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2019年7月15日 (月)

69歳になって考えること   9月で、ブログ終了のお知らせ

先日、電子書籍「 空なる我 」上巻・下巻の発刊を終えますと、70歳までに決着をつけるべき事柄は、解消したと思われますので、9月に70歳になることを契機にして、ブログを閉じようと思います。

 

これまでお読み頂いた皆様には、有難いことどと思いますが、いつかはこの終了を迎えるものです。

 

頭も認知症でない今、生きているうちに始末をつけれる事を嬉しく思います。

 

8月中はまだ存続していますので、それまでに「 南海トラフ地震 」や「 富士山の爆発 」が起きれば続けるかも知れませんが、8月の終わりで終了しますことを、お知らせします。

 

 

 

 

 

 

(7月15日) 

2019年7月14日 (日)

69歳になって考えること  電子書籍「 空なる我 」上巻・下巻の発刊

電子書籍「 空なる我 」の上巻と下巻を発刊しました。

「 私の進路 」と「 再考 空なる我 」に、少し加筆しまして、発刊しました。

内容はブログの内容と、ほとんど同じです。

無料ですが、二巻とも、それぞれ30ページを超えてしまい、読み難いいこともあるかと思いますが、これが「 神仏習合の集大成 」と位置づけています。

私に出来ることは、これくらいですから、もう二度と電子書籍は作らないと思います。


なお、ブログの左にURLを入力しておきます。





(7月14日)

2019年7月 9日 (火)

【 時事 】 愛子内親王の立派な「 犬 」

しばらくブログを休むつもりでしたが、更新してしまいました。

 

私が、ここで、愛子内親王の「 犬 」と申しましても、お住まいで飼われているとお聞きしますDog の事ではありません。

愛子内親王の「 犬 」という「 書 」の事なのです。

 

きょう、ユーチュブで、愛子内親王が書かれた「 犬 」という文字が、素晴らしいという動画を拝聴しましたので、さっそくながら「 愛子内親王 書道 」で検索しますと、それらしい写真がありますので、「 画像 」を見てみました。

驚きました。

なるほど、あの写真の「 犬 」は、評されていますように、尻尾を振って「 お呼び 」を待つDog を連想させます。

 

文字で人に情報を伝達するのが「 常 」ですが、彼女の「 犬 」という文字で、動物の仕草までも伝達するように思われます。

 

習字としては「 子供らしい 」のですが、書道の先生が到達される遥か上に、愛子内親王の「 犬 」の字があるのです。

 

おそらく、あの字は、彼女が二度と書けないだろうし、書道家も書けない字でして、まさしく「 芸術 」だと思います。

 

純なお気持ちが、あの字に現れているようで、あの気持ちを現せる書家はいないだろうと思います。

 

「 百聞は一見にしかず 」と申します。

 

ぜひ、あなたも、ユーチューブやネットで「 愛子内親王 書道 」と検索され、偏差値72の彼女の「 書 」から受ける感動を享受されるようお願いします。

 

 

 

(7月9日)

 

2019年7月 7日 (日)

69歳になって考えること 「 再考 」 「 空なる我 」その13 「 般若心経 」の解釈その5

ここまで書いて来まして、未だ検討すべきものが一つ見つかりました。

それは、般若心経の最後の「 即説呪曰 」以降の文章です。

これもまた、今までのように、私の独自な解釈でして、仏典の詳しい解説をお求めの方は、ほかのブログなり動画なり、あるいは図書館の蔵書をこ参照ください。

さて、これ以降の漢字をここに記載するのは、PCのスペックの関係もあり、不可能ですので、手元にあります「 心経 」の「 奉讃文 」の「 かな文字 」を書きますから、詳しくは先ほどのようにご参照ください。

「 ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか 」

という文章です。

この文章は「 真言 」というものらしく、その意味は、また上記のようにご参照して頂くのですが、私の考えでは、この「 真言 」を唱える意味は、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」あるいは、「 アーメン 」などの発音と同様に考えているもので、私の身体や宇宙の物質が「 超弦理論 」でいうように、「 ひも状の素粒子 」であるならば、「 弦の共鳴 」を通して宇宙に迫ることを可能にすると思いますなら、「 唱える 」という行為は評価できると思います。

この「 真言 」の意味は無価値らしいですが、「 此岸 」に対する「 彼岸 」ですから、此岸(現生)にいながら彼岸(あの世)にいるものを賛美する文章のように、私には、思われまして、「 死んだつもりで行為しろ、生死を超えて生きろというもので、ふざけたことを言うもんだ 」 ぐらいにしか思われませんが、もし、この言葉が、「 すでに悟った人 」に向けられたらどうでしょう?

