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2018年1月 1日 (月)

書を捨てよ、自分で考えよう

昔(1967年)、寺山修司が「 書を捨てよ、町へ出よう 」という評論集を志賀書店から出版しました。
現在、Amazonで、角川文庫からの出店ですが、Kindle版は375円、文庫本は555円だそうです。
私は読んだことも、映画をみることもしていないので、それがどういう意味なのかは分かりませんが、ネットによりますと、「 あまりに勉強しすぎると物事を固定的にしか見られなかったり、あるいは学んだ内容の中から答えを探す癖がついてしまいます。」とういうことらしいのです。
私は、「 誕生から死後の意識 」の中で書きましたように、「 今 」という地球の自転により直面する事態をどのように打開するか、その可能性(自分が出来ること)は何かを探して対処するしか、方法は無いと思います。
「 書 」とは何か?を考えると、それは先人が残した「 その人の可能性 」であり、その可能性をくみ取って「 私自身の可能性 」にしていなければ、「何冊、本を読んだ」とか「 趣味は読書 」とか「 家の書棚には5千冊の本がある 」といっても、「 は? それで、この事態にはどのように対処するのですか 」と聞かれたら、どう返答するでしょう。
「 書 」は「 知識 」であり、現実は本の当時と違うのですから、その意味で「死んだ可能性 」にすぎません。
「 死んだ可能性 」を「 自分の中に生きている可能性 」にすること、即ち、「 知識 」を「 知恵 」に変換していなくては、「 書 」を幾ら所有していても、「 お金持ち 」の範囲を出ません。
「 書を捨てて、考えよう 」というのは、自在に変化する存在に合わせて可能性を組み替えることであり、各自の「 独自性 」こそ、著作権に守られ、人類に貢献するものだと思います。
「 人間は考える葦」であり、権力の権化である、ユリウス・カエサルも「 学習より創造である。創造こそ生の本質なのだ 」と言っているように、「 自分の考えを貫き通す 」ことこそ必要ではないかと、私は思います。

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