することだと思いますが、「 読む 」範囲は、自分に密接に関係し、協力し合う人間関係でしょう。

 

現代の日本で流行している「 忖度(そんたく)」も同じ種類のものであると考えています。

 

しかしながら、組織のすべての人は、DNAの違いで、すべての人が、それぞれの違ったV(速度・可能性の能力)を持つと思いますが、その違いを認めない、あるいはその放棄を要求するのが「 空気を読め 」という態度だろうと思います。

 

格闘技では「 考えるな、感じろ 」といわれ、同じく臨機応変の行為を求めますが、「 空気を読め 」とは言わないだろうと思います。

 

実際、ジャッキーチェンが、あの映画のシーンで「 空気を読め 」といったら、どんな意味になるのでしょう。

 

その感覚の違いが、「 違い 」なのです。

 

なぜなら、格闘技は対立し合う対人関係で、「 考えるな、感じろ 」という理由は生命の存否に関わるからであり、個人の可能性を無視するのではなく、その個人本人の可能性が無限に進展することを求めるからであり、その放棄を求めるものではないからです。

 

「 空気を読め 」とは個性を無視しますから組織の人間関係の円滑化には役立つでしょうが、後述する、自然エネルギーに対して臨機応変を求める場合、その言葉は行為の指針には全く役に立たないだろうと思います。

 

2-5、宇宙(自然)エネルギーに対して「 考えるな、感じろ 」の態度で臨む

 

 

前述しましたように、宇宙エネルギー(自然エネルギー)には、「 生死 」という「 極 」は無く、人間にとって、「生死」という生命エネルギーの「 極 」に都合の良いときだけ「 良いエネルギー 」として、自然エネルギーが摂取され、都合が悪いときは「 悪いエネルギー 」として排除されるだろうということです。

その態度は、仲間を選別するときも、同じでしょう。

人間は「 気 」が形を表現したものですから。

 

 

宇宙(自然)エネルギーは、形を変えることはあっても、消滅しない。

 

それとの闘争は、「 誕生から死後までの意識 第三章、記憶・認識から行動まで 」の1,2,3を参照して下さい。

 

人間は、時間や空間などの概念を持つ言葉で、自然エネルギーの発生や消滅の因果関係の物語を作りますが、それは「 色即是空、空即是色 」というように、自然事象を言葉で実体として捉えられないと知るでしょう。

 

それなら、捉えられない「 気(エネルギー)」を「 感じる 」ことにより、時空間に表出するものを、先取りすることを考えるでしょう。

 

「 考える 」のは、今までのデーターによる蓋然性の確率であり、これから現れることの、時空を使っての予測ですが、エネルギーの変化そのものを捉えたのではありません。

 

 

 

捉えなくてはならないのは、「 感じる 」ことにより得られる「 気(エネルギー) 」の変化そのものであり、私情や価値判断のない、生命エネルギーにとっての良し悪しとか見えるとか見えないとか大小など、「 極 」から生じる価値観に従わず、事象を順番に見るのではなく、一気に、全部を見た場合、「 気(エネルギー) 」を捉えたと言えるでしょう。

それが「 直感 」であると思います。

 

その状態が、「 先が見える 」とか、「 先を読む 」とか言うのだと思います。

 

目には見えない「 気(エネルギー)」を把握した後は、それが「 時間 」と「 空間 」の形式に伴って現れるのは必然であるだろうと思います。

 

だから、「 先を読む 」とは、自然事象が「 時間 」と「 空間 」の場で形から形への変化する必然の流れを把握することでしょう。

 

発明は間違いから生まれるように、従来の手順にはない、まったくの偶然の接続から生まれるケースが多いと思います。

 

この世が夢の世界で、まったく脈絡のない「 物語 」ならばあり得るかもしれませんが、AIをはじめ客観的データーによって判断する世界では、人間のための発明は大変困難であると思います。

 

「 必要は発明の母 」と言いますように、必要とは人間にとってであり、人間にとって不便なことを解消するのが発明であるとしたら、人間でないあるいは人間の心情や「 気持ち 」が理解できないAIが発明をするとは、何を発明するのでしょうか?

 

人間全体に都合の悪いものも、AIを操る人に都合がよいなら、「 発明 」になってしまうでしょう。

 

その意味で、AIは従来の「 発明 」が出来ないのです。

 

「 発明 」を生む「 偶然の接続 」を担当するのが、「 工夫 」であり、「 智慧 」という自分の可能性なのだろうと思います。

 

 

「 感動 」が伝わるのに「 言葉 」は必要でなく、『言葉に出来ない事象こそ、それが「 無常 」のなかで「 常なるもの 」であり、必然性であり、宇宙の真理は不明だということが、生命エネルギーの中で「 真理であり常なるもの 」である』と思います。

 

 

言葉で表現した短歌や詩は、感動を伝え終わるとその使命を果たし、そこには当時の意味しか無い抜け殻となって消えてゆくでしょう。

 

意識から無意識、派生したものから流れるものに形を変えたのだと思います。

 

そのようにして得たのが能力であり、「 気 」が種々の契機により変わることを「 機 」というなら、その機に応じて能力を発揮することが「 臨機応変 」であると思います。

 

このように、自然事象は自動的に抜け殻を捨ててゆくのですが、人間の場合は、「 考えるな、自分で考えろ 」と「ココロちゃんとおじさん 」というブログに書いたように、抜け殻は自分の手で処分しなければなりません。

なぜなら、その抜け殻が一人歩きをして、本来とは違う価値観を産んで、自分を苦しめることになるかも知れないのです。

 

自然エネルギーを自分の「 極 」に従って変えることが「 工夫 」で、自然界にも人間界にも通用するのではないかと思います。

 

自然界では、自分に対立するものを同じ方向にするのが「 発明 」でしょうし、都合の良いものを悪い方向にするのは「 反省 」でしょう。

 

人間界で、自分の「 極 」と同じ方向で、協力する関係では「 規律 」でしょうし、その反対に自分の「 極 」の方向と逆の対立関係では、「 格闘術 」として現れるでしょう。

 

目的とする格闘術が、自分の中で無意識の可能性という能力になった時、月(目標)を指していた師匠の指の姿は消えるでしょう。

 

AIの目には、指している師匠の指だけが見えるかも知れません。

 

 

 

 

 

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