「 悟ること 」は「 あの世のこと 」でありますなら、悟った死後のあの世で「 どう生きるのか 」を考えての行為ですから、私にとっては、死後はエネルギーになりますから、「 生前に死後に行うエネルギーとしての行為をしなさい 」ということで、他の生物の命に成って他の生物を助け合う行為であるなら、「 因果の法則 」とは違って、死後のエネルギーの為す行為を、現世に引き戻して行為することにより、その連続性が保たれますから、やはり以前のように、生前に「 慈悲 」の行為をすべきことになってしまいます。

私の解釈では、「 我田引水 」ではありますが、その行為をする人が、所謂、「 即身成仏 」や「 生きぼとけ 」であり、その行為を続けなさいというのが、「 真言 」の意味するところとなります。

私が可能な「 慈悲 」といいますなら、年金生活の中で、財政の援助は到底、不可能でして、こうして私の考えを拙いまでも、慈悲を目覚めさせる「 菩提心 」を起こすことぐらいです。

それは、「 空なる我 」から「 自我 」を反省して、「 自分は他の生物と同様に、エネルギーのひとつの現象であり 」、同じ構造の生物を動かすエネルギーに理解を示し、その人の目線から見ての「 色即是空 空即是色 」を考えて、絶望の中から「 希望 」を持たせることであり、それを、財政豊かな人々は「 心 」だけでなく、生活に「 楽 」を与えることもできますから、政治家をはじめ財界人や天皇に「 慈悲 」の行為をして欲しいと願うだけなのです。

私はあと数か月で70歳となり、乏しい生活のため「 医療費の自己負担が二割 」の「 弱者 」になるようです。


以前にも書きましたが「 一切皆空 」は「 一切皆苦 」と同じであり、生きている限り「 苦 」はつき纏い、なにがしかの「 苦 」に包まれながら「 死 」を迎えるのであり、その「 苦 」の金銭的な悩みを少なくして頂く政府に感謝しながら、生きなくてはならないのかなあ?と思います。

「 自殺 」で、この世の「 苦 」から抜け出しても、行先の「 浄土 」は「 この世 」であり、しかも人間として生まれる保障はないのですから、今の「 苦 」残したまま「 死 」を迎えることになりますが、その「 苦 」を再び背負うことになる人生に生まれ変わるかもしれず、自分が置き去りにした「 自分の遺恨 」を「 他人の苦 」によって清算してもらわないと「 成仏 」できない、不完全なエネルギーになってしまうかも知れません。


ですから、「 怨念 」を残さぬ人生を送りたいと思っています。

エネルギーとして死後に行う行為を生前に行為すると考えますと、主君の遺恨を晴らすための赤穂浪士の討ち入りも、「 義士 」と呼ばれる価値があるかも知れません。

その意味で、江戸時代の「 赤穂事件 」の大石内蔵助の辞世の句に魅かれるのかも知れません。






「 あら楽し おもひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし 」

         ( ↑ 主君の墓に刻まれたもの )

 

「 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人 」

                              (大石内蔵助)

 

 

 

 

 

(7月7日)

2019年7月 1日 (月)

69歳になって考えること  論語で70歳は「 従心 」と呼ぶ ・「 無私 」と「 空なる我 」

Web で、「 論語 70歳 」を検索しますと、論語では、70歳を「 従心 」と呼ぶらしく、その意味は「 70歳になると自分が行うすべての行動は、道徳の規範から外れることはなくなった(島崎藤村訳)」らしいです。

70歳は「 かぞえの70 」ですから「 69、あるいは68歳 」であると思われます。

図書館に行きますと、この齢を記念して論文集などが見受けられまして、私も、いつか論文を発表したいと思って69歳になって、いろいろと物色して来たのですが、いかんせん、教養もないためにWebで情報を探しながら、「 自分探し 」をしていました。

今まで、「 誕生から死後までの意識 」や「 神仏習合と私 」など、無料で出版できる電子書籍に、年金生活者の身で「 自費出版 」する方法を教えてもらい、このたび、「 従心 」にあたり、今までの集大成として、「 空なる我 」についての電子書籍を出版しようかという、「 下心 」を持っています。

「 従心 」と申しましても、論語からは大外れで、道徳の規範から外れ、「 心に従って 」というほうが、私の気持ちです。

その書き出しとして、「 神 」を書くべきでしょうが、これは前出の書籍に書いていますので省略し、「 仏 」については、様々な宗教に入会と退会を繰り返し、その都度、多くの関係者に迷惑をかけながらも、いまだに無宗教であることも一因ですが、仏教をおひらきになったお釈迦様への理解が出来ません。

今までの学校教育と、ユーチューブを中心としたWebでの情報を、自分勝手につなぎ合わせた結果が「 空なる我 」でした。

田舎での般若心経に救われた経験もあり、このお経と「 一切皆空 」と、{ E=MC² }という考えを中に秘めて、電子書籍を書く予定です。

その際に、お釈迦様の「 無私 」から、なぜ離れて「 空なる我 」ということを考えたかについて書いてみたいと思います。



これは、誤解であることを予め申しておきます。

私は、お釈迦様が、ブッダになるために苦行でも享楽でもなく「 中道 」を選ばれたのは、勝手な解釈ですが、「 事象の変化はエネルギーだ 」と思われたのではなかろうか?享楽のエネルギーである煩悩から逃れるため、このエネルギーを滅する苦行でも、ブッダになれず、ただ自己防衛するための「 自我 」があるから、自分と他人を区別し差別へと進むだろうし、自己防衛のために自分の能力を比較することによって「 不安 」が生まれるから、いっそのこと、「 自我 」を否定してしまえ、また詳しく分析しても、誕生にしても自分が得たものではなく、死んだら煩悩で自分を構成する「 自我 」はなくなり、生前の自分だけが持つものは無いと思われたので、「 無私 」を考えられたのではないか?当時の身分社会のもと、自分と何ら変わらない構成物である庶民から差別を取り除くためという目的もあったでしょうが、王様たるお釈迦様が、最下層の人のもとに降り立つことによって、万人共通の「 苦 」から逃れる方法をお考えになられたのではないか?

