老人の話

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2018年1月

2018年1月26日 (金)

書を捨てよ 自分で考えよう 2

私が、なぜ「 書を捨てよ 自分で考えよう 」というのか?
書、つまり本を読むことは、「誕生から死後までの意識」」で書いたように、本に書かれているのは、その本の著者の可能性であり、死んだ可能性であり、その本で勉強するのは、その人の死んだ可能性を自分の可能性に生かすことであり、それが済んだら書、つまり本を捨てなさいということです。
なぜ捨てるのか?
それは、「誕生から死後までの意識」で書いたように、あなたが直面する現実は、万物は流転するから、状況はすでに変化してしまっていて、しかも本に書かれている「因果」は、その著者が捕らえた「因果関係」であり、その人だけの「因果関係」で、再びあなたが「因果関係」を捉えなおし、本に書かれている「物語」を変更しないと、現実には使えないと思うからです。
歴史書を読めばわかるように、著者に都合の良い所を取り出して「物語 」を書くために、事実から反したことがいっぱいあります。
そんな書、つまり本を、あなたは信じて、後生大事に保管するのですか?
子孫に残すことも必要でしょうが、事実に反した書を読んだ子孫は事実から目を離すかもしれません。
だから、「 書を捨てよ 」というのです。

「 自分で考えよう 」というのは、「 誕生から死後までの意識」で書いたように、人間は考える葦であり、自分で創造することが、「 自分が生きる 」ことなのです。

どのような本をコレクションとして持っている、とか、どのような大学を卒業したかなどは、お金持ちの証明であっても、人間としての人格を持ったという証明ではないことは、「 今の政治家の行為 」を見れば良く分かると思います。
高学歴の政治家の不倫や汚職のスキャンダルなど、その人の学歴と行為が如何に違うものかは、あなたも分かるでしょう。

 
同類ならば、分からないかも知れませんが。
 
 
 

2018年1月 3日 (水)

時を超える二人の美女

私がはるか昔、夢中になった二人の美女です。
「好き勝ってな老人の話」を閉鎖したため、再びUPします。
 
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          レギーネ・オルセン
 
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                藤山陽子

2018年1月 1日 (月)

書を捨てよ、自分で考えよう

昔(1967年)、寺山修司が「 書を捨てよ、町へ出よう 」という評論集を志賀書店から出版しました。
現在、Amazonで、角川文庫からの出店ですが、Kindle版は375円、文庫本は555円だそうです。
私は読んだことも、映画をみることもしていないので、それがどういう意味なのかは分かりませんが、ネットによりますと、「 あまりに勉強しすぎると物事を固定的にしか見られなかったり、あるいは学んだ内容の中から答えを探す癖がついてしまいます。」とういうことらしいのです。
私は、「 誕生から死後の意識 」の中で書きましたように、「 今 」という地球の自転により直面する事態をどのように打開するか、その可能性(自分が出来ること)は何かを探して対処するしか、方法は無いと思います。
「 書 」とは何か?を考えると、それは先人が残した「 その人の可能性 」であり、その可能性をくみ取って「 私自身の可能性 」にしていなければ、「何冊、本を読んだ」とか「 趣味は読書 」とか「 家の書棚には5千冊の本がある 」といっても、「 は? それで、この事態にはどのように対処するのですか 」と聞かれたら、どう返答するでしょう。
「 書 」は「 知識 」であり、現実は本の当時と違うのですから、その意味で「死んだ可能性 」にすぎません。
「 死んだ可能性 」を「 自分の中に生きている可能性 」にすること、即ち、「 知識 」を「 知恵 」に変換していなくては、「 書 」を幾ら所有していても、「 お金持ち 」の範囲を出ません。
「 書を捨てて、考えよう 」というのは、自在に変化する存在に合わせて可能性を組み替えることであり、各自の「 独自性 」こそ、著作権に守られ、人類に貢献するものだと思います。
「 人間は考える葦」であり、権力の権化である、ユリウス・カエサルも「 学習より創造である。創造こそ生の本質なのだ 」と言っているように、「 自分の考えを貫き通す 」ことこそ必要ではないかと、私は思います。

2018年の年頭のあいさつ

新年あけましておめでとうございます。


私は、本年で69歳になり、趣味の一環として、ブログで日記をつけることにしました。
いつ病気になり、いつ神に召されるかわかりませんので、いつまで続くのかわかりません。
本当なら、昔の高僧のように、死期が近づいて来たのがわかると、土深く埋めてもらい、念仏を唱え続けるのが理想ですが、あいにく私には出来そうにありません。
ですから、作者不明で、このブログが残ってしまうかもしれませんが、できるだけ意識があるうちに閉鎖することを心がけます。
それまだ、皆様、どうかよろしくお願いします。

元旦

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