そこにお釈迦様の慈悲を感じるのですが、その「 苦 」を逃れるために四諦八正道や十二支縁起を説かれたと思うのですが、「 苦 」は人によって違いますから、お釈迦様が存命中はその処方せんで解決できますが、死後は「 ダンマ 」によれということは、自分で考えなくてはならず、死後にお釈迦様の言葉を集めることに同意する集団とそうでない集団が出来たとお聞きします。

お釈迦様と同じブッダになれば一番早くて楽で、その修行をしているのがヨーガを伴う小乗仏教だろうし、お釈迦様の考えに逆らわないようにブッダになることを目指したのが大乗仏教で、それが日本に伝来したと学校では教えられました。

ここで、小乗仏教の道を採るか大乗仏教を採るかですが、「 なまけもの 」である私は、托鉢のみで生活し、しかも托鉢して布施として頂いたものはその日に消化して、貯蓄にまわすことを禁じ、その日、その日を、人々の「 善意 」のみで生きてゆく小乗仏教は、理想的ですが、昔、「 山頭火 」という人がいまして、歌は残されましたが、人生は楽なものではなく、実家に援助を請いにいったりするなどの苦労話もお聞きしますので、私には無理かなあと思います。


こうしてお釈迦様のように「 悟って 」その後、何をするのか?宇宙の真理を体得したら、その後、何をするのか?を考えますと、最近、インドで仏教復活に活動されている僧侶が「 座禅で悟ったら行動しなさい 」とおっしゃったような気がします。

お釈迦様は、八正道で暮らすことを民衆に教えることで「 慈悲 」をなされました。

ですが、私は、「 無私 」からなぜ「 ブッダ 」に進めるのかが分かりませんでした。

 

そこで、「 空 」を中心とする大乗仏教ですが、「 空 」とは「 実体のない 」とか「 空っぽ 」とか説かれますが、その意味は、一定した物質はないということだと思いますが、「 概念化 」する必要から、そのような訳になり、「 (存在を)概念化出来ない 」というに止まり、実生活で目の前にあるものを処理できず、仏教への期待も薄らぎました。

 

その時、アインシュタイン氏の{ E=MC² }を「 色即是空 空即是色 」に当てはめて考えると、現実生活にも辻褄があうようになり、「 無常 」の説明も楽になり、「 空 」を「 エネルギー(E)」とし、「 現象 」を「 色(M)」とし、見えないEがMとして「 現れる 」、つまり「 混沌 」から認識可能な「 秩序 」が現れたことを、「 無 」から「 有 」の創造と考えることにより、「 空即是色 」が当てはまると考えました。


それが、「 誕生 」という現象にも現れるし、「 若い時 」は「 秩序 」を求める傾向が強く、ちょうどビッグ・バン以降も秩序が続くように、理想主義の人が多い所にも現れるのかなあと思います。


「 一切皆空 」ですから「 神 」も「 仏 」も「 自分 」も「 空(エネルギーE)」であり、自意識である「 自我 」も「 (神仏)エネルギーの現象 」であると考えました(神仏習合と私に神仏エネルギーを書いています)。

ですが、こんな考えをする仏教はありませんから、邪道であることは覚悟していますが、大乗仏教が「 空 」を中心とする教えならば、日本仏教も唯心論にこだわらず、因果の法則は否定しないものの、せめて、自分が救済されるだけでなく自分をブッダまで高める道を開くべきで、教義にこだわらず、顕教も密教も合わせて考える方法があってもしかるべきです。

宇宙の創生を考える時に「 ビッグ・バン 」を考えるように、大乗仏教が生じる根本のお経である般若心経へ戻り、「 空 」を把握することが必要でしょうし、都合の良いことに、日本全国、津々浦々に般若心経が行き渡り、あたかも民衆の方が、知らないまでも「 空 」を実践し、それから現れる行為の「 慈悲 」や「 布施 」の何たるかを知っているように思えます。

ここを従来仏教で説明できれば、日本国中が一気に「 慈愛 」に満ちた桃源郷にすることも出来ると思うのです。

「 柿 」や「 桃 」もエネルギーの推移で、果実を実らせ、やがては朽ちてゆくように、「 自我 」も、柿や桃と同じく「 空なる我 」として「 エネルギーの一つの現象 」だから、生物には繁茂する環境が必要なように、「 空なる我 」も生存するには煩悩というエネルギーで自己を形成せねばならず、その始めが「 誕生 」という「 現象 」で、煩悩で生きる以上は「 苦 」も伴い尽きることはないと般若心経に書いてあります。

その「 現象 」は「 空なる我(神仏エネルギー)」の「 現象 」であり、エネルギーの終焉は「 死 」という「 現象 」で終わり、「 エネルギー 」自体は「 エネルギー保存の原則 」によって他の物質と同様に、エネルギーが「 形 」を変えて残存するとかんがえます。

そうすれば、生き物への愛護や憐れみ、その反対に、差別や憎しみが消えて、私の理想ですが昔の相互扶助の生活や、生死を超えた人生観が生まれるかも知れません。

そんな気持ちは、補助金とか子育ての意識が薄い教員や官僚による上からの教育では育たずに、人から見えない所で、陰湿な「 いじめ 」をする人間しか出来ないと思います。

人が「 空 」であり「 エネルギー 」であるなら、金をかけた原子炉より、自然を利用し節約しあう社会を作る人(エネルギー)の集まるにした方が安全であり、その総体としてのエネルギーも増加すると思います。


私が「 空なる我 」を採ったのは、「 自我 」が変化するためには「 空(エネルギー)」が必要で、「 エネルギーを観る 」というのはお釈迦様の「 中道 」を求めるのはエネルギーを把握することだと考え、お釈迦様の考えから外れた「 外道 」ではないと思うのですが、これは後世の人々の判断に委ねたいと思います。







(7月1日)

2019年6月30日 (日)

【 時事 】雅子さまの適応障害について

「 令和 」を迎えて、新天皇皇后陛下のご活躍がめざましい。

特に、雅子皇后の輝きは、最近の皇室外交において、天岩戸から顔を出した「 天照 」の神のように、持ち前の才能が光を放ち、今までの暗闇を明るい日々にと変えてくれました。

ユーチューブを拝見していますと、その才能の閃きとともに、車窓からの「 お手ふり 」やその笑顔と目の輝きは、まさしく高貴な仕草に見え、かっての「 適応障害 」などと名付けられた病気がウソのようにも思われます。

その当時の、皇室内での出来事をユーチューブで拝見しますと、かって、公務員だった私の同僚の事を思い出されます。

今はどうであるか知りませんが、当時の私たち、市民への第一線に立つ者としては、どんな市民であっても、役所に悪印象を与えないように「 気づかい 」、市民の監視の目もありますから、事を穏便に済ませながらも仕事の基準を守り、何事も起こらぬように行動し、「 全体の奉仕者 」として、日常生活にも注意したものです。

喧嘩したいときでも「 我慢 」し、借家であるため家賃の滞納は無論、借家を汚さぬように生活したものです。

当時、ある病気を患った同僚は、喧嘩に持ち込めば勝つのに、自分の欠点の所作のせいにして、生活リズムを乱し、大学卒のため高校卒が多い同僚から当然共有すべき「 危険人物 」の情報を教えて貰えなかったり、職場では「 本 」に書いてはいない「 抜け道 」を教えて貰えず「 本を読んだら分かるだろう 」と指導されたり、結果、危険人物から危険な目に遭い、ある病気に自分から進んでなって、入院し退職してゆきました。

このように、どこの職場にいっても「 いじめ 」はあって、何も愛子内親王への「 いじめ 」が特別ではなく、学校では当然存在し、しかも「 いじめた子 」が張本人であれば、素直なケースですが、実際は、「 いじめた子 」は単なる使者であり、その元締めたる張本人は、目立たないところに隠れているの場合もありますが、証拠がないためどうすることも出来ません。


その点で、エリートといわれる高学歴者が、裏に隠れてコソコソするのも頷くことも出来ますし、そんな張本人が、そんな人であるケースも多いため、私は「 手を汚さずに 」高給を手にするのではなく、労働運動もしました。


同僚の場合は、誰か見当はついていたと言いましたが、口に出せば、ますます孤立することに成りかねず、また言葉にされた相手も傷つくから、黙って自分の「 大学での無勉強 」ということにして、ノイローゼになったのではなかろうかと推察します。

ネットで、ある精神科医と思われる人が、雅子さまはお元気になられた今、過去の「 適用障害 」について語られたらどうかという記事を拝見しました。

これは、なるほど医者であれば、こんな見方をするのかと考えさせられました。


先ほど申しましたように「 口にすれば傷つく人もいる 」ということ、動画でも雅子さまが「 自分は病気でない 」旨のものがありましたように、病気でないが、今、自分の輝く才能を発揮したら、「 やけど 」して傷をついたり、周りの「 じめじめとした環境 」が自分だけはなく、自分を病気扱いにする人にとっても、お金を稼ぐ場所であると思ったら、躊躇するだろうし、口喧嘩で「 離婚 」までも匂わしただけに行動にすれば本当に「 離婚 」になり、愛子さまと引き別れることになると思うと、その「 じめじめとした事情 」を「 自分の適用能力に欠陥があるのだ 」として病名に甘んじて、一切の公務を拒否したい気持ちになるということが、この医者には、理解不能な頭脳しか持たないのだろうと思います。


雅子さまが、なぜ、そんな事になるかとは、こうして後から動画をみれば明らかですし、愛子内親王が、なぜ誰に「 いじめ 」を受けたのか、そして新聞社や週刊誌や放送というマスコミが、いかにそれを我々国民の眼を欺いて、バッシングをしたのか、ユーチューブで明らかになっていることです。


わざわざ、マスコミやネットなどの媒体を通して雅子皇后の口をわずらわすまでもなく、国民は全部、知っていて、そのうえで「 雅子さま、素晴らしい 」といっているのであり、そんなことが分からないで、よく医者が務まるものだ、まさか「 藪医者?」とでも疑わせる記事です。


事情を明らかにすれば、その人を傷つけることになり、令和が明るい時代にならないことを知りながら、自分のウサを晴らす雅子さまと思っているのでしょうか?


前回も申しましたが、皇族では決して経験されることがない「 いじめ 」を潜り抜けた、天皇陛下と皇后陛下と愛子内親王です。


「 適応障害 」というのが精神に関する病気でしたら、そんな病気の国民は大勢いますし、学校で「 いじめ 」に遭った人たちも大勢いますし、「 いじめ 」で自殺する小中学生の記事に触れられましたら、自分の事のように思われるでしょう。

上記のような障害を潜り抜けた天皇一族ですから、一族をもって、弱き者の心まで降り立ち、励ましてください。

今回の「 東京オリンピック 」と「 東京パラリンピック 」の開会の言葉を述べられる人が天皇陛下であることは、「 やおよろずの神 」もこのような人選になることを望んでおられたと思います。


世界の向けて「 慈愛 」の言葉が発されるように、心から願っています。






(6月30日)

69歳になって考えること 「 空 」の実践と言葉遊び

今日、ユーチューブで、「 中村 元ー空の思想 般若心経、金剛経の解説 」を拝聴しました。

私の持論である「 空 」={ E=MC² }と、大乗仏教の教えと思われる「 一切皆空 」の考えで、これを拝聴しますと、私の頭の程度では、般若心経については「 良く分かった 」をいう評価がつきますが、金剛経は読んでいませんので、金剛経は「 空 」の実践についての教えらしいですが、私は分かりません。

私の感覚では、「 色即是空 空即是色 」を先ほどのアインシュタイン氏による考察に乗っかって解釈しますと、これまで「 実体がない 」とか「 空っぽ 」とか「 仮の 」などに従いますと、「 どうして変化するのか?どんなことを変化として感じるのか 」といった疑問は、上記の考えに加えて「 エネルギー保存の原則 」を採用しまして、「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」という言葉を理解できました。

古代のインドの龍樹さんは、「 この考え 」に到達され、当時は何も当てはめられないから「 空 」とされたのでしょう。

それを後学の僧侶は、高僧ともいえど、{ E=MC² }は思いつきませんから、「 空っぽ 」とか「 仮の 」とか、不変のものではないことを説明したきたのでしょうが、私の目の前には、実際に私の行方を邪魔する「 モノ 」が存在しているのですから、それを「 仮のモノ 」だからそのうち変化するよ、なんて悠長に思えません。

だったら、いつ、どうして、どのように変化するんだ?と疑問が湧いても、それは「 縁起縁滅 」で条件しだいで変化するさ、と答えられて、その条件が整うまで待つしかなく、それが「 桃栗3年、柿8年 」とか「 鳴くまで待とうほととぎす 」などに現されるように「 時熟 」という観念になり、因果の法則があって、何事も時間が必要なんだから、しっかり基礎から勉強しなさいなどという考えが常識なのかも知れません。

私は、因果の法則は、生命エネルギーが生命を維持するための思想だと思いますから、「 一切皆空 」であれば、その「 空 」さえ理解すれば、「 凡夫 」でも、時間(左脳による作品)を超越して一気に「 仏 」になれるというのが「 仏性 」の教えでしょう。

まして、その「 空 」に至るには、般若心経によりますと「 一切顛倒夢想涅槃 」で、すべての学問や知識を投げ捨ててこそ、涅槃に達すると書いてあります。

私の考えですら、「 夢想 」ですし、その境地は「 真言 」という呪文でしか表せないというのは、日本仏教の「 念仏 」や「 お題目 」と同様に、宇宙を構成する素粒子は「 ひも理論 」のように「 弦 」であれば、そうして口に出して音声によって、宇宙の原理に到達する手立てだと思えば、キリスト教の「 はじめに言葉ありき 」という真理への道に共通するのではなかろうかと思います。

現代の科学でも真理に到達していない学問や知識による「 空 」を獲得して、何が出来て、何をするのですか?科学万能主義ですか?虚無主義ですか?唯物論ですか?


現実は、フラットなもので、物が支配するとか心が支配するとか、ポジィブ思考をするとか、ヨガや座禅をするとか、人間の全ての行為を受け入れる世界で、虚無主義でも生きてゆけると思いますが、「 空 」を理解したら、どんな生活かを想像してみます。


学問上、「 空 」は、インドでは「 無 」や「 ゼロ 」と同じかも知れませんが、私の持論のように、「 無 」は「 無限 」と同じく数えきれない事と考えますと、「 無 」は人間に察知可能な「 現象 」として現れない「 エネルギーの世界 」であり、そこでは「 対消滅 」から免れた粒子が「 現象 」になる世界だとしたら、「 一切皆空 」であり、「 空 」から「 空 」へ戻る過程が「 仮の 」世界が人生であると考えられるし、根本の「 空=無明 」があってこそ、人間は「 自我 」を変化させることが出来ると思われます。

「 現象 」は他人から見える姿で、それを写すものが「 鏡 」という従来からの説明があります。


私から見れば、「 自我 」は「 空なる我 」が煩悩というエネルギーを引き寄せた「 現象(=認識可能な姿) 」で、生命エネルギーの現象ですので、社会の中で他人から見られた姿が「 自我 」でしょうから、「 空なる我 」が「 空 」であるゆえ、お釈迦様でもない他人から判断できるとは思えません。

そこで、「 鏡 」とは、宇宙(自然)エネルギーの「 現象 」ですから、「 空なる我 」の中の宇宙(自然)エネルギーを「 鏡 」として、それを私が知ると考えますと、生命エネルギー(煩悩)を見ることですから、今自分の行動が、どのような煩悩が働いているかを、宇宙(自然)エネルギー(=良心)に写して、清涼な心(自我)での行為かを判断し、他人の清涼な心(自我)の形成に奉仕できるかが、金剛経にいう「 布施 」なのではないだろうか?と思うのです。

自分の「 清涼な心 」が相手の「 清涼な心 」を引き出した行為になっていれば、「 布施 」に値し、自分も相手も幸福なるのではないでしょうか?

私は、今、女房に「 煙ったがれ 」ていますので、女房の心の中では、私への不満が渦を見ているでしょう。

そんな私が、こんなことを言える「 がら 」ではないのですが………。









(6月30日)

2019年6月27日 (木)

69歳になって考えること  「 空なる我 」から見た結婚

先日、南海キャンディーズの山里さんと、女優の蒼井優さんとの結婚会見をユーチューブで拝見しました。

山里さんは、吉本興行きっての「 モテない男 」ナンバー1で、一方の蒼井さんは、多くの男優との恋愛で有名な「 魔性の女 」と呼ばれていました。

蒼井さんは、福岡出身で私と同県出身で、そんなに美人とは思えませんが、動画で拝見しますと、なにか正直で素直な印象を受けました。

それで、多くのイケメン男優との恋愛話も多いのかと思いますが、イケメン男優より「 モテない男 」をなぜ選んだのかは、動画を見ればわかりますので、省略します。

私は「 空なる我 」を中心に、煩悩を引き寄せたものを 自我 」としますので、彼女は、自分と同じものを気にする人(それが価値観と思うのですが)を選んだのだと思います。

「 空なる我 」でありますから、将来は悲惨な結果を招く「 自我 」を形成して、二人が離婚する場合もあると思いますが、これは生命エネルギーが持つ本能が支配しますから、理性では止められないでしょう。

ですが、これは、二人に限らず、私もあなたも、そうなる縁(条件)は持っているのですから、これだけで結婚を躊躇うことはないでしょう。

やはり、結婚相手を見るときは、「 色即是空 空即是色 」で見るべきで、すべて「 無常 」でありますから、「 自我 」である姿形は物理的にも心理的にも「 移ろいやすいもの 」で、エネルギーの推移によっては、「 苦 」の度合いにより、その変貌のスピードは速まるかも知れません。

ですから、これらで、人を判断するのではなく、「 引き寄せるエネルギー 」、つまり、いかなる「 空なる我 」が、その肉の中に存在するか?で判断するのですが、「 空即是色 」でして中心に秘めているエネルギーは、必ず「 現象 」として現れるものです。

一緒に生活してて、絶えず笑わしてくれるとか、出すぎを注意してくれるなど、地球が太陽に引っ張られるように、互いに補完しあう関係がベストなのでしょう。

豊かな暮らしをしていても、貧しい心の持ち主がいるとお聞きします。

「 現象 」は「 エネルギー 」で、「 エネルギー 」は「 現象 」を通して認識されると思って、金銭や車や家などに目を囚われずに、「 本心から私のことを思ってくれているのか? 」を問うたほうが良いと思います。

最近、噂になっている高貴な人の「 納采の儀 」が行えない人たちのように、慌てて、婚約報告をした後、経済的、あるいは「 空なる我 」の反省から、取り消すことになって、「 恥じ 」をかかないように。

これが、本当の「 恥じ 」であるかもしれません。











(6月27日)

2019年6月26日 (水)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」と浄土真宗その2

前回によって、私の「 空なる我 」と死後にお墓に入る浄土真宗とは、親鸞によれば、ほぼ同じなのかなあ?と思います。

「 空なる我 」の宇宙(自然)エネルギー(神)は、「 不可思議光 」で、生命エネルギー(仏)は「 無量寿如来 」と思われ、それが合一したのが「 阿弥陀仏 」と思われるからです。

しかし、鎌倉時代と今の治安や暮らしぶりの違いから、「 浄土 」を「 極楽 」や「 地獄 」がある思考を超えた世界で、厭離欣求という言葉もありますように、現実よりもっと優れた「 極楽浄土 」に生まれ変わりたいと一心に思って、「 南無阿弥陀仏 」と念仏に答えて、阿弥陀仏の力にすがれば、阿弥陀仏がおわす「 極楽 」に生まれると説いたように、私は解釈しています。

浄土真宗では般若心経は唱えませんが、般若心経の「 空 」による救済を説いた大乗仏教の一種でなければなりませんが、それが、「 不可思議光 」と「 無量寿如来 」が一体となった「 阿弥陀仏 」を信仰することにつながるのだと思いますが、「 空 」という言葉を聞きません。

「 南無阿弥陀仏 」と念仏を唱える事は頷くことが出来ますが、それは、密教の「 真言 」と同じく、宇宙と同期する為の音楽や響きであって、単に阿弥陀仏の救いを求めるという説明で、現代の信者を満足させることが出来るでしょうか?

お経を一字一句、守ることは、お釈迦様が「 無私 」とした救いへの姿勢を無くした姿であり、お経はお経であり、書物による悟りなどなく、まして、「 慈悲 」が生まれることもないと思います。

もしも、常日頃、阿弥陀仏に感謝して生きるというなら、阿弥陀仏は「 空なる我 」と同じく「 空 」そのものだと思いますから、自分の生命に感謝して先祖供養も良い事かも知れませんが、「 阿弥陀仏 」が「 現象 」として現れるような「 慈悲 」の行為をするのが、プロの僧侶が為すべき責務なのではないでしょうか。

また「 極楽浄土 」などは考えずに、前回、私が書きましたように、「 空 」である「 阿弥陀仏 」が常住されるところは、生命エネルギーを生物の種類を問わずお与える場所でしょうから、「 極楽 」とか「 地獄 」とか苦楽を味わう場所ではなく、一兵卒として各種生物の命として特攻する場所であり、そこは各種生物の世界は「 現象 」として現れないエネルギーの世界(その意味では無ですが)であり、あるとすれば地球上にしか考えれず、この世に絶望して死ぬのならその続きになる運命に生まれ変わるかもし知れません。

あこがれで「 浄土 」にゆくべきではなく、しっかりとこの世で「 生老病死 」の苦しみを味わったあとでしか「 幸せな結果 」にならないかも知れません。

こんな、信者の迷いを導けない説明をしているから、間違った考えの宗教学者や評論家が現れ、人倫にも反する行為をする仏教を名乗る集団を批判も出来ないのではなかろうかという疑問も出てきます。

私は、ユーチューブのおかげで、多くの書籍を読むこともなく、ここまで「 お前は、何様だ 」といわれるくらいの知識を得ましたが、法話も色々あって、私の心に響くものしか拝聴していませんので、きっと偏見だと思いますが、お釈迦様も「 無我 」を「 空なる我 」にしたり、因果の法則による輪廻転生に反対するなど、なにかお釈迦様の方向から遠ざかっているような気もします。

昔、孫悟空が到達点を記した柱が如来の指だったという話は知っていますが、これまで「 慈悲 」なんて思ってもいなかった私が、「 空なる我 」を考えることによって「 色即是空 空即是色 」をアインシュタイン氏の{ E=MC² }と置き換える考えになり、「 人は自然物と同様、エネルギーの現象だ 」と思うようになり、同じ「 現象 」である他人も、自分と同じように考えなくてはと思ったとき、東日本大震災で「 無常 」を説いて希望を与える僧侶の心持がわかった事を記さずにはおられなせん。

「 阿弥陀仏 」を「 空 」とは考えなかったのは、親鸞はアインシュタイン氏の{ E=MC² }を知らず、たぶん「 空 」を「 エネルギー 」と想定しなかった為に、「 阿弥陀仏 」の構成が簡単にならず、「 正信偈 」や「 歎異抄 」を書いて説明したのだと思います。

ですから、「 歎異抄 」について様々な書籍がありますが、「 空なる我 」からは遠い考えですので、読みません。

前回、書き忘れたのですが、「 五感(五蘊)を失っていくこと 」は、神仏エネルギーの衰退によって、労せずして「 空なる我 」に戻ることが出来ることで、自然に戻ることだと思います。

ちょうど、水面の泡が弾け散るだけで、水の構造は失わず、水を構成するエネルギー(神)は消滅しないように、自然のエネルギー(神)の中に眠ることになると思います。

その意味では、昔、特攻隊員に「 死んで神となれ 」と励ました上官が言ったことと同じ結果になろうかと思いますが、私の考えでは、皆さんも、いづれ「 神 」になると思います。

もっとも「 神 」はエネルギーなのですが………。







(6月26日)

2019年6月25日 (火)

69歳になって考えること 再考 「 空なる我 」の進路

以上、書いて来ましたら、日本の従来の宗派と同じように思われてしまいますので、69歳、これから避ける事が出来ない「 死 」への進路を進むにあたって、心がけたい事を書くことによって、私の孤立妄想である考えの進展を披露したいと思います。

私は、「 一切皆空 」と般若心経の「 空 」を「 エネルギー 」と考えて、神仏習合を計り、お釈迦様の「 無我 」を「 空なる我 」と置き換えて中心となし、「 自我 」は神仏エネルギーのひとつの「 現象 」であり、それは、自然現象と同じようにエネルギーの推移により絶えず変化するものであると考えました。

この私が使います「 現象 」という言葉は、この言葉自体がそれですが、五感で知れないエネルギーが五感で認識できる「 モノ 」になったこと、五感で知れる事象となったことを意味していまして、「 仮の姿 」とか「 仮定された事象 」など、「 本質 」に対する言葉ではなくて、「 本質 」である「 エネルギー 」が認識可能な姿形をしたもの、「 現象 」そのものが「 エネルギーという本質 」であって、「 エネルギーである本質 」は「 現象 」として認識可能になることでしか、人間に知らしめる事が出来ないものだと考えています(空即是色){ E=MC² }。

「 浄土 」ですが、それは一部を除いた従来仏教とは違い、例えば宇治の平等院などに示される、実際に認識不能な場所、あるいは遠いかなたにあって死後しか分からないといった、現実に認識可能と考える場所や世界を包摂し、その認識器官という「 現象 」を創り出す以前で、全く認識不能な世界が、「 浄土 」という全生命を司る「 阿弥陀仏 」のおわす世界であって、それが西方数千里にあるのか死後のあるなどという考えの及ばぬ世界であるが、それは、実際に「 存在 」するというのが私の考えです。

そこは何処か?と問われれば、全生物の認識する力を産み出す世界で、全ての世界観を受容し否定する地球という「 自然 」であることになります。

自分が存在すると錯覚するのを可能にさせるエネルギーの世界であるかも知れません。

「 空なる我 」はエネルギーであるだけに、死後はその「 現象 」である「 からだ 」の束縛から逃れて、「 浄土 」のエネルギーに混じるでしょうし、「 無明 」である「 浄土 」のエネルギーが何かを契機にして、「 阿弥陀仏 」の制作範囲である生物に「 生 」を受けるかも知れません。

ですから、「 死 」とか「 誕生 」はエネルギーが「 現象 」となって認識可能になることでありますので、(神仏)エネルギーにとっては、「 現象 」の姿形を変えるだけですから「 不生不滅 不垢不浄 不増不減 」ですので、「 生死は、どうでもよいこと 」ではないでしょうか(エネルギー保存の法則)?

そうすれば、生前に「 空なる我 」として、「 自我 」を「 浄土 」である地上のエネルギーの現象と捉えて、絶えずエネルギーの現象として現実を捉えて、「 苦 」は「 一切皆苦 」と申しますから「 生きている証拠 」であり、「 煩悩 」も排斥すべき欲望と考えずに、その時々の「 エネルギーのぶれ、あるいはゆらぎ 」と申しますか、焚火から挙がる「 炎 」と考えて寒い時は温まり、熱い時には避ける事によって、「 熱に、こだわること 」によって「 火傷(やけど) 」しないようにコントロールしつつ、いま過っている欲望を煩悩と知って、生を楽しみながら「 空なる我 」を保持することを心掛けたいと思います。

「 死 」を迎え、眼が見えなくなり、耳が遠くなり、臭いも味も解らず、声も出ず、身体の感覚も、意識も薄れてゆくことがあるでしょう。


しかし、般若心経の中では「 五蘊皆空 」で「 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 」と書かれていまして、そもそも、その五感(五蘊)は、「 空 」というエネルギーの中には無かったのであり、「 空 」によってつくられた「 現象 」であると、私は解釈します。

そうすれば、死に向かって五感を失ってゆくことは、「 自分が無になる 」事ではなく、「 空なる我 」の現象である「 自我 」から、「 空 」から生じた現象をこの世に落とし、あるいはそぎ落とされて、この世で得たものはこの世に返還して、純粋な「 空なる我 」になってゆく過程にすぎないと思います。

ちょうど、お風呂に入るとき、自分の裸に纏っている衣服を脱ぐように、自分が涅槃に入るときに、衣服である身体機能を作って頂いた「 阿弥陀仏 」からその拘束をひとつひとつ剥いで頂いていると思えば、少しは楽になるでしょう(以無所得故)。

これは、「 空なる我 」の延長の思考で、生前も死後も、「 空 」である「 浄土 」の中で住むことになり、生死の現象の下を「 潜り抜ける 」ことが出来るかもしれません。


これは私の思考の産物でありますから、こんな「 夢想 」に囚われずに、自分の涅槃を目指す人を応援するのが般若心経だと思います( 遠離一切顛倒夢想 究ギョウ涅槃 )。








 

(6月25日) 

 